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六影相剋――目覚めたら荒野だった記憶喪失の剣士は、六大勢力の争いの中で世界の歪みと向き合う  作者: いぬぬっこ
第一章 影走

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第三話 街道の影は笑わない

街道は、昼を過ぎると一気に騒がしくなった。


荷車が列を作り、驢馬の蹄が乾いた土を叩く。

干し肉を炙る脂の匂い、薬草を煎じる渋い湯気、湯を沸かす煙——人の暮らしが作る熱が、鼻の奥へ入り込んでくる。


赤霄原(せきしょうげん)の冷えは、もう背後だ。

それでも白黎(はくれい)の胸は緩まなかった。

温かい匂いを吸っても、体の内側へ届く前に、どこかで止まる。


その代わり、目だけが働く。

誰が急ぎ、誰が鈍く、誰が「人の背を借りて」動いているか。

見えるものが増えるほど、世界は薄くなる。


白黎と燕秋(えんしゅう)は、人の流れに逆らわず歩いていた。

道幅は広い。露店が並び、護符と安い刃物が同じ棚に転がっている。


ここは端だ。強者が誇る場所ではない。

歯を噛みしめてでも歩く者が、歩くためにある道だ。


燕秋が周囲をひと撫でして、ぽつりと言う。


「ここは派手な腕は立たない。立っても、長居しない」


白黎は返さず、人の目だけを追った。

視線が合うたび、相手がほんの少しだけ逸らす。避けているのではない。値踏みだ。


——どれほど強い。どれほど鈍い。どれほど銭を持つ。

——連れはいるか。揉めたら誰が出てくる。


白黎は無意識に腰の符袋へ触れた。

触れると、胸の奥が一瞬だけ落ち着く。

その落ち着きが、逆に怖い。


橋が見えた。宿場の真ん中をまたぐ石橋。

欄干は丸く、角がない。人に撫でられて丸くなったのではない。削られて丸くなった石だ。


橋のたもとに小屋があり、棒を持った男が二人、流れを眺めている。

止めもしない、通しもしない。顔を覚えるための目だけがある。


そして、その小屋の陰——

人の流れから半歩だけ外れた場所に、もう一つ、薄い視線があった。


燕秋も気づいたらしい。歩幅が、ごく僅かに変わる。

前へ出るのではない。白黎と並び、押されない場所へ体を移すだけ。


その瞬間だった。


肩に、軽い衝撃。指先が触れた程度。

だが胸の底が、冷たく鳴った。


白黎の手が腰へ走る。


——ない。


符袋が消えていた。


追える。

追いつける。

足が先に言う。


白黎が踏み出すより早く、燕秋の掌が白黎の上腕に触れた。

強く掴まない。止めるのでもない。

ただ、そこに手があるだけで、白黎の足が一拍遅れる。


「走らないで」


「盗られた」


「分かってる。だから、走らない」


燕秋の声は小さい。だが曲がらない。

叱っているのではない。橋の上で騒げば、符袋より先に別のものを失う、と言っている。


人混みを縫って、子どもが逃げていく。小柄で、汚れた衣。振り返らない背中。

白黎の視線が追う。

追いながら、周りも拾っている。


露店の陰。橋柱の向こう。小屋の脇。

距離を取る男が一人。目が合う前に目を切る目。

「誰が追うか」ではなく、「誰が追わせるか」を見ている。


白黎が短く言う。


「……後ろ。見てるのがいる」


燕秋は口元だけで笑った。


「助かる。君の目は、余計なところに散らない」


褒めているのに、持ち上げない。

そこで燕秋は、わざと肩の力を抜いた声で、茶売りへ声を投げる。


「姉さん、湯を一碗。焼き餅も一つ」


湯気が立つ。熱が上がる。

人の目が湯気へ引かれ、流れが一瞬、緩む。


燕秋はその湯気の向こうへ、噂をひとつだけ落とした。


「赤霄原、今朝……霧が明けたって」


それだけで十分だった。


誰かが「冗談だ」と言い、誰かが笑い、笑いが喉で途切れる。

話題が広がるのではない。目が散る。

散った目は、追うべき背を見失う。


燕秋はその間に、白黎の肩を軽く押して橋の外れへ滑り込ませた。

裏道は狭く、湿った空気がこもる。声が反響し、足音が妙に大きい。


木箱の陰に、子どもが蹲っていた。

符袋を抱えるようにしている。


白黎が言う。


「……返して」


子どもは震えながら差し出した。


「……ごめん」


白黎は受け取り、腰へ戻す。

袋の口が微かに温かい。

その温度が、命綱のように感じるのが嫌だった。


燕秋は子どもの指を見る。欠けた爪。古い痣。

盗み慣れた手だが、「盗みたい手」ではない。


燕秋は油紙を折って、焼き餅を子どもの前に置いた。


「食べて」


子どもは一瞬迷い、噛みついた。熱いのにむさぼる。

喉が動いたあとで、ようやく言葉が落ちた。


「……狗皮幇(くひほう)


