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外伝-白銀の子-

 白銀の瞳に青空と雲が映り込む。腕を伸ばせばまるで届きそうな高さだったが、実際に腕を伸ばしてもその色は掴めなかった。背に生えた翼を羽ばたかせても同じことだと分かっていたミラは、瞳を閉じて腕を下ろす。

「どうした?」

 いつの間にか背後に立っていた母が声を掛けてきた。

「スリィアお母様、世界は綺麗だね」

 微笑みながら向いた白銀に、紅い瞳が映り込む。

「そうだ。私達が護る世界だ」

 母、メキアラスリィアの声は決意によって固いものだった。ミラは自身の胸に手を当てる。人間とは違う者だったが、それでも心音は確かに感じられた。

 自分の存在意義。

 母から課せられて生まれた命。

 ミラステリアにとって、この世界は護るべきものだった。

 しかしメキアラスリィアから課せられたとしても、その意志に背く気は全く起きなかった。寧ろ、世界を知れば知るほど、この世界は愛すべきものだと再確認する。愛おしいのだ。

「お母様、今日も世界を見に行っていい?」

「その目で直接見なければ、いくらでも見ていいぞ」

 メキアラは子であるミラの眼球を瞼の上から指先で撫でた。彼は微笑んで、精神だけで世界を俯瞰する。

 羊使いの杖。騎士の甲冑。貴族の装飾品。

 太陽光を浴びて育つ果実をもいだ少年は、木の根元で待つ父に向かってそれを落とした。父はそれを布で受け止め、籠に回収する。近くで機を織っていた母は微笑みながら、その光景を見つめていた。

(お父さん……)

 ミラは静かに瞳を開く。

 メキアラは眼前から消えていた。神としての役割を果たしに行ったのだろう。

 ミラはぼんやりしながら中程で折れた柱に腰掛ける。

 父の存在について考えたことはある。神から生まれ、天使である彼にとって父という存在はないも同然のものだった。人間とは子の成し方が違う。それでも、ミラには父がいるような気がするのだ。

 メキアラに一度訊いたことがある。その時の母は、微笑んだだけで何も言わなかった。

「お母様、僕の瞳と髪は、父のものですよね?」

 あの時告げられなかった言葉を音にする。

 何故、銀なのか。意味があるような気がしてしかたがない。実際、メキアラがミラの髪に触れる時、時たま誰かを見ているように感じるのだ。

 それが父ではないのか。

 白銀を瞳と髪に宿した父親。

「会ってみたい」

 精神ではなく、直接この目で。

 母はそれを許しはしないだろう。それでも音にしてしまった願望は、ミラの足を動かした。

 石壁に上り、天上から地上を覗く。その行為だけで、メキアラはきっと目を剥いて止めるであろう。

(ごめんなさい、お母様。行ってきます)

 メキアラがいないことを好機と、彼は石壁を蹴って地上へと落下していく。翼が風を切る。精神で見る世界より、実物で見る世界の方が何十倍も綺麗だった。

「僕は、この世界が見たかった」

 貴方に今、会いに行きましょう。

「イオ、お父様」




 地上は音で満たされていた。メキアラの声しか聞こえない、静寂で満たされた天界とは違う。

 うるさいとは思わなかった。寧ろ心は鼓膜を震わせる音達に感化されて楽しげに跳ねていた。

(お父様はこんな楽しい世界にいるんだ)

 人間とは異なる者だと示す翼は能力によって消した。地上の者達の目にはただの少年に見えるであろう。ミラにとっても人間に見えるのは本望であった。この地上では、父と同じ者でありたかった。

 子供達が笑い声を上げてミラの横を通過していく。

「お父様どこにいるかな……」

 早く、会いたい。

 切なる願いは能力に変わり、その気配を模索する。知らぬ父の姿、本当のところ気配さえ分からない。それでも、分かるような気もするのだ。

『イオ……』

 紫煙の雲と天を覆うほどの月。降り注ぐ月光はしかし眩しさを持たない。神聖さが際立つその中で、母であるメキアラはまさしく『神』であった。その神から零れた言の葉。遠くを見つめる彼女は、ミラに触れその彼を通して誰かを見つめているのと同じ瞳をしていた。

