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六影相剋――記憶喪失の剣士は、六大勢力の争いの中で世界の歪みと向き合う  作者: いぬぬっこ
第一章 影走

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第九話 器か、侠客か

風が向きを変えるたび、霜の匂いの奥――革の冷えが、ひとすじ混じった。

さっきまで輪を作っていた気配は散って、線になっている。村の外周に貼りつき、薄く締めて、試している。


梟が一度だけ羽音を立てた。

鳴くはずの高さまで喉が上がって、音が落ちた。

夜が、先に息を止めたみたいだった。


白黎(はくれい)は灯の外側で足を止めていた。

剣の柄には触れている。だが、力は入れない。抜かない。

抜く理由が、まだ『定まっていない』。


追える距離が残っている。追いつける距離が残っている。

追えば、斬れる。

その確信が胸の奥で冷たく鳴るのに、足は前へ出ない。


燕秋(えんしゅう)の吐息が落ちる。短く、硬い息。


「追わない」


小さな言い切りが、白黎の内側の向きを変えた。

衝動の行き先が、そこで断たれる。


蘇雨(そうう)が薄く香を流す。濃くしない。消さない。

ただ、固まりかける呼吸の結び目を遅らせる程度に。

家の中の息が、ひとつ、ふたつ戻る。泣き声が喉で止まったまま、耐える。


三人はそれ以上踏み出さず、灯の届く境目で立ち続けた。

村は暮らしている。暮らしているからこそ、壊されるのが怖い。

その怖さが、霜の匂いに混じって薄く立っていた。


やがて、林の縁の固さが少しだけ緩む。

『見ていた線』がほどける。散って、遠ざかる。


燕秋が小さく言った。


「戻るぞ。……今夜は、ここまで」


白黎は頷く。

蘇雨も、息を落とす。


村の中へ戻る道は、音が少なかった。

戸は閉まり、灯は「見える程度」で止められている。

霜灯村は『夜の段取り』が早い村だった。早く閉め、早く静かにすることで、生き延びてきた村。


宿の裏手――人目の少ない場所で、燕秋が立ち止まる。

白黎と蘇雨も止まる。灯の輪に戻る前に、息だけ整えるための間だ。


蘇雨が、前へ出ずに言った。


「燕秋さん。今夜は……動きが少し荒い。癖が出ています」


燕秋は笑いを作る。作るだけで、貼り付けない。


「荒く見えたか」


「見えました」


白黎は何も言わない。

だが、燕秋の呼吸が一拍だけ浅くなる癖を、もう知っている。


燕秋は白黎を見ずに言った。


「白黎。部屋に入ったら、湯だけでも飲め。……腹が空いてると、余計なものを拾う」


白黎は短く返す。


「……分かりました」


その返事が、いつもより少しだけ『真っ直ぐ』だった。

燕秋の口元が、ほんの僅かに緩む。緩んで、すぐ戻る。


宿の中は、もう静かだった。

広間の灯は落とされ、囲炉裏の灰が赤く眠っている。煮干しと味噌の匂いが、遅れて冷えていく。


温かいものは、すぐに夜へ戻る。

壊れるというより、戻っていく。静けさへ。


白黎は座ったまま、湯気の消えた椀を見ていた。

目は落ち着いているのに、内側だけが落ち着けていない。そんな沈黙だ。


燕秋は火ではなく、戸の方を見ていた。

声の形だけ軽くして言う。


「……白黎、ここを好きになりかけてるな」


白黎は返さない。返したら、何かがほどけそうだった。

代わりに、息をひとつ吐く。


燕秋も同じように吐く。

呼吸が合うだけで、白黎の胸の奥の薄い痛みが、少しだけ沈む。


その時――空気の端が冷たくなった。


音はしない。

けれど、火がふっと細くなる。灯が勝手に揺れる。

