第四十三話:鏡写しの僕と私
深い深い闇の中へ飲まれていく。質量の無いはずのものに全身を圧迫される奇妙な感覚だ。それに対抗するのは全身に張り巡らされた、闇と根元を同じくする力。
しかし、足りない。闇に対抗するには一歩及ばない。そのまま徐々に抵抗を奪われて──
気がついたときには真っ白な空間にターナの意識はいた。光の明暗すらありやしない、いつまでも何もない空間だ。
地に足をつけているのか、それとも宙に浮いているのか。ただひたすらに広がる、距離感が狂ってしまいそうな世界。
──目の前の少女がいなければ、事実そうなって狂ってしまっているかもしれない。
少女から女性に変わりかけている年頃。透き通る銀髪と碧眼が特徴的で、全身真っ白な印象を受ける少女だ。この世界に来てから、鏡を見るたびに何度も視界に入れてきた姿でもある。
ふと、自分の頭から垂れている銀髪を手に取ってみる。間違いない、目の前の少女と全く同じものだった。
「はじめまして、って言うべき?」
「初対面ではありますけど、ずっと傍らにいましたから……難しいところです」
その言葉を聞き、ターナは目の前の少女が“ターナ”であることを確信する。
不思議と、驚きはない。あるいはそれは、この空間を本能的に理解していたからかもしれない。
だから、瓜二つの存在と向き合う奇妙な体験を落ち着いて受け止めて──自虐的に顔を歪めた。
「どうしたの?」
ターナの様子に“ターナ”が首をかしげる。彼女は分かっていないのだろうか。それなら黙っていても良いのでは。
そのような逃げの思考に向かいかけて、ターナは溜め息をついた。
「"僕"を……恨んでいないんですか?」
「恨むってあなた、"私"に何もしてないでしょ。あ、“私”の裸を見ちゃったとかそういうこと? それなら仕方の無いことだったから別に……」
「もっと他のことがあるじゃないですか……!?」
心当たりを次々と挙げていく“ターナ”に向かって思わず声を荒らげる。彼女からしたら理不尽でしかない行為だ。
そのようなこと、分かっている。分かり切っている。それでもターナは、叫ばずにはいられなかった。
「あなたは“僕”が好き勝手に産み出した存在です! 事情を知らなかったとはいえ、何の責任感もなく、ただ気まぐれで!」
"天の落とし子"、それはプレイヤーがキャラメイキングすると共にこの世界へ産み落とされる存在だ。理由は、分からない。
何故ただのゲームにキャラクターを作成しただけで、別の世界に本物の人間が産まれるのか。理由は分からないが、今重要なことはそれではない。
「“天の落とし子”の境遇は大体聞いていますよ。身寄りの無いせいで、大抵は貧民街で泥をすすって生きるか、野垂れ死ぬ。あなただって近衛騎士団にいましたけど、最初からそうだったわけではないでしょう!?」
平和な日本で生まれ、特に不自由無い環境で育ったターナには──長瀬 優理には想像もできない生活だ。
「そんな生活にあなたを投げ込んだのは、“僕”だ!!」
呼吸も忘れて叫んだのに、息は何故か切れない。それが今回ばかりは悪い方向に転がり、ターナの口は止まることが無かった。
「挙句の果てに、自分がこっちの世界に呼び寄せられたらその身体を奪う……どれだけ傲慢なことなんですかね!?」
そこまで吐き出したところでようやく口を閉じる。そして目の前の少女は、ただ何も言わずに表情を変えることも無く、その叫びを聞くだけであった。
念を押すが、彼女にとってはただの理不尽でしかないのだ。今の荒々しい懺悔の言葉を聞いたところで、彼女の過去が良きものに改変されるわけでも無い。ただただ、意味の無い言葉を思い切り叩き付けられただけである。
それを理解できてしまえるからこそ、ターナは今更になって恐怖に駆られた。逆切れもいいところなターナの言動に怒りを見せるか、それとも呆れてため息を付かれるか。
そうやって思いついたことが全て自分本位な物ばかりで、余計に自分へ嫌気が差す。
