嵐の晩に来る男
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続く冬のあいだ、女は時々あの大男のことを考えながら過ごした。
大男はどうやって、自分の名を知り得たのだろう? という謎について、もっぱら考えている。
自分の声は他の人びとの声とは違う。誰にも聞こえないはずの声を、大男がとらえられるわけはないのに……。
いや。もしかしたら隣室にいた母親が女を呼んで、大男はそれを聞きつけたのかもしれない……。
自分の古い首巻をといて、あらたに子どもの靴下を編みながら、女は首を振った。それはない。母親はあの夜、室に閉じこもって音もたてずにいたのだから。
案の定、男たちが帰った後に母親はひどく荒れた。
「お前があいつらを、あの災厄を呼び込んだんだ。底なしばかの、あばずれめが!!」
からになった林檎蒸留酒のびんで女の顔を打ちすえ、泣き叫ぶ子をも打とうとしたから、女は逃げた。
その背中に、母親の呪詛がかぶさってくる。
「とっとと出ていけ、お前のほんとの世界に帰れ! 呪われた≪取り換え子≫がぁぁぁ。お前のせいで、お前が来たせいでぇぇぇ、……」
白く息を吐きつつ子を抱いて、女は曠野を長く歩き回った。
冷え切った足先から感覚がぬけかけた頃、女は家に戻ってみる。割れたびんのかけらが床に散らばっていて、母親は再び寝室にこもっていた。
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少しだけ寒さが和らいで、陽の長くなってきた白月のある日。
また小さな嵐がやってきて、女のぼろ住まいをがたがたと揺さぶっていた。
毎年、この時期に人びとは飢える。
冬の間は貯えがあるが、それが尽きても畑に作物がなるまでの間はどうにもならない。曠野や森に食物を探すこともできなくて、女は子どもにうすい粥しかつくってやれなかった。粗末なふすまぱんは母親の枕元へ、女は子どもの食べたあとの椀に少しずつ湯を注いでは、なめとるように飲む。
せめて早く寝てしまおう。寝ればその分明日が近づく、……女がそう思って、炉に火かき棒をさし入れようとした時。
ごうごうとうなる嵐の声にまじって、扉の叩かれた音がする。
はっとして、女は立っていった。
「いよう」
果たして、あの大きな男が風とともに入ってきた……相変わらずのびしょ濡れで。
真っ黒なももんが外套のすそから、短く切った黒髪の先から、ぽたぽたと水滴をたらしながら。今夜は一人らしい。
その長い外套の陰から、大男は何かを取り出した……女はびっくりした!
子どもの背丈ほどもある、大きな長い魚をかかげて、男は女に笑いかけている。
「鬼たらは、好いかい!」
それが自分にむけて差し出された贈り物なのだとわかった時、さらに驚いて女はあんぐりと口を開けた。
「他にも持ってきたんだ。けどまず、馬を入れられるところはあるか」
戸口のすぐ外に、これまた巨大な馬が突っ立っていた。女は慌てて、裏手の鶏小屋となり、納屋の中へとその手綱を引っぱる。隣人は農耕馬にのってくることがあったから、女は馬の世話の仕方をこころえていた。
大男は、馬に括り付けていた頑丈な麻包みを抱えてきて、どさどさと炉の脇に置く。
「泥炭だ。ちっと湿気ったかもしんねえが、まぁ乾かしゃ使えるだろ。こっちは杣麦と塩……。皮袋に入れてきたが、無事だろうなあ? ははははは」
大男が携えてきた大量の食べ物と燃料とを前に、女はくらくら目まいがしそうなくらいに嬉しくなった。涙に潤んだ目で、大男を見上げる。
「たまたま生きてられたからな。マリューを助けてくれた礼に来たんだよ! あははは」
朗らかに言う大男の笑顔は、善い人びとのそれだった。
こうしてまともに向かい合ってみると、大男はずいぶん年を食っていることがわかる。女よりもずっと上、……母親くらいの年齢なのかもしれなかった。
お礼、と言われて女は前に大男が連れてきた怪我人のことを思う。あの老人は無事だったろうか?
「うん。おかげさんで、マリューは死なんかったよ! けれどあいつも、もうじじいだからね。いまは大事をとって、島で冬眠さして休ましてるとこなのさぁ」
うなづいてから、女はふと不思議に思う。大男は自分の考えていることを、そのまま知っているみたいに話す……?
