27-2.憂愁の終わりに
井筒の姫君は、二度と家には帰らないつもりで、ひっそり敷居をまたぐと、行き場もなくさまよいながら考えていた。
――蛍の姫君は、つよい意志を示しながら、わたしを残して行った。彼女は豪華な牛車に揺られて都へと戻り、辛くとも満ち足りた生活をやり直すんだ。恋を成就させ、世間での評判をほしいままにしたとき、その隣には例の貴公子がいるんだろう。
井筒の姫君の憧れは、まだ終っていなかった。
なのに、もはや運命に抗うのは無理だし、闘ってどうしよう。
じぶんを惹きつける蛍の方の魅力は、いつまでも正確には理解できないものの、何にもまして強く心を釘付けにした。
逃げたところで解放されないし、愛着から離れられるわけでもなく、むしろ耐えがたいほどに恋しさが高まることが、容易に想像できる。
蛍の方に妥協してもらえるような提案すらもできないままに、不吉な予感に身を苛まれた。
井筒の姫君は、大路を西へと歩きながら、目の前を二匹の胡蝶が絡み合うように飛び、空中まで高く舞い上がって行くのを見た。
理想は、形がなく手の届かない憧れに過ぎない。
そこにいるのは、相変わらずの田舎娘で、何があろうと現実に立ち向かう勇気を持てないままなのだ。
蛹のような硬い心の殻に閉じこもって、いつまで経っても羽ばたけない。
もしかすると自分は、永久に今までと同じように憧れに苦しみ続けるのかも知れない。
これまで過ごしてきた憂鬱で、落ち着かない日々の記憶が、現実を動かせないという悲しい確信とともに胸を締め上げた。
将来の葛藤と苦悩が思いやられて、怖かった。
蛍の方を失う以上の苦しみはないはずなのに、真実を知る不安や恐怖に打ち震えて前に進めず、あらゆる苦しみに耐え抜くしかないと諦めた。
際限のない感情が、決して満たされることのない渇きとなって、身も心もじりじり追い詰めるのを、仕方ないことだと受け止めるしかない。
一人きりで長岡で住ごした日々に、たびたび覚えた悲しみが早くもぶり返して、井筒の姫君は甘美な思い出にすがるように、廃寺の中を奥へと進んだ。
もし家に帰ったとしても、蛍の方の笑顔が出迎えてくれるとは限らない。
泣き顔や、悔しさを滲ませる表情、真っ赤になって怒っているかも知れない。
笑顔だったなら、それは別れの印なのだ。
過去は変わらないことによって優しい。
思いがけない衝撃をもたらさず、得たいと願う感情を裏切ることがない。
いつでも懐かしさと親しみ、そしてほんの少しの寂しさだけを、わたし達に与えて、多くの場合は慰めてくれる。
じぶんを通して見た世界を信じることのできない井筒の姫君にとって、思い出は唯一の帰るべきところだった。
例の古井戸は、幼い頃に二人で遊んだことのある数少ない場所だった。
父親同士が、政変にまつわる計画を秘密にするためだったのだろう、時おり子ども達で遊びに行くように指示することがあった。
寺の崩かけた土塀の小さな穴を抜けると、実は大路の方からすぐにたどり着くことができるのだけれど、今の成長した彼女には無理だった。
二人の子どもは、じぶん達しか入ることのできない特別な場所として喜び合った。
来るたびに、丈比べをして、井戸の竹垣に成長を刻んだ。
大きくなっても一緒にいる約束をしたはずなのに――
井筒の姫君は、朽ちかけた傷跡に手を触れながら、過去とはこのように消えて行くのだと思った。
いつか全ては心の裡のものとなって、生きた痕跡そのものがなくなってしまう。
蛍の方の父君は、かりそめの現世では本来として幸福は成し得ない、と後に言った。
井筒の姫君には、剃髪した彼の考えを誰よりも深く理解できた気がした。
諦めてしまえば、和らいだ気分になる。
過去と現実をごちゃまぜにして、理想の全てを蛍の方に託して、自分のものにするのだ。
いつまでも蛍の方が好きな感情は消えない。
感謝と憧れが一緒になって井筒の姫君の心を捉え続けて、離れることを許さない。
へたり込んで、日蔭に身を隠すうちに、いつの間にか眠っていた。
湿っぽい冷気が、身体の奥まで少しずつ染み込んでくる感じがして、
――死とはこんな感覚なのだろうか、と遠い意識の中で思った気がした。
世界に打ちのめされ、恋に敗れた、この憐れな女性が生きられる場所なんて、現世には存在しないのだろう。
深い井戸の底を覗き込むように、心はどんどん暗い先まで落ちて行った。
肩に触れる温かさに、生気を感じ、蛍の方の存在に気が付くのは、ずいぶん後のことだった。
よく働いた若い女性の汗の香りがして、安心した。