外の闇の密度だけが、薄く変わる。


燕秋が立つ。床を鳴らさずに立つ。


「……来る」


白黎も同じ速度で立つ。剣には手を伸ばさない。今は、まだ抜かない。

蘇雨は一歩も前へ出ず、香を薄く落とした。喉が詰まらないための薄さ。


三人は戸を開けず、まず『聞く』。

霜灯村の夜は音に敏感だ。敏感にして生きてきた。


――外。


足音がない。

でも、何かが動く気配がある。


燕秋が、声を落とす。


「裏。井戸の方だ」


三人は宿の裏手へ回る。

灯の輪から外れないぎりぎりで、闇の縁を見る。


霧が低く這っていた。

月が薄い。

その薄い月明かりの下で、黒布を巻いた者たちが二つ、三つとほどけるように現れる。


玄影の末端。

声を出さない。威嚇しない。

ただ、近い家から家へ、必要なものだけを奪っていく。


米袋。薬草。乾いた薪。

量が少ないのが余計に嫌だった。――長く続けられるやり方だ。


白黎の視界が狭くなりかける。

斬れる。斬ってしまえば終わる。

その囁きが骨の中から湧く。


燕秋の声が背に落ちた。短い。命令じゃない。合図だ。


「白黎、抜くな。今は止めるだけだ」


白黎は即答する。


「……抜きません」


返答が速い。

身体がもう、『やるべきこと』を覚え始めている。


玄影の一人が、家の戸口へ寄る。

中に入らない。入らずに、戸の隙間へ指を差し込む。

泣き声が漏れた。漏れたのに、すぐ止まる。

母親の手だ。村を守る手だ。


玄影の者が指を立てる。「声を上げるな」。次がある、と。


白黎の胸の奥が冷える。冷えるのに、目だけが冴える。


白黎は一歩前へ出た。

内功を巡らせる。強くしない。鋭くしない。

水が石を避けるみたいに、流れだけを整える。


玄影の末端が振り向く。刃が来る。

白黎は受けない。受けずに、相手の呼吸の『端』だけを切る。


腕が落ちる。足が止まる。

血は出ない。倒れない。

ただ、立てなくなる。


燕秋は屋根へ上がっていた。

瓦を踏まず、影だけを渡る。

敵の視線を切り、逃げ道を一本に寄せる。白黎が立つ場所へ――最短の線で。


白黎は二人目を止め、三人目の膝の角度だけを崩す。

折らない。恨みを増やさない。

でも、立てない。


蘇雨が、後ろから符を滑らせた。

霧を裂く札ではない。

『音が立つ方向』へ薄い膜を作る札だ。


音が少しだけ遠くなる。

遠くなったぶん、家の中の呼吸が戻る。

恐怖が、村の中へ深く入らない。


玄影の末端は、揃って引いた。

逃げじゃない。追わせるための引きだ。


燕秋の声が、すぐ落ちる。


「追うな」


白黎は即答する。


「……分かっています」


追えば倒せる。倒せば片がつく。

片がついたと思った瞬間に、次が来る。

白黎はそれを、もう身体で知っている。


だから足が出ない。

止まれた。止められた。


林の縁がまた「何もない顔」をする。


――そのはずだった。


霧の温度が、さらに落ちた。


玄影の末端が、揃って膝をついた。

恐怖ではない。規律だった。

合図のように揃う。——『上』が来た。


闇が濃くなる。

月明かりがあるはずなのに、足元の白が消える。

風が止まり、火の匂いが遠のく。


灯の外側に、ひとつの影が立っていた。


背は高くない。体も細い。

けれど存在だけが重い。黒を塗り重ねたような圧が、空気を沈めている。

黒い外套。袖口に墨のような紋。

顔は整っているのに、表情が『ない』。目だけが冷たくこちらをなぞる。


燕秋が、息をひとつ吐く。

名前を出す吐息じゃない。――距離を測る吐息だ。


「……墨玄(ぼくげん)