「ははは! とりあえず粥にたら入れて、食おうかい。肝だよ、うまいぞ」
大男に言われるまま、女は夢中で杣を煮た。
大男は素手で鬼たらのきもを探り、ふたをする前の鍋に入れる。手に貼りついていた卵と身の大きなかけらを、べろッとなめて口に入れた。そのさまを、壁ぎわ寝籠に入って起きていた子どもが、ぽけっと見つめている。
数か月前にどやどや他の男たちを引き連れてきた時と違い、今夜の大男は子どもをおびえさせない。
鬼たらのいかついあごには、縄が通してあった。それを室の隅の天井梁に結んでつるすと、大男は自分のももんが外套も引っかけた。
そうしてできあがったたらこ杣粥を、女は夢中でたべた。子どもにも食べさせたが、それ以上に自分が心ゆくまで食べた。
小鍋いっぱいに食べていいものがあるという幸せが、女の腹に胸に、心と目に満ちる。
生まれて初めて口にした、鬼たらの肝のおいしさに有頂天になっていた。ほろほろ、ぷつぷつ。口の中で陽気にほどけて、なんてたのしい味だろう!
大きな背を屈めるように炉辺に座って、男は熱いものを食べる女を黙って見ていた。
左目にかけて額から頬を伝っている、あのやけどのようなあざ。それを炉の火に照らしながら、ひとの好さそうな微笑を浮かべて、大男は女を見ていた。
やがて、あまりに久しぶりに感じた満腹感が女の心身を支配する。
腕の中で眠ってしまった子どもを抱えたまま、女はじっと座り込んで身動きせずにいた。心地よい感覚の中に、たゆたうようである。
「……ふうん。あんたは≪取り換え子≫なのかい……。それで。その男の顔は、今でも知んねぇままかい?」
ごうごうと吹きすさぶ、嵐の声のあいまに流れてくる男の低い声。大男に促されるまま、女は昔むかしのことを途切れとぎれに思い浮かべていた。
ほとんど毎晩、鶏小屋に閉じ込められていた頃のこと。
知らない男に後ろから押し倒されたこと。子どもを産んだ後のこと。
……
いつのまにか、女は腰掛に座ったまま寝入っていたらしい。
はっと気がついた時にはもう、あたりは静かになっていた。嵐は行ってしまったのだろうか。
顔を上げると、男が変わらない姿勢にて、小さくなりかけた火を見つめていた。
その頭がそうっと回って、女の方を見る。
やさしさを湛えた真っ黒い双眸が、女に向けられた。大男はやはり微笑している。
「夜も更けたしな、俺はそろそろ行くよ」
女はうなづいた。感謝をこめたまなざしで、大男を見る。
「……悪いがね。ちっと行って、俺の馬を引き出して来てもらえるかい? ゆうっくりでいいんだ、うんと時間をかけてくれ」
大男の頼みに、女は素直にこくりとうなづいた。が、ゆぅっくり……と強調する男を少々不思議に思う。
その時、ふいとそれた男の眼差しから、やさしさが抜けた。
かわりに視線の奥底に、見たものを斬り飛ばしそうな厳しさがこもる。そこから強烈な敵意が室の隅、寝室の戸口あたりに向けられたように女は感じた。ほんの一瞬のことだ、見間違いかと思ってどきりと男の顔を見直す。
とたん男はぱしっと目を閉じ、開けた。
再び穏やか朗らかな調子で、大男は女に囁く。
「俺の馬な、夜はちぃっと機嫌が悪くなるんさ。あいつをおどかさないよう、ゆっくりのんびり引き出してやってくれるかい?」
それで女は合点がいったし、今見た恐ろしいようなまなざしも何か大男の気のまぎれ、と思うことにした。
立ち上がって子どもを寝籠に入れ、女は夜の闇の中へ出てゆく。雨は止んで、風もやんわりとしか吹かない。
灯りがなくとも、どこに何があるのかは女の手に取るようにわかる。
なるほど、男の馬は眠そうだった。
しかし静かにたたずむ女に、大きな鼻づらを押し付けて甘えてくる。しばらく頭を抱きなでてやってから納屋を出て、女はそろそろと住まいの方へと黒馬を連れてきた。
「やあ、ありがとう」
だいぶ乾いたももんが外套を着て、あの長い棒を背負うように括りつけた大男が、扉の前で手綱を受け取る。
「俺がもうしばらく生きていたら、また寄ってもいいかい。モイラ?」
大男の問いに、女は間髪いれずかくっと首を縦に振った。
