閑話 ラグ・アジ
旧42話 改題、掲載箇所変更しました。
始めての妻は、人間だった。
当時、気の向くままに人間共の街を滅ぼし蹂躙していた我の元に、服従の証として差し出されてきたのがその女だった。さして美しくもない、気立てがいいだけが取り柄の何の変哲も無い女だった。
では何故そんな女を妻にしたのか。まあ、所謂気まぐれだ。やれ結婚しろの子供を作れの孫を抱かせろのと小うるさい親族に対する当て付けの意味もあったかもしれない。
ともあれ、我は人間の女と結婚した。
「あまり、人間を憎まないで下さいね」
事あるごとに、妻はそう口にしていた。
しかし、それは無理な相談というものだ。懲りもせずめげもせず我が領土に攻め入っては虐殺と略奪の限りを尽くす人間共を、何故憎まずにいられよう。被害を受けているのは、殺されているのは、我が同胞だというのに。
尤も、そう口にするだけでなんの力も無い妻には、我の行動を止めようもなかったのだが。我も我で、そんな妻の言葉など戯言以上の意味を見いだせずに無視を続けていた。
「時に魔王様。そろそろお名前をお聞かせ願えないでしょうか?」
ある日、妻は唐突に切り出した。
「何故だ? 我は魔王。それ以外の呼び名など不要」
事実、我が魔王となってからは、母でさえ我の事を魔王と呼んだ。それでなんら問題無かったし、なんの疑問も抱かなかった。
「されど私は、あなたの妻なのです。妻が夫の名を呼びたいと願うのはおかしな事でしょうか?」
変わった女だ、と言うのが率直な感想だった。妻といっても名目だけだし、そもそもが生け贄として差し出された身だろうに。
「……ラグ・アジだ」
それでも名を教えたのは、興味を引かれたからか。我を前にした人間の女は、ひたすら泣き叫び許しを請うだけだった。故に、正面から我に向き合い名を問うたこの女に、好奇心を刺激されたのだろう。
「では、ラグ様、とお呼びしても?」
「好きにするがいい」
「はい」
嬉しそうに答える妻に、何故そのような顔をするのかと疑問を覚えたものだった。
ただ、久方ぶりに呼ばれた自分の名に、えも言われぬものを感じた。
人間との争いは変わらず続いていた。殺せども殺せども、奴らは羽虫のように湧いてでた。魔族領という名の光に群がる奴らは、幾たびとなく我が領に攻め入り、そのたびに同胞達は死んでいった。
いかに実りが少ないとはいえ、生きていくに十分以上の作物は収穫できるというのに、何故人間はそれで満足できないのか。他領にまで手を伸ばし、略奪しようとするのか。
「知ってしまったからです」
妻は言った。
「豊かな土地を。得られる実りを。豊穣という言葉の意味を」
「ならばそれを、交易で得ようとは思えないのか?」
「無論そのように主張する者達もおりました。――ですが、彼らはあまりにも少数だったのです」
「少数であることの何が問題なのだ?」
「それでは国を動かすことはできません」
「なるほど、な」
数は力、か。いかにも人間どもが言いそうなことだ。個々において脆弱な人間は、群れることでその弱点を克服した。
「ならば、力でもって多数を屈服させればよいではないか」
「人間は、ラグ様のように強くはないのですよ」
我が領土はその人間によって脅かされているのだが?
相変わらず、妻の言うことは不可解だった。
「そんなところで何をいている?」
厨に立つ妻に問いかける。
「分かりませんか? 料理をしているのです」
「そんなことは分かっている。なぜお前が料理をしているのだ。料理人がおるではないか」
「ラグ様に手料理を食べていただくためです」
「お前の作った料理を我が食することに何の意味がある」
「意味などありません。ただ、私が満足するだけです」
「食わぬ、と言ったら?」
「食べてください。妻の権利であり夫の義務です」
そういうものなのか。あるいはこれが、人間の価値観なのか。よくは分からぬが、結局料理は食わされた。
「お味はいかがですか?」
「…………」
「お味はいかがですか?」
「…………」
「ラグ様。お味はいかがですかと聞いているのです」
「……悪くはなかった」
「それはお粗末様でした」
以来妻は、時折厨に立ち、我に手料理を振る舞うようになった。
「お帰りなさいませ、ラグ様」
「うむ」
「また戦ですか?」
「そうだ」
「講和を結ぶことは、できないのですか?」
「不可能だな」
妻は寂しそうに笑う。
「そうですか。でも――あまり人間を、憎まないでくださいね」
またそれか。ならば奴らに侵略行為をやめさせろ。
「見て下さい、ラグ様。あなたの御子です」
「そうか」
「それだけですか?」
「猿のような顔だな」
「まあ。あなたの子なのですよ?」
「お前の子でもある」
