第五話 救われたものは戻れない
鴉梁たちの気配が消えて、間もなくだった。
集落の端から、香の匂いが流れてきた。
白く、静かな匂い。
血の匂いを、ゆっくりと覆う。
「……来てるな」
燕秋が言った。
白黎は、匂いの先を見る。
庵。
崩れかけだが、戸はきちんと閉まっている。
中から、声が聞こえた。
痛みを抑える呼吸。
脈を整える手つき。
白黎は、戸口で声をかける。
「治療か」
中の動きが止まる。
しばらくして、男が姿を見せた。
淡い色の衣。
三十代半ば。
穏やかな顔だが、視線は鋭い。
燕秋が先に問う。
「どこの門派だ」
男は、二人を一度見てから答えた。
「清談派」
「月衡と申します」
名乗りは簡素だった。
白黎は、庵の中を見る。
包帯。
止血。
内功で整えられた脈。
「……追いついていないな」
月衡は、視線を伏せた。
「ええ」
「私一人では、限界があります」
燕秋が、間を詰める。
「俺たちに、手伝えと言うか」
月衡は、即答しなかった。
香を焚き直す。
その間に、白黎の動きを見る。
「……力は、足りているようですね」
慎重な言い方だった。
「報酬は、村の銅銭になります」
「それでも、構いませんか」
白黎は、村人を見る。
痛みに耐え、眠っている。
「やる」
短い返答だった。
治療が続く。
香が広がり、呼吸が整う。
命は、救われる。
だが――
奪われたものは、戻らない。
燕秋が、月衡に問う。
「玄影は、追わないのか」
月衡は、手を止めずに答えた。
「追いません」
「救える命を、優先します」
白黎は、その言葉を胸に留めた。
正しさは、確かにある。
だが、そこには――
踏み越えない線がある。
香が揺れ、夜風が入る。
白黎は、何も言わずに手を動かし続けた。
奪う者。
救う者。
その間で、均衡はまだ――
揺れている。