 物陰から見ていたミラはその言の葉を反芻する。

 胸に落ちた言の葉は、居心地がいいものだった。

(お父様に会ったら何をしよう)

 まるで本物の子供のようなことを考える。甘えたいのか、それとも役に立ちたいのか、それは分からない。でも、父と子として何かをしたい。

 空を見上げると、晴天の中で光るものがあった。星ではない、それにミラの瞳は目線を奪われる。

 見つけた。

 光に吸い込まれるような感覚。世界が白く染まり、そして、色付いた。

 先ほどまでいた街とは違う場所が眼前に広がった。こちらも人の営みが行われていたが、先ほどの街に比べれば静かな村だった。

 空は黄昏色に染まり、人々はそれぞれの住処へと帰っていく。

「シェイせんせー、さようなら」

 舌足らずな声がミラの耳に届いて、導かれるようにそちらを向いた。

「さようなら」

 男が微笑みをたたえて幼い少女に手を振っている。少女は顔いっぱいに笑顔を浮かべ、元気に手を振り返す。そして、母親に手を引かれて帰路についた。

 男の顔が自然と前を向き、そしてミラと目線が交わった。

 銀の長髪に同色の瞳。

 ミラの中で何かが繋がった。血の交わりはないが、何か深い繋がりが彼の心の中で生まれる。目の前の男も何かを悟ったかのように、少しだけ目を見開いた。

「あ、あの……」

 言いたくなる父の単語。しかしどこから切り出そうかと喉元に引っかかって上手く声が出ない。

 男は黙ってミラを見ているだけで動こうとはしない。妙な沈黙が二人を満たす中、日だけが刻々と地平線へ落ちていく。

 赤から紺へと変わり始めた頃、シェイと呼ばれた男はやっと口を開いた。声を発する直前、軽く溜め息を吐いて口角を上げたのをミラは見逃さなかった。

「もうすぐ夜が来ますから、家に帰った方がいいですよ。学童園として解放はしていますが、宿泊施設は」

「イオお父様!」

 家に、と言われた瞬間に、メキアラの紅い瞳が脳裏を駆け巡ったが、大人しく帰るわけにはいかなかった。ここで背を向けたらもう逢えないかもしれない。

 男は明らかな動揺を顔に貼り付けて目を見開いた。

「……その名前をまた聞く機会があるとは」

「イオ……お父様ですよね?」

「……お父様とは何なのですか? 私は独り身ですよ」

「メキアラ……スリィアを知っていますか?」

 声が震えている。当たり前のことだ、人間と天使と神は違う。形成の仕方も何もかも。

 拒絶されるのはミラにとって恐怖でしかなかった。血という明確な繋がりが無かろうと、目の前の男は『父親』なのだから。

 彼は軽く息を吐き出すと、ミラに背を向けた。ゆっくりとした歩行で門をくぐる。

 ミラの足は地面に貼り付けにされていた。父の背を追う勇気がない。向かない背は拒絶にしか見えない。

「……何を、しているのですか? 外に放置したままなんてメキアラ様が知ったら、私が怒られてしまいます」

 弱々しく笑う声が聞こえて。

 イオは振り返り、ミラを手招いた。




「私とメキアラ様の子供なんて……妙な話ですね」

 ミラは縮こまりながら、ちらちらと上目遣いで父の顔を覗く。彼の顔は少しばかり心情が読み取りづらいものだった。微かな笑みを浮かべたイオと目が合い、慌てて手元のマグカップに目線を落とした。

「別に怖い思いをさせる気はありませんよ」

「……うん、はい……」

 そうは言っても、気恥ずかしさや怒らせてはいけないといった感情が邪魔をして素直に甘えられない。もっと素直になりたいのに、ここまで来たのに踏み込む領域をいまだに模索していた。

