閑話 リリ 上
「話、聞こえてたでしょ。一緒に来る?」
人間のくせに何故か魔王と共にいるその人は、私にそう問いかけたのでした。
私はリリと言います。名字はありません。ごく普通の村人の両親の間に生まれ、四歳まではそこで過ごしました。
しかし、村は魔族達に襲われ滅び、両親もその時に殺されてしまいました。天涯孤独な子供の行き着く先など決して多くはありません。
かろうじて近隣の街までたどり着きましたが、身寄りも無く、後見人も無く、ましてやこの街の出身ですらない私にまともな働き口などあろうはずもありません。
そして私はスラムの孤児となったのでした。
スラムでの生活は酷いものでした。掏摸、詐欺、盗みは当たり前。殺人さえ頻繁に起こる有様です。かくいう私も殺人以外の行為は一通りこなしていたので、あまり他人を悪くは言えないのですが。
そして、そこまでしても食事にありつけるのは二日に一回程度、それもカビの生え固くなったパンが手に入ればまだましなほうというのが現状でした。
お婆様と出会ったのは、そんなスラムでの生活に慣れ、身も心も荒みきっていた頃でした。
――空が青いな。
一欠片のパンを巡って殴られた頬は熱くて、走りすぎて暴れる胸は息一つまともにできずに苦しくて、転んだ時にあちこち打ち付けて全身が痛いのに、頭に浮かんでいたのはのは何故かそんなことでした。
幸い追っ手の足音は見当違いの方向から響いており、逃げきるのなら今だということは分かっているのですが、どうにも動こうという気が起きません。仰向けに転がったまま、私はただぼぅっと抜けるように青い空を眺めていました。
「ふん、凶悪な面した小娘だね……」
それが、お婆様の第一声でした。
「あんたみたいなしわくちゃに言われたくないよ」
スラムでは舐められたら終わりです。私は疲れた身体にムチ打って起き上がり、目に精一杯の力を込めて睨み付けました。
「そうやって威嚇するとますます凶悪さに磨きがかかるね」
余計なお世話です。そもそもこの目は生まれついてのもので、努力や鍛錬でどうこう出来る類いのものではありません。加えて言うならこの目付きのおかげで村では常勝無敗でした。何しろ喧嘩になることすらなく相手が逃げていったのですから。逆に感謝しているくらいです。
「……まあいい、ついといで」
私の憤慨を無視して一方的にそう告げると、お婆様は背を向け歩き出しました。
阿呆か、と思ったのをよく覚えています。スラムにおいて無条件に他人を信用するなど莫迦のやることです。私はお婆様の言葉の一切を無視して逆方向へと歩き出しました。
「おや、いい度胸してるじゃないか」
お婆様はそう呟くやいなや、その枯れた身体のどこからと思うほどの大音声で叫びました。
「おぅいガキ共。お前らの探してる小娘はここにいるぞ!」
「なっ――!?」
なんてことをしてくれやがるのでしょう。せっかく撒いたというのに、これでは台無しです。
驚き固まる私にニヤリと意地の悪い笑みを向け、
「さあ、捕まりたくなきゃ大人しくついといで」
お婆様は勝ち誇った笑みでそう告げたのでした。
こうして無理矢理連行された先で、私は衣食住を与えられた代わりに態度と言葉遣いと習慣とを徹底的に矯正されました。
お婆様の教え方はとても乱暴で、口より先に手足が出る人でした。何かミスをしたり、言いつけを破ったりするとまず殴られました。そしてそこからお説教が始まるのです。
「あたしのことはお婆様と呼びな」
まず教わったことがそれです。名前はいくら聞いても教えてくれなかったので、今でもあの人はお婆様で、お婆様といったらあの人を指す固有名詞となってしまいました。
さて、自らの呼び名を教え込んだお婆様は、次に私にメイドとしての礼儀作法を教え込みました。それはどこの王宮に仕えても恥ずかしくないほどのもので、今となっては感謝しているのですが、当時の私にとっては苦痛以外の何物でもありませんでした。
厳しさに耐えかね頻繁に逃げ出しては捕まり折檻される日々を送る私に、よくお婆様は言ったものです。
「お前の目付きがもう少しまともなら、貴族の二男坊や三男坊くらい簡単に落とせたろうにねえ……」
大きなお世話です。
一通りの教育が終わると、私は下級貴族の館へと奉公に出されました。と言っても永続的に仕えるのではなく、人手の足りないところへ臨時で派遣される日雇いのようなものでしたが。