燕秋の目が、ほんの一瞬だけ冷えた。

白黎にも分かる。これは名前を知っている冷えだ。


「橋の下、だね」


子どもが頷く。


「倉の裏の……兄貴が……盗れって……盗れないと……」


唇を噛む。


「妹が熱で……薬が……」


白黎の胸の底で、何かが立ち上がりかけた。

怒りでも哀れみでもない。

置いていけない、という感覚だけ。


白黎は口を開きかける。


そのとき喉が詰まる。

言葉の形が、手前で崩れる。


——帰虚(ききょ)


出そうで出ない。

口に出した瞬間、何かが“そこへ戻ってしまう”気がした。


燕秋は白黎の横顔を一度だけ見る。

何も言わない。

ただ、子どもへ言う声だけを落ち着かせた。


「案内して」


子どもが怯えた目を上げる。


「……見つかったら……」


燕秋は笑わずに言った。


「見つけるのは、こっちだよ」


白黎が低く言う。


「僕も行く」


燕秋は白黎を見た。

冴えた目。冴えすぎている目。

そのまま進めば、最短の手だけを選ぶ目だ。


燕秋は短く頷いた。


「来て。……でも、先に出ないで」


「……なんで」


「出るときは、私が先に息を吐く。君はそれを聞いて」


命令でも教えでもない。

「合図を作る」だけだった。


橋の下へ回ると、腐った藁と酒と汗の匂いが濃くなる。

板で囲った狭い空間に男が三人。腕に黒布、腰に短刀。目が飢えている。


「おいおい」


一人が笑う。


「ちび、戻ってきたか。早かったじゃねえか」


子どもが一歩下がる。

燕秋が前へ出る。


「その子を使うのは、ここまで」


男たちが一瞬黙り、すぐ嗤う。


「誰だ、お前」


燕秋は答えない。

代わりに、袖から紙片を一枚つまみ出した。


橋の欄干に貼られていた護符の切れ端。

安い紙だ。だが墨の置き方が、そこだけ違う。


払いが、妙に尖っている。

止めが、少しだけ沈む。

滲ませる癖が、わざとらしくない。


——真似た者ではない。手癖のまま書いた墨だ。


燕秋が、紙片をひらりと揺らした。


「これ、誰が書いたの」


男の目が、一瞬だけ揺れた。

恐れじゃない。

「余計なものを見せられた」揺れだ。


白黎の視界が白く曇る。

墨の黒が、遠い記憶の赤に重なる。


喉の奥で、また「帰虚」が跳ねる。


出ない。

喉が拒む。


その瞬間、男の一人が短刀に手をかけた。


白黎の体が半歩だけずれる。

動いたのではない。動くべき場所に、勝手に足が置かれる。


世界が薄く静かになる。

刃の軌道が見える。踏み込みが見える。最短が見える。


——抜けば終わる。


抜こうとした、その瞬間。


燕秋が息を吐いた。


「白黎」


名を呼んだだけ。

だが、その声が、白黎の胸に熱を戻す。


白黎の指が止まる。


次の瞬間、燕秋の掌が男の手首に滑り込み、短刀の柄を“落ちる角度”だけ作った。

短刀が土に落ちる。乾いた音。

その音で、場の呼吸が変わった。


燕秋は男たちを見て言った。


「強いものを持ってるね。……君たちより強い」


何が、と言わない。

だが男たちの視線が、紙片と白黎の腰と燕秋の手へ行き来する。

言葉の意味が腹に落ちた目だ。


燕秋は紙片を畳み、懐へしまった。


「これを渡した人に、言っておいて」


男が強がって笑う。


「何をだよ」


燕秋は笑わない。


「末端を噛ませるなら、噛む場所を選べ、って」


空気が冷えた。

男たちは、言い返せない。

相手が説教をしていないと分かるからだ。これは“筋の警告”だ。


燕秋は子どもへ顎をしゃくる。


「薬、足りる?」


子どもが震えながら頷く。


燕秋は銀を一枚、子どもの掌へ置いた。

軽い音だが、場の男たちの目がそれで揺れた。


燕秋は男たちへ言う。


「この子の件は、ここで終わり。追わないで」


男の一人が唾を飲む。


「……追ったら?」


燕秋は、ただ目を向けた。

刃も言葉も出さない。

それだけで、男の口が閉じた。


倉を出ると、外の風が乾いている。

橋の上の銭の音が、遠くでまた鳴り始めた。


子どもが震える声で言う。


「……あんた、怖くないの?」


燕秋は歩きながら答えた。


「怖いよ」


一拍。


「怖いから、子どもを前に出すなって言うんだ」