 イオは紅茶を静かに傾けている。時間をくれているのだろう。

 ミラも暖かいカップを両手で包み込んだ。

 指先から温もりが染み込んでゆっくりと心を解いていく。

「……お父様って呼んでいいですか?」

 ぽつりと呟いた言葉に、微かに息を呑みこむ音が重なる。

 目線を上げるとイオの唇が動いた。

「私でよければ。父と呼ばれるにはかなり不出来な者ですが」

「僕にとってはお父様以外の何者でもありません」

 カップを掴む手に力がこもる。同じ色彩に、心の奥底で繋がる感覚、どこが父として不出来であろうか。

 自分にとって母が神であるメキアラスリィアで、父が目の前にいる男なのだ。

「僕は、お父様に会いたかった……」

 やっと逢えた。その感情が父と呼べた感動と混ざり合い涙腺を刺激する。一滴だけ落ちた涙はカップの中で弾けて波紋を広げた。

 イオはゆっくりとした動きでハンカチを取り出そうとしたが、その前にミラは自身の袖で目元を拭った。震える唇ながらその端を上げて笑みをつくる。

 つられるようにイオの顔にも笑みが広がった。

「父と呼ばれる日が来るなんて」

「お父様、やっぱり嫌?」

「嫌ならとっくの昔に断っています」

「お父様はスリィアお母様のことが好き?」

 何気なく聞いた質問に、イオは微かに肩を震わせた。俯いた顔は先ほどみた笑みよりも笑顔らしいものだった。

「ご想像にお任せしますよ。どんな言葉を言っても、あの方には怒られしまいそうですからね」

「スリィアお母様、そんなに怒りっぽいかな……」

「私と顔を合わせるときはいつも眉間に皺を寄せていましたよ。失せろとも言われましたね」

「お、お母様……」

 眉間に皺を寄せる姿は何となく想像できるが、罵声を浴びせていたなんてミラにとっては範疇外のものだった。下手に父に対する母の感情を独断と偏見で語ってしまったら、目の前の父はすこぶる怒られてしまうだろう。手も出るかもしれない……

 剣の腕も立つ彼女のことを思い出し、ミラは身震いをした。帰ったら自分が犠牲になるかもしれない可能性があるのだが、今は父の心配だけをしていた。

「もう十年以上前のことですか……時が経つのは早いですね」

 イオの目線が窓へと向かう。ミラもつられて目線を辿る。

 窓の外はもう既に日を落とし、一番星が煌めき始めていた。空に神の領域があるとは言い切れないが、多分父はそれを見ている。

「今日は泊まっていきますか?」

「えっ!? いいの!?」

「夜道に子供を送り出す訳にはいきませんから」

 イオの言っていることは半分本当で、半分隠されていた。しかしその感情が流れ込んできたミラにとってはバレバレであった。

「嬉しい……」

 父と子として、もう少しいるのも悪くはない。

「ベッドは小さいですが、貴方には丁度いいでしょう。今日はそれを使ってください。それから……」

「お父様、我が儘言っていい?」

「どうぞ」

「僕、お父様と寝たい」

 瞳を輝かせて真っ直ぐに見つめると、イオは耐えきれなくなって笑い出した。優しい笑い声が部屋に溶ける。

「私と、ですか?」

「う、うん……駄目?」

「貴方ぐらいの歳になれば、母ならともかく父と川の字になろうなんてあまり考えないものですが……たまにはいいでしょう」

 呟かれた言葉にミラは両手を挙げて喜んでいた。言われてみれば母ともそんなことは――睡眠というものを神も天使も必要がないといえばそうなのだが――したことがなかったが、少しでも離れていた間の時間を埋めるための行動が欲しかった。

 くすぐったい。でも、嬉しい。

「僕、お父様の役に立つよ」

 人間のために、ではなく、今はただ、目の前の男のために自身の存在を使いたかった。




 黄金の月が寄り添う二人に降り注ぐ。ミラは白銀の瞳をぽっかりと開けて、横で微かに寝息を立てているイオを見つめていた。

(お母様も来ればいいのに……)

 こちらは来ようと思えば来れるのだ。

 指先がシーツの上をなぞって、イオの指先に触れた。寝ていることを確認して、ミラはその手に自身の指先を重ねた。あまり体温が高そうに見えないイオだったが、その手にはちゃんと人の温もりがあった。その体温を感じながらミラは瞳を閉じる。

 瞼の裏側には父と母の姿があった。右手を父と繋げ、左手を母に繋げようと腕を伸ばす。

 しかしメキアラとは繋げられなかった。現実でも握っている手があるせいか、妄想なのに上手くできない。

(お母様……)

