第一話 赤霄原に目覚める 後半
霧が、ざわりと揺れた。
空気が一拍遅れて冷える。首筋が粟立ち、指先から熱が引いていく。
男の笑みが消えた。目だけが細く鋭くなる。
「動くな。足をずらすな」
少年は息を止めた。
霧の奥で、赤い光が走る。火の粉じゃない。尾を引く赤だ。
次の瞬間、霧が裂けて跳ねた。
九つの尾。獣の骨格。炎をまとった霧が、皮膚みたいに張りついている。目が冷たい。人を見慣れている目だ。
霧狐焔。
尾が振れるたび、焦げた匂いが鼻に刺さる。熱が頬をなで、息が薄くなる。
男が短く言う。
「来る。見てろ。目で追うな。気配で追え」
少年は剣を抜いた。
鞘走りが遅い。腕が重い。握った指が思うほど閉じない。
赤い線が来た。
爪が、霧の中からいきなり現れる。距離が噛み合わないまま、風が頬を裂いた。
避けたつもりの身体が遅れ、少年は岩に叩きつけられた。背中に石の角が食い込み、息が抜ける。
痛みが走る。けれど声が出ない。喉が固いまま、手だけが次を探す。
霧狐焔の尾が回り込む。赤が迫る。
――来る。
少年は反射で、息を腹へ落とした。
胸の詰まりが沈む。腹の奥が締まる。視界の端がひらく。
同時に、何かが遠くなる。
背中の痛みが、さっきより鈍い。石の角が刺さったはずなのに、痛みが薄い。痛くないわけじゃない。ただ、遠い。
尾の角度が見える。爪の落ちる位置が見える。
少年は膝を折り、岩の影へ滑った。尾が石を叩き、火の粉が散る。石が熱で鳴った。
次の爪へ、刃を斜めに置く。受けるんじゃない。流す。
金属が嫌な音を立て、衝撃が腕を走る。痺れる。握りがほどけそうになる。
だが、その痺れも、どこか他人事みたいに遅れてくる。
もう一度――と思った瞬間、指先が符袋の口紐に触れた。
温い。
さっきまで「安心」だった温さが、なぜか一瞬だけ、喉の奥を冷やした。
その冷えに押されるように、少年は腹の底で力を束ねる。
沈める。沈めて、余計な揺れを落とす。
腹が締まる。身体が前へ出る。
胸の奥が、すっと静かになる。
怖いはずなのに、怖さが薄い。死ぬかもしれないのに、焦りが弱い。
それでも足は動く。
少年は踏み込んだ。足が追いつかない。だから上体だけ先に入れ、刃を短く走らせた。
浅い。毛を裂いただけ。
それでも霧狐焔が甲高く鳴き、霧が渦を巻く。赤い尾が怒りで膨らんだ。
男の声が届く。
「……やっぱり、ただの迷子じゃないな」
霧狐焔が尾で薙ぐ。赤い円が地面を舐める。
男は退かない。足先だけを半歩ずらす。重心は落としたまま、腰が沈む。砂利が鳴らない。
次の瞬間、男の身体が軽く浮いた。
地面を蹴った音がしない。なのに、間合いが一気に詰まる。石の上を渡るみたいに、足が置かれていく。
男の掌が霧狐焔の胸に触れる。触れた瞬間、霧の膜が凹んだ。熱が散り、赤い光が一瞬鈍る。
――ジュッ、と、焦げた匂いが一段濃くなった。
掌の皮膚が焼けるはずなのに、男の表情は変わらない。ただ、息が一拍だけ浅くなる。
霧狐焔が爪を返す。
男は剣で受けず、掌で押し流す。指先が爪の根元を叩き、角度をずらす。爪が空を切る。赤い線が外へ逃げる。
次の一歩で、男は懐へ入っていた。
剣が短く走る。長く振らない。首の付け根へ、線だけを通す。
霧が割れ、炎が散り、焦げた匂いが強くなる。
霧狐焔が跳ねようとして、跳べない。男の掌が腹の下を押さえ、獣の芯を押し止めた。呼吸の通り道が潰れたみたいに、鳴き声が途中で詰まる。
最後の一閃。
赤い尾が宙でほどけ、霧狐焔は崩れ落ちた。炎の匂いが薄れ、霧が元の白に戻っていく。
静けさが戻る。
少年は、立っていた。
背中は痛いはずなのに、その痛みが一拍遅れて届く。腕の痺れも同じだ。皮膚の上ではなく、薄い布の向こうから触れられているみたいに遠い。
代わりに、胸の奥が妙に静かだった。静かすぎて、落ち着かない。
男がこちらを見る。
視線が、少年の喉と指先に落ちた。
「……今、無理に沈めたな」
低い声だった。叱るより先に、止めるための声。
「沈めるのはいい。だが散らすな。散ったままにすると、戻り方が乱れる」
少年は視線を上げる。
男は続ける。
「今のは押し込んだだけだ。息と気配がばらけている。一本にしろ。ここで止めて、通せ」
言葉は静かだが、目が外れていない。
「まず吐け。細く、長く。吐いてから短く吸え。……そう。次は、胸で止めるな。下へ納めて、そこから背中に通す」
少年は言われた通りに息を動かす。
さっきは力を落とすことばかり考えて、形を作っていなかった。息だけ沈めて、体の中を空にしたままにしていた。
ゆっくり吐く。
短く吸う。
吐くたび、胸の詰まりがほどけていく。
もう一度。
今度は、散らないように。
底に集めて、背を通して、腕へ、指先へ戻す。勝手に押さえ込むんじゃなく、道筋を作って戻す。
胸の奥に、じわりと感覚が戻った。
背中が痛い。
今度はちゃんと、痛い。