それは格好ではなかった。

白黎は、その言い方で胸が少しだけ緩むのを感じた。


川向こう、古い井戸のそばの小屋。

中から弱い咳が聞こえ、子どもが駆け込む。

母親らしい女が銀を受け取り、泣くのを堪えるように口元を押さえた。


「……どうして……」


燕秋は答えない。

答えずに、踵を返した。

長居しない。見せびらかさない。

ただ、必要なところへ手を入れて、引く。


白黎はその背中を追った。


帰り道、燕秋がぽつりと言った。


「符袋を狙ったのは、あの子の思いつきじゃない」


白黎が符袋に触れる。

温かい。温かいのに、遠い。


燕秋は続ける。


「橋に貼ってあった護符の墨……手癖がある。

端の連中が書ける癖じゃない。教えられても、真似しにくい」


白黎の喉が鳴る。

また「帰虚」が出かけて、引っかかる。


燕秋はそれを見て、言葉を足さなかった。

代わりに歩調を落とす。

白黎が合わせる前に、先に。


街道は相変わらず賑わっていた。

弱い者が泣いても、笑っていても、銭は鳴る。


白黎は思う。


捕まえたわけじゃない。

だが、見捨てなかった。


宿へ向かう裏道に入ると、人の声が少し遠のいた。

昼の熱が石に残り、靴底からじわりと伝わる。


白黎は歩きながら、自分の呼吸が浅いことに気づく。

浅いままでも歩ける。

歩けてしまうのが怖い。


燕秋が、道端の屋台に目をやった。


「腹は?」


白黎は首を横に振りかけて、止めた。


「……分かりません」


燕秋はそれを咎めず、銭を置いた。


「饅頭、二つ。熱いのを」


蒸籠の蓋が開き、湯気が立つ。

甘い匂いが短く風に乗る。


燕秋は一つを白黎に渡した。


「噛んで。考えないで」


白黎は饅頭を見る。

白い。柔らかい。熱い。

言われた通り噛む。


熱が舌を刺し、甘さが遅れて広がる。

胸の奥で、何かがかすかに鳴った。


燕秋は自分の饅頭を半分に割り、残りを紙に包んで懐へしまう。


「夜中、腹は空くよ。……分かんない顔してても、空く」


そこで、燕秋はほんの少しだけ笑った。

からかう笑いじゃない。

白黎が“人のまま”でいるのを確かめるみたいな笑いだ。


白黎は歩きながら、言いかけた。

さっき倉で、喉まで来て止まった言葉。

あれを言えば、何かが動く気がした。


燕秋が、前を向いたまま言う。


「今は言わなくていい」


声は低いが、拒む音ではない。


「腹に入れたものが、落ち着いてから」


白黎はそれ以上、言えなかった。

饅頭の最後の一口を噛み、ゆっくり飲み下す。

喉を通る熱が、ようやく胸の奥へ落ちていく。


宿の灯りが見えてきた。

黄色い光が道に滲み、影を柔らかくする。


しばらく無言が続いたあと、燕秋が言った。


「さっき」


白黎の歩調に合わせるように声が落ちる。


「君、踏み出す前に一度、息を止めた」


白黎は答えない。

だが、足取りがほんの僅かに揺れる。


燕秋は続ける。


「前なら、そのまま出てた」


責める言い方ではない。

比べているだけだ。


「今日は、止まった」


一拍。


「……ちゃんと、止まった」


白黎の胸の奥が、わずかに詰まる。

詰まる感覚が、まだ残っている。


燕秋は、そこでようやく白黎を一度見る。

真っ直ぐに睨むのではない。

逃げるでもない。


「しんどい?」


白黎は、少し遅れて頷いた。

頷きが遅れる。

それだけで、自分が“普段じゃない”と分かる。


燕秋は、それ以上踏み込まない。

代わりに言った。


「今夜は湯に入って。飯も食べて。……それでいい」


命令でも慰めでもない。

「やることを一つに絞る」言い方だった。


白黎は小さく頷いた。


宿の戸が近づく。

白黎の胸の奥には、まだ赤霄原の冷えが残っている。

言えなかった言葉も、喉の奥に引っかかったままだ。


それでも。


燕秋の歩幅は、最後まで変わらない。

触れない。

だが、置いていかない。


白黎は思う。


——返事が遅れても、歩ける。

——噛める。飲み下せる。

——そして、隣にいる男は、それを急かさない。


今日は、それで十分だった。

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