 目線はこちらに注がれている。紅い瞳の中にはっきりとミラが映り込んでいたが、イオの姿は見当たらない。

(お母様の求めていた人はここにいるよ……)

 気がつけば空は白んで鳥が囀りを始めていた。

「起こしてしまいましたか。まだ早いですからもう少し寝ていてください」

 ベッドにはミラ一人で思わず身体を捻ったが、イオは案外近くにいた。いつもの習慣なのか、もう既に身支度を整えて書物を読み耽っている。

「ねぇ、お父様」

「なんですか」

「僕、もう少しここに居ていい?」

 弱々しい舌足らずな声はすぐに空気に消えた。それとともにミラの瞼も下がってくる。

(僕がずっとここに居たら、お母様迎えに来るよね?)

 そうしたら家族三人で一緒に暮らせるかもしれない。母が素直にならないのなら、こちらが仕向けるしかない。

 と、自身が考えていることも分からぬまま、ミラは色を取り戻しつつある世界の中で眠りに落ちた。

 イオは本を置き立ち上がると、ミラの傍らに立ちその銀糸に指先を通した。

「メキアラ様の子なのですから、断るわけないじゃないですか」




 イオは昼間、教会で学校の先生に似たことしていた。読み書き程度の簡単なものだったが、教えを説く者がいないこの村では大変重宝された。

 生徒達に混じって、ミラも机を並べる。天井のステンドグラスよりもきらきらした瞳で父の話に耳を傾けた。

「今日は、とある勇者と女神の話をしましょうか」

『話をして欲しい? ……仕方ないな。とある青年と少女の話でもするか。あまり上手くないからな』

 父が話す声に混じって母の声が聞こえる。

 母は遠い昔の話だと言った。その物語が、勇者と女神の話として父の口から語られる。

 世界を救った青年と少女の話。

 子供達は聞き入ったり、持参したノートに書き取ったりしている。その中でミラは、父と母が共有するその人物に思いを馳せた。

 彼らは居たのだろう。そしてこの世界を救ったのだ。

 メキアラが言う、世界を護れというのは、彼らの護った世界を繋げてくれと願っているからだ。

「せんせー、勇者さんと女神様はどうなったの?」

 いつの間にか話は終わっていて、昨日手を振っていた少女が挙手をして発言する。

「どうなったのでしょうね?」

 イオは薄い笑みを浮かべて、少女の頭を撫でる。彼女はへへっと笑って、『なら自分で考えるー』とノートに続きを書き始めた。

(どこまで話をしたんだろう……)

 母の話の締めは、青年と少女は世界に溶けて旅立った、だった。

 それをどういった解釈をするか、問うてはいないだろう。きっと救ったところで話は終わりだ。勇者と女神は悪い者をやっつけて、そしてこの世界は平和になりました。終わり。とか、そんなお話。

(それでも……)

 その物語を通じて、彼らもまた、何かがあったのだろう。

「それでは、次は算術ですね」

 物語は終わりとばかりに、イオは置いてあった紙の束を持つ。その瞬間に、数名の口から悲鳴に似た声が上がった。

「商人だけでいいだろう」

 大柄な少年がそう批難じみた言葉をぶつけたが、イオはお構いなしにその少年の前に用紙を置いた。

「商人はこれよりも何倍も難しい計算式を扱っています。あなた方はこれからがあります。だから商人にも百姓にもなれる。自分の可能性を広げるために基礎をしっかりとしましょう」

「俺は騎士になりたいから、剣術の勉強だけでいい」

「なるほど……でも、騎士というものは博識である方が上官に気に入られますよ。学がなく、暴れん坊な人の相手なんて……失礼。とにかくこれは初歩的なものです。あなた方はとりあえず、これが答えられれば父や母に褒められると思ってやってください」

 親に褒められる。

 その言葉にミラの頬は昂揚した。目の前の父に褒められるなんてどれほど幸せなことだろう。

 親に褒められてもな……と零している者をよそに、ミラは羽ペンを滑らせる。メキアラによって既に入れられている知識を引きずり出して解答を導き出す。簡単な数式は、ミラにとって苦ではなかった。

 残り数問を残したところで顔を上げる。銀の瞳と目線が合った。慌てて目線を用紙に落とす。

(お父様……ずっと僕のことを見てた?)

