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六影相剋――目覚めたら荒野だった記憶喪失の剣士は、六大勢力の争いの中で世界の歪みと向き合う  作者: いぬぬっこ
第一章 影走

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第一話 赤霄原に目覚める

霧がかかる荒野に、夜明けが訪れようとしていた。


荒野—— 赤霄原 (せきしょうげん)

冷えた地面を舐めるように、白い靄が低く流れている。

枯草は乾ききって、触れ合うたびに、ざわ、と鈍い音を立てた。

虫の声も、獣の気配もない。

広い荒野が、息を潜めているように静かだった。


空はまだ暗い。

けれど、夜そのものの重さは、ほんの少しだけ薄れている。

遠い山の稜線が、霧の向こうで、かすかに輪郭を取り戻し始めていた。


その霧の真ん中に、一人の少年が立っていた。


黒髪は肩にかかるほど伸び、手入れもされていない。

白い肌は土と灰に汚れ、薄灰色の衣はところどころほつれている。

それなのに、ぱっと見た瞬間に分かる。

顔立ちが、整いすぎていた。

骨の線が細く、目鼻の配置が澄んでいる。

荒野の埃をまとっていても、どこか壊れそうな美しさだけは隠れない。


ただ、その顔には表情がなかった。


恐怖も、戸惑いも、怒りもない。

霧の奥を見つめる瞳は、感情を映さない硝子玉に近い。

それが余計に、少年の幼さを際立たせていた。


名前も、過去も、理由も、思い出せない。


自分がなぜここに立っているのかすら、分からない。


腰には細剣。

鞘は擦れて白くなり、握りには何度も握られた跡がある。

もう一つ、使い古された符袋。

中身は分からないのに、触れると、少しだけ安心する。


それだけが、かろうじて生きている証のように感じられた。


霧が、ふっと渦を巻いた。


足音が一つ。

乾いた草を踏む音が、近づいてくる。

荒くもなく、急ぎもせず、地面の硬さを測るように慎重な歩き方だった。


「そこの君。赤霄原にいるのは勝手だが、ここで呆けているのは得策じゃない」


低い、落ち着いた声が霧を割った。


少年は反射的に剣の柄へ手を置く。

抜かない。

ただ、いつでも動けるように指をかけた。


身体は重い。

関節の動きもぎこちない。

なのに、危険だけは嗅ぎ取れる。妙に鋭い。


霧の中から現れたのは、一人の男だった。


黒髪を後ろで束ね、灰青の軽装。

袖や裾には細かな補修跡があり、旅を重ねたことが分かる。

腰には細剣。

符が数枚、丁寧にしまわれている。

香袋も一つ。

装いは派手じゃないのに、近づくほど目を奪われた。


顔が、やけに整っている。


眉はきりりと形がよく、目は笑っているのに奥が鋭い。

口元には軽い余裕があり、どこか飄々として見える。

それでいて、立っているだけで周囲の空気が締まった。

無駄な力が一切ない。

視線の置き方が、相手の逃げ道ごと読む人のそれだった。


男は少年の手元を見て、少しだけ口角を上げる。


「抜かない。いい判断だ。抜いたところで、この霧の中じゃ刃先が迷う。焦って当てにいくと、余計に自分が転ぶ」


少年は黙ったまま、男を見る。

言葉が出ない。

出し方が分からない。


男はそれを責めない。

霧越しに少年の顔を一息で見切るように眺め、少し息を吐いた。


「喉は渇いているか。腹はどうだ。顔色が悪い。眠っていない目だな。……それに、迷い方が素人じゃない。迷っているのに、立ち姿が崩れない」


少年の指先が、わずかに動いた。

剣の柄を握る力が、知らずに強くなる。


男はそれを見て、手のひらを見せるように両手を少し上げた。


「警戒していい。むしろ、警戒できない奴はこの赤霄原では長くない。ただ、安心してほしい。私は今、君に用があるわけじゃない。君が誰であれ、今ここで売り物になる話は持っていない」


少年の眉が、ほんのわずかに動く。

売り物。

そういう言い方に、匂いがあった。


男は笑う。


「そういう顔をするな。私は商売人じゃない。……いや、商売人に見えるのか。よく言われる」


男は一歩近づき、しかし距離は詰めすぎない。

刃が届かない。

けれど、声は届く距離で止まる。


「君はどこから来た。北か。東か。学の街の者なら、こんな原で立ち尽くす前に理屈を並べる。北の剣の家なら、まず足場を選ぶ。西の荒れ地育ちなら、霧の中を果敢に進む。君はどれでもない。……答えられないか」


