蒙霧升降(ふかききりまとう)
周囲に濃い霧が立ち込めている。以前、こんなことがあったのは冬のことだ。今や夏も終わりかけ。記憶を失ってから意外と、時間が経っている。
今回は前回と違い、事前にこういう時期だと言われていたし、もうこんな“城”で起こる奇天烈な事象には慣れた。チカはそう考えながら廊下を行く。
窓に打ち付けられた木板に、水の粒が勢いよくぶつかる音がする。おまけに、風を受けてときおりガタガタと揺れる始末。
“城”の内部に霧が立ち込めている現在、外は絶賛台風が接近している最中のようであった。そういうわけでここのところは雨続き。チカたちはスッキリとしない日々を送っている。
チカがなぜ廊下を歩いているのかと言えば、もちろんそれは目的があってのことである。大雨と強風を伴う台風のせいで“城”のあちらこちらにある窓を塞ぐ木板が、どこかへ飛んで行っていないか確認するためだ。
チカにはよくわからないが、“城”は閉じられていなければならない――つまり、閉鎖空間でなければならないらしい。
その割には、木板の張り付け方が雑な部分も散見される。そこからは常であればわずかな日光が差し込み、今は雨水が吹き込んでくる。お陰様で猛烈な風と共に廊下へ吹き込んできた雨水が当たって、チカの服は若干しめってしまっていた。
湿気を含んだ服を着続けるのは、憂鬱だ。けれども巡回が終わるまではまだ距離がある。ゆらゆらと、ことさらにランタンを揺らしてみたりして、チカは気を紛らわせつつ木板の張りつけられた窓へと視線を向ける。
不意に、だれかに呼ばれた気がした。
「あ、マシロ」
チカのよく知る相手が、霧の向こうにたたずんでいるのが、うっすらと見えた。あの小さな背とシルエットは、マシロに違いなかった。
しかし、今までずっとチカの隣で黙り込んでいたアマネが、盛大に舌打ちをする。それにチカがびくりとおどろいてしまったのは、無理からぬことだろう。
そしてアマネは忌々しげに、まるで唸るように言う。
「よく見ろ。あれはマシロじゃねえ」
「え?」
チカはよくよく霧の向こうにたたずむマシロ――と思わしき人物を見た。そしてふっと気づいてしまった。
以前、チカに不可思議な霞の中にあっても道を照らし出せるランタンを教えてくれたのは、マシロだ。そのマシロがランタンを持っている様子がない。それは明らかにおかしいことだった。
“城”の内部は暗く、ランタンは必需品である。それなのに、マシロはそのランタンを持っている様子がなく、ただぼんやりと立ち尽くしているように見える。
「いや、でも、もしかしたらなにかあったのかも」
「……よく見ろって言っただろ」
五メートルは先にいるだろうその影が、マシロ本人である可能性が低いとは知りつつそんな言葉を口にすれば、アマネからは呆れたため息が返ってきた。
アマネの言う通りに、チカはもう一度マシロに視線をやる。
「なんでランタンで照らしてもいないのに、霧の中で全身が白く浮かび上がっているんだ」
「それは……マシロが白い服を着ていてアルビノだから?」
「ふざけてんのか」
「ごめん。目の前に人間じゃない存在がいると思うと怖くて……」
チカは素直に心情を吐露する。そうすればアマネからはまた呆れたため息が漏れ出るのであった。
「どうする? 迂回する?」
「それじゃ巡回してる意味がねえだろ」
「いやあ……でもあれがいるし」
「じゃあ倒す」
「え?」
「ここで待ってろ」
そう言うやアマネは足元にランタンを置いて、棒を片手に前方へと突撃してしまった。
チカが呆気に取られている間にアマネが棒の先で白い影に一撃を食らわせる。しかし遠目に見ても手ごたえがあったようには見えない。それでも白い影は周囲の霧に溶け込むように消えてなくなってしまった。
チカはアマネのランタンを手に取って、彼へと駆け足気味に走り寄る。
「どうだった?」
「なんか風船でも突いたような感じだったな……」
アマネは釈然としない顔で、床へ向けた棒の先を見ていた。
「まあいいか」
だがアマネは次の瞬間にはけろっとしてそんなことを言う。
「また出てきたらボコればいいだけだし」
チカはアマネにランタンを渡しつつ、彼だけは本気で怒らせないほうがいいだろうと思った。




