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影陽―カゲヒナタ―  作者: 小日向佑介
第一部:陽の世界
6/8

理想は遠くへ

 インターホンが鳴る。携帯のアラーム音よりも早い、時刻は午前六時半。こんな朝早くに誰が訪ねてきたのだろう。ヤタもまだ起きていないようだった。寝惚け眼をこすりながら玄関へ向かい、扉を開ける。

 そこには不安そうな面持ちの菜摘がいた。紺色のブレザーとチェックのプリーツスカートを着ている。陽はその制服を知っていた。陽が今日から通う迫間はざま学園のものだった。まさか同じ学校の生徒だったとは。それよりも、どうして菜摘が部屋を訪ねてきたのか、陽にはわからなかった。


「おはようございます、真中さん。どうされましたか?」

「おはようございます。えっと、昨日はありがとうございました。それと……大丈夫でしたか?」

「大丈夫、というのは? ……あっ」


 魔童との戦闘と、二葉との再会のせいで、菜摘を庇ったことがすっかり頭から抜けていた。なんと説明すればいいのだろう、陽は悩む。退けたと言えば、どうしてかを問われるだろう。しかし逃げたというのも胡散臭い。どう答えるのが正解か――口を閉ざす陽を見て、菜摘は目を伏せた。

「あんな化け物みたいなものから逃がしてくれたことはありがとうございます。でも、私のせいで怪我と

かしてたら……本当にごめんなさい」


 確かに空中から落下して体を打ちつけはしたが、命に別状はない。それに菜摘が無事であったなら、陽にとっては充分だった。心配させないように笑顔を向ける。


「ご安心ください、あれはすぐに消えましたよ。僕も怪我はありません。なにより、真中さんが無事でよかったです」


 なにも知らない菜摘相手には嘘を吐くしかなかった。ひとまずは不安を取り除き、安心させた方がいい。菜摘はいまだ不安そうだったが、小さく「本当に?」と呟いた。陽は力強く頷いて返す。少しずつ頬が緩み、やがて大きく息を吐いた。


「よかった……あたし、七尾さんになにかあったら、どうしようって」

「ご心配には及びません。こちらこそ、なんの説明もせずにすみませんでした。僕なら大丈夫なので、どうかお気になさらず」


 なんとか騙し通せたようだった。内心胸を撫で下ろす。しかしまだ問題は残っている。いかにして菜摘を帰らせるかだ。理由は簡単、ヤタに見つかってはまた面倒なことになりかねない。また、ヤタが見つかったらいろいろと面倒な問答が展開されることになるだろう。もはや陽の頭は、菜摘を穏便に帰らせる方法しか考えられなかった。


「七尾さん? なんでそんなに汗かいてるんですか?」

「え、いや、はは……緊張してるんです。同世代の女の子とお話する機会がなかったもので」

「あはは、結構シャイなんですね」

「そうなんです、はは。ところで真中さん、その制服……」


 制服を指摘された菜摘は、小さく声を上げる。どこか嬉しそうな表情だった。


「へへ、今日から高校生です。七尾さんもですよね? 同い年なら、ですけど」

「ええ、同い年みたいですよ。僕も今日から高校生です。真中さんと同じ、迫間学園の」

「本当ですか!?」


 菜摘はぱあっと表情を輝かせ、おもむろに陽の手を握った。突然のことに動揺する陽、そんなことなど露も知らない菜摘はぶんぶんと握った手を上下に振っている。


「ちょ、真中さん落ち着いて……!」

「だって嬉しくて! よかった、友達できるかすっごく不安だったんだ! 七尾くんがいれば安心だね! 同じクラスになれるといいね、ね!」


 敬語も忘れて嬉しさを表現する菜摘に、陽はなおのこと動揺する。それに、こんなに騒いでいたら――


「ヒナタァ? 朝っぱらからなにやって」

「ひゃあっ!?」


 菜摘の手を振り払い、すぐさま扉を閉める。力任せに閉めたため大きな音が廊下に響いたことだろう。しかしいまの陽にそんなことを気にしている余裕はなかった。一般人にヤタを見られるわけにはいかない。防衛本能のようなものだった。

 ヤタは訝し気に陽を見つめる。ぴょこぴょこと扉の前に寄ったところで、扉の向こうから菜摘の声が聞こえてきた。


「七尾くん? どうしたの? あたし、なんか変なこと言った? っていうか誰かいる?」

「ホォーッ、なるほどねえ。やっぱ隅に置けねえな、お前?」

「うるさい、黙って。……すみません、ちょっと人前に出してはいけないものを飼っておりまして。お話は、登校するときにでも」

「え、う、うん。わかった……それじゃあね、またあとで!」


 足音が遠ざかる。陽は扉にもたれて安堵のため息を吐いた。だが、ひとつの問題が解決しただけであって、根本は解決していない。ヤタを見れば、相変わらず気味の悪い笑みを浮かべていた。