呼ばれた名が、霜灯村(そうとうむら)の夜を一段だけ固くした。


墨玄は答えない。

答えないまま、淡々と言う。


「……まだ壊れていないのか」


声は静かで、苛立ちも驚きもない。

ただ、結果を確認しているだけの声。


白黎の背筋がぞくりとした。

知らないはずなのに、知っているような響きがある。


燕秋が屋根から降りる。

白黎の隣ではなく、半歩前。盾になる位置だ。

けれど肩は緊張していない。呼吸が、わずかに浅いだけ。


墨玄が燕秋を見る。

呼び捨てでも侮蔑でもない声で言う。


「……流雲衆(りゅううんしゅう)影走(えいそう)。燕秋」


名を呼ぶだけで、霜灯村の夜がさらに固くなる。

名の重さまで知っている言い方だった。


燕秋は笑わない。

代わりに指先を僅かに動かす。合図。白黎にだけ分かる呼吸のサイン。


白黎は息を吐く。短く。

胸の奥の『削れる感覚』が薄く疼くのが分かる。


墨玄の視線が白黎へ移る。

初めて見るものを測るようでいて、もう『知っている』目だ。


「白黎。……その名は、今のものだな」


白黎は答えない。

答えれば、名がほどける。ほどければ――自分が壊れる気がした。


燕秋が割って入る。声を落とし、刃の角度にする。


「用件は何だ。村に手を出すな」


「手は出していない」


墨玄は淡々と返す。


「俺は『結果』を見に来ただけだ」


燕秋の眉が僅かに動く。

霜灯村を『材料』として置いているのが分かったからだ。


「結果?」


墨玄は、白黎に向けて言う。


(うつわ)が、器のままで終わるか」

「意思を持つ侠客(きょうかく)となるのか」


その言葉が落ちた瞬間、白黎の背がひやりとした。

理解されることが、怖い。


白黎は――そこで、息を一つだけ整えた。

短く吐く。腹に落とす。散らさない。


「……僕は器じゃない」


燕秋の気配が、半歩だけ動く。止めに入る癖。

白黎は袖を掴まない。今は、言葉で立つ。


白黎は墨玄を見た。硝子みたいな目のまま、言い切る。


「僕には名がある」

「白黎です」


墨玄の目がわずかに細くなる。笑わない。値を量る。


「名は鎖にもなる」


「知っています」


白黎はすぐ返した。

知っているからこそ、続ける。


「でも、鎖にされないために――名で立ちます」

「誰の道具にもならないために、この名で歩きます」


燕秋の吐息が、短く落ちる。

聞く準備の息だ。白黎はそれを拾って、言葉の角を落とさないまま、刃にしない。


「どこの門派(もんぱ)にも、僕は相応しいとは思えません」

「まだ、何も思い出せない」

「でも――」


一拍。

白黎は自分の胸の奥へ一度だけ視線を落として、戻す。


「それでも、僕はこの江湖(こうこ)に生きる」

「器としてじゃなく、侠客として」


蘇雨が薄い香を落とす。

喉を守るための薄さ。


墨玄は黙っていた。

黙ってから、事務みたいに訊く。


「侠客とは何だ」


白黎はすぐに答えない。

代わりに、今日の順だけを置く。


「踏みにじられそうなものを見た時」

「目を逸らさないことです」


燕秋が、低く息を吐いた。止める息じゃない。並ぶ息。


白黎は続ける。


「守ると決めたなら、守り方も選ぶ」

「斬れるから斬るんじゃない」

「残るものが増えるなら、斬らない」


墨玄の口元が、ほんの少しだけ動く。笑みではない。


「綺麗事だ」


「綺麗事でも、やります」


白黎は揺れずに返した。

ここだけは、譲らない。名を譲らない。


「燕秋を前に出して生きるのは、嫌です」

「隣に立つって決めたから」


燕秋の呼吸が一拍だけ浅くなる。

癖が出る手前で、止まる。


墨玄は白黎を見たまま、淡々と言う。


「なら見せろ」

「その名が、どこまで持つか」


白黎は息を吐いた。短く。散らさない。


燕秋が、低く言う。


「黙れ。白黎に余計な形を入れるな」


墨玄は燕秋を見る。視線の角度が、刃みたいに正確だった。


「……まだ、迷っているのか」


「何をだ」


「選ばなかった夜を」


空気が一段冷える。

燕秋の気配が変わった。軽い影が、刃に変わる。


――行く気だ。


燕秋は屋根から降りるのではない。落ちる。

