大きな決断
時刻は十七時七分。退勤した陽は家への帰路についていた。右手には買い物袋いっぱいに詰め込まれたおにぎり、弁当の山。全て廃棄になった商品である。これで二日は凌げるだろう。
部活を終えたジャージ姿の高校生の姿がちらほらと見受けられる。自分もあと数日でああなるのかと少し感慨深く思う。
ごみ捨て場にカラスが群がっている。その中にヤタの姿はなかった。ごみ捨て場から見つけたものを持ち帰ろうものなら、ヤタを家から追い出すことも辞さないが。ヤタは普段食事を摂らないため、どうやってエネルギーを供給しているのだろう。ふと、ヤタの生態について考える。
現在、ヤタの契約者は陽だった。正確に言うならば、所有者。己影がなにを供給源として姿を維持しているのかまでは知らなかった。帰ったら確認してみよう、陽の足取りは少し軽くなった。
マンションまで到着しエレベーターを待っていると、肩を叩かれる。振り向くと、今朝の少女――真中菜摘がいた。
「あ、やっぱり七尾さんだ。こんばんは」
「こんばんは、真中さん。いま帰りですか?」
「はい、ボランティアに行ってて」
「へえ、献身的です、ね……!」
陽の顔から血の気が引く。どうしたのかと振り向く菜摘。そこにはカラスがいた、三本脚の。ヤタだ。ヤタは陽と菜摘を交互に見てから、ニイといやらしい笑みを浮かべた――ような気がした。訝し気にカラスを覗き込む菜摘。
「カラスがこんなところまで入ってくるの、珍しいですね。……あれ、この子、足が――」
菜摘が違和感に気づいたところで、陽はヤタをひったくるように抱き抱える。
「……あはは、いけない子ですね。こんなところに入り込むなんて。僕が責任を持って、外に逃がしてきます。それでは真中さん、失礼致します」
「あ、ちょっと! 手洗いうがいは忘れずにね!」
菜摘の声に手を振って答える。マンション近くの空き地に駆け込み、ヤタを下ろす。
「なんだなんだ、ガールフレンドでもできたのカァ? 隅に置けねえなあ、おい?」
ニヤニヤと下衆な笑みを浮かべるヤタ。どうやら陽の言いつけはまるで意味をなしていなかったらしい。深いため息が漏れる。
「ヤタ……家を出る前に僕が言ったこと、忘れちゃった?」
「なんて言ったっけ?」
案の定だ。ヤタはいつもそうだった。陽の言うことなんてちっとも聞きはしない。その場では頷いても、三歩歩けばすでに忘れている。本当にカラスなのかと疑うほど物覚えが悪かった。
陽も負けじと黒い笑みを浮かべる。
「ぽんこつ頭には教育が必要かもしれないね」
「褒められて伸びる子だから、その辺丁寧にな」
まるで堪えた様子がなかった。もしかすると自分は舐められているのではないか。憑魔士としての実戦経験は皆無に等しい。己影としてのプライドがヤタの中にあるとすれば、頼りない、力を使えない憑魔士として見下している可能性がある。それは仕方がないことだった。美景家からの逃亡を図る上で、むやみに憑魔士の力を使えば勘付かれる恐れがある。大貫の指示ではあったが、それは陽としても避けたいことだった。
そのおかげか、ヤタとはある種対等な関係を築けているとも言える。使役する者される者ではなく、一個の存在として対等な関係となっている。嬉しいことではあるが、憑魔士として在るべき姿かと言われると微妙だった。
「そういえば、ヤタ。この辺りに魔童が出るって話を聞いたよ」
「魔童? まさかだろ」
「本当みたい。美景の人が来ているかもしれないから、もし僕が頼りないと思っているなら、銃を持って美景の人に保護された方がいいと思う」
それがきっと、ヤタにとってもプラスになるはずだ。
そう思っての発言だったが、ヤタはぽかんと目を丸くするばかりだった。なにかおかしなことを言っただろうか。振り返ってみるが、別段妙なことは言っていなかった。首を傾げる陽を見て、ヤタは天に向かって高らかに笑った。
「カッカッカ! そりゃねーわ! だってよォ、ヒナタといる方が自由だしな! 戦いばっかの毎日から解放されて、オレはいまサイコーに楽しいぜ?」
これが憑魔士の長たる美景の己影だとは思えない。陽は肩を竦めた。
ヤタは戦うことを望んでいない。いや、正確には、戦いから離れた生活を楽しんでいる。当時の所有者であった一哉ですら気づかなかっただろう。陽についてきて正解だったと笑う“八咫烏”。いざ戦いに飛び込んだとき、果たしてヤタは力を貸してくれるのだろうか。――陽自身が戦うことがあれば、の話だが。
「で、どうする? 魔童がいるならオレらも探してみるカァ?」
ヤタから提案があるとは思わなかった。戦うことはうんざりだと思っていたが、実際そうでもないのだろうか。だとしたらヤタのためにも、一度くらい実戦を積むべきなのかもしれない。けれど、それはリスクが高すぎた。正統な憑魔士が姿を現したとき、すでに魔童が倒されていたとしたら陽以外ありえないからだ。