「……クリスにも言われてたけど、そうやって悪いところばかり見るのはあなたのダメなところじゃない? “私”はあなたに創られて、大変なこともあったけど楽しいこともたくさんあった。辛いことばかり見ても仕方ないよ」
「でも……こうやってあなたの身体を奪ったのは……」
「それも違う。そもそも“私”が“天使狩り”に殺されなければ、あなたが召喚されることも無かったし」
そう慰めを言われてもターナの方が収まらない。未だに苦しげな表情を浮かべたままの姿に、“ターナ”少し考えるような仕草をすると、こちらを真っ直ぐと視線で射抜く。
「分かったよ。納得いかなそうだから、“私”のお願いをいくつか聞いてくれる?」
「ええ! “僕”にできることであれば」
「それじゃあ頼みたいことは二つ。今後、“天使狩り”と戦うことがあったら“私”に任せてほしい。もう一つは……」
そこで何故か一度言葉を区切る。ほんの少しだけ自信なさげに迷いを見せて、だがすぐに決心したのか弱々しい表情を裏に隠した。
「──兄さんを探してほしい。“私”が死んだあの時から、行方知れずのアベル兄さんを探してほしいの」
「え……? 兄さんってアベルのことですよね?」
つい先ほど、できることならやると言ったにも関わらず、ターナはすぐに了承することができなかった。アベル──それはターナが創った最初のキャラだ。
“天の落とし子”の生まれを考えれば、実際に血がつながっているわけでは無いと思われるが、同じ人物から創られたアベルと“ターナ”は兄弟であると言っても過言では無いだろう。
「でもあなたがその……最期を迎えた時に部隊は全滅したって。生き残りはいなかったと聞いているんですが」
しかし、“ターナ”と同じ近衛騎士団に所属していたアベルは彼女が命を落とした時に、共に亡くなっているはずなのだ。その死体は召喚魔法の媒介にされて今頃──
「“僕”がここにいるならアベルの方には誰を召喚するんだ……?」
明らかな矛盾が発生してしまい思考が停止しかける。その様子を見ていた“ターナ”は、疑問に同意するように頷くと、変わらず真剣な眼差しで、
「そう、それなの。“私”もあの時の戦況からして、全滅していることに疑いは無かった。でも、兄さんの最期を直接見届けたわけでは無いし、どうして兄さんじゃ無くて“私”にあなたが召喚されたのかって考えたら……」
「アベルはまだ生きている……だから、召喚されるときにもあなたの身体が優先された……!」
召喚魔法の条件として、魂の召喚先となる“天の落とし子”が抵抗できな程に弱っているか死亡している必要がある。普通に考えれば、メインキャラクターであったアベルに召喚が優先されるはずが、何故か“ターナ”に召喚された。
それはつまり、アベルの召喚される条件が整っていなかった。まだ生きている可能性を意味している。
「だから兄さんの行方を探してほしい。……正直、召喚当時は生きていただけで今も生きているとは期待していないけど、せめてその最期だけでも知りたいの」
せめて家族の最期を知りたい。その言葉には切実な願いと悲しみが籠っていた。
そしてターナも真剣に覚悟を持って頷く。彼女の言葉に適当な態度で返事をするのは、それこそ許されないことだろうから。
無言で了承する姿に“ターナ”はありがとう、と一言感謝を述べる。そして話を切り替えるように困ったような表情を浮かべると、
「その前に今の状況を何とかしないといけないんだけどね」
「……? って、そうでしたよ!! そもそも“僕”はどうなったんですか!? 変な真っ暗な魔法に押しつぶされて……」
この空間に来る前の最後の記憶は、雰囲気を豹変させたユアンの魔法に押しつぶされたところで途切れている。意識を失う直前まで必死に抵抗したはずだが、それがどこまで効果を得ていたのだろうか。
「もしかして、ここって死後の世界とかじゃないですよ……? それか臨死状態になって幻を見てるとか……」
「さすがに幻覚扱いするのはひどいよ。安心して、ここは所謂あなたと“私”の精神世界みたいなもの。夢の中で時間の流れが違って感じるみたいに、ここらいくら話していても実際の時間はほとんど進まないから」