「なんだよ、ちゃっかり一緒に登校する約束取りつけてんじゃねーの。カァーッ、積極的だねえ。惚れたカァ?」

「勘違いしないで。ああ言った方が円滑に会話を終わらせられると判断しただけだよ」

「カッカッカァ、恥ずかしいことじゃねーよ。青春いいじゃん、大いに結構!」


 話を聞く気が一切ないヤタ。これ以上話し合うのも無駄だと呆れ、朝食を済ませに向かう。昨日の出勤のときに持って帰ってきたサンドウィッチだ。店内の厨房で作っているのだが、これがなかなかボリュームもあり、小腹を満たすには充分過ぎるほどだった。


 歯を磨き、顔を洗う。先程の一件ですっかり頭は冴えていたが、冷水が一層気を引き締めてくれる。高校生活も、できるだけ穏便にやり過ごそう。目立ってはいけない。それが自分の身を守るのに最も効果的だった。中学生時代、悪目立ちして質の悪い嫌がらせを受けていたクラスメートを見ていたこともあり、目立つことをひどく恐れていた。もっとも、自分からなにかを発信しなければいいだけのことなのだが。


 制服に袖を通す。紺色のブレザーに、チェック柄のスラックス。これらは全て大貫が手配したものだ。なにからなにまで準備してもらっているため、感謝と同時に怖くもあった。なぜ自分にこうまで尽くすのか、陽には真意がわからなかったからである。


 ――大貫さんの考えていることはわからない。けれど、問い質すこともできない。無下にすることなんて、もっとできない。


 ますます頭が上がらないと苦笑し、鏡を見る。それほど高くない背丈にぴったりで、どうやって採寸したのかも不明。それもまた恐ろしい話だとヤタが笑った。


「それじゃあ、行ってくるから。ヤタは人に見つからないように」

「おーよ、任せとけ」

「……二度は言わないからね」


 暗に信用していないことをほのめかした一言だったが、ヤタにそれが伝わったかどうかは疑問だった。ドアノブを掴んだところで、ヤタが「そうだ」と声をあげた。


「喧嘩はすんなよ、怪我しちまう」

「えっ、どうしたの? 心配してくれてるんだ?」

「相手がだ。自分じゃわからねーかもしんねーけど、己影と契約してるだけで普通の人間よりは身体能力は格段に上。じゃなきゃ、魔童を駐輪場まで蹴り飛ばすなんてできねーって」


 陽は男としては小柄な方だった。線も細く、たくましさは感じられない。そんな陽が猿の魔童を蹴り飛ばせたのは、己影と契約しているからだとヤタは言う。その気になればビルからビルへと飛び移ることも可能だとつけ加えた。それだけ人間を逸脱しても、憑魔化しなければ魔童とは戦えない。どうしようもない、生物としての格差を感じた。


「まあ、大丈夫。初日から喧嘩なんてしないよ」

「……それもそっか、思い過ごしだわな。カッカッカァ、ひとまず、行ってこいよ」

「うん、行ってきます」


 ドアノブを捻り、家を出る。雲一つない空からは暖かな陽射しが注いでいた。新生活の門出としては悪くない一日になりそうだ。陽の足取りは軽くなる。

 エレベーターの前に菜摘が立っていた。携帯の画面をじっと見ており、ときおり指を滑らせている。陽がゆっくり歩み寄ると、菜摘も気づいて笑顔を向けた。


「おはようございます、真中さん」

「おはよう、七尾くん。さっきはごめんね、急に押しかけちゃって」

「いえ、こちらこそ乱暴な区切り方ですみませんでした。それじゃあ、行きましょうか」


 幸い、ここから学園まではそう遠くない。交通機関を使わずとも通えるのは陽にとってありがたかった。さすがに交通費まで世話になるわけにはいかないと考えていた陽は、大貫への僅かばかりの気遣いで迫間学園を受験したのだった。

 ちらほらと同じ制服を着た少年少女の姿が見える。意外と見分けはつくものだ。同じ新入生はまだ、制服に着られているように見えた。陽もそう見えているのだろうか。ちらりと菜摘を見やる。陽の視線に気づいてか、小さく首を傾げた。


「どうしたの?」

「いえ、僕たちはまだ制服に着られているなと」

「あはは、それはそうだよ。ぴかぴかの一年生だよ?」

「ふふ、ぴかぴかですか。そうですね」


 楽しそうな菜摘を見て、笑顔を誘われる。陽は違和感を覚えた。その違和感がなんなのか、本人はわかっていなかった。

 他愛のない雑談をしながら歩き続け、迫間学園が見えてくる。校舎は二メートル程度の煉瓦で囲われており、校門を抜けると駐輪場が見えてくる。その先に校舎が構えられており、入学式ということもあって新入生向けの道案内が随所に設置されていた。

