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六影相剋――記憶喪失の剣士は、六大勢力の争いの中で世界の歪みと向き合う  作者: いぬぬっこ
第一章 影走

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第一話 赤霄原に目覚める 前半

江湖(こうこ)


川と湖という字から生まれた呼び名だ。けれど、この物語でそれは、水辺の景色を指さない。朝廷の札も役所の縄も届きにくい場所で、家を出た者たちが、互いの噂と腕前を頼りに生きていく世界をそう呼ぶ。


そこでは生まれよりも、今の手が何をできるかが先に見られる。金を払うか、約束を守るか、借りを返すか。弱い者が泣いているのを見たとき、目をそらすか、止めに入るか。そういう場面で、その人の値打ちは決まっていく。


剣を帯びて歩く者は多い。だが、ただ剣を帯びているだけでは侠客(きょうかく)とは呼ばれない。


侠客と呼ばれるのは、仁義(じんぎ)に厚い者だ。困っている相手を見捨てないと決めている。助けたなら見返りを数えず、逆に助けられたなら、忘れずに返す。約束を破って逃げるくらいなら、損をしてでも筋を通す。そういう生き方を、自分で選んで続けている者たちだ。


ただし侠客といっても、みんなが同じ場所に集まるわけじゃない。師に就き、仲間と(おきて)を持って生きる者もいれば、どこにも寄らずに放浪する者もいる。世の中を良くしたい者もいれば、今日を生き延びることだけを優先する者もいる。


江湖は一枚岩ではない。だから揉める。揉めたぶんだけ、噂が育つ。



江湖の中心に近い土地には天衡流(てんこうりゅう)がある。門派(もんぱ)どうしのいさかいが大きくなりすぎないよう、会盟(かいめい)を開き、取り決めを作り、破った者を裁く役目を引き受けている。争いを止める側に立つ以上、軽はずみな決断はできない。その慎重さが、時に遅さにもなる。


北の高原では照剣門(しょうけんもん)が刃を掲げている。迷うくらいなら動け、という気風の門派だ。守りたいものがあるなら、ためらわず前に出ろと教える。天衡流の取り決めに従う者も多いが、会議で足を止めるやり方を歯がゆく思う者もいる。


東の学都に根を下ろす清談派(せいだんは)は、少し違う道を行く。剣を振るう前に心を整え、内側から立て直すことを重んじる。争いの場でも、できるだけ命を残す。そのために言葉を使い、治す(すべ)を使い、折れる寸前の人間を支えようとする。


街道と都市を巡る流雲衆(りゅううんしゅう)は、どの門派の門もくぐらない。宿場で噂を拾い、町で情報を繋ぎ、揉め事が膨らみそうなら火が回りきる前に手を入れる。誰か一方に肩入れしすぎれば、次は別の一方が暴れる。その理屈を知っているから、情があっても立場は固定しない。便利だと使われ、同時に信用しきれないと距離を取られる。


無縁会(むえんかい)は、門派を追われた者、家に戻れなくなった者、名を捨てた者が、夜の廃寺や橋の下で肩を寄せ合って生きている集まりだ。立派な理想を掲げる余裕はない。まず今夜を越える。薬と食い物を確保する。寝床を奪われないようにする。そうやって、明日まで立っていることを選び続けている。表から消えたぶん、表では手に入らない情報や抜け道を持っていることもある。


そして西域や辺境、廃村に根を張るのが玄影(げんえい)だ。奪われた者たちの集まりで、彼らにとって強さは飾りじゃない。剣がなければ、もう二度と奪い返せないからだ。天衡流を恨み、照剣門を最大の敵として見る。清談派に対しては、憎しみと、捨てきれない感情が同居している。救いを語る声が、いちばん刺さることがある。



こうして江湖は、秩序を守る者、早さで道を切る者、心を救おうとする者、街道を渡って火種を動かす者、名を捨てて生き残る者、奪われた傷を抱える者が、同じ空の下でぶつかり合いながら成り立っている。正しさは一つじゃない。生き方も一つじゃない。