“ターナ”の説明を聞き、安堵からそっと胸をなでおろす。
「まあ、現在進行形で魔法に直撃してるから、数秒後には力尽きてもおかしくないんだけどね」
「ちょ、まずいじゃないですか!」
安堵したのもつかの間、別の危機的状況を伝えられ再びターナは焦る。このまま死ぬのはごめんだし、今の身体はターナだけのものでは無い。死ぬわけには絶対にいかない。
どうすれば状況を打破できるかと本気で頭を回転させて、ふと小さく漏れた笑い声を聞き、顔を上げた。今の自分と同じ声、しかし当たり前だがターナでは無い。
つまり該当者はもう一人しかいなく、
「ふふふ。ごめん、ごめん。本当に危なかったら“私”だって慌ててるよ」
「えっと、ということは……?」
「考えはある。何だかあなたは弄り甲斐がありそうだったから。ついね」
小さく舌を出して可愛らしく謝罪して見せる。その様子を見て、ターナはどっと疲れが湧き出てくるのを感じた。
異世界の自分自身とも言えるこの少女は、中々お茶目なのだろうか。心臓に悪いから勘弁してほしい。
今まさに殺し合いをしている状況で、直接手を出していないとはいえ、当事者がこの余裕っぷりだ。これが潜った修羅場の数の違いか。実際、近衛騎士団に所属していたのだから大きく外れてはいないだろう。
「それで、どうすればいいんですか?」
「簡単だよ。段々と“私”の身体にあなたの魂が馴染んできたから、今なら“私”の魔力をあなたに貸してあげられるはずなの。こうやって“私”たちの身体の内側で会話ができるようになったのも、その証拠だね」
無宗教だったターナには、魂と言う概念がぼんやりとしかイメージが無いものだが、何となく理解はできた。
「でもそれなら、あなたが表に出てくることもできるんじゃ……」
「確かにできるし、危なくなったらこれまで通りそうするつもり。だけどね、ここはあなたに任せたいの」
可能ならどうしてやらないのか。ターナは所詮、強い肉体を持っただけの素人だ。最低限の技術を磨く時間はあったが、一か月にも及ばない訓練と一度だけの実戦で上がる実力など高が知れている。
それでも、戦うことができているのは肉体のスペックの高さに依るところことが大きい。素人のターナでそれなら、本来の持ち主の“ターナ”はもっと上手く動けるはずだ。
そのような考えが表情に出ていたのか、“ターナ”は右の人差し指を立てると子供を叱るような口調で、
「“私”はね。もう本当だったら死んでいるの。こうやって、変な状態だけど会話出来ているだけでもおかしい。“天使狩り”は“私”で倒したいって私情を挟んでるのに、何様って思われるかもしれないけど……可能な限り“私”は表に出ないよ」
「どうしてですか!? “僕”が失敗すれば、せっかく拾ったあなたの命をまた落とすことに……」
「──それにね」
理解出来ない。安全策を取れるならそれが一番では無いのか。意見を主張しようと声を上げ、しかしそれを遮る様に“ターナ”がポツリと零した。
別に怒鳴ったわけでも、特別声が大きかったわけでも無い。なのに、妙にその声は力強さがあって、思わずターナは口を閉じてしまう。
「ずっと“私”の力に頼っていたら、いつかそれが出来なくなった時に困るでしょう? 自信だって一生付くことが無くなっちゃう。それは絶対にダメ。だから、可能な限りあなた自身の手で道を切り開いて」
正に子供に言い聞かせるように、優しく同時に力強く言葉を紡いでいく。だが、それだけでは無い。隠そうとしているが、その言葉の裏側に見える感情と言葉の内容を聞けば、
「その言い方じゃ、まるで……そのうちいなくなるみたいじゃないですか……」
「────」
唖然とするターナの声に、“ターナ”は何も返さない。ただ黙って悲しげに俯くだけで、それが質問の答えだ。それも肯定と言う意味で。
ターナも何も言えず、そのまま沈黙だけが続いていく。しかし、その静寂を破る様に俯いたままの“ターナ”が再び口を開いた。