 顔は下げたまま、そっと瞳だけをイオの方へ向ける。彼は椅子に深く腰掛けて、じっとミラを見つめていた。

(お父様、僕は商人にも百姓にも騎士にもならないよ。だって天使だから。世界を救うのを課せられているから)

 最後の問いの解答を書き記す。

(でもね、もしも何かになりたいのかって訊かれたら、僕はお父様とお母様の元で暮らすただの人になりたい)

 教会の鐘が鳴り響き、少年達は解放されたと息を吐き出し、一人また一人と出口へと向かった。

 父と子だけが残される。

 ステンドグラスから零れた光がイオを照らし、色彩鮮やかに輝かせる。このまま天界に連れて行けそうな雰囲気だったが、そんなことは出来ないとミラは瞳を閉じた。

 イオが足音を響かせながら近づいてくる。

「メキアラ様や私とは似ていませんね」

 用紙を取る音が聞こえ、そして頭に手が置かれた。軽くひと撫でされ、イオはミラから離れる。

「……僕は、お父様に似てると思ってるよ」

 瞳を開けて、再び彩色の中に戻っていった父の背に声を掛ける。

「私とは似てはいけないのですよ」

 くすりと笑い振り返る父の顔は、長髪に隠れて見えない。

「外見やもしかしたら知識も似ているかもしれませんが、懸命になることも、心躍らせることも私は出来ないのですよ」

「僕が来て、お父様は喜んでいました。僕はそう感じます。願望かもしれないけど! それでも、心躍らせたことに違いは……踊らせたじゃない、心揺り動かされたんじゃないですか」

 最後の問いは儚く光の中に飛散した。

「分かっている問いを」

 イオは羽ペンを持つと、その用紙に何かを書き記した。紙を引っ掻く音だけが、ミラの耳に余韻として残る。なんとも言えない気持ちのまま、父の顔を見つめていると彼は用紙を胸に抱きかかえて戻ってきた。

「それでは、帰りましょうか」

 差し出された答案には。

「お花……だ」

 大きく花丸が描かれていた。

「聞こえませんでしたか。帰りましょう。私達の家に、といっても隣なんですがね」

「うん、お父様」

 甘えを隠さず、ミラはイオの手をとった。自ら先導するように、先を歩いて行く。温もりが指先を伝わって、足下は輝いて、ミラは夢を見ている錯覚に陥った。これは幸せすぎる夢。

(お母様、早く来て)

 最後のピースは彼女に他ならない。

 と、夢に浸り始めたミラだったが……重い咳払いに現実に引き戻された。夢は終わりだと言っているようなその咳は、しかしミラが振り返った時にはやんでいた。それでも心音は落ち着かない。

「お父様……」

「何でもありませんよ」

「何でもって……」

「大丈夫ですから。貴方がそんな顔をする方が心配になります」

 指先が冷たくなった気がする。

 ミラはイオの背後を見て、目を見開いた。

 覆い被さる靄を振り払うかのように、イオの手を強く握り、彼らの住居へと歩を進めた。




 何を間違えてしまったのだろう。誰が妨害しているのだろう。

 ただ自分は楽しい時間を永遠に過ごしていたかった。

 それが間違いだというのだろうか。

 父である彼の背中は元から質量を感じるものではなかったが、あまりにも小さくなってしまった気がする。自分が来る前からそうだったのか? と問いたかったが、口に出す勇気はなかった。

 日に日に背負った影が大きくなっていく。

(お母様……)

 どうしてお父様がこうなってまで来てくれないの?

