表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
六影相剋――記憶喪失の剣士は、六大勢力の争いの中で世界の歪みと向き合う  作者: いぬぬっこ
第一章 影走

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/20

第一話 赤霄原に目覚める 後半

霧が、ざわりと揺れた。


空気が一拍遅れて冷える。首筋が粟立ち、指先から熱が引いていく。


男の笑みが消えた。目だけが細く鋭くなる。


「動くな。足をずらすな」


少年は息を止めた。


霧の奥で、赤い光が走る。火の粉じゃない。尾を引く赤だ。


次の瞬間、霧が裂けて跳ねた。


九つの尾。獣の骨格。炎をまとった霧が、皮膚みたいに張りついている。目が冷たい。人を見慣れている目だ。


霧狐焔(むこえん)


尾が振れるたび、焦げた匂いが鼻に刺さる。熱が頬をなで、息が薄くなる。


男が短く言う。


「来る。見てろ。目で追うな。気配で追え」


少年は剣を抜いた。


鞘走り(さやばしり)が遅い。腕が重い。握った指が思うほど閉じない。


赤い線が来た。


爪が、霧の中からいきなり現れる。距離が噛み合わないまま、風が頬を裂いた。


避けたつもりの身体が遅れ、少年は岩に叩きつけられた。背中に石の角が食い込み、息が抜ける。


痛みが走る。けれど声が出ない。喉が固いまま、手だけが次を探す。


霧狐焔の尾が回り込む。赤が迫る。


――来る。


少年は反射で、息を腹へ落とした。


胸の詰まりが沈む。腹の奥が締まる。視界の端がひらく。


同時に、何かが遠くなる。


背中の痛みが、さっきより鈍い。石の角が刺さったはずなのに、痛みが薄い。痛くないわけじゃない。ただ、遠い。


尾の角度が見える。爪の落ちる位置が見える。


少年は膝を折り、岩の影へ滑った。尾が石を叩き、火の粉が散る。石が熱で鳴った。


次の爪へ、刃を斜めに置く。受けるんじゃない。流す。


金属が嫌な音を立て、衝撃が腕を走る。痺れる。握りがほどけそうになる。


だが、その痺れも、どこか他人事みたいに遅れてくる。


もう一度――と思った瞬間、指先が符袋の口紐に触れた。


温い。


さっきまで「安心」だった温さが、なぜか一瞬だけ、喉の奥を冷やした。


その冷えに押されるように、少年は腹の底で力を束ねる。

沈める。沈めて、余計な揺れを落とす。


腹が締まる。身体が前へ出る。


胸の奥が、すっと静かになる。


怖いはずなのに、怖さが薄い。死ぬかもしれないのに、焦りが弱い。


それでも足は動く。


少年は踏み込んだ。足が追いつかない。だから上体だけ先に入れ、刃を短く走らせた。


浅い。毛を裂いただけ。


それでも霧狐焔が甲高く鳴き、霧が渦を巻く。赤い尾が怒りで膨らんだ。


男の声が届く。


「……やっぱり、ただの迷子じゃないな」


霧狐焔が尾で薙ぐ。赤い円が地面を舐める。


男は退かない。足先だけを半歩ずらす。重心は落としたまま、腰が沈む。砂利が鳴らない。


次の瞬間、男の身体が軽く浮いた。


地面を蹴った音がしない。なのに、間合いが一気に詰まる。石の上を渡るみたいに、足が置かれていく。


男の掌が霧狐焔の胸に触れる。触れた瞬間、霧の膜が凹んだ。熱が散り、赤い光が一瞬鈍る。


――ジュッ、と、焦げた匂いが一段濃くなった。

掌の皮膚が焼けるはずなのに、男の表情は変わらない。ただ、息が一拍だけ浅くなる。


霧狐焔が爪を返す。


男は剣で受けず、掌で押し流す。指先が爪の根元を叩き、角度をずらす。爪が空を切る。赤い線が外へ逃げる。


次の一歩で、男は懐へ入っていた。


剣が短く走る。長く振らない。首の付け根へ、線だけを通す。


霧が割れ、炎が散り、焦げた匂いが強くなる。


霧狐焔が跳ねようとして、跳べない。男の掌が腹の下を押さえ、獣の芯を押し止めた。呼吸の通り道が潰れたみたいに、鳴き声が途中で詰まる。


最後の一閃。


赤い尾が宙でほどけ、霧狐焔は崩れ落ちた。炎の匂いが薄れ、霧が元の白に戻っていく。


静けさが戻る。


少年は、立っていた。

背中は痛いはずなのに、その痛みが一拍遅れて届く。腕の痺れも同じだ。皮膚の上ではなく、薄い布の向こうから触れられているみたいに遠い。


代わりに、胸の奥が妙に静かだった。静かすぎて、落ち着かない。


男がこちらを見る。

視線が、少年の喉と指先に落ちた。


「……今、無理に沈めたな」


低い声だった。叱るより先に、止めるための声。


「沈めるのはいい。だが散らすな。散ったままにすると、戻り方が乱れる」


少年は視線を上げる。


男は続ける。


「今のは押し込んだだけだ。息と気配がばらけている。一本にしろ。ここで止めて、通せ」


言葉は静かだが、目が外れていない。


「まず吐け。細く、長く。吐いてから短く吸え。……そう。次は、胸で止めるな。下へ納めて、そこから背中に通す」


少年は言われた通りに息を動かす。

さっきは力を落とすことばかり考えて、形を作っていなかった。息だけ沈めて、体の中を空にしたままにしていた。


ゆっくり吐く。

短く吸う。

吐くたび、胸の詰まりがほどけていく。


もう一度。


今度は、散らないように。


底に集めて、背を通して、腕へ、指先へ戻す。勝手に押さえ込むんじゃなく、道筋を作って戻す。


