第三話 街道の影は笑わない
街道は、昼を過ぎると一気に騒がしくなった。
荷車が列を作り、驢馬の蹄が乾いた土を叩く。
干し肉を炙る脂の匂い、薬草を煎じる渋い湯気、湯を沸かす煙——人の暮らしが作る熱が、鼻の奥へ入り込んでくる。
赤霄原の冷えは、もう背後だ。
それでも白黎の胸は緩まなかった。
温かい匂いを吸っても、体の内側へ届く前に、どこかで止まる。
その代わり、目だけが働く。
誰が急ぎ、誰が鈍く、誰が「人の背を借りて」動いているか。
見えるものが増えるほど、世界は薄くなる。
白黎と燕秋は、人の流れに逆らわず歩いていた。
道幅は広い。露店が並び、護符と安い刃物が同じ棚に転がっている。
ここは端だ。強者が誇る場所ではない。
歯を噛みしめてでも歩く者が、歩くためにある道だ。
燕秋が周囲をひと撫でして、ぽつりと言う。
「ここは派手な腕は立たない。立っても、長居しない」
白黎は返さず、人の目だけを追った。
視線が合うたび、相手がほんの少しだけ逸らす。避けているのではない。値踏みだ。
——どれほど強い。どれほど鈍い。どれほど銭を持つ。
——連れはいるか。揉めたら誰が出てくる。
白黎は無意識に腰の符袋へ触れた。
触れると、胸の奥が一瞬だけ落ち着く。
その落ち着きが、逆に怖い。
橋が見えた。宿場の真ん中をまたぐ石橋。
欄干は丸く、角がない。人に撫でられて丸くなったのではない。削られて丸くなった石だ。
橋のたもとに小屋があり、棒を持った男が二人、流れを眺めている。
止めもしない、通しもしない。顔を覚えるための目だけがある。
そして、その小屋の陰——
人の流れから半歩だけ外れた場所に、もう一つ、薄い視線があった。
燕秋も気づいたらしい。歩幅が、ごく僅かに変わる。
前へ出るのではない。白黎と並び、押されない場所へ体を移すだけ。
その瞬間だった。
肩に、軽い衝撃。指先が触れた程度。
だが胸の底が、冷たく鳴った。
白黎の手が腰へ走る。
——ない。
符袋が消えていた。
追える。
追いつける。
足が先に言う。
白黎が踏み出すより早く、燕秋の掌が白黎の上腕に触れた。
強く掴まない。止めるのでもない。
ただ、そこに手があるだけで、白黎の足が一拍遅れる。
「走らないで」
「盗られた」
「分かってる。だから、走らない」
燕秋の声は小さい。だが曲がらない。
叱っているのではない。橋の上で騒げば、符袋より先に別のものを失う、と言っている。
人混みを縫って、子どもが逃げていく。小柄で、汚れた衣。振り返らない背中。
白黎の視線が追う。
追いながら、周りも拾っている。
露店の陰。橋柱の向こう。小屋の脇。
距離を取る男が一人。目が合う前に目を切る目。
「誰が追うか」ではなく、「誰が追わせるか」を見ている。
白黎が短く言う。
「……後ろ。見てるのがいる」
燕秋は口元だけで笑った。
「助かる。君の目は、余計なところに散らない」
褒めているのに、持ち上げない。
そこで燕秋は、わざと肩の力を抜いた声で、茶売りへ声を投げる。
「姉さん、湯を一碗。焼き餅も一つ」
湯気が立つ。熱が上がる。
人の目が湯気へ引かれ、流れが一瞬、緩む。
燕秋はその湯気の向こうへ、噂をひとつだけ落とした。
「赤霄原、今朝……霧が明けたって」
それだけで十分だった。
誰かが「冗談だ」と言い、誰かが笑い、笑いが喉で途切れる。
話題が広がるのではない。目が散る。
散った目は、追うべき背を見失う。
燕秋はその間に、白黎の肩を軽く押して橋の外れへ滑り込ませた。
裏道は狭く、湿った空気がこもる。声が反響し、足音が妙に大きい。
木箱の陰に、子どもが蹲っていた。
符袋を抱えるようにしている。
白黎が言う。
「……返して」
子どもは震えながら差し出した。
「……ごめん」
白黎は受け取り、腰へ戻す。
袋の口が微かに温かい。
その温度が、命綱のように感じるのが嫌だった。
燕秋は子どもの指を見る。欠けた爪。古い痣。
盗み慣れた手だが、「盗みたい手」ではない。
燕秋は油紙を折って、焼き餅を子どもの前に置いた。
「食べて」