落ちて、墨玄の前へ立つつもりだ。

いつもの癖だ。自分が刃を受けて、隣を生かす。


白黎の体が先に動いた。


手を伸ばす。掴む。

布。


燕秋の袖口が指に絡まる。ほんの一瞬の抵抗のあと、燕秋の動きが止まった。


「……離せ」


声は低い。怒っているようで怒っていない。

癖みたいに出る、いつもの拒否。


白黎は離さない。


燕秋が振り返る。目が細くなる。

いつもなら、笑って誤魔化す目だ。

だが今は違う。鋭い。『行く』目だ。


「私が行けば——」


言い切る前に、白黎が息を吐いた。短く。

合図と同じ呼吸。燕秋が『聞く準備』をする息。


白黎は言葉を選ばない。選べない。

だが今だけは言う。


「……行かせない」


それだけ。


燕秋の眉が僅かに上がる。

笑いが出そうになって、出ない。


「重いな、白黎」


軽口。いつもの逃げ道。いつもの距離。


白黎は袖を掴んだまま、首を振る。


「知っています」


声が揺れない。硝子みたいな瞳に、迷いだけがない。


燕秋は舌打ちを飲み込む。目を逸らして、息を吐く。

胸の奥で何かが軋む。


昔の夜がよぎる。選べなかった夜。選ばなかった夜。

その夜と同じ形で、また誰かを前へ出そうとしていた自分。


白黎の指が、僅かに強くなる。


――今夜は、お前を前に出さない。


燕秋はようやく笑った。ほんの少し。誰にも見せない形で。


「……わかったよ」


そして、袖から視線を外す。


「終わらせるぞ、白黎」


白黎は掴んだ指を緩める。離さないまま、緩める。

それが、二人の合図になった。

ほどけない程度に、隣を残す。


墨玄が小さく息を吐く。

称賛ではない。値踏みの音だ。


「……できるな」


そして、白黎へ静かに告げる。


「来い。俺の元に来れば、無駄に揺れずに済む」


甘さはない。

ただ、『所有』の提案だった。


燕秋が低く返す。


「断る」


墨玄は首を傾げる。


「お前が単なる器でないなら、見せてみろ」


その足元に、墨が滲んだ。地面に線が生まれる。

刃ではない。結界でもない。

『間』を区切る柵だ。呼吸の通り道まで、静かに塞いでくる。

踏み越えれば、こちらが裂ける。動けば動くほど、連れていかれる。


白黎は息を整える。

強く押し返さない。押せば折れる。

水のように、線を滑らせる。詰まりを避け、流れだけを保つ。


墨玄の動きは無駄がなかった。

殺しに来ていない。壊しに来ていない。

――連れていくために、封じに来ている。


燕秋が横に動く。影の角度を変え、白黎の視界を少し広げる。

その一瞬、墨の線が燕秋の足元へ沈んだ。


――逃げると裂ける配置。


白黎の胸が冷える。理解できてしまう。

この男は燕秋を『材料』にする。白黎の選択を引きずり出すために。

――なら、選ぶ。今ここで。


白黎は剣に手を伸ばした。

抜かない。まだだ。抜くのは最後の一回だけ。


指が柄に触れた瞬間、胸の奥が冷たく鳴る。

追えば斬れる、という衝動じゃない。

「ここで終わらせない」という決め方だ。


燕秋の吐息が、いつもより硬い。


「……白黎」


名を呼ぶだけで合図になるはずだった。

けれど今夜は、名が合図じゃなく釘になる。


燕秋は、ほんの一拍だけ声の温度を上げた。

怒りじゃない。焦りだ。自分への。


「……私より、先に行くな」


いつもの癖で前に出ようとする自分を、そこで止めている声。


白黎は答えない。

答えたら揺れる。揺れたら削れる。

だから、息で返す。短く吐く。燕秋も同じテンポで吐く。


呼吸が合う。


白黎は内功(ないこう)を巡らせる。墨の柵を力で壊さない。

流れを変え、燕秋の足元の線だけを『薄く』する。

燕秋が動ける幅を、指一本分だけ作る。


燕秋が吐息を零す。


「……守られることが、こんなに残酷なんて」


白黎は返さない。返したら揺れる。

代わりに、もう一度息を吐く。

聞く準備じゃない。並ぶ準備の息だ。


墨の線が、わずかに揺れた。

揺れの継ぎ目だけが、ほんの薄い。


白黎の目がそこを拾う。

拾った瞬間に、決める。


――最後の一回。


白黎は剣を抜いた。