「ははっ、そうかい。ほんじゃ次に来るときまでは、生きていよう! またなぁ」
低く静かに、しかし朗らかに言うと、大男は馬にひらーり飛び乗った。
そうして、すたすた行ってしまった。
海の方角ではなく、隣人の住む家の方……。そして村と道のある方向にむけて。
ずぶずぶした嵐の後の曠野の暗闇の中に、消えてしまった。
湿った涼風がひやりと女を包む。しかし女の身体の中は温かかった。
熱いものをたくさん食べて、やさしいまなざしと朗らかな言葉をかけてもらったおかげで、女は心の中まで温かくしあわせだった。
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女はたらの身を天井梁からおろしてぶつ切りにし、一緒にもらった塩をていねいにまぶす。
とても食べきれないと思ったから、すえる前にと頭のついた上半分を、隣人のところへ持っていった。
「こんなに立派なの、どうしたの」
おじが亡くなり、おばと二人ぐらしになっていた隣人の女は、顔をほころばせて驚く。しかし不審にも思った。
今まで、このあわれな女にものを教えてやり、たびたび食べ物を分けてやることはあった。けれど女から贈り物をされるのは、珍しいことだったのだ。
何ら隠すところのない女は、子どもを片手に抱いたまま、身振りで来訪者のあったことを伝えようとする。
うまく伝わらず、話はだいぶ端折られて、隣人の女は嵐の間に迷った旅人が宿ったのだな、と思い込んだ。
家に戻って、女はたらの切り身をゆでる。
ほぐした身を口いっぱいに含んだ子が笑う。女もめずらしく、両の口角をあげた。狭い家の中いっぱいに潮の匂いが満ちたが、女も子もなまぐさいという感覚を知らない。
それはうまみとして二人の味覚にとらえられ、腹いっぱいの幸せを伴うすばらしいものと記憶された。
たらの身は、鍋にいっぱい、まだまだあった。
女は母親に食べさせるつもりで、寝ているだろう時間帯に椀を持ってそっと室の戸を押した。
扉は開かなかった。内から錠がかけられている。
施錠するのは母親の常ではなかった。けれど女は、昨夜の大男の来訪時に母親が警戒して鍵をかけ、そのまま眠っているのだろうと思う。
その夕、次の日と、女は子どもと鍋のたらを食べ続けた。
そのたび戸を押してみたが、母親の室の扉には錠がかけられたままだった。
母親が一日、二日とものを食べずにいることは時々あったから、女は特に心配はしない。
けれど、鍋にいっぱいあった魚がとうとうなくなった朝。
魚とは全くちがった臭いを家の中に感じて、女は不安をおぼえ始める。
思い切って、母親の室の戸を叩くことにした。以前こうして母親を起こした時、女は火かき棒でしこたま叩かれていた。恐ろしかったが、それでも女は勇気を振り絞る。
けれどいくら叩いてみても、戸の向こう側に母親の動く気配はしない。
板戸と床の隙間からもれる異臭は、ますます強くなっていくようだった。
女は子どもを抱いて、隣人に助けを求めに行った。
やってきた隣人女は、薪割り用の小斧でずどん、と錠のつっかい部分を打つ。
あけ放たれた戸から、なぐりつけるような酷臭が女の顔にぶつかってきた。ぎゃああん、とけたたましく子どもが泣き始める。
狭い寝台を自分の下のものでいっぱいにして、老いた女は死んでいた。
糞の海の中で溺れたように、双眸と鼻孔と口をいっぱいに開き、ひらき過ぎるほどに大びらきにして、女の母親はおぞましく死んでいた。
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どこもかしこも汚物だらけにして死んだ母親の身体を清め、なんとか通夜のできるように室を整えるのはたいへんな骨折りだった。
女は隣人女の指示に従って、黙々と働いた。
夜更けになって、ようやく静寂の中に座る。
母親の肥え太ったまるい身体はすでにかたくこわばっていた。どうしても直せない最後の苦しみの表情ごと、女は母親の上にひろく替えの敷布をかぶせるしかできない。
「酒毒だよ。飲むのはおよしと、あたしゃいつも言っていたんだのに」
