12-2.招かれざる客人
庭園の奥に設けられた主賓席では、恬子内親王が、実兄の惟喬親王と親しげに言葉を交わしていた。
菊花の方は、二人に挨拶をしに行った。
恬子内親王は、この危険を顧みない界隈において、比較的に古風な道徳を守る女性である。
細身で背の高い美人で、ひじょうに整った顔立ちと、柔らかな物腰を持ち合わせ、成熟した落ち着きと、思いやりのある艶っぽさ、そしてよく通る美しい声で、人びとの気持ちをつかんで離さない。
彼女の淑やかで上手い立ち回りには、人に気に入られたいという素直な感情が込められており、相手を不愉快にさせることは決してなかった。
決まった支持者たちに対しても、彼女たちを危険な立場にさらさないよう、十分に気を付けていた。
恬子内親王は、親切ながら時に大胆な振舞いをする人物として通っており、
彼女の友人たちは、皆なそれを魅力として人格を称賛して辞まないのだった。
菊花の方は、恬子内親王と話しはじめた。
この知的であって控え目な女性を、菊花の方は高く評価するべきだと考えた。
――恬子内親王のことは、ほとんど話題に上らないけれども、実は他の女性たちよりも優れているのかも知れない、多く学ぶべきことがあるのかも知れない、と思った。
いちばん遅れてきた招待客たちが入ってきた。
紀雅楽有常は、いつも通り鷹揚とした調子で、あちこちを見まわしながら入ってきた。
その娘の和琴の方は、父親に代わって遅刻を謝罪して、気配りを忘れない。
春日野の姉妹は、彼らと親しげな様子で楽しそうに到着した。
この祝宴では、在原中将とともに二条の方も、客人の対応に当たっていた。
二条の方は、蛍の姫君を含めた総ての客人に親切にしてくれた。
それでも、蛍の方は胸を締め付けられる思いで、
在原中将が行ったり来たりして、自分のことよりも大勢の客人たちに熱心に構っているのを見ていた。
遠くの方から数回だけ、愛を伝えるような眼差しを、こちらへ向けてくれたような気がしたのだけれど、その心遣いすらもこちらの勘違いかも知れないと思えるほど、蛍の方の心は不満でいっぱいだった。
――今日こそは、自信を持って在原中将と話しができそうな気がするのに。
菊花の方が、周囲の人びとへこれ見よがしに付きまとっているのも、彼女の心をどぎまぎさせた。
理想ばかりが前を歩き、気持ちがそれに付いて行けないようなもどかしさを味わった。
――わたしの恋は、自分のものだと思っていた貴重な芸術品を、他人に盗られて悔しがるような、浅ましい嫉妬に満ちたものなんだろうか。
蛍の方は、すでに辛い気持ちになってしまった。
何よりも悲惨なのは、蛍の方が例の二人の様子をこっそり窺ってしまうのに対して、自分が他の男性と親しげに喋ろうとも、在原中将にはこちらを気にかける素振りが、まるで見られないということだった。
――在原中将にとってわたしは、すでに気の置けない存在ということなんだろうか。それとも、ただの無感心なのか。
在原中将にとって、蛍の方という存在は何なのか、いつも分からない。
それはもしかしたら、蛍の方にとっての彼についても、同じなのかも知れないけれども――
「さて、そろそろ始めましょうか」
そう在原中将は告げると、客人たちに短籍を配り、歌合の準備をした。
「皆さまには、素晴らしい祝いの和歌を作って頂きましょう。小野宮さまの輝かしい未来への門出、その決意と道徳への讃美を含むようなものです。しきたりに縛られる必要はありません。小野宮さまを最も満足させた方の勝利です。よく考えて下さい」
「よろしく頼む」 と惟喬親王は微笑んだ。
蛍の方は、短籍を受け取ったとき、
「和歌なんてほとんどしたことがありません。こんな不十分な教養では、皆さまを不快にさせてしまいます」 と訴えた。
在原中将は、短籍の残りを、伊勢の更衣に任せると、蛍の方にささやいた。
「ご安心下さい、蛍の姫君。和歌において何より大切なのは、心なのですよ。言葉というのは、心の種が成長し、枝葉を茂らせたもの。いま目の前にある事柄に対して、強く心を動かされたのなら、それを詠めば宜しいのです。花に鳴くうぐいす、水辺に住む河鹿の声をお聴きなれば、分かります。生きとし生ける者、心を持たず、歌を知らない者はございません。蛍の姫君、貴女の想う心を信頼なさって下さい。愛好なされる『万葉集』の心に倣えば良いのです」
蛍の方は、言葉を返そうとしたけれども、
在原中将は、愛嬌ある仕草をして立ち去ってしまった。
三芳野の姫君が、不安気に彼女のもとへやって来た。
「一体どうすれば良いのでしょう」
二人は思いつめて筆が止まってしまった。
「和歌は即意が肝要なのだと言います」 と和琴の方は云った。
「しかし、それがいちばん難しい。傍らに『白氏文集』さえあれば、わたし達でもどうにかなるのでしょうが」
庭園の隅の方に、年若い姫君たちは自然と集まって行った。
人びとは、それを微笑ましく思い、また応援する気持ちを強くした。
桜花の方と菊花の方の二人は、流石のもので、すらすら筆が進みはじめた。
二条の方は、すでに一首つくり上げていて、
周囲の様子を見ると、その和歌を口にしようとした。
そのとき、庭園の飾り布が開いて、一人の男性が姿を見せると、全員の目を釘付けにした。
姿勢がよく、すらりとして、縮れ毛の口髭をつやつやとたくわえ、髪もきっちりとまとめられており、誰がどこからどう見ても身分ある貴族らしい雰囲気を醸し出している。
二条の方ですら、平然とした態度を失い、尋常ではない目付きで、その男性のことを見つめた。
三芳野の姫君が、周囲の女性に尋ねた。
「どなたでしょう?」
和琴の方が答えようとした時、
遠くの方で、桜花の方が叫んだ。
「お父さま! どうして」
和琴の方は、改めて言い添えた。
「あの方は、藤原摂政基経さまです」




