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六影相剋――記憶喪失の剣士は、六大勢力の争いの中で世界の歪みと向き合う  作者: いぬぬっこ
第一章 影走

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幕間 墨玄

風が向きを変えるたび、霜の匂いの奥に――革の冷えが、ひとすじ混じった。

さっきまで輪を作っていた気配は散って、線になる。村の外周に貼りつき、薄く締めて、試している。


塀の上の猫が、尻尾だけを揺らした。

背を丸めるほどでもない。逃げるほどでもない。

ただ、目を細めてこちらを量っている。


俺は灯の外側に立ったまま、指先を見る。墨は残っていない。残さない。残せば辿られる。

それでも『残る』。骨の内側に沈む、あの手応えだけが消えない。


刃の手応えじゃない。相手の骨を断った感触でもない。

――俺が用意した段取りが、崩れた感触だ。白黎(はくれい)が、崩した感触だ。


白黎。


名を声にしないまま、口の中で一度だけ形にする。

呼べば軽い。ほどけそうに軽いのに、呼んだ瞬間に重くなる。首の後ろに鎖が掛かるみたいに。

重さは、いつもこちらへ引く。


あいつは、守ると言った。命令でも誓いでもない。ただ、事実みたいに置いた。

――その置き方が、気に食わない。


器は命令に従う。器は反射で動く。器は先を選ばない。

選べば割れる。割れた器は使い物にならない。


だから俺は、選ばせる夜を作った。

相棒が動けば折れる。白黎が動けば裂ける。守ろうとすればどちらかが壊れる。逃げ道のない形。

どれかを捨てるしかない形。


なのに白黎は、壊さなかった。

力で踏み潰さず、押し倒さず、必要なところだけを切って、ほどいた。

折れるはずの場所を折らず、裂けるはずの場所を裂かず、噛み合いだけを外した。


静かで、正確で――嫌になるほど、優しい切り方。


優しい刃は、いずれ自分を裂く。

あいつは分かっていた目だった。分かっていて、やった。


俺は舌打ちを飲み込み、足を止めない。

止めれば余計な考えが増える。余計な考えは鈍る。鈍れば遅れる。

遅れは嫌いだ。


――だが、早さも嫌いだ。


早いものは選べない。選ぶ前に終わる。

終わってから「正しかった」を言うのは慰めだ。慰めは死体を起こさない。


俺は夜の冷えを吸い込み、胸の奥の熱を押さえつける。

そして用件だけを掬い上げた。要るのは感想じゃない。報せだ。


「破軍(はぐん)様に報せる」


林の奥で、鴉が一羽、枝を打った。

俺は手を上げる。鴉は怖がらない。怖がらせないように育てた。嘴に細い筒を結んである。


筒を外し、中の薄い紙を開く。紙は短い。短いほどいい。余白は裏切る。


俺は墨を使わない。爪で線を刻む。爪痕は雨で消える。消えるのがいい。残るものほど辿られる。

刻むのは二つだけだ。


――東域・学都。

――秘蔵架の奥の書。


学都には鍵がある。鍵があるところには番がいる。番がいれば癖が出る。

癖は抜ける。抜けるなら、抜け道ごと抜く。刀で抜くんじゃない。仕草で抜く。目で抜く。歩き方で抜く。


そして、その書は――帰虚(ききょ)へ繋がる。


器になる前の『前』。赤霄原(せきしょうげん)にいた理由。あの夜の手順。

白黎の空洞に、最初に入ったもの。入れられたもの。

――それを書が繋ぐなら、筋は一本で足りる。


俺は筒を鴉の嘴に戻し、首を軽く撫でた。


「行け」


鴉は闇に溶けた。

その先に、破軍様がいる。俺は破軍様に従う。従うのは誇りじゃない。生き残るための形だ。


俺は歩き出す。霜灯村(そうとうむら)へは戻らない。村は終わった。

終わった場所に執着すると足が止まる。狙いは東だ。学都だ。


白黎を回収するために、村を燃やす必要はない。

燃やすなら、もっと値打ちのある場所を燃やす。噂が勝手に増える場所を。


学都なら火は大きい。

火が大きいほど、人は正義を呼ぶ。正義を呼べば正派が動く。正派が動けば隙ができる。

隙ができれば――棚の奥まで手が届く。


隙ができれば――書は抜ける。


俺は、もう一度だけ名を口の中で転がす。


白黎。


今度は願いじゃない。条件だ。

死ぬな。死なれたら計算が崩れる。


闇の中で、俺は森の奥へ消える。

闇より薄い影として。

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