28-1.旧都は花ざかり
輝かしい朝が、長岡の街並みを照らしていた。
在原中将は、かつての母親が暮らした邸宅に手を合わせてから、牛車に乗り込んだ。
「もうよろしいのですか?」 と蛍の方は訊ねた。
在原中将は、明るい表情に、少しの寂しさを滲ませながら答えた。
「大丈夫です、行きましょう」
死を迎える瞬間まで、長岡の地で高潔な孤立を貫いた母親について、在原中将は思う様子を見せつつも、執着しなかった。
敗者の正しい生き方を探るための旅に出るのだ。
狭い牛車の中では、井筒の姫君は、恐縮した様子だった。
落ち着かず、手をぎゅっと握りしめたり、物見の先を眺めたりした。
牛車が動き始めると、体験したことのない揺れに不安が高まった。
蛍の方は云った。
「大丈夫です。決して悪いことは起りません」
蛍の方が相手に手を重ねると、
その姿を目の前にした在原中将は思った。
――彼女の手には不思議と安心させられる。しかし、今日のところは、井筒の姫君に立場を譲るとしよう。
寂しさを隠す男性は、景色に心を投げかけた。
旧都の街並み全体が、春につつまれていた。
桜の香りが大気を満たし、ほこりっぽい地面が鼻の奥を刺激する。
牛車が南北を通る大路に出ると、暖かな陽光が一面に降り注いでいた。
古い家々の柱に絡みつく蔓草は、すでに先週までに何度か訪れていた陽気で長く伸び上がり、周囲の青や黄色だったりの小さな花々と一緒になって、植物の活力のようなものを周囲に撒き散らすように感じられた。
こんな素晴らしい門出の朝には、祝福という言葉が相応しい。
大地は、次の季節に向けて生命を宿し、お互いを生かし、せめぎ合うほどに震えている。
がたつく牛車に揺さぶられながら、在原中将は考えた。
――これが新たな始まりなのだろうか。どんな大きな変化のきっかけも、大抵の場合は、今朝のように静けさの中から生まれるものだ。
道の先から誰かの呼びかける声が聴こえた。
蛍の方は、牛車から身を乗り出して応じた。
郡司の娘は、友人たちを伴って牛車のほうへと駆け寄ってきた。
「蛍の姫君、行ってしまわれるのですね」 と郡司の娘は訊ねた。
「皆さん、突然のことで申し訳ありません」 と蛍の方は云った。
「けれども、時間を置くと、名残惜しくなってしまって。必ずまた帰って来ますから、その時は歓迎してください」
もちろん、というように娘たちは頷いた。
郡司の娘は云った。
「わたし達はみんな貴女をお親いしています。行って欲しくはありませんが、笑顔でお見送りしたいと思います」
蛍の方は、全員と握手をした。
そこに在原中将が顔を見せて言った。
「次はわたしも伴って参りましょう。こちらからもおもてなしをさせて頂きたい」
子どもじみた対抗心から、思わず出過ぎた振舞いに及ぶ在原中将だった。
娘たちは、突然の姿に息を呑んだ。
その容色、仕草、言葉遣い、声色から目の前の男性こそが、例の貴公子なのだと気が付いた。
在原中将はといえば、こうした対応には馴れたもので、構わずに話しを続けて、忘れがたくも、親切な印象を残すことに工夫を凝らした。
娘たちは、物語の世界の人物が目の前にいるような気分に襲われて、初めは圧倒されていた。
話しの間に、蛍の方が言葉を差し挟んだりすると、少しずつ緊張が解けて行って、二、三言のやり取りをする者も現れた。
在原中将と蛍の方が並ぶさまを見ると、蛍の方は、洗練さや洒脱さにおいて足らないと感じさせる部分があるものの、朝日にきらめく表情や、優しくも軸のある眼差しに捉えられると、やはり似つかわしい二人なのだと思われた。
長岡の娘たちは、一時の別れは仕方のないと直感で理解して、食い下がるようなことはしなかった。
騒ぎを聞きつけた女性が、だんだんと集まって来て、いつの間にか牛車の周りには、小さな人だかりができていた。
井筒の姫君はというと、牛車の中で、期待と不安、嬉しさと寂しさなどの相反する感情に胸を苦しめられていた。
何が起こるのか予想もつかないことよりも、わたし達を不安にさせるものはない。
蛍の方を信頼する想いと、寄りかかり過ぎてはならないという自制心との間に挟まれて、井筒の姫君は、事態の移り変わりに身を任せるしかなかった。
「井筒の姫君、」 と郡司の娘は呼びかけた。
思いがけない声に、慌てて姿を見せると、郡司の娘は続けた。
「貴女も行ってしまわれるのですね。寂しいです。せっかくお友達になれそうでしたのに」
井筒の姫君は、突然の言葉に何も用意しておらず、
「わたしもです」 と恥ずかしそうに述べるだけだった。
自分を覚えていてくれる人がいるなんて考えもつかなかった。
井筒の姫君は、簡単な返事をするに留まって、牛車の奥で、申し訳なさそうに縮こまった。
やがて前簾の上がったままの牛車が、三人を行くべき場所へと運び始めた。
手を振る人びとの群れが、道の先で小さくなり、やがて木々の陰が姿を後ろへと隠した。
目覚めつつある森は、木々の頂上まで花を結び、青葉を繁らせ、新たな旅立ちを迎え入れた。
――これからが本当の勝負だ、と蛍の方は思った。
――幸せは誰もが得たいと願うものでありながら、実際にはその形すら知るのも難しい。それでも、自分なりの答えを探して運命と闘うんだ。正しく人を好きにならなければ、きっと何かは解からない。そのためにも、ひとまずは三芳野の姫君と、今上の帝に、どうにかして許して貰わなければ。
木々は早くから柔らかく先のとがった芽を開きつつ、まだいくらか残っていた昨年からの葉を落とし切ろうとしていた。
牛車がゆっくりと、確実に、蛍の方を長岡の地からあとにした。
畢