少年は首を横に振った。


男の目が、一瞬だけ細くなる。

驚きじゃない。確かめる目だ。


「答えられないか。訳ありか。名前も言えないのか」


少年は、もう一度、首を横に振る。

喉が詰まる。

何か言わなきゃいけない気がするのに、言葉が形にならない。


男はすぐに深追いしない。

その代わり、遠くの霧の動きを見た。

まるで、霧の流れの方が会話をしているみたいに、静かに視線を滑らせる。


「なら、私の方を話そう。私は街道を歩く。人の話を拾い、落とし、時々つなぐ。どこに属しているか、と聞かれると困るが……立場を決めない方が動きやすいこともある」


そこで男は少年に視線を戻し、少し声を落とした。


「ただし、君みたいな子を霧の中に置いていく趣味はない。理由は二つある。一つは単純に寝覚めが悪い。もう一つは、君がここにいること自体が、面倒の種に見えるからだ」


少年は、微かに目を瞬かせた。

面倒の種。

その言葉は冷たいのに、男の声色は、奇妙に柔らかい。


「君がここにいることを知ったら、いろんな人が寄ってくる。善い人も、善くない人も。だから先に聞く。君は追われているのか。誰かを探しているのか。それとも、目覚めたらここだったのか」


少年の胸の奥が、少しだけ疼く。

答えは出ない。

ただ、喉の奥に砂が詰まったみたいに苦しい。


男はその沈黙を、沈黙のまま受け取った。


「分かった。無理に言わせない。言葉が出ないときは、身体の方が先に言う。君の立ち方がそうだ」


霧が、ざわりと揺れた。


空気が、ひとつ遅れて冷える。

肌が粟立つような冷たさが、霧の底から立ち上がってくる。


男の表情が変わる。

軽い笑みが消え、目だけが鋭くなる。


「動くな。足を一歩でもずらすな。今の霧は、見えないものの足音を隠す」


少年は息を止めた。


霧の奥で、赤い光が走った。


次の瞬間、九本の尾を持つ異形が、跳ねるように現れた。

霧と炎が絡み合い、獣の形をしていながら、獣じゃない目をしている。

人を嘲るような冷たさが、瞳に宿っていた。


霧狐焔(むこえん)


