↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
39/104

12-3.不安と親しみ

 蛍(ほたる)の方(かた)にとって、藤原(ふじわらの)摂政基経(せっしょうもとつね)といえば、明らかな恐怖と不安を抱(いだ)かせる人物だった。


 養父から盤石(ばんじゃく)な地位を受け継ぎ、敵対する実力者を次々と排除(はいじょ)して行く、政治という思想の権化(ごんげ)――それが摂政基経(せっしょうもとつね)に対する印象だった。


 帝(みかど)ですらも摂政基経(せっしょうもとつね)の意見には逆らえず、彼の決定とは、すなわち国家の方針(ほうしん)なのだ。


 どれほど恐ろしい人物かと予想(よそう)していたけれども、いざ目の前にして見ると、優雅さの匂(にお)い立(た)つ美男子で、不思議な魅力を感じさせ、飛び抜けて上品な雰囲気を漂(ただよ)わせていた。


 「お気をつけ下さい」 と和琴(わごん)の方(かた)は云(い)った。

 「柔らかな物腰(ものごし)に、どんな意図が隠(かく)されているのか判(わか)りませんから」


 摂政基経(せっしょうもとつね)は、きわめて女性への扱(あつか)いに長(た)けた様子で挨拶(あいさつ)をし、

 実妹の二条(にじょう)の方(かた)の傍らに腰かけると、にこやかな表情を見せた。


 「皆さま、私(わたくし)どもにも小野宮(おののみや)さまの出家をお祝いさせて頂きたい。何もお邪魔(じゃま)はいたしません」


 そういうと、藤原(ふじわらの)参議諸葛(さんぎもろくず)をはじめとして、数名の男性が庭園(ていえん)に入ってきた。


 ほぼ全ての客人が席を向(む)き直(なお)り、彼らの姿がよく見えるように近寄った。


 蛍(ほたる)の方(かた)は成り行きで、在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)と肩を並べて座(すわ)ることになった。


 緊張と注目に満(み)ちた深い沈黙(ちんもく)がおとずれた。


 そこへ二条(にじょう)の方(かた)は、きわめてゆっくりと言葉を連(つら)ね、音で物語するように和歌(わか)を詠(よ)み上げた。


 枕詞(まくらことば)からはじまる緩(ゆる)やかな印象に、明るい未来を示す言葉の組(く)み合(あ)わせが続いて行ったが、その声は、ときに賑(にぎ)やかで、ときに憂鬱(ゆううつ)で、ときに神経質に聴(き)こえつつも、人びとの予想を超える独創性(どくそうせい)があった。


 蛍(ほたる)の方(かた)は、圧倒された。


 アマテラス大神(おおみかみ)が神弓をつがえて、乱暴者のスサノオノミコトが乗り込んでくるのを待ち構えているような、一人の女性としての強さと覚悟に胸(むね)を打(う)たれた。


 実際のところ、二条(にじょう)の方(かた)はひどく悩んでいて、心に大きな不安(ふあん)を秘(ひ)めているものと察せられる。


 だからこそ、彼女の勇気は美しく、称賛(しょうさん)されるべきだった。


 蛍(ほたる)の方(かた)は、尊敬の眼差(まなざ)しで、二条(にじょう)の方(かた)をじっと見つめた。


 身動きせず、夜闇(よやみ)に浸(ひた)したかのような重く黒い髪に、口許(くちもと)を震(ふる)わせながら、勇ましい女性は真っ直ぐ前を見ながら、声を響かせていた。


 目と睫毛(まつげ)が大和絵(やまとえ)を思わせるほどにくっきりと目立ち、全身に力と情熱とがみなぎっていた。


 そこには何かはっとさせるもの――

 薄暗い空に感じる嵐(あらし)の前触(まえぶ)れのような不吉さがあった。


 藤原(ふじわらの)摂政基経(せっしょうもとつね)は、頭を少し揺(ゆ)らしながら、和歌の世界に入りこむように聴き入った。


 そこに在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)は突然、熱烈(ねつれつ)な言葉を投げかけた。


 口を薄く開くと、そこから終わりのない高らかな称賛(しょうさん)の声が広がって行った。


 舞台上で、その身を見せつけるような大袈裟(おおげさ)な手ぶりを加えつつ、いかにも抑制(よくせい)が効(き)かないといったふうに、優れた評価を人びとに求めた。


 隣にいる蛍(ほたる)の方(かた)は、在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)の手先がわずかに震(ふる)えているのに気が付いた。


 紀雅楽頭(きのががくのかみ)有常(ありつね)は、純粋に和歌としての出来映(できば)えを褒(ほ)め称(たた)え、これを越えるのはひじょうに難しいとの意見を示した。


 惟喬親王(これたかしんのう)も悦(えつ)に入った様子で、和歌にまつわる水無瀬(みなせ)での思い出を話し始めた。


 春の桜(はな)が盛(さか)りの頃――

 水無瀬(みなせ)の辺りで、狩りをしようと言って、在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)が友人たちと押しかけて来たことがあった。


 在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)は、桜の枝を簪子(かんざし)として自らに挿(さ)すと、風情を踏まえた素晴らしい和歌を詠(よ)み、自分はそれを繰り返し口ずさむばかりで、返歌(へんか)ができなかった。


 紀雅楽頭(きのががくのかみ)有常(ありつね)は、桜(さくら)は散(ち)るからこそ素晴らしい、憂(う)き世(よ)に何か永久に変わらないものはあるだろうか、と言ったけれども、俗世(ぞくせ)を離(はな)れようと決心した今の自分には、その言葉の真意(しんい)がよく分かるようになった。