音は大きくない。

だが、抜かれた空気が一段冷える。

霜灯村の夜の「薄い静けさ」が、刃の形に変わる。


一閃。


狙いは墨玄ではない。

燕秋の足元を縛っていた墨の線――『回収の線』だけを断つ。


墨が途切れる。

空気が軽くなる。風が戻る。火の匂いが鼻に戻ってきた。

霜灯村の夜が、わずかに呼吸を取り戻す。


――その瞬間。


燕秋の喉が詰まった。

詰まって、すぐ吐く。吐いて、白黎の呼吸を拾う。拾って、繋ぐ。


「白黎――!」


呼び止める声じゃない。

遅れを許さない声だ。自分への。


墨玄の『返し』が来た。

刃ではない。墨の冷えが、細い線になって走る。


白黎は受けない。

受けずに、身体を半歩だけずらす。

ずらしたぶんだけ、燕秋の影を庇う角度が消える。


――それでいい。


白黎の脇腹が、熱く裂けた。


遅れて、血の匂いが立つ。霜の匂いに、細く混じる。


身体が先に動いて、意識が半拍遅れて来る。

――今日はまだ、遅れで済んでいる。


白黎は眉ひとつ動かさない。

動かさないまま、剣を戻す。――戻せる。だから怖い。


燕秋の胸の奥が、遅れて燃えた。

怒りだ。白黎へじゃない。

「止めきれなかった自分」への怒り。


燕秋はその怒りを、声にしない。

声にすれば刃になる。刃になれば白黎が受けて、遅れて落ちる。


だから息にする。短く、硬く。


「……息、落とせ」


合図。命令じゃない。

白黎は短く吐く。燕秋も吐く。

呼吸が合って、白黎の足がまだ『ここ』に残る。


墨玄は怒らない。悔しがらない。

計算が一つ外れただけの顔で、白黎を見る。


「……死ぬなよ、白黎」


それだけが、墨玄の『願い』に見えた。

願いじゃない。次の回収のための条件だ。


墨玄は燕秋を見た。


「……まだ約束を守っているのか」


燕秋は答えない。

答えれば白黎が聞いてしまう。聞けば白黎の呼吸が乱れる。乱れれば――削れる。


燕秋は一度だけ、手を握った。

掌の中で、爪が皮を噛む。痛みで怒りを封じる。

封じたまま、白黎の隣に立つ。


墨玄は白黎へ視線を戻す。


「次は、『選べる夜』に来る」


一拍。


「お前が自分で来い」


黒い影が闇へ溶ける。玄影の末端も同じ方向へ薄れる。

残ったのは、切れた墨の跡と、霧の薄い匂いだけだった。


しばらく、誰も動かなかった。


村のどこかで、戸がそっと閉まる音がした。

守られた夜が、遅れて帰ってくる音だった。


蘇雨が、薄い香をもう一度落とす。

今度は『戻す』ためではない。

今夜を、村の夜へ戻すための薄さだ。


燕秋が白黎の前へ来る。

触れない距離で止まる。触れたら、白黎が『ここ』を落としそうだったから。


燕秋は声を絞るように言った。


「……守られた借りは、大きい」


白黎は短く返す。


「返して下さい」


燕秋が笑う。笑って、息を吐く。

笑いは逃げじゃない。白黎を『ここ』に繋ぐための薄い糸だ。


「返し方、覚えとけよ」


「……うるさいです」


白黎は顔を背けた。

胸の奥が、じんと熱い。名を呼ばれて温かくなるみたいに、勝手に熱が生まれる。

脇腹の熱も、同じ場所で鳴っている。


燕秋は、その熱を見落とさない。

見落とさないまま、怒りを噛み殺す。

噛み殺しながら、手順だけを落とす。


「行くぞ。――灯の内側へ戻る」


白黎は頷く。


「……はい」


灯の輪の内側へ戻る道で、白黎は一度だけ振り返った。

林の縁は「何もない顔」をしている。

けれど、風があるのに葉擦れが薄い。


――まだ、いる。


燕秋も、振り返らない。

振り返らずに、もう一度手を握った。

さっきと同じ。掌の中で爪が皮を噛む。


今夜、白黎を裂かせたのは敵だけじゃない。

自分の癖だ。自分の選び損ねだ。


その怒りが、冷えないまま胸の底で赤く残る。


ただ今夜は、村の中へ入られなかった。

それだけで霜灯村は、暮らしを続けられる。


三人の足音は小さいまま、宿へ戻っていった。

霜灯村の夜は静かだった。

けれどその静けさはもう、ただの静けさではなかった。

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