「今日は代わりにご飯を作ってはくれませんか? 天使が飲食を必要としないのであればいいのですが……」

 ベッドに座ったままのイオは、心配そうに見上げる子をあやすように撫でた。何回と撫でられたその手は、これからのことを告げているかのように力なきものだった。

 もうこのまま天界に連れて行けるのなら連れて行きたい。でもそこは天国ではない。人間の逝く先はそこではないのだ。

「お父様」

 膝に置かれたイオの手を握る。

「少し、待ってて」

 まだ、逝かないで。

 願いを叶えないと。

「待ちますよ。だって貴方は私の子供なんですから」

 抱きしめる動作さえ苦痛かもしれないのに、イオはミラの頭を抱えた。

「行ってきます。待っていなかったら、お母様のように怒りますからね」




 飛び出したあの日から天界は変わっていなかった。空には薄紫の靄が掛かり、切れ間から膨大な月の断片が覗く。時が止まっているという事実に初めて気がついた。それでも母が父の時の変化に気がついていないとは思えない。

 神は在るだけ。その理は知っている。人に永遠を与えることも禁忌とされている。

 それでも会うことは、禁じられてはいない。

 メキアラスリィアという神は、領域を犯しそうなほどのことをした。それは人を愛していたからだ。

 だから今、この世界はある。

 人に手を差し伸べたのだから……

「お母様!」

 愛する人にもう一度逢うことも許されなければいけないのだ。

「騒がしいぞ。ミラステリア」

 眉間に皺を寄せたメキアラのその態度に、ミラの中でもやもやとした何かが渦巻いた。貴女は分かっているくせに、動かないと云うのか。

 いつもであればミラと呼ぶ母が真名で呼ぶなど、違和感でしかない。

 それほどまでに何故、父の元に行かないのか。

「母上! 貴女が神であるのなら慈悲を下さりませんか!」

「あの男には必要ないだろう」

「メキアラお母様!」

 初めてメキアラと呼んだ。その事実にメキアラは目を剥いてミラを見つめる。

「僕は、子供として我が儘が言いたい。お父様とお母様が一緒にいるところを見たい。お母様、お願いだから一緒に来て」

 熱望は雫となって、ミラの双眸からはらはらと落ちていく。

 永遠に近い時を生きる神と天使であっても、三人が逢えるというのは今しかない。この時を逃したら、もう二度とないのだ。

 ミラは涙を零しながらも、それでも真っ直ぐな瞳でメキアラを見据えた。

 そして、その手を取った。

 母の心が揺れていることは、繋がった指先から逆流してくる。それは懺悔であり、後悔であり、羨望でもあった。ない交ぜになった感情は、最早流れることを止められない。

「ミラ!」

 メキアラの鋭い声がミラを制したが、彼は母の手を引いて駆け出した。幾つもの光が周囲で飛び散って、天界と地上を繋げる一つの線になる。

 神の力を持ってすれば、メキアラは抗えた。しかし彼女はそれをしなかった。

 子に手を引かれて、光の道を駆けていく。

「お母様、覚えてる?」

 ミラは足を止めないまま、そう母に言葉を掛ける。

「僕が物語をねだったこと」

「そんなこともあったような……」

「青年と少女が世界を救った話。お父様をしていたよ」

 メキアラの息を吸う音がミラにまで伝わる。

「僕がね、その青年だったら『いいんだよ。僕は僕、メキアラさんはメキアラさんでいいんだよ』って言うと思う」

 嗚呼、これは信託。天使が神に助言をする信託だ。

 でも、それ以上に。

 メキアラの目には、とある青年の姿が映った。彼がミラの身体を使ってメキアラに語りかける。そう考えないとおかしい。

 子はメキアラのことをメキアラさん、なんて呼ばない。

 最初から罪悪感なんてなくていいのだ、と言われた。自分達で選んだ道なのだから、貴女が背負うことはないのだ。

 幸せになっていいのだ。

 光が立ち上っていく。それは天上を覆う星々となり、地に降り立った神と天使に降り注ぐ。そして、それを見つめていた男は目線を二人に向けた。

「予感がして出てくれば、やはり、ですか」

「お父様!」

「何をしているんだお前は!」

 歓喜の声は怒声にかき消された。駆け寄ろうとしたミラは思わず振り返る。

 明らかに怒りの形相のメキアラは、足音を響かせるかのようにイオへと近づくと……その瞳から一筋の光を零した。

「怒るのか泣くのか、どちらかにしてください。お子さんが混乱してしまいますよ」

「五月蝿い」

「涙を拭ったら怒りますか?」

「お前は子供の前で、そんな恥ずかしいことをしてもいいと思っているのか?」

「恥ずかしいことだと思ってるのですか?」

 身体は病に侵されているはずだが、イオの煽りは楽しそうに弾んでいた。メキアラの頭の影から顔を出して、ミラを手招く。

 素直に近づけば、瞳を潤ませたメキアラを下から見上げることとなった。慌ててメキアラはミラから顔を背けて、自身の指先で涙を拭う。

「拭ってしまいましたか、残念です」

「だから泣いていないと……!」

「お母様」

 イオに対して暴力を振る勢いのメキアラだったが、子の優しい声に思わずミラに目線を落とした。

(やっと、揃った)