 秋(あき)の時候(じこう)に、こうして皆で集まり、歌合(うたあわせ)をするというのは、実に感慨深(かんがいぶか)いものだ。


 花は散り、草木もその青(あお)さを失ったけれども、これほどに美しい紅葉(こうよう)の景色(けしき)を見せてくれるのなら、自分の人生にもまだ残された精彩(せいさい)があるのだろう、と惟喬親王(これたかしんのう)は静かに語った。


 熱く胸(むね)に沁(し)みる惟喬親王(これたかしんのう)の言葉は、人びとの心を震(ふる)わせた。


 優しい声をしたこの悲劇の男性は、話していることの全てに実際に耐(た)えており、

 一度は世界に深く失望(しつぼう)しながらも、再び立ち上がろうという意志(いし)を感じさせ、少なくももそれが出来るだけの素質(そしつ)があると思わせた。


 惟喬親王(これたかしんのう)が話し止めた時、源左大臣(みなもとのさだいじん)は目に涙を溜めていて、ゆっくりと拭(ぬぐ)った。


 摂政基経(せっしょうもとつね)は、惟喬親王(これたかしんのう)の方へ体を傾(かたむ)け、ひとりの人間として感激しながら云(い)った。


 「いやはや、これは涙を禁じえません。小野宮(おののみや)さまは、ここにいる誰よりも人の心というものを理解しておられる」


 それから少し考えて、こう付け加えた。


 「小野宮(おののみや)さまは、深い思想をお持ちでおられる。何しろ俗世(ぞくせ)に存在するものは、凡(すべ)て幻影(げんえい)に過ぎないのですから。この真実をよくご存知だ」


 ここで歌合(うたあわせ)の会に休憩(きゅうけい)が入り、人びとは二条(にじょう)の方(かた)の和歌をめぐって好意的に議論した。


 とりわけ伊勢(いせ)の更衣(こうい)は熱烈な賛辞(さんじ)を送り、

 あの強硬な性格の参議諸葛(さんぎもろくず)でさえも屈服させた。


 蛍(ほたる)の方(かた)は、在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)に何か話しかけようとしたものの、

 先ほど怯(おび)えた様子を見せてしまったのを恥(は)ずかしく思ったのだろうか、微笑(びしょう)しただけで逃げるように離(はな)れてしまった。


 蛍(ほたる)の方(かた)は、行き場に迷(まよ)って、あちこち見まわしていると、一人の男性が声をかけてきた。


 「失礼ながら、在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)の奥方であられるか? ご挨拶(あいさつ)いたしたい」


 むりに威儀(いぎ)を取(と)り繕(つくろ)おうとする物言いだった。


 蛍(ほたる)の方(かた)が、顔を紅潮(こうちょう)させて否定すると、男性は言葉を継いだ。


 「これは申し訳ありません。もしやと考え、お声がけしてしまった。けれども、少しお話させてもらえないだろうか」


 不審(ふしん)に思いながらも応じると、男性は意外(いがい)なことを切り出した。


 「貴女(あなた)は普段から台所に立たれているようだ。手を見れば分かります。なぜなのでしょう? その容色(ようしょく)から、身分ある女性のようにお見受(みう)けするが」


 「わたしは決して高貴な身分にはありません」 と蛍(ほたる)の方(かた)は云(い)った。

 「父親が政争に敗れたことをきっかけに、長岡(ながおか)の地で長年一人で生活してきました。家での仕事は、わたしのしなければならないことなのです。在原(ありわらの)中将(ちゅうじょう)からの親切を受けて、不相応(ふそうおう)なこの場におります。やはり慣(な)れない化粧は変でしょうか?」


 「とんでもない、とても美しいと思います」 と男性は言った。

 「わたしも長年に渡って不遇(ふぐう)な生活を送ってきた。出世した今でもその思いはわすれぬよう、朝の炊事(すいじ)は自らすることにしている。ゆえに貴女(あなた)がなぜ家事をなさるのか、興味を持ったのだ。つかぬことをお聞きして、申し訳ありません」


 奇妙な言葉遣(ことばづか)いの中に、誠実で実直な心を感じた。


 ――この男性は何者なんだろう。


 蛍(ほたる)の方(かた)は、そう思いながら話すうちに、思いがけない友人を得(え)たような親しみを感じた。


 相手も何か自分を変えようと努力しているような、蛍(ほたる)の方(かた)の境遇に通じるものがあった。


 しばらく話をしていると、男性の方から、宮仕(みやづか)えに興味はないか、と提案してきた。


 蛍(ほたる)の方(かた)は、返事に悩んで、ひとまず当(あ)たり障(さわ)りのない言葉を選んだ。


 「そうですか、残念です」 と男性は云(い)った。

 「しかし、気持ちが変わることがあれば、いつでも仰って頂きたい。不安があれば、貴女(あなた)のご友人も一緒に役をご用意しよう」


 そう話し終えると、従者(じゅうしゃ)とともに席を立った。


 菊花(きっか)の方(かた)が近づいて来て、声をかけた。


 「びっくりなさったでしょう?」


 「はじめはそうですね。あの方は誰なのですか」


 菊花(きっか)の方(かた)は、歎息(ためいき)をつくとささやいた。


 「あの方が今度(このたび)即位(そくい)なされた帝(みかど)なのですよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。