第40話 ふたりの出会いから婚約まで
ヴェネアーノの春は、海からはじまる。
海からの風に冷たさがなくなれば、それがヴェネアーノの春のはじまりだ。
それがアデリーヌ・フォンテーヌが留学先の学舎で最初に覚えたことだった。
留学という言葉も、本当のところは口実だった。
彼女を妻にと申し込んできた男が、テウトリヒ帝国の皇弟、ジークムントだったからだ。
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二人が出会ったのは、ジークムントが外遊という名の放蕩な旅を続けていた時だった。
数名の供と回るその旅は、冒険者のように振る舞ってみたり、市井の者と交わってみたりと、皇弟の身では決して許されないことばかりを選んで歩く旅だった。
そんな旅の途中で、メロヴィア王国の王都に入った。
はじめての王国の歓楽街にはめを外し、その夜はジークムントの酒を誰も止めなかった。
その結果、翌朝、目が覚めたのは公園の芝の上だった。
額の冷たさに目を開けると、見たことのない娘が顔を覗き込んでいた。
「お水です。飲めますか」
娘は侍女に水差しを持たせ、自分は膝をついていた。
ジークムントにとって、それは最悪の出会いだった。
異国の王都で、芝の上。
酒の匂いをさせて、見ず知らずの令嬢に介抱されている。
どう名乗ったところで、このダメ人間にしか見えない。
だから彼は名乗らなかった。
「……面目ない」
「お顔の色が戻るまでは、そこにいらしてください」
娘は説教をしなかった。
笑いもしなかった。
額には彼女が冷やしたハンカチが載ったままだった。
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三日後、ハンカチを洗い、身なりを整え、彼はフォンテーヌ子爵家を訪ねた。
礼を述べに来たと告げた。
名は、帝国から来た商いの者と名乗った。
応接に通されると、娘は彼をすぐに思い出した顔をした。
「お加減はいかがですか」
「おかげさまで。ですが、できればあの朝のことは忘れていただきたい」
「わたしは忘れます。ですが、あの公園の鳩は覚えているかもしれません」
娘が笑った。
彼の言葉に合わせた笑いではない。
自分の言ったことが可笑しくて、自分で笑っていた。
彼が育った場所には、前者しかなかった。
その笑顔で、ジークムントは陥落した。
それからひと月、彼は理由をつくってはアデリーヌを訪ねた。
本、地図、大したものではない菓子。
子爵は詮索しないという形で、それを見ていた。
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帰国せよという報せが届いたのは、アデリーヌがジークムントの愛情に気がついた頃だった。
祖母が危篤だという。
前の皇帝の母で、この放蕩な孫を最後まで庇ってくれた人だった。
心が揺れた。
しかし、今の自分があるのは、あの祖母のおかげ。
ジークムントは帰国することを決めた。
しかし、帰国する前に、本当の自分をアデリーヌに明かした。
「私は、テウトリヒ帝国の皇弟ジークムントという」
アデリーヌは驚きも戸惑いもせず、その言葉を受け止めた。
「……やはり、商いの方ではございませんでしたのね」
「すまない。名乗れば、君が離れていくと思ってしまった」
その瞬間、アデリーヌはいつもの優しい雰囲気を消した。
「みくびらないでください。あなたがどのような身分であろうとも、一度、心に決めた方を、裏切ることはいたしません」
「そうだな。君はそういう人だ」
それから彼は、自分の立場を説明した。
「私の兄が誰と結ばれるか、まだ決まっていない。決まるまで、私は誰とも結ばれたことにできない」
「では、決まるまでお待ちいたします」
アデリーヌはそう言い切った。
その言葉に背中を押され、ジークムントは帝国へと帰国していった。
以来、二人は手紙を書いた。
書かれるのは、天気の話ばかりだった。
政治のことは、どちらも一度も書かなかった。
そうして、静かに愛を育てていった。
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ルイ・カロンがアリシア・フォンテーヌを知ったのは、アデリーヌの婚約の内々定の席でだった。
メロヴィア王国の代表として、ルイが出ていた。
帝国側は皇帝の名代と、皇弟の名代の二人。
こちらはフォンテーヌ子爵と夫人、その長女のアデリーヌ。
そして、末席に次女のアリシアが座っていた。
その席は順調に進んだ。
しかし、婚約の公表の時期で話が止まった。
そのとき、末席のアリシアが口を開いた。
「恐れながら、申し上げます」
その発言を止める間はなかった。
「時期を決められないのであれば、決めなくてもよろしいのでは? 手続きや事実のみを先に積み上げ、公表できる時期まで隠しておくのです」
部屋が静かになった。
「たとえば、王国、帝国のどちらでもない第三国などを使うのはどうでしょうか? そちらまでは目が届かないものが多いですから」
帝国側の名代が、笑いをこらえる顔をした。
子爵は頭を抱えるように、深く頭を下げた。
そして、ルイは、そのアリシアの顔を見ていた。
可憐という仮面を被っていると感じた。
あの発言は、腹に黒いものを抱えていないと出てくるものではない。
しかし、それが仮面に隠しきれていない。
面白い、と思った。
そのときは、その一語しか思わなかった。
席が終わると、ルイはアリシアに声をかけた。
「姉君のことは、どこまで知っている」
「全部でございます。父はわたしには話しません。ですから、自分で姉に探りを入れ続けました」
やはり隠しきれていない。
仮面の下の顔が、ちらちらと見え隠れしている。
「姉のために、わたしの婚約の話が何一つ進んでいないことも分かっております」
「分かっていて、腹は立たないのか」
「立ちますわ。ですが、腹を立てても、何かが解決することでもありませんもの」
この娘は、自分と同じだ、とルイは思った。
二人が婚約したのは、それからしばらくしてのことだ。
あの席でアリシアが言ったとおり、公表できる時期まで隠す婚約。
しかし、公表できないとしても、アリシアを守る必要がある。
王家は表立ってアリシアを守れない。
だから彼は、アリシアをエレオノール・ヴァルモンに預けた。
「彼女なら大丈夫だ」
そう言って、任せきった。
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そして、アデリーヌはヴェネアーノへと留学した。
いや、ジークムントとの日々を送るために、留学という隠れ蓑を使った。
帝国に入れば、ジークムントとの仲が表になってしまう。
だから正式に婚約が発表できるようになるまでは、ふたりが日々を共に過ごすには、中立の第三国を使うしかなかった。
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皇帝の正妃が決まる。
その情報を手に入れた反皇帝派は焦った。
何か交渉の材料になるものはないか?