「お母様、嬉しそうでよかった」

「…………」

「素直に嬉しいと言ったらどうですか?」

「……お前には言いたくない」

 またそっぽを向きそうになる母へ、ミラは抱きついた。そして片手を伸ばして父の服を掴む。

「甘えん坊さんなんですね」

 くすりと笑ってイオはミラの頭を撫でる。そして彼にだけ聞こえる声で言った。

「本当に連れてきてくれてありがとうございます」




 夜は冷えて、病の身体では辛いだろうが、彼は静かに満天の星空を見上げていた。その膝にはミラが寝息を立てて横になっている。

 その自身と同じ銀糸に指を絡ませながら、イオはぽつりと呟いた。

「やっと約束、果たしましたね」

 いつの間にか消えていた彼女は、なんのことだ? と眉間に皺を寄せてイオを見つめる。

『……生きてさえいればな』

 いつかの言葉をイオは反芻する。

「まだ生きていますよ。愛を、教えてくれるのではないのですか?」

「こいつで教えただろう」

 ミラの頬をメキアラは指先で撫でる。

 天使を作り上げた神は一人の男を想っていた。それは天使の姿見に反映されている。

 後悔と懺悔と強い意志の元に創りあげたはずだったが、邪な感情が明らかに紛れ込んでいることに対して、メキアラはミラが出来上がった瞬間、苦笑を浮かべたものだ。

 しかし心の底から沸き上がった慈しみがあったのも事実だ。

 露骨に愛を教えろと父である彼は言わないであろうとメキアラは思っていた。その考えどおりに彼はミラの頭を撫で、そして星々の輝きを目に焼き付けている。

「イオ……いや、シェイと呼んだ方がいいか?」

 久方ぶりに音にした名に懐かしさが込み上げてくる。しかし『感情』を知った彼には似合わない名に思わず訂正する。

「お好きな方でいいですよ。メキアラ様にとってイオは=シェイでしょうから」

「そうか……ならそうするか」

 メキアラにとって、イオは、『イオ』だ。

 そこに付加された意味は最早意味を成さない。

 彼は愛も哀も思い出した。隣に座る神が思い出させた。

「お前は随分変わったな」

「当たり前でしょう。十年以上経てば、人はいやでも老けます」

「そういう意味ではないが……いや、何でもない」

「中身はあまり変わりませんよ。貴女が残していったもの以外は」

 イオは口を真一文字に結び、天上から目線をメキアラへと移す。

 その瞳が星の輝きのようだとメキアラはぼんやりと思っていた。

「本当に、もう二度と逢えないかと思いました」

 淡々と。生まれた感情が言の葉になる。

「もう、責任を取れとも言いません。ただ一言言わせてください」

 時が止まる。風は止み、夜息づく動物は去り、子もその時は静かにしていた。ただ星々だけが煌々と二人を照らしている。

「少しだけ、ほんの少しだけでいいのです。私にだけ時間をください」

 永久に生きるほんの一握りの時間だけが欲しい。

「メキアラ」

 敬称の消えたその言葉にメキアラは目を見開く。

 誰でもいいわけがない。神である彼女が必要ではない。

 イオがシェイとか、そんなことも関係がない。

 今、ここに隣り合う彼女を彼は欲した。

 メキアラがイオだとしてもシェイだとしても関係がないように、最早、彼にとってメキアラはメキアラであった。

(私も、とっくの昔に知っていたのだな)