そこで知ったのですが、お婆様は昔さる高貴な方に仕えており、その方が政権争いに敗れた際、一緒に処刑されそうになったところを逃げ出してきたそうです。「確かにあたしはあの方に仕えちゃいたがね、然りとて一緒に死んでやるような義理はないよ」とはお婆様の弁。
今でも当時の伝手が多少残っており、それを使って私を奉公にねじ込んでいるのだとか。
自らについて多くを語らない人だったので、お婆様について知っているのはその程度です。
家があり、食事があり、まともな仕事がある。お婆様との生活は、決して楽では無いけれど、満ち足りたものでした。
何故私を拾ってくれたのか、そう問う私にお婆様は、「あんたを代わりに働かせりゃあ、あたしが楽出来るだろ。だからしっかり働いてせいぜい稼いできな」と、憎まれ口を返すのみでした。
けれども私は知っています。私が働きに出ている間、お婆様もまた仕事をしていたことを。
結局理由は教えてもらえぬまま、気づけば数年が過ぎ去っていました。
ある日の帰宅途中、街から煙が上がっているのが見えました。あれはスラムの方角です。
胸騒ぎを覚えながら急ぎ帰宅すると、そこは酷い有様でした。建物は破壊され、至る所にまだ片付けられていない死体が転がっていました。消火もままならないようで、あちこちで火の手が上がっています。
(――お婆様)
お婆様は無事なのでしょうか。そもそも何故このような事態になっているのか、一体スラムに何が起こったのか。何ひとつ分らないまま、とにかく私はお婆様の姿を求めてスラムを駆けずり回りました。その際漏れ聞こえてきた会話で、原因は魔王軍の襲撃だということを知りましたが、最早それは些事にすぎません。
そして。
なんとかお婆様の姿を見つけ出した私は、絶望に顔が引きつるのを止めることができませんでした。倒壊した建物の下敷きになり、息も絶え絶えの姿だったからです。
「……なんだい、ずいぶんお早いお帰りだね」
こんな時にまで飄々と軽口を叩くお婆様に、私はなんと言っていいのか分からず立ち尽くすのみでした。
「あのね、ぼうっと突っ立ってる暇があるなら助けのひとつでも呼んできておくれ」
「……! はいっ」
そうです、助けです。助けを呼ばねばなりません。お婆様の上にのしかかる瓦礫は、私一人の力ではどうにもならないのですから。それに、瓦礫の下から救い出し、適切に手当さえすれば助かるはずです。
私は踵を返し駆け出しました。
けれど。スラムのことごとくが崩壊し、誰もが逃げ惑い絶望するなかで私の頼みを聞き届けてくれる人は皆無でした。よくて無視、悪ければ邪険に払いのけられました。私が助力を請うた人のなかには、過日お婆様に助けられた者も多数いたというのに。
今更になってのこのこやってきた兵士でさえ、私の声に耳を傾けてはくれませんでした。ならお前達は何の為に来たんだと怒鳴りつけた私へ、彼らは容赦なく拳を振るいました。
「少なくともお前らゴミを助ける為じゃあねえな」
下卑た笑みと共に吐き捨てられた言葉は、今でも忘れることが出来ません。そうですか。私達は、ゴミですか。
結局、誰の助けも得られないままお婆様のところへと戻った私が見たものは、事切れ冷たくなったお婆様の亡骸でした。
もし、誰かが手を貸してくれてさえいたら。
もし、私がもっと早く帰っていたら。
もし、私がもっとうまく助力を請うことが出来ていたなら。
いいえ。それは無駄な仮定です。
全ては私の無策のせい。
全ては私の愚かさのせい。
全ては私の無力のせい。
それが、スラムのルールです。
お婆様の庇護下の元、すっかりそれを忘れてぬるま湯に浸っていた私は、そのせいでお婆様を失ったのです。
それでも、私は自分の胸のなかで燃え上がる熱を押さえることが出来ませんでした。
その熱の名は、怒り。
あの時、お婆様を見捨てた人間に対するどうしようもない怒りが、私のなかで燃えさかっています。
そしてその熱は、スラム崩壊の原因となった魔王軍へも向けられました。
憎い。全てが憎い。スラムを襲った魔族達も、お婆様を助けてくれなかった住人も、兵士も、国も、王も、魔王も。
憎い、憎い、憎い。憎悪は止まるところを知らず、しかし皮肉にも、その憎悪が力となって私を生かしたのでした。
お婆様という後ろ盾を失った私に、まともな仕事など回ってくるはずもありません。掏摸、盗み、詐欺、強盗。生きる為に何でもやりました。他人から奪い、奪われ、泥水を啜って生きる日々。それは酷く惨めなものでした。それでも、私は生に執着しました。全ては、お婆様を殺した者達へ復讐する為に。それだけが、当時の私の支えでした。