その時、一通の報告が届いた。
ヴェネアーノにいる皇弟に仲の良い令嬢がいる。
その令嬢はメロヴィア王国の令嬢だ。
それからの彼らの動きは早かった。
その令嬢の出自を調べ、メロヴィア王国内の協力者に連絡をとった。
そして、令嬢の妹を見つけた。
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アリシアが誘拐された夜、王家の影は現場にいた。
影は襲撃者に応戦していた。
しかし、人数が足りなかった。
影は隙をつかれ、侍女は怪我を負い、そして、アリシアは連れ去られてしまった。
影はすぐさま王城へと報告を上げた。
誰が攫ったか……その襲撃者の訛りから、帝国の手のものと思われる。
どこへ向かったか……東へ。
なぜ攫ったか……不明。
しかし、ルイはその情報を外に伝えることができなかった。
伝えれば王家が子爵令嬢に強い関心を示していることになる。
そうすれば、なぜと問われる。
問われれば婚約の秘密が見え隠れしてしまう。
そして、攫われたという事実そのものが、その婚約を壊す。
守っている相手を守るためにルイは動くことができなかった。
動かせるのは影と、違和感のない程度の命令だけだった。
エレオノールからも知らせが来た。
だが、動いていることを彼女に伝える筋がない。
伝えられないことを、エレオノールは王家が動かないと受け取った。
その誤解を解く方法も、また無かった。
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審問の日、ルイは王家の席に座っていた。
懐には切れば逆転できる札があった。
影とあのエレオノールの執事が集めた情報。
開廷から閉廷までのあいだ、その札は一度も懐から出なかった。
出そうとした瞬間はあった。
しかし、彼は最後まで切らなかった。
切らずに済んだのは、彼が我慢強かったからではない。
エレオノールが、そして、彼女の執事が、自らの力で告発を退けたからだ。
そして彼女の執事は、ルイに新たな物語を与えた。
ルイとアリシアが助かる物語を。
ルイが承認したのは、その物語だけだった。
「敵を騙すにはまず味方から、というからな」
声には出さなかった。
口の形だけが動いた。
しかし、ルイにも気がついていないことがあった。
人の心である。
影も人の心までは覗けない。
ルイは、何が起きたかを知っている。
誰が誰を守っていたかも知っている。
しかし、その誰かの心がどう傷ついたのか、それをルイは知ることはなかった。
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そして、皇帝の正妃が正式に発表された。
それからの動きは早かった。
皇弟ジークムントとアデリーヌ・フォンテーヌの婚約が、両国で同時に発表された。
フォンテーヌ家は伯爵に陞爵となっていた。
王子ルイと、フォンテーヌ伯爵家令嬢アリシアの婚約が公にされたのは、その次の季節だった。
これにて本作は本当に終了となります。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
投稿8作目で、心理型の構造ミステーに挑戦してみましたが、いかがでしたでしょうか?
普通の悪役令嬢ものとは違ったテイストをお届けできたと思っております。
今作が、少しでも面白い・気になったと思ってもらえる作品となっていれば嬉しい限りです。
今後の参考になりますので、評価・ブックマークで応援いただけると嬉しいです。
そして、「冒険者はあきらめない」シリーズですが、少しだけおやすみを頂こうと思っております。
この8ヶ月、8作品、各10万文字以上という連載を続けてきましたが、1〜2ヶ月ほどおやすみを頂き、第9作目、第10作目の執筆の準備をしていきたいと思っております。
ここまで「冒険者はあきらめない」シリーズを読んでいただき、誠にありがとうございました。
そして、これからも「冒険者はあきらめない」シリーズを、どうぞよろしくお願いいたします。