尾が揺れるたび、霧が焦げた匂いを帯びる。

近づくだけで肌がひりつき、空気が薄くなる。


男は短く言った。


「来る。だが慌てるな。霧の中では、先に動いた方が負ける」


少年は剣を抜く。


遅い。

身体が重い。

間に合わない。


霧狐焔の爪が迫る。

風を裂く音と共に、少年は岩に叩きつけられた。

衝撃が骨に響き、息が詰まる。


痛い。


なのに、泣き叫ぶ感情が出ない。

ただ、次の動きを探す。


霧狐焔の尾が迫る。

赤い気配が、視界を染める。


その瞬間、世界が静かになる。


音が薄れ、重さだけが残る。

霧狐焔の動きが、ほんの少しだけ読めた。


踏み込む位置。

爪が落ちる角度。

尾が回り込む軌道。


理由は分からない。

でも、確信だけがある。


——今なら避けられる。

——今なら当てられる。


少年の剣が、最小限の軌道で走った。


浅い。

致命には届かない。


だが、確かに裂いた。


霧狐焔が甲高い声を上げ、霧が渦を巻く。


男が、息を吸う気配がした。


「なるほど。君、やっぱりただの迷子じゃないな。どこでその目を手に入れた」


男は動く。


踏み込みは軽い。

なのに、地面が沈む気配がする。


剣だけじゃない。

掌が連動し、霧狐焔の動きを封じる。


攻めているのに、守りの形が崩れない。

派手じゃない。

けれど、霧が薄くなるほど正確だった。


霧狐焔が尾で薙ぐ。


男は、その尾を避けない。

尾の動きに合わせて、一歩ずらす。


次の瞬間には、霧狐焔の懐へ入っていた。


剣が走る。

掌が押さえる。

霧が割れ、炎が散る。


最後の一閃で、霧狐焔は地に崩れ落ちた。


静寂が戻る。


少年は立ち尽くしたまま、

遅れて、強く脈打つ心臓の音を聞いた。


霧の向こうで、自分の息が白く揺れている。


男は剣を収める。

息は乱れていない。

けれど、視線は鋭いままだ。


「立てるか。足は動くか。返事がなくてもいい。立っていられるなら十分だ」


少年は、ゆっくり立ち上がる。


身体は軋む。

それでも、足は動いた。


男は少年の顔を見て、

今度は、少しだけ笑った。


さっきの余裕の笑みじゃない。

人の顔を見て、安堵するような、柔らかい笑みだった。


「いい顔だ。荒野でそんな顔をしていたら、放っておけない。整いすぎているのに、どこか現実に定着していない。君、鏡みたいな目をしている」


少年は首を傾げる。


鏡。


その言葉の意味が、胸の奥で、波紋みたいに広がる。


男は霧の流れを見た。

霧はまだ濃い。

けれど、先ほどより重さが減っている。


「さっきの霧狐焔は、ここに居ついている。赤霄原は、こういうのが増える」


一拍。


「だから私は、君に聞きたい。君は何を持っている。腰の符袋、それは誰に渡された」


少年は符袋に触れる。


分からない。

分からないのに、触れると少しだけ安心する。


男は、その仕草を見て頷いた。


「分からないなら、それでいい。君は嘘をつけない顔をしている。嘘をつくなら、もっと上手くやるだろう。つまり、本当に分からない」


少年の喉が、少しだけ動いた。

声が出そうになって、出ない。


男は言葉を足す。


「私はね、誰かの出自を当てて悦に入る趣味はない。だが、道を歩く以上、避けられないことがある」


一息。


「君のように名がなくて、何もわかっていない、それでも剣の感覚だけ残っている。そういう人は狙われる。利用される」


視線が、まっすぐ少年に向く。


「だから先に名を与える。名があれば、呼べる。呼べれば、つなげる」


霧が、少しだけ薄くなった気がした。

空の色が変わったのかもしれない。


けれど、霧のせいで、はっきりしない。


男は少年を、まっすぐ見た。


「君の名は、今はない。なら私が仮の名を付ける。嫌なら後で捨てればいい。名は鎖にもなるが、杖にもなる」


少年は、わずかに唇を開く。

出てきたのは、掠れた息だけだった。


男は笑う。


「なら聞き方を変える。君は、生きたいか。生きて、思い出したいか」


少年の胸の奥が、ほんの少し温かくなる。


言葉は出ない。

けれど、目が動く。

頷きに近い動き。


男はそれを見て、静かに言った。


白黎(はくれい)


呼ばれた瞬間、霧が揺れた。


さっきまで地面に貼りついていた靄が、

息を吐くように、ほどけていく。


まるで、名が鍵だったみたいに、

霧が道を開き始める。


赤霄原の遠い稜線が、はっきり見えた。


空の色が、薄い朱に変わる。

夜明けを誇張するほど眩しくない。

ただ、世界がようやく目を開けたみたいに、淡い光が差した。


少年は、自分の胸の奥で、

何かが小さく動いたのを感じた。


まだ、過去は戻らない。

記憶の穴は、そのままだ。


でも、呼ばれた。

呼ばれて、世界とつながった。


男は、霧が晴れていく様子を見て、小さく息を吐いた。


「似合う。今の君の真っさらな状態と、この原の朝の色に」


男は少年から視線を外し、周囲を確かめる。

警戒は解かない。

けれど、声は、さっきより少しだけ軽い。


「私は君を連れて行く。まずは水と食い物だ。それから、君がどこへ向かうべきかを考える」


男は振り返り、整った顔を少しだけ傾けた。

霧が晴れた光の中で、その端正さが隠しようもなく際立つ。


軽い笑みが戻る。

けれど、目だけは真剣で、逃げ場を作らない。


「もう一つだけ。君は私に聞きたいことがある顔をしている。遠慮はするな。会話ができないと、道中で困る。少しずつでいい。言葉の形を取り戻せ」


少年は、しばらく男を見た。


それから、やっと、掠れた声で言う。


「あなたは、どこから来たの」


男は少し笑った。

嬉しそうというより、面倒だが避けられない質問を受け入れた笑みだ。


「答えるには長い。だが短く言うなら、私は道から来た。街道の話を拾う場所から来て、街道の噂を捨てる場所へ行く。そういう場所を渡り歩くのが仕事だ」


「どこにも、属さないの」


男は、霧の向こうを一度見た。

笑みは消えない。

けれど、目だけが、少し遠くなる。


「看板を背負うと、守るべきものが増える。守るものが増えれば、見捨てるものも増える。俺は、それが嫌だ」


少年は黙る。


けれど、その沈黙は、さっきと違った。

言葉を探している沈黙だった。


男は続ける。


「君の方も、少しずつでいい。どこから来たのか、いつか思い出す。そのとき、私ももう少し話そう。君がどんな家の匂いを持っているか、私は見てみたい」


少年の指が、符袋を握った。


霧が晴れた赤霄原の空気は、まだ冷たい。

それでも、少しだけ、呼吸がしやすい。


白黎は、男の背中を見た。


背中の線が、すっと伸びている。

旅装なのに、どこか品がある。

歩き方には迷いがない。


なのに、置き去りにする冷たさもない。


その背中を見失わないように、

白黎は、一歩を踏み出した。


名がある。

呼ばれる。

つながる。


それだけで、世界は少しだけ、

霧の向こうから手を伸ばしてくる気がした。

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