 一年生の教室は四階にある。クラス分けは各教室前の張り紙で確認するようだった。同じクラスだといいね、と笑う菜摘。陽も相槌を打ち、自分の名前を探す。


「あ、あった!」


 声を上げたのは菜摘。どうやら自分の前を見つけたらしい。菜摘はB組の生徒となるようだった。B組に陽の名前はなく、菜摘はがくりと肩を落とした。陽はたまらず苦笑した。


「そう気落ちされると僕もどんな顔をしたらいいのかわかりません」

「そ、そうだよね。クラスが違っても会えるし、家も近いしね!」

「そうですよ。それじゃあ一旦ここでお別れですね。僕も自分の名前を探しに行ってきます」

「うん、わかった。それじゃあ、またね!」


 手を振って教室に入っていく菜摘。陽は内心、安堵した。

 あまり深く関わるべきではない。関われば、いずれ秘密が漏れる可能性がある。説明が面倒というのもあるのだが、なによりも戦いに巻き込んでしまう可能性を危惧した。先日のような偶然が、今度は必然として起こり得るかもしれない。戦い慣れていない陽が菜摘を守りながら戦うことは不可能だからだ。


 ――やめよう。考えても仕方がないことだ。


 しかし、いまは近くに二葉がいる。仮に窮地に陥っても、助けに来てくれるかもしれない。昨日のように。

 廊下を渡ること六分。とうとう自分の名前を見つけた。晴れて陽はF組の生徒となるわけだが、当然知っている名前はない。中学生時代にろくに人間関係を築いて来なかったからだ。だが、陽は安心した。自分を知らない人間ばかりなら、特に複雑なしがらみもなくやり過ごせるだろう。

 扉を開ければ、すでに何名かの生徒が談笑していた。席には手作りの名札が置いてあり、陽も自分の名札を見つける。教室の真ん中より少し後ろ、窓寄りの席だった。


「なあ」


 ふと、背中から声がかけられる。振り向けば、男子生徒が笑みを浮かべていた。陽は一瞬で察する。関わってはいけない人間だ、と。釣り上がった口の端から悪意が漏れている。大方、中学生時代に力にものを言わせてきた人種だろう。陽は表情を繕うこともなく、「はい?」と返した。


「お前どこ中出身?」

「竹野原中学ですが」

「あー、あそこ。可愛い子いっぱいいたよな」

「そうでしたか?」


 単にクラスメートの顔を覚えていない陽には、そう返事するしかなかった。男子生徒の表情が歪む。自分が可愛いと思っていた人間が、冴えないクラスメートにとってはそうでもないと言われた気がしたのだろう。自分の価値観を、自分よりも程度の低い人間に軽んじられれば誰だって不愉快になるはずだ。この男子生徒の顔にはそれが顕著に映し出されていた。


「お前、彼女は?」

「いませんが」

「そんな奴が『そうでもない』とか言うんだ、天狗だな」


 やはり意味を履き違えて捉えられていたようだ。訂正するのも面倒で、陽は小さく肩を竦める。男子生徒が陽の前髪を掴んだ。ぐい、と引き寄せられた拍子に椅子が大きな音を立てる。クラスメートの視線は釘付け。陽が恐れていた最悪の事態だった。これ以上は、目立ってしまう。


 だが、ここまでやられて黙っているほど陽は利口ではなかった。敵意には敵意を以て返す。これは美景の家訓であり、ヤタの警告などすっかり頭から抜けていた。

 鼻先が触れそうな距離で、陽はすうっと目を細める。嘲りを込めて。


「コミュニケーション能力にいささか問題があるように見えます。きみの周りではこんな力任せのコミュニケーションを取るのが普通なんですか?」

「お前、あんま調子に乗んなよ」

「『あんまり』ですよ。正確な日本語は『あまり』ですが。それにしても、おかしいですね? 『り』を忘れることなんてあるのですか? 口が回っていないだけでしょうか」


 気づいたときには、陽は机を巻き込んで倒れていた。どうやら殴られたらしい。頬の辺りがじんじんと痛む。女子生徒の短い悲鳴があがった。入学式でいきなり喧嘩が勃発したのだ、無理はない。男子生徒はというと、浮足立っているのか口笛なり手拍子なりで盛り上げようとしていた。余興程度の考えなのだろう。


 陽はゆらりと立ち上がり、いつもの歩調で男子生徒に迫った。あまりにも表情の変わらない陽に不気味さを抱いたのか、一歩後退りする。


「目には目を、歯に歯を。ご存知ですか?」


 陽はくるりと身を翻し、勢いをそのままに蹴りを繰り出した。陽の一撃は過たず男子生徒の腹部にめり込み、教室の後方まで机と椅子を巻き込みながら飛んでいく。凄まじい音が鳴り響き、呆然とするクラスメート。陽はここでようやく我に返り、額にそっと手をやった。


 ――ああ、もう無理だ。


 これからしばらく、平穏な生活は叶わないだろう。陽は深々とため息を吐いた。

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