その境界のさらに外れに、赤霄原(せきしょうげん)がある。


天衡の会盟も届ききらず、照剣の巡回も薄く、清談の教えも根を張らない荒野。門派の色が濃く染まらない土地だ。


そこに、(あやかし)を生む霧が棲みついている。



冷えた地面を舐めるように、白い靄が低く流れている。

湿り気ではない。水でもない。

古い血の匂いが、鉄に似た味となって、息の奥へ落ちてくる。

枯草は乾ききり、触れ合うたびに、ざわ、と鈍い音を立てた。

虫の声も、獣の気配もない。

広い荒野が、息を潜めているように静かだった。


空はまだ暗い。

けれど、夜そのものの重さは、ほんの少しだけ薄れている。

遠い山の稜線が、霧の向こうで、かすかに輪郭を取り戻し始めていた。


その霧の真ん中に、一人の少年が立っていた。


黒髪は肩にかかるほど伸び、手入れもされていない。

白い肌は土と灰に汚れ、薄灰色の衣はところどころほつれている。

それなのに、ひと目で分かる。

顔立ちが、整いすぎていた。

骨の線が細く、目鼻の配置が澄んでいる。

荒野の埃をまとっていても、壊れそうな美しさだけは隠れない。


ただ、その顔には表情がなかった。


恐怖も、戸惑いも、怒りもない。

霧の奥を見つめる瞳は、感情を映さない硝子玉に近い。

それが余計に、少年の幼さを際立たせていた。


名前も、過去も、理由も、思い出せない。

自分がなぜここに立っているのかすら、分からない。


腰には細剣。

鞘は擦れて白くなり、握りには何度も握られた跡がある。

もう一つ、使い古された符袋。

中身は分からないのに、触れると、少しだけ安心する。


それだけが、かろうじて生きている証のように思えた。


霧が、ふっと渦を巻いた。


足音が一つ。

乾いた草を踏む音が、近づいてくる。

荒くもなく、急ぎもせず、硬い地面を確かめるように重さを殺した歩き方だった。


「そこの君。赤霄原にいるのは勝手だが、そこで呆けているのは得策じゃない」


低い、落ち着いた声が霧を割った。


少年は反射的に剣の柄へ手を置く。

抜かない。

ただ、いつでも動けるように指をかけた。


身体は重い。

関節の動きもぎこちない。

なのに、危険だけは嗅ぎ取れる。妙に鋭い。


霧の中から現れたのは、一人の男だった。


黒髪を後ろで束ね、灰青の軽装。

袖や裾には細かな補修跡があり、旅を重ねたことが分かる。

腰には細剣。

符が数枚、丁寧にしまわれている。

香袋も一つ。

装いは派手じゃないのに、近づくほど目を奪われた。


顔が、やけに整っている。


眉はきりりと形がよく、目は笑っているのに奥が鋭い。

口元には軽い余裕があり、どこか飄々として見える。

それでいて、立っているだけで周囲の空気が締まった。

無駄な力が一切ない。

視線の置き方が、相手の逃げ道まで一緒に測っている。


男は少年の手元を見て、少しだけ口角を上げる。


「抜かない。いい判断だ。霧の中で抜くと、刃先より先に気持ちが走る。焦って当てにいけば、まず自分が転ぶ」


少年は黙ったまま、男を見る。

言葉が出ない。出し方が分からない。


男はそれを責めない。

霧越しに少年の顔を見切るように眺め、静かに言う。


「喉は渇いているか。腹はどうだ。顔色が悪い。眠っていない目だな。……それに、迷っているのに立ち姿が崩れない。普通は、もう少し肩が落ちる」


少年の指先が、わずかに動いた。

剣の柄を握る力が、知らずに強くなる。


男は両手を少し上げる。


「警戒していい。むしろ、警戒できない奴はこの赤霄原では長くない」


少しだけ声音を変える。


「私は君を脅しに来たわけじゃない。君が誰でも構わないし、今ここで君を利用する気もない」


利用。その言葉に、指先がひやりと固まった。


男は苦笑する。


「今の言い方、嫌だったか。すまない。こういう原じゃ、言葉が荒くなる」


一歩だけ近づき、しかし刃の届かない距離で止まる。


「君はどこから来た。北か。東か。

学の街の者なら、ここまで来る前に荷をまとめる。

北の剣の家なら、立つ場所を先に選ぶ。

西の荒れ地育ちなら、霧の歩き方を知っている。

君はどれでもない。……答えられないか」


少年は首を横に振った。


「訳ありか。名前も言えないのか」


もう一度、首を振る。

喉が詰まり、声が形にならない。


「なら、私の方を話そう。私は街道を歩く。人の話を拾って、広げすぎないように落として、必要なら繋ぐ。

どこに属しているか、と聞かれると困るが、立場を決めない方が動きやすいこともある」


視線を戻す。


「ただし、君みたいな子を霧の中に置いていく趣味はない。理由は二つ。

一つは、寝覚めが悪い。

もう一つは、君がここにいるだけで面倒が寄ってきそうだからだ」


「君がここにいると知れれば、助けるつもりの奴もいれば、悪用するつもりの奴も寄ってくる。

だから聞く。追われているのか。探しているのか。それとも、目覚めたらここだったのか」


返そうとした瞬間、胸の奥がつかえて、息が一拍遅れた。


腹の底に沈んでいるはずの力が、胸へずるりとせり上がり、喉で絡まる。

思い出そうとしたわけでもないのに、内功(ないこう)だけが乱れる。


違う。


これは自分の流れじゃない。

身体の奥に、誰かの内功の残滓(ざんし)が、沈みきらずに残っている。


頭の奥で小さく軋む音がした。

何かを掴みかけて、掴めないまま落とした感覚だけが残る。


少年は言葉を作ろうとして、結局なにも出せなかった。

符袋へ向かいかけた指が止まり、代わりに剣の柄を強く握る。


男はその沈黙を受け止める。


「分かった。無理に言わせない。言葉が出ないときは、身体の方が先に喋る。いまの手が、そう言っている」


少年は、剣の柄から指を離せないまま、霧越しの男の目だけを見返していた。

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