「っ! ええ、ええ。その通りです」
なぜか嬉しそうに笑う妻と、腕の中の猿顔の子供との顔が対比的だった。
「父上っ! なぜ家臣の者どもは俺のことを侮るのですか!?」
「それはお前に力がないからだ」
「それは重々承知しております。ですが、理由は本当にそれだけなのですか?」
「何が言いたい?」
「俺が侮られているのは、母上が――母上が人間だからではないのですか?」
気づけば息子を殴っていた。
「そのような下らぬことを考えている暇があるのなら、精進の一つもしてみたらどうだ」
なぜこんなにも激高したのか、自分でも理由は分からなかった。
「最近お前は、料理を振る舞ってはくれぬな」
「おや、ラグ様は私の料理がお嫌いなのかと思っておりました」
「何故そのようなことを?」
「私が初めて料理を作ったとき、ラグ様は何の意味がある、と仰いました」
「言ったな」
「それに、一度もおいしいと言っていただいておりません」
「悪くはないと言ったはずだが?」
「ではもう作りません」
「なぜだ!?」
「悪くはないということは、良くもない、ということでしょう? ならばわざわざ作る必要はないではありませんか」
意地悪く笑う妻。リグを産む前後から、妻はよくこういう顔をするようになっていた。
「……訂正しよう。お前の料理はうまい。また、振る舞ってはもらえぬだろうか?」
「はい。喜んで」
時を同じくして、妻に頭が上がらなくなったような気がする。
「リグが死んだ。人間に殺された」
「……! さようで、ございますか」
「それでもお前は、人間どもを憎むなと言うのか?」
「はい。その通りです」
「なぜだ!? 裏切られ、その身を売られ、果ては息子まで殺されなぜそこまで言える。なぜそうも人間など信じられる!?」
「確かに、人間は汚い面も持ち合わせております。ですが、それはあくまで人間の一面にすぎないのです。そして、全ての人間がラグ様の仰るような者ばかりでもありません」
「…………」
これまでの人間どものやり口を考えれば、とても信じられぬ言葉だった。
「いつかきっと、ラグ様にも心許せる人間が現れることでしょう」
そう言い、いつの間にか年老いていた妻は寂しそうに笑った。
「ラグ様、まだ人間が憎いですか?」
病床につく妻は問う。
「ああ、憎いな」
同胞を殺され、息子を殺され、我もまた常に命を狙われている。憎くないはずがない。そう、憎いはずだ。
だが何故だろう。以前と比べ、人間に対する嫌悪が薄れているように感じる。
「では、私のことも憎んでいますか?」
「……いや」
「何故ですか? 私もまた、人間なのですよ」
「そうだな。だが、お前は人間である前に我の妻だ」
妻は嬉しそうに、それでいて寂しそうに笑う。
「ええ。けれども私は、人間なのです」
「そろそろお別れのようですね」
病によりすっかりやせ細ってしまった妻は言う。
「長い間、お世話になりました」
「…………」
長い間、か。我にとってはほんのわずかとしか感じられなかった妻との時間は、彼女にとっては長い間だったらしい。
当たり前か。経緯はどうあれ、妻は生け贄だったのだから。
「……よく、尽くしてくれた」
枯れ木のようになってしまった手を握る。
「いつかきっと、ラグ様にも心許せる人間が現れることでしょう。ですから――あまり人間を、憎まないでくださいね」
最後の最後まで、妻はその主張を繰り返した。
「我はもう、とうの昔にお前に気を許している」
「ああ――それは。それはとても、嬉しいお言葉ですね」
満ち足りたような晴れやかな笑みを残し、妻は逝ってしまった。
それから幾年の時が過ぎたのだろうか。相変わらず人間どもの侵略は止む気配がなく、我は戦い続けている。
王を討ち、国を滅ぼし、勇者を退け。
その間、幾度か対話を試みたこともあった。しかし、その全ては失敗に終わった。対話まで漕ぎ着けられればまだましなほう。そもそもが話し合いの場に立とうという気配すら見られなかった。
今日もまた、我は人間の国を一つ滅ぼそうとしている。
なあ、妻よ。本当に、人間はお前の言うように信じるに値するものなのだろうか。
これほどまでに憎み合い、争い合う者同士が手を取り合うことなど出来るのだろうか。
妻が信じた人間を、我もまた信じることが出来るのだろうか。
――いや、今は考えまい。まずは同胞を守り抜くことだ。そのために我は戦っているのだから。
眼下に敵の王城が近づいてくる。
そうだ、長きにわたるこの戦に勝利し、その上で新たなる道を模索すればよいのだ。
ならばとるべき道は一つ。速やかにこの戦を終わらせる。
迫り来る王城を見据え、高らかに開戦を告げる。
「ふはははは! 人の王よ、覚悟は決まったか!!」




