第九話 感覚の鋭線
模擬戦は、白黎の予想よりも手強かった。相手は門弟たちで、その動きは教科書通りではない。互いの呼吸、筋肉の緊張、重心の移動――すべてを総合して瞬時に判断する必要があった。白黎の手首が微かに回転し、剣先が相手の攻撃を誘導する。その動きはほとんど見えない。しかし、床に残るわずかな軋み、空気の揺れ、木の壁に当たる光の反射、門弟の呼吸音――それらを統合することで、彼の体は一歩先を予測していた。
「……うむ、悪くない。」宗允の声は静かだが厳しい。低く重く、演武場の空気に響く。「だが、感情の揺れはまだ制御できていない。意識が動きを縛る時、全ては途端に鈍くなる。」白黎は呼吸を整え、小さな筋肉の微調整だけで攻撃を逸らし、次の動作に繋げる。表情は変わらない。だが、心の奥では体の反応が徐々に自己を確立し始めていることに気づいていた。
燕秋が傍らで小さく笑った。「やっぱり感覚だけで動くタイプだな。理論は後からついてくる。」白黎は答えず、次の門弟を待つ。相手は力強いが、白黎の動きに遅れはなく、最小限の軌道で剣を走らせる。跳ねる砂埃、床のきしみ、息遣い――すべてが戦場のデータとして白黎の脳に吸い込まれる。
やがて宗允は手を下ろした。「ここまでだ。」その声に、門弟たちは剣を納め、息を整える。白黎の体は微かに震えたが、表情は変わらない。身体の感覚には、先ほどまでとは違う「自分の意思で動く感覚」が確かにあった。
白黎は剣を鞘に納め、燕秋と共に会所を後にする。
「さて、江湖の現実だ」燕秋は軽口を交えるが、声には緊張が混じる。
二人は軽功を用い、屋根や石垣を踏みながら村へ向かう。風を切る足音もなく、影は滑るように草原を進む。白黎の呼吸は整い、身体の動きは戦闘時の精密さを保ちながらも、足取りは柔軟で軽やかだった。遠くに村の影が見える。血の匂いと内功の残り気が、彼の鼻をかすかに刺激する。
村の入口に差しかかった瞬間、鴉梁の影が視界に入る。
「……来たか」白黎の声は低いが迷いはない。燕秋もすぐに構える。
先頭の鴉梁が布を外し、力強く前に踏み込む。
「まだ片付いていないようだな」低く荒れていない声。
白黎は剣を抜く。
「奪う必要はない」と告げる前に、鴉梁の手が動く。
鋭い突き、剣と剣が触れる音、床を踏む足の衝撃。
白黎は踏み込みを微調整し、天衡内気で衝撃を吸収。
剣先で鴉梁の攻撃を逸らしつつ、逆に腕を詰める。
「守るべきものは守る」白黎の剣が走り、鴉梁の腕を抑える。
燕秋も横から流れをずらし、鴉梁の部下二人を軽く押し返す。
短い交錯の後、鴉梁はわずかに後退した。「……前回とは違うな」
白黎は剣を下ろす。動作は最小限だが、意思の力で相手を止めた。
鴉梁は一瞬考えた後、部下と共に村の奥に退く。血は流れたが、大きな被害はない。
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数刻後、庵の戸口から穏やかな気配が漂った。白髪まじりの月衡――清談派の治療者だ。
「白黎、燕秋……久しぶりだな」
白黎はゆっくり頷く。「月衡、手伝いは必要か?」
月衡は首を軽く振る。「いや、今回は大丈夫だ。君たちの成長を見たかった」
白黎の瞳を静かに見つめる月衡。以前の白黎は戦いの反応が先行し、意思が見えにくかった。しかし今は違う。村と人を守るため、自ら判断して動いていることがわかる。
燕秋がそばで小さく笑う。「やっと意思で動けるようになったな」
月衡は短く微笑む。「うむ。己の軸ができたな」
庵の中では香の匂いと静寂が混ざる。白黎は包帯を巻かれた村人を見つめながら、剣は使わずとも、意志を伴った反応の精密さを感じていた。黄昏が迫り、長く伸びる影の中で、白黎は確信する――守るべきものと避けるべき争いを、選べる自分がいることを。
月衡は最後に小さく言った。「今日も越えさせなかったな」
白黎は無言で頷き、草原に伸びる影を見つめる。夜は長い。だが、前よりも一歩先を見据えて進むことができる自分がいた。