胸の奥に、じわりと感覚が戻った。


背中が痛い。

今度はちゃんと、痛い。


男がわずかに頷く。


「そうだ。乱すな。沈めたなら束ねろ。束ねたら巡らせろ」


少年はもう一度、息を吐いた。

さっきまで遠かった痛みが、確かに近い。


戻ったはずなのに、どこか少し欠けている。欠けた場所だけ、冷たい。


男は霧の向こうへ一度だけ目を走らせた。

倒れた霧狐焔の輪郭は、白い靄に引かれてほどけていく。骨格も尾も、残骸として残らない。霧に滲んで、霧へ返っていく。


「……霧から生まれたものだ。赤霄原(せきしょうげん)じゃ、珍しくない」


一拍。


「霧が濃いと増える。今朝は運が悪い」


男の視線が、少年の腰へ戻る。剣ではなく符袋の方だった。


「それで聞きたい。腰の符袋――それは誰に渡された」


少年は符袋に触れる。


分からない。

分からないのに、触れると少しだけ安心する。指だけが結び目の形を覚えている。


男は、その仕草を見て頷いた。


「分からないなら、それでいい。嘘をつけない顔をしている。……本当に分からない顔だ」


少年の喉が、少しだけ動いた。

声が出そうになって、出ない。息だけが乾いた音で漏れる。


男は言葉を足す。


「私はね、誰かの出自を当てて悦に入る趣味はない。だが、道を歩く以上、避けられないことがある」


一息。


「名がなくて、事情もなくて、それでも剣の感覚だけ残っている。そういうのは狙われる。利用される」


視線が、まっすぐ少年に向く。


「だから先に名を与える。名があれば呼べる。呼べれば、つなげる」


男は一拍、呼吸を落とした。

昔、呼べなかった。だから今度は、呼ぶ。


その迷わなさが、霧より冷たい――と少年は思った。

あまりに当然の手つきで、当然の順で、ここに線を引く。――まるで、そうしないと終われない夜があったみたいに。


霧が、少しだけ薄くなった気がした。空の色が変わったのかもしれない。けれど霧のせいで、はっきりしない。


男は少年を、まっすぐ見た。


「嫌なら後で捨てればいい。

名は鎖にもなるが、杖にもなる」


少年は、わずかに唇を開く。

出てきたのは、掠れた息だけだった。


男は笑う。


「なら聞き方を変える。君は、生きたいか。生きて、思い出したいか」


少年の胸の奥が、ほんの少し温かくなる。


言葉は出ない。

けれど目が動く。頷きに近い動き。


男はそれを見て、静かに言った。


白黎(はくれい)


呼ばれた瞬間、霧が揺れた。

胸の奥で何かが戻った気がした。戻ったのに、代わりに何かが冷えた。


触れた分だけ、胸の内側が一枚薄くなる。そんな冷え。

それでも呼ばれた。呼べるだけで、落ちない場所ができる。


さっきまで地面に貼りついていた靄が、息を吐くようにほどけていく。

まるで名が鍵だったみたいに、霧が道を開き始める。


赤霄原の遠い稜線(りょうせん)が、はっきり見えた。


空の色が、薄い(しゅ)に変わる。

夜明けを誇張するほど眩しくない。

ただ、世界がようやく目を開けたみたいに、淡い光が差した。


少年――白黎は、自分の胸の奥で、何かが小さく動いたのを感じた。


まだ、過去は戻らない。

記憶の穴は、そのままだ。


でも、呼ばれた。

呼ばれて、世界とつながった。


男は、霧が晴れていく様子を見て、小さく息を吐いた。


「似合う。今の君の真っさらな状態と、この原の朝の色に」


男は、呼んだ直後にだけ、目を伏せた。

その一拍が、すぐに消える。

次の瞬間には、何事もなかったように顔を上げている。


男は白黎から視線を外し、周囲を確かめる。警戒は解かない。

けれど声は、さっきより少しだけ軽い。


「……歩けるか」


白黎は返事を作れない。代わりに足裏へ意識を落とす。

地面の硬さが分かる。砂利の角が分かる。冷えがまだ指先に残っている。

背中の痛みは近い。近いまま、どこか一枚だけ遠い。

それでも、踏める。


小さく頷くと、男も頷いた。


「よし。無理はするな。……街道へ出よう。人のいる方へ行く。原に居座る理由はない」


男は一歩先に立つ。置いていかない速さだ。

霧がほどけた光の中で、足運びだけがやけに静かだった。


歩き出してすぐ、白黎の指先が符袋に触れた。

口紐の結び目が、まだそこにある。触れると少しだけ落ち着く。理由は分からない。

――けれど、さっきの温さが、一瞬だけ喉を冷やしたことも、確かに残っている。


男は横目でそれを見たが、指摘はしない。

ただ、歩幅をほんのわずか落とす。合わせるでもなく、離すでもない距離。


霧の重さが少しずつ薄くなる。

焦げた匂いが遠のき、乾いた土の匂いが混じる。

遠くで鳥が鳴いた。


白黎の歩幅が一瞬乱れた。背中の痛みが遅れて追いつく。


男は振り返らない。ただ歩みを半拍だけ緩める。

それだけで、並べる。


やがて、固められた土の筋が見えた。

(わだち)が何本も刻まれている。


男はその土を踏み、ようやく一度だけ振り返った。


笑みは軽い。けれど視線は軽くない。


「白黎、行くぞ。――来い」


白黎は頷く。

呼ばれた名が、胸の内側でほどけない。――結び目のように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