幕間 墨玄
風が向きを変えるたび、霜の匂いの奥に――革の冷えが、ひとすじ混じった。
さっきまで輪を作っていた気配は散って、線になる。村の外周に貼りつき、薄く締めて、試している。
塀の上の猫が、尻尾だけを揺らした。
背を丸めるほどでもない。逃げるほどでもない。
ただ、目を細めてこちらを量っている。
俺は灯の外側に立ったまま、指先を見る。墨は残っていない。残さない。残せば辿られる。
それでも『残る』。骨の内側に沈む、あの手応えだけが消えない。
刃の手応えじゃない。相手の骨を断った感触でもない。
――俺が用意した段取りが、崩れた感触だ。白黎が、崩した感触だ。
白黎。
名を声にしないまま、口の中で一度だけ形にする。
呼べば軽い。ほどけそうに軽いのに、呼んだ瞬間に重くなる。首の後ろに鎖が掛かるみたいに。
重さは、いつもこちらへ引く。
あいつは、守ると言った。命令でも誓いでもない。ただ、事実みたいに置いた。
――その置き方が、気に食わない。
器は命令に従う。器は反射で動く。器は先を選ばない。
選べば割れる。割れた器は使い物にならない。
だから俺は、選ばせる夜を作った。
相棒が動けば折れる。白黎が動けば裂ける。守ろうとすればどちらかが壊れる。逃げ道のない形。
どれかを捨てるしかない形。
なのに白黎は、壊さなかった。
力で踏み潰さず、押し倒さず、必要なところだけを切って、ほどいた。
折れるはずの場所を折らず、裂けるはずの場所を裂かず、噛み合いだけを外した。
静かで、正確で――嫌になるほど、優しい切り方。
優しい刃は、いずれ自分を裂く。
あいつは分かっていた目だった。分かっていて、やった。
俺は舌打ちを飲み込み、足を止めない。
止めれば余計な考えが増える。余計な考えは鈍る。鈍れば遅れる。
遅れは嫌いだ。
――だが、早さも嫌いだ。
早いものは選べない。選ぶ前に終わる。
終わってから「正しかった」を言うのは慰めだ。慰めは死体を起こさない。
俺は夜の冷えを吸い込み、胸の奥の熱を押さえつける。
そして用件だけを掬い上げた。要るのは感想じゃない。報せだ。
「破軍様に報せる」
林の奥で、鴉が一羽、枝を打った。
俺は手を上げる。鴉は怖がらない。怖がらせないように育てた。嘴に細い筒を結んである。
筒を外し、中の薄い紙を開く。紙は短い。短いほどいい。余白は裏切る。
俺は墨を使わない。爪で線を刻む。爪痕は雨で消える。消えるのがいい。残るものほど辿られる。
刻むのは二つだけだ。
――東域・学都。
――秘蔵架の奥の書。
学都には鍵がある。鍵があるところには番がいる。番がいれば癖が出る。
癖は抜ける。抜けるなら、抜け道ごと抜く。刀で抜くんじゃない。仕草で抜く。目で抜く。歩き方で抜く。
そして、その書は――帰虚へ繋がる。
器になる前の『前』。赤霄原にいた理由。あの夜の手順。
白黎の空洞に、最初に入ったもの。入れられたもの。
――それを書が繋ぐなら、筋は一本で足りる。
俺は筒を鴉の嘴に戻し、首を軽く撫でた。
「行け」
鴉は闇に溶けた。
その先に、破軍様がいる。俺は破軍様に従う。従うのは誇りじゃない。生き残るための形だ。
俺は歩き出す。霜灯村へは戻らない。村は終わった。
終わった場所に執着すると足が止まる。狙いは東だ。学都だ。
白黎を回収するために、村を燃やす必要はない。
燃やすなら、もっと値打ちのある場所を燃やす。噂が勝手に増える場所を。
学都なら火は大きい。
火が大きいほど、人は正義を呼ぶ。正義を呼べば正派が動く。正派が動けば隙ができる。
隙ができれば――棚の奥まで手が届く。
隙ができれば――書は抜ける。
俺は、もう一度だけ名を口の中で転がす。
白黎。
今度は願いじゃない。条件だ。
死ぬな。死なれたら計算が崩れる。
闇の中で、俺は森の奥へ消える。
闇より薄い影として。