 博愛ではない、愛を。

「仕方ないな」

 その言葉はいつもどおりのものであったが。

 メキアラはイオの肩に自身の頭を預けた。空いた手で彼はメキアラの頭を抱きしめる。

 永遠と続かないその時間を、メキアラは永遠に続けばいいと、神ではない、ただ一人の人として、彼女は思っていた。




 星と自分達は似ている。

 ミラが目を開けた時、空は明るんでいた。いつの間にか寝ていたらしい。

 部屋にいるのは、イオただ一人だった。母となる彼女はいない。

「お寝坊さんですね」

 コーヒーを啜りながら、イオは眼を擦る我が子に微笑む。

「メキアラお母様は……?」

 母の名に父である彼は苦笑を漏らす。その表情にミラの中に不穏な風が吹いた。メキアラはもういなくならないと思ったのに。

「メキアラ様は……」

 蝶番が軋む。

 イオはそちらを向き、ミラもその目線の先を追って見る。

「起きていたのか」

「お母様!」

 嫌な気配は杞憂だった。メキアラはその肩に小動物を背負って玄関先に立っていた。

「本当に狩ってきたのですね」

「せめて精の付くものでもと……」

 メキアラが目線を床に落とす。その頬が乙女のように仄かに紅くなっていることにイオよりもミラが驚いた。

 母がこんな表情をするのだろうか。それともこれも夢だろうか。

(どっちでもいいか)

 ミラが望んだことは家族三人が共に居ることだ。

 イオは確かに病を患っているが、朗らかに微笑んでいる。

 メキアラも不器用ながらに何かを残そうとしている。

(お母様のやっていることはどっちかと言えば、お父様がやるようなことだけど)

 この家族だからこれでいいのかもしれない。

 イオと目線が合い、互いに微笑み合う。

 天使である故に見えてしまうその天命の刻。それは胸にしまっておく。

 目の前に立っている神であればどうにか出来る。しかしそれは禁忌である。

 メキアラであれば、それが禁忌であれ、可能なことであれ、やらない選択肢をとるのだろう。

(だから僕が選び取る選択肢は……)

 誰かが云う。全ての終わりを。




 その日は覆ることなくやってきた。母は泣かず、淡々といつもどおりの日々を過ごそうとしている。そんなことは起きることはない。

 イオは黙って寝台に寝ている。

 平穏は、終わる。

 穏やかな光の中で、少しずつイオの魂は天へと溶けている。まるでその身が砂時計になったかのように、光の粒子となり上っていくのをミラはぼんやりと見つめていた。

 もう瞳を開く気力は残されてはいない。

(よかった……穏やかな顔してる)

 母を連れてこなければ、この日は誰もが後悔する日になっていただろう。それでもここにはメキアラがいて、ミラもいる。

 彼女は過ごしていた日々の営みを止めて、ミラの頭を抱いた。しかしミラはその腕からすり抜けた。

 天へと旅立とうとする彼と同じ白銀で、ミラは母を見上げる。

「僕じゃなくて、お父様にして」

「それは似合わない」

「じゃあ僕も似合わないこと言うね。もう、一人で大丈夫だよ」

 あれほど共に居ることを願った子は、そう言ってメキアラの背を押した。

 振り返ったメキアラの目に、人ではないことの証明である翼を広げたミラステリアが映り込む。まるで父の命の粒子を纏ったかのようなミラは輝きに満ちあふれていた。

「お母様が護りたい世界は、僕がずっと護っていくから。お母様は好きな道を選んで」

 選択を与えたかのような言葉は、しかしひとつの道しか示しはいなかった。

「ミラ……」

 メキアラは指を絡めて、祈りの形をとる。子の形をした白銀の月は、願いを聞き遂げてくれるであろう。

 愛したこの世界は末永く続いていく。

 自分が喪われようと。

 一人の少女は神として生涯を終えた。

 そして今、神が一人の者として終わる。

「頼んだぞ」

 背を向けるメキアラの瞳から白銀が一筋落ちていく。

 そして彼女は消えゆく男の頭を抱いた。

 共に連れて行ってくれ。

 神の力がこの地に流れ出る。それと引き替えに、メキアラの身体はイオの魂と共に天に導かれていく。

「お母様、お父様、お休みなさい」

 誰も居なくなったベッドにミラは指先を滑らせる。そして、一枚の羽を残して、天使も空へ消えた。

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