子どもは一瞬迷い、噛みついた。熱いのにむさぼる。
喉が動いたあとで、ようやく言葉が落ちた。
「……狗皮幇」
燕秋の目が、ほんの一瞬だけ冷えた。
白黎にも分かる。これは名前を知っている冷えだ。
「橋の下、だね」
子どもが頷く。
「倉の裏の……兄貴が……盗れって……盗れないと……」
唇を噛む。
「妹が熱で……薬が……」
白黎の胸の底で、何かが立ち上がりかけた。
怒りでも哀れみでもない。
置いていけない、という感覚だけ。
白黎は口を開きかける。
そのとき喉が詰まる。
言葉の形が、手前で崩れる。
——帰虚。
出そうで出ない。
口に出した瞬間、何かが“そこへ戻ってしまう”気がした。
燕秋は白黎の横顔を一度だけ見る。
何も言わない。
ただ、子どもへ言う声だけを落ち着かせた。
「案内して」
子どもが怯えた目を上げる。
「……見つかったら……」
燕秋は笑わずに言った。
「見つけるのは、こっちだよ」
白黎が低く言う。
「僕も行く」
燕秋は白黎を見た。
冴えた目。冴えすぎている目。
そのまま進めば、最短の手だけを選ぶ目だ。
燕秋は短く頷いた。
「来て。……でも、先に出ないで」
「……なんで」
「出るときは、私が先に息を吐く。君はそれを聞いて」
命令でも教えでもない。
「合図を作る」だけだった。
橋の下へ回ると、腐った藁と酒と汗の匂いが濃くなる。
板で囲った狭い空間に男が三人。腕に黒布、腰に短刀。目が飢えている。
「おいおい」
一人が笑う。
「ちび、戻ってきたか。早かったじゃねえか」
子どもが一歩下がる。
燕秋が前へ出る。
「その子を使うのは、ここまで」
男たちが一瞬黙り、すぐ嗤う。
「誰だ、お前」
燕秋は答えない。
代わりに、袖から紙片を一枚つまみ出した。
橋の欄干に貼られていた護符の切れ端。
安い紙だ。だが墨の置き方が、そこだけ違う。
払いが、妙に尖っている。
止めが、少しだけ沈む。
滲ませる癖が、わざとらしくない。
——真似た者ではない。手癖のまま書いた墨だ。
燕秋が、紙片をひらりと揺らした。
「これ、誰が書いたの」
男の目が、一瞬だけ揺れた。
恐れじゃない。
「余計なものを見せられた」揺れだ。
白黎の視界が白く曇る。
墨の黒が、遠い記憶の赤に重なる。
喉の奥で、また「帰虚」が跳ねる。
出ない。
喉が拒む。
その瞬間、男の一人が短刀に手をかけた。
白黎の体が半歩だけずれる。
動いたのではない。動くべき場所に、勝手に足が置かれる。
世界が薄く静かになる。
刃の軌道が見える。踏み込みが見える。最短が見える。
——抜けば終わる。
抜こうとした、その瞬間。
燕秋が息を吐いた。
「白黎」
名を呼んだだけ。
だが、その声が、白黎の胸に熱を戻す。
白黎の指が止まる。
次の瞬間、燕秋の掌が男の手首に滑り込み、短刀の柄を“落ちる角度”だけ作った。
短刀が土に落ちる。乾いた音。
その音で、場の呼吸が変わった。
燕秋は男たちを見て言った。
「強いものを持ってるね。……君たちより強い」
何が、と言わない。
だが男たちの視線が、紙片と白黎の腰と燕秋の手へ行き来する。
言葉の意味が腹に落ちた目だ。
燕秋は紙片を畳み、懐へしまった。
「これを渡した人に、言っておいて」
男が強がって笑う。
「何をだよ」
燕秋は笑わない。
「末端を噛ませるなら、噛む場所を選べ、って」
空気が冷えた。
男たちは、言い返せない。
相手が説教をしていないと分かるからだ。これは“筋の警告”だ。
燕秋は子どもへ顎をしゃくる。
「薬、足りる?」
子どもが震えながら頷く。
燕秋は銀を一枚、子どもの掌へ置いた。
軽い音だが、場の男たちの目がそれで揺れた。
燕秋は男たちへ言う。
「この子の件は、ここで終わり。追わないで」
男の一人が唾を飲む。
「……追ったら?」
燕秋は、ただ目を向けた。
刃も言葉も出さない。
それだけで、男の口が閉じた。
倉を出ると、外の風が乾いている。
橋の上の銭の音が、遠くでまた鳴り始めた。
子どもが震える声で言う。
「……あんた、怖くないの?」