男がわずかに頷く。
「そうだ。乱すな。沈めたなら束ねろ。束ねたら巡らせろ」
少年はもう一度、息を吐いた。
さっきまで遠かった痛みが、確かに近い。
戻ったはずなのに、どこか少し欠けている。欠けた場所だけ、冷たい。
男は霧の向こうへ一度だけ目を走らせた。
倒れた霧狐焔の輪郭は、白い靄に引かれてほどけていく。骨格も尾も、残骸として残らない。霧に滲んで、霧へ返っていく。
「……霧から生まれたものだ。赤霄原じゃ、珍しくない」
一拍。
「霧が濃いと増える。今朝は運が悪い」
男の視線が、少年の腰へ戻る。剣ではなく符袋の方だった。
「それで聞きたい。腰の符袋――それは誰に渡された」
少年は符袋に触れる。
分からない。
分からないのに、触れると少しだけ安心する。指だけが結び目の形を覚えている。
男は、その仕草を見て頷いた。
「分からないなら、それでいい。嘘をつけない顔をしている。……本当に分からない顔だ」
少年の喉が、少しだけ動いた。
声が出そうになって、出ない。息だけが乾いた音で漏れる。
男は言葉を足す。
「私はね、誰かの出自を当てて悦に入る趣味はない。だが、道を歩く以上、避けられないことがある」
一息。
「名がなくて、事情もなくて、それでも剣の感覚だけ残っている。そういうのは狙われる。利用される」
視線が、まっすぐ少年に向く。
「だから先に名を与える。名があれば呼べる。呼べれば、つなげる」
男は一拍、呼吸を落とした。
昔、呼べなかった。だから今度は、呼ぶ。
その迷わなさが、霧より冷たい――と少年は思った。
あまりに当然の手つきで、当然の順で、ここに線を引く。――まるで、そうしないと終われない夜があったみたいに。
霧が、少しだけ薄くなった気がした。空の色が変わったのかもしれない。けれど霧のせいで、はっきりしない。
男は少年を、まっすぐ見た。
「嫌なら後で捨てればいい。
名は鎖にもなるが、杖にもなる」
少年は、わずかに唇を開く。
出てきたのは、掠れた息だけだった。
男は笑う。
「なら聞き方を変える。君は、生きたいか。生きて、思い出したいか」
少年の胸の奥が、ほんの少し温かくなる。
言葉は出ない。
けれど目が動く。頷きに近い動き。
男はそれを見て、静かに言った。
「白黎」
呼ばれた瞬間、霧が揺れた。
胸の奥で何かが戻った気がした。戻ったのに、代わりに何かが冷えた。
触れた分だけ、胸の内側が一枚薄くなる。そんな冷え。
それでも呼ばれた。呼べるだけで、落ちない場所ができる。
さっきまで地面に貼りついていた靄が、息を吐くようにほどけていく。
まるで名が鍵だったみたいに、霧が道を開き始める。
赤霄原の遠い稜線が、はっきり見えた。
空の色が、薄い朱に変わる。
夜明けを誇張するほど眩しくない。
ただ、世界がようやく目を開けたみたいに、淡い光が差した。
少年――白黎は、自分の胸の奥で、何かが小さく動いたのを感じた。
まだ、過去は戻らない。
記憶の穴は、そのままだ。
でも、呼ばれた。
呼ばれて、世界とつながった。
男は、霧が晴れていく様子を見て、小さく息を吐いた。
「似合う。今の君の真っさらな状態と、この原の朝の色に」
男は、呼んだ直後にだけ、目を伏せた。
その一拍が、すぐに消える。
次の瞬間には、何事もなかったように顔を上げている。
男は白黎から視線を外し、周囲を確かめる。警戒は解かない。
けれど声は、さっきより少しだけ軽い。
「……歩けるか」
白黎は返事を作れない。代わりに足裏へ意識を落とす。
地面の硬さが分かる。砂利の角が分かる。冷えがまだ指先に残っている。
背中の痛みは近い。近いまま、どこか一枚だけ遠い。
それでも、踏める。
小さく頷くと、男も頷いた。
「よし。無理はするな。……街道へ出よう。人のいる方へ行く。原に居座る理由はない」
男は一歩先に立つ。置いていかない速さだ。
霧がほどけた光の中で、足運びだけがやけに静かだった。
歩き出してすぐ、白黎の指先が符袋に触れた。
口紐の結び目が、まだそこにある。触れると少しだけ落ち着く。理由は分からない。
――けれど、さっきの温さが、一瞬だけ喉を冷やしたことも、確かに残っている。
男は横目でそれを見たが、指摘はしない。
ただ、歩幅をほんのわずか落とす。合わせるでもなく、離すでもない距離。
霧の重さが少しずつ薄くなる。
焦げた匂いが遠のき、乾いた土の匂いが混じる。
遠くで鳥が鳴いた。
白黎の歩幅が一瞬乱れた。背中の痛みが遅れて追いつく。
男は振り返らない。ただ歩みを半拍だけ緩める。
それだけで、並べる。
やがて、固められた土の筋が見えた。
轍が何本も刻まれている。
男はその土を踏み、ようやく一度だけ振り返った。
笑みは軽い。けれど視線は軽くない。
「白黎、行くぞ。――来い」
白黎は頷く。
呼ばれた名が、胸の内側でほどけない。――結び目のように。