「身体にあなたの魂が馴染んでいると言ったでしょう? それと一緒に“私”の魂もあなたの中に溶けていくのが分かるの。遠くないうちに“私”とあなたは同化する。そこで“私”は今度こそ終わり」
「何とかしてあなたに身体を返す方法は……」
「たぶん無理だし、別に返してもらう気も無い。別に死ぬわけじゃないしね。“私”という魂はあなた中に存在し続ける。怖くは……いや、ちょっとだけ怖いかな」
最後だけ小さな声で本音を漏らす。この世界で生きてきて、大人びている“ターナ”も怖いことはいくらでもある、一人に女の子に変わりはないのだろう。
「その言い方はひどいですよ……“僕”に、あなたの人生を背負って生きていけって言うんですか?」
「ひどい言い方だけど、そう言わせてもらうよ」
怖がっているのはお互いに同じだ。しかし、ただそれだけのターナと、確固たる信念と覚悟を持っている“ターナ”では、この議論の勝敗は最初からついているのも同然だった。
「……自分以外の人生を背負うだなんて、そんなこと正直御免です。ですが、他に道が無いのならやってやります。“僕”に身体を譲って絶対に後悔はさせません!」
それなら何の意味の無い罪悪感は捨てて、これからのことを努力するべきだ。“ターナ”が消える前に頼れる姿を見せて、後悔はしないと安心させてやるのが最善。
覚悟を決めるように右の拳を正面に突き出して、できる限り力強い表情を作る。たかが少しの会話だけで決めた覚悟で、すぐに折れる可能性は低くない。だが、何事も形からだ。
「じゃあ、早速それを“私”に見せてね。今ならきっと“私”の魔力も扱えるはずだから、現実に戻ったら全力で肉体を強化して、強引に闇を切り裂いて。あの男は強いけど、クリスと一緒なら決して負けることも無いはずだよ」
真似して同じように拳を突き出す“ターナ”。姿が全く同じため鏡を見ているような錯覚に陥りそうな光景だ。同じことを思ったのかお互いに小さく笑みを零した。
そして、真っ白だった世界がさらに光で塗りつぶされていく。現実に戻るのだろう。抱いた即席の覚悟を本物にするべく。
「行ってきますよ、“僕”」
「期待してるよ、“私”」
目の前の少女の輪郭が、突き出した右腕の輪郭が光に消されていく。閉じる精神世界の終わり際で、別れの挨拶を交わして──。
☆ ☆ ☆ ☆
濃密な闇の波動が目の前に迫ってくる。背中に嫌な汗が流れるのを感じながら、クリスは右手に装備した盾に身体を隠して足を踏ん張った。
回避するという選択肢は、残念ながら存在しない。速度が速いこともあるが、それ以上に視界を埋め尽くすほどの圧倒的な魔力の奔流からどうやって逃れろと言うのか。
「うおおぉぉぉぉぉぉ!!」
だが、それは受け止めることも不可能に近いことを示している。事実、最初の一発はターナが必死に展開した魔法の防御を易々と突破し、彼女を地に伏せさせた。今もその闇はターナを押しつぶすように残っており、銀色の少女の安否は不明だ。
最悪の結果だってあり得るわけで──
「がっ……! くっそおおぉぉぉ!!」
その思考も盾と闇が衝突したことであっさりと霧散する。右腕に尋常では無い負担がかかり、踏ん張っているはずの足も徐々に後ろへ滑っていく。
このままでは押し切られるが、だからと言って受け流すにも規模を大きすぎた。万事休す、絶体絶命。そのような言葉が脳裏を掠め、クリスに諦めの感情が芽吹く直前、
「はああぁぁぁぁぁっ!!」
青白い光が世界を通りすぎ、嘘のように闇が霧散した。視界の大部分を占めていた闇が消えたことで、空に浮くユアンの姿を再び捉える。彼は先ほどまでの嘲笑を消し去り、興味深そうにクリスとは違う場所へ視線を落としていた。
その視線の先にいるのはたった今、闇を切り裂いて見せた銀色の少女。その少女は真っ向からユアンの視線を睨み返し、青く光り輝く剣の切っ先を向けて啖呵を切る。
「さあ、ここからが本番ですッ!!」
数分ぶりに見た少女の横顔は、どこか力強いものに変わっているように感じられた。