燕秋は歩きながら答えた。
「怖いよ」
一拍。
「怖いから、子どもを前に出すなって言うんだ」
それは格好ではなかった。
白黎は、その言い方で胸が少しだけ緩むのを感じた。
川向こう、古い井戸のそばの小屋。
中から弱い咳が聞こえ、子どもが駆け込む。
母親らしい女が銀を受け取り、泣くのを堪えるように口元を押さえた。
「……どうして……」
燕秋は答えない。
答えずに、踵を返した。
長居しない。見せびらかさない。
ただ、必要なところへ手を入れて、引く。
白黎はその背中を追った。
帰り道、燕秋がぽつりと言った。
「符袋を狙ったのは、あの子の思いつきじゃない」
白黎が符袋に触れる。
温かい。温かいのに、遠い。
燕秋は続ける。
「橋に貼ってあった護符の墨……手癖がある。
端の連中が書ける癖じゃない。教えられても、真似しにくい」
白黎の喉が鳴る。
また「帰虚」が出かけて、引っかかる。
燕秋はそれを見て、言葉を足さなかった。
代わりに歩調を落とす。
白黎が合わせる前に、先に。
街道は相変わらず賑わっていた。
弱い者が泣いても、笑っていても、銭は鳴る。
白黎は思う。
捕まえたわけじゃない。
だが、見捨てなかった。
宿へ向かう裏道に入ると、人の声が少し遠のいた。
昼の熱が石に残り、靴底からじわりと伝わる。
白黎は歩きながら、自分の呼吸が浅いことに気づく。
浅いままでも歩ける。
歩けてしまうのが怖い。
燕秋が、道端の屋台に目をやった。
「腹は?」
白黎は首を横に振りかけて、止めた。
「……分かりません」
燕秋はそれを咎めず、銭を置いた。
「饅頭、二つ。熱いのを」
蒸籠の蓋が開き、湯気が立つ。
甘い匂いが短く風に乗る。
燕秋は一つを白黎に渡した。
「噛んで。考えないで」
白黎は饅頭を見る。
白い。柔らかい。熱い。
言われた通り噛む。
熱が舌を刺し、甘さが遅れて広がる。
胸の奥で、何かがかすかに鳴った。
燕秋は自分の饅頭を半分に割り、残りを紙に包んで懐へしまう。
「夜中、腹は空くよ。……分かんない顔してても、空く」
そこで、燕秋はほんの少しだけ笑った。
からかう笑いじゃない。
白黎が“人のまま”でいるのを確かめるみたいな笑いだ。
白黎は歩きながら、言いかけた。
さっき倉で、喉まで来て止まった言葉。
あれを言えば、何かが動く気がした。
燕秋が、前を向いたまま言う。
「今は言わなくていい」
声は低いが、拒む音ではない。
「腹に入れたものが、落ち着いてから」
白黎はそれ以上、言えなかった。
饅頭の最後の一口を噛み、ゆっくり飲み下す。
喉を通る熱が、ようやく胸の奥へ落ちていく。
宿の灯りが見えてきた。
黄色い光が道に滲み、影を柔らかくする。
しばらく無言が続いたあと、燕秋が言った。
「さっき」
白黎の歩調に合わせるように声が落ちる。
「君、踏み出す前に一度、息を止めた」
白黎は答えない。
だが、足取りがほんの僅かに揺れる。
燕秋は続ける。
「前なら、そのまま出てた」
責める言い方ではない。
比べているだけだ。
「今日は、止まった」
一拍。
「……ちゃんと、止まった」
白黎の胸の奥が、わずかに詰まる。
詰まる感覚が、まだ残っている。
燕秋は、そこでようやく白黎を一度見る。
真っ直ぐに睨むのではない。
逃げるでもない。
「しんどい?」
白黎は、少し遅れて頷いた。
頷きが遅れる。
それだけで、自分が“普段じゃない”と分かる。
燕秋は、それ以上踏み込まない。
代わりに言った。
「今夜は湯に入って。飯も食べて。……それでいい」
命令でも慰めでもない。
「やることを一つに絞る」言い方だった。
白黎は小さく頷いた。
宿の戸が近づく。
白黎の胸の奥には、まだ赤霄原の冷えが残っている。
言えなかった言葉も、喉の奥に引っかかったままだ。
それでも。
燕秋の歩幅は、最後まで変わらない。
触れない。
だが、置いていかない。
白黎は思う。
——返事が遅れても、歩ける。
——噛める。飲み下せる。
——そして、隣にいる男は、それを急かさない。
今日は、それで十分だった。