憑魔士一族は森の中に本部を構え、一族の者は皆そこで生活している。そして、各地に潜む魔童を倒しに行くには本部を通す必要がある。現場についたとき魔童の気配がなければ、本部を通していない憑魔士――つまり、本部から逃げ出した陽が倒したという証拠に他ならない。近辺に陽が隠れているとなれば、美景家は血眼になって陽を探すだろう。
そうなるくらいなら、正統な憑魔士が訪れるのを待つ方が賢明だ。
「やめておこう。きっと憑魔士にはすでに話が届いてる。そう遠くないうちに姿を見せるから」
「人任せかよ」
「僕は正統な憑魔士じゃないからね」
「正統な憑魔士じゃないと戦っちゃいけない理由でもあるのカァ?」
ヤタの質問の意図がわからなかった。陽の事情を正しく理解しているヤタならば、賛同すると思っていたからだ。ヤタはなにかを確かめるように陽の目を見つめる。やがて根負けしたかのように、やれやれと翼を広げた。くちばしからため息が漏れる。
「ま、ヒナタにはまだ早いカァ。忘れてくれや」
「僕はカラスより頭がいいから、そう簡単には忘れられないよ」
「おー、言うねえ。オレ、馬鹿にされた?」
「ご想像にお任せするよ。さあ、そろそろ帰ろう。ヤタは窓から入って」
「はいはい、人目を忍ぶってのは大変だねえ」
翼をはためかせ、マンションの方へ飛び去るヤタ。
人目を忍ぶ術は十年間で身につけてきたつもりだった。僕は、本当に忍び込めているのだろうか。普通の日常に。ふとしたときに、不安になる。自分はなんでもない平和な街の異物なのではないかと。三本脚のカラスを連れ、この春から高校生になるというのにアルバイトをしている。こんな人間は、きっと普通ではない。
――僕はいったい、何者なんだろう。この平穏な世界において、どんな存在であるべきなんだろう。
答えはまだまだ見つかりそうもない。
自室に帰って真っ先に目についたのは、今朝ヤタが散らかした黒い羽根だった。そうだった、食事の前にこれを片付けなければ。陽の口から呆れが漏れる。
「おう、おかえりヒナタ」
「ただいま、ヤタ。早速気が滅入ってるよ、なんとかして」
「なんだ、じゃあ笑かしてやろうカァ? オレ、落語とか大喜利とか好きだぞ」
「そんなものは求めてないの」
話をするだけ無駄だったか、と陽は項垂れる。
ごみ袋を取り出し、羽根を一枚ずつ拾って捨てる。まったく、どうして己影の粗相の後始末をする羽目になっているのか。最初の己影がヤタであったため、正統な憑魔士と己影の関係性についてはわからないことが多かった。もしかすると、皆このように己影の世話をしているのかもしれない。
「そういえば、ヤタって食事摂らないよね」
「んあ? なんだ、藪から棒に」
「いや、どうやってその姿を維持してるんだろうと思って。出会った頃からなんにも変わってないから……」
「そりゃ実体じゃねーし。この姿は概念みてーなもんだよ。オレの本体は、ここにある」
くちばしが突くのは、銃。かつて美景一哉が使っていた憑魔士の証――魔憑銃だ。憑魔士は魔憑銃を使い、特殊な弾丸を自身に撃ち込むことで己影の力を借りる。そうして初めて、魔童に抗する力を得られるのだ。己影の本体は魔憑銃に込められた特殊な弾丸であり、ヤタが言うには弾丸に込められた魔力を使うことでこの姿を象っているのだという。
つまり弾丸の魔力が途絶えない限り、ヤタはこの姿を維持できるということだ。どうりで食事が要らないはずである。さらに疑問が一つ。
「魔力はどうやって補給するの?」
「魔童を倒すんだよ。弱った魔童にオレを打ち込めば、弾丸に魔童の魔力が上乗せされる。そうして、オレたち己影は存在を維持しつつ強くなっていくのさ。理解したカァ?」
理解はした。けれど、それはつまり――
「ヤタの魔力は、ずっと減り続けてるってこと?」
「そりゃそーだ、十年前から一度も補給してねーしな」
陽は自責の念に駆られた。自分が戦えない、戦いたくないという理由で、ヤタのことを一切考えてこなかった。さらに不安な点が一つ。
「あと、どのくらいの魔力が残ってるの……?」
「さあ? でもあと二十年分くらいはあるんじゃねーの?」
「そ、そんなに?」
「いままでの美景がどんだけ魔童を倒してきたと思ってんだ。美景は憑魔士一族の長だぞ?」
現状、ヤタは貯金を切り崩して生命活動を維持しているということだ。自分のことで手一杯で、ヤタについて考えることを放棄していたことを悔やむ陽。動きを止め、深い息を吐く。
「ヤタ」
「んあ?」
「魔童、倒そう」
七尾陽の、大きな決断だった。




