27-3.二人の丈比べ
蛍の方が肩を並べる相手に訊ねた。
「どうしたんです?」
井筒の姫君はつぶやいた。
「わたしには、すぐ分かりました――蛍の姫君がここにいるのは、例の貴公子がつらい思いをさせたからなんだって。貴女を迎えに来たんでしょう」
蛍の方は、今度はじぶんが人の心に苦しみを呼び起こしているのだと動揺した。
――相手の感情にもはや無関係とは言えないのなら、果たすべき役割がある。
蛍の方は、そう理解して答えた。
「在原中将は、そのつもりだったのかも知れません。しかし、わたしは自らの意志で帰ろうと決めました。井筒の姫君、貴女も一緒に行くのですよ」
井筒の姫君は、信じられなくて何度も繰り返した。
「嘘言、そんな、嘘言じゃないのですか?」
「本当です、少し前から考えていました」 と蛍の方は云った。
「わたし達のように不幸に打ちのめされ続けてきた人間は、ひとりで立ち上がるための方法を知りません。だからこそ、一緒に行くのです。これからのことは、じぶんの意志で決めましょう。ただ、変わろうという決断だけを、今してくれませんか?」
井筒の姫君は、泣きじゃくりながら、うめくような声で言った。
「誓います、必ず変わって見せます」
蛍の方は、慈仏のような優しい笑顔で、この言葉を引き取った。
相手の腰に手をまわして立ち上がらせ、夜の濃い闇のなか、抱き締めた。
二人しかいない草むらに居並んだ。
井筒の姫君から動悸と荒い息づかいが感じられて、全ての良心からこの弱りきった娘を支えたいと蛍の方は思った。
小さな耳に言葉をささやきかけると、井筒の姫君は、胸の中で顔を上げ、濡れた瞳子で相手のことを見つめ、やがて涙を拭った。
――わたし達は、恋の奴隷だったんだ、と蛍の方は思った。
――誰かの美点や性格を心から気に入り、一緒にいるのを願うのではなく、理想や憧れの代わりに恋という言葉を信じようとしていた。自分を好きになれない人が、誰かを好きになる方法を知っているはずなんてないのに。
蛍の方は、一つの結論を得るとともに、こんなにも冷静な情熱を覚えることに驚いた。
傷心への向き合い方について分かりつつある気がした。
――ちゃんと貴女を見ています。だから、貴女もわたしをちゃんと見てください。
蛍の方は、ただ"見ている"とは言わなかった。
じぶんの幸せを探しながら、相手も幸せにしよう、そのための言い訳は抜きにしよう、と決心した。
井筒の姫君は、言葉を聴きながら少しずつ安心して、落ち着いて行き、声の調子から誠実に話そうとしていると分かったので、相手がこれほどに強い意志を示そうとしているとは、全く思いも寄らなかった。
ようやく事態を飲み込みつつあり、最高の未来が開けてきたのだという幻と、長年の夢が叶いそうな高揚感とに、心が揺さぶられ、それが新たな蛍の方への愛情と混じり合った。
今すぐにでも愛の言葉を叫んで、
――わたしには、もう貴女しかいない! と伝えたかった。
けれども、それでは何となくだめな気がして、井筒の姫君は相手を熱っぽく見つめるに留めた。
蛍の方は、心を強く揺さぶられ、頭と背中とをゆっくり撫でながら、
「行きましょう、わたしの大切なお友達」 とつぶやいた。
井筒の姫君は、半日を苦悩に費やさせるほどの例の貴公子の出現を、ほとんど忘れていた。
ただ目の前に差し出された幸福というものへ困惑気味に、大切そうに眺め、恐るおそる手を触れつつあるところだった。
井筒の姫君は、無意識に甘えた声で訊ねた。
「本当に、長岡にいるときと変わらず、大切にしてくださいますか?」
「いいえ、」 と蛍の方は答えた。
「それ以上に大切に思い合える関係になります」
二人は視線を通じて本心を確かめ合った。
言いがたい何かが、相手へ向けて自分を運び、投げ出すのを感じた。
小さな幸福に包まれて、地平線の彼方へ太陽が沈みきるのを見たときには、廃寺の伽藍そのものが過去の幻影のように思われた。
二人は、相応しい行き先を探すために、敷地を後にした。
人間が得たいと思っても、つねに正体すらも分からずに求めるしかないもの、自分の内面の奥底にこそ最大の秘密を感じさせるもの――
そんな幸福というものの有り様を探すために、二人の姫君は手を取り合って歩き始めた。