小さな蜜蝋の灯りを、窓辺にひとつ置いたきり。
わびしい通夜の薄闇の中で、死者のねむる寝床の傍ら、腰掛に座った隣人女はぼやいた。
母親を見つけた時、隣人女は死者の枕元に、小ぶりの空き瓶が二本倒れていたのをはっきり見ていたのだ。女の母親が時折なめるように飲んでいた、林檎蒸留酒のびん。
女はその酒びんを知らなかった。
あの秋の晩、嵐とともにやってきた大男の連れの手当に使ってしまって以来、女に新しい酒びんを買う金はなかったのだ。そのせいで、何度も母親になぐられていた。
それなのに、どうして酒瓶がここにあるのだろう。それも二本も。
このびん達は、いったいどこから来たのだろう……。
女はぼんやりと思っていたが、答えを知ろうとしていなかった。
とにかく母親は、丘の向こうへ行ってしまったのだ。
もう、女を叩いたりののしったりできないくらいに、遠いところへ。
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大男はその後、何度もやってきた。
来るのは決まって、ひどい嵐の夜である。
「よう、モイラ」
ずぶ濡れになっていると言うのに、何だかそれがかえって嬉しいような、あかるい表情。ひとの好さそうな笑顔を浮かべて、女に声をかけてくる。
大男はいつも、大きな魚と食べ物とを持ってきた。
その魚の肝を鍋に入れ、女と子どもと一緒に黙って食べる。食べ終わっても、大男はほとんど話さなかった。
満腹感にぼんやりとする女の隣、炉を見て座っているだけである。
そうしてももんが外套が生乾きになる頃、嵐とともに行ってしまうのだった。
ぷしゃん……!
戸口のむこうで小さなくしゃみの音がする。母親の死んだ室、今は女と子とが暖かく眠れるようになった隣の寝室で、子どもはすでにまどろんでいた。
ぼんやりとしつつも、この人はどうしてうちへ来るのだろう、と女は考える。
確かにあの秋の晩、けが人を連れて転がり込んできたこの大男を、女は手伝った。けれどお礼と言うのなら、もうとっくに済んでいるのじゃなかろうか。
女はぼんやりしたまま、炉の灯りを照り返す男の横顔に見入った。
こうして火に向かい合うと、やけど跡のような左目まわりのあざがより一層あかく見える。
その上にぎゅうと笑いじわがたくさん寄っている……大男はやはり笑んでいた。
真っ黒い髪の下の真っ黒い瞳が、おだやかに女のほうを向く。
この人は、あの人と同じことがしたいのだろうか、と女は思う。
遠い昔、茂みの中で女をうしろ向きに押した誰か。
男たちがどうしてそうしたがるのかを、女は知らないままでいた。ただ、それが時おりどうしても必要であるらしい、とだけ気づいている。
自分はまた我慢をしなければならないのかな、と女は思う。思って、胸の底がさむざむと哀しくなった。
大男はにっこりと笑って、目の周りのしわをさらに多く、濃くした。そうしてゆっくり、首を振る。
「いいや、モイラ。ちがうんだ」
大男の真っ黒い双眸の中に、光はおよばず輝くものは皆無である。
純にまったき闇がそこに在って、女を穏やかに見返していた。
「俺がここに来るのは。モイラ、あんたを見極めるためなのさ」
大男の言葉の意味がわからず、女は小首をかしげる。男はそれ以上、なにも言わない。
しかし大男のまなざし、光のささない闇の瞳は、ずっと女にむけられている。
それをやさしい、と女は感じた。
いつか自分が行きつくところ……いいや。自分が帰りゆくであろう場所。
光のささない暗闇の虚無に抱きとられているような、不思議な感触に包まれて、女はまた眠ってしまったらしい。
大男のつぶやきを、女は聞き逃していた。
「あんただけは。裏切らない女であってくれ」
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銀月、燈月、白月、卵月、青月、花月、明月、翠月、金月、嵐月、眠月、闇月。
ひとつ、ふたつ、年がゆく。
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