第四十一話:英雄の冒涜者
薄暗い洞窟の中で、ルーカスは唖然とした表情のまま目の前の人物を見つめていた。
ルーカスが現サブマスターを務める冒険者クラン“晴天の掃き溜め”初代サブマスター。名前をルスベル。
ミリアの亡き夫にして、かつて地獄の底にいたルーカスを救った男だ。見間違えるはずがない。そして、ここにいるはずがない。彼は十年前に命を落としているのだから。
「そうボケっとして。どうにか答えてくれよ、ルーカス」
ルーカスの最も尊敬する人物の声で、記憶のままの言葉選びで、ルスベルは声を発する。しかし、その裏に潜んでいる悪意は隠し切れていない。ルーカスを弄ぼうと敢えて生前の口調を再現しているのが見え見えだった。
それは英雄と仲間たちの記憶を汚す悪魔の所業である。
それは仲間のために命を投げ打った英雄への冒涜である。
それは父親の分まで幼い娘に懸命に愛を注ぐ母親への侮辱である。
──決して許していいはずがない。
「あんたとは初対面のはずっす。確かにあんたと瓜二つな人は知っていやすよ。だけど、それはあんたじゃない」
一瞬のうちに心を支配した怒りを自覚しつつ、表にはそれを一切出すことはしない。普段通りの口調を心掛けながら、抜けていた集中力を入れなおす。
「なるほどな。そう返してくるか」
それに対してルスベルは汚れた笑みを浮かべるだけ。見た目だけは“ルスベル”と同じ笑みなのに、その裏に隠された悪意が透けて見えて反吐が出そうになる。あの人はそんな笑い方をしない、そう叫びながら喉を掻き切って再び墓の中へ、再び安らかに眠らせてあげたい。
「いやいやルーカス、ひどいじゃねえか。そんなそっけない態度して。俺とお前の仲だろ?」
「……あっしがあんたの正体を知ってるのは気づいているっすよね? 最初こそ驚かされやしたが、兄貴の真似をしたところで何も意味は無いっすよ」
「まあ、そうだよな。面白いものが見れるかと思ってたのに、つまらねえの」
本当に残念そうにルスベルは肩を落として見せた。あれは“ルスベル”のようで“ルスベル”ではない。“天の落とし子”に強制的に別世界の魂を憑依させる歪んだ魔法、召喚魔法によって出来上がった光景だとは理解できている。
理解できているのだが、もしそうだとしたら腑に落ちない点があった。
「だけど、どうしてあっしの名前を知っているんすか? これじゃあまるで……」
「──兄貴の記憶を持ってるみたいじゃないっすか、ってところだろ。ああ、そうだよ。俺は覚えているぜ。ルーカスへ手を差し出したことも、あのクランでの思い出も、ミリアにプロポーズしたことも──俺が死んだ瞬間も。全部、俺は覚えてる」
「そんなはずは……だってクリスたちは何も知らなかったっす! 元の身体の持ち主の記憶なんてこれっぽっちも……」
「お前と一緒にいる転移者がどうかは知らねえよ。けど、俺の周りは段々と身体の持ち主の記憶を思い出し始めてるな。この間、お前の『世界の裏側』を看破したときから、俺も少しずつ“ルスベル”の思い出が溢れてくるんだ」
ターナは例外としてクリスたちも、彼らと共に近衛騎士団に保護されていた転移者たちも皆、元の身体の持ち主の記憶を全く持っていなかった。短いながらも生活を共にしたが嘘を付いているようには思えなかったし、何より剣の振り方すら忘れるなどと言う演技ができるわけがない。
記憶を引き継がず、戦い方すら一から修練し直す必要があったクリスたちと、記憶を引き継ぎ、当たり前のように刃を振っているルスベルたち。同じ転移者であるはずの彼らに一体何の違いがあるのだろうか。
「いや、理由なんて今はどうでもいいっす。──だけど、兄貴の身体を、記憶を汚すお前はここで絶対に殺す……! 少なくともクランの奴らに、姉御には絶対に合わせるわけにはいかねえ!!」
もしも、“ルスベル”の身体に召喚された人物が善人、クリスのような人物だったら。そうだとしたらルーカスも、きっとミリアも“ルスベル”の身体を預けることを我慢できた。
召喚魔法は一度発動すれば強制的に魂を憑依させる魔法。召喚される人物に罪は無いのだ。しかし、そうやって手に入れた身体で悪事を働き、生前の関係者の心を傷つけると言うなら、ただ黙って見ているわけにはいかない。
かつての恩人の身体に刃を突きつけるのは苦しいことだ。だから、その苦しみはルーカスだけで全て受け止めよう。少なくともミリアと戦わせるわけにはいかない。それで少しでも償いができるのであれば、やってみせる。
「待てよ、ルーカス。死ぬのは俺だって怖いんだ。俺の顔に免じてここは許して──」
「それ以上ッ!! 兄貴の真似をするんじゃねええええぇぇぇ!!」
そして、何よりもルーカス自身が目の前の存在を否定したかった。恩人を汚す冒涜者の息の根を、怒りに身を任せて止めてしまいたかった。
右足から力強く踏み込み、短剣を構えたルーカスの身体は弾丸のように飛び出す。その上であらゆる隠密魔法をかけた今のルーカスは、姿が消えたように目に映るはずだ。事実、全く動くことができないルスベルの懐にそのまま飛び込むと、横一文字に短剣を振るう。
狙いは頸動脈。首を落とすこともルーカスの実力なら訳も無いが、できる限り綺麗な状態の死体を残したかった。だが、その目論見は、
「あーあ、めんどくせ。こういう場合は動揺して、何もできずに俺に殺されるところだろ」
軽口を叩きながら面倒くさそうに持ち上げられた漆黒の短剣によって阻まれていた。その姿にルーカスは驚きを隠せない。
“ルスベル”が他界してから十年の月日が流れているのだ。ずっと最前線で冒険者家業を続けてきたルーカスの腕前も当時とは比べ物にならない。それこそ“ルスベル”だって今の一撃で殺せるほどには。
だが、ルスベルはその一撃を余裕の表情で防いでいた。それに彼が持っている漆黒の短剣だって見覚えが無い。“ルスベル”が使っていたわけでも無いし、そもそも黒い金属すら見たことが無いのだ。
「まあ、一度は俺を殺してるんだ。直接かどうかの違いなんて、二回目だったら些細な問題だよな」
左右から魔力の流れを感じ、ルーカスは反射的に後ろへ飛ぶ。直後、ルーカスの立っていた場所へ、隆起した地面が石の槍へと姿を変え、襲い掛かった。
「なっ、どうして魔法が……」
「お前は俺と“俺”をなんだかんだ言いながら同一視してたんだよ。“ルスベル”は隠密魔法以外をまるで使えなかったが、俺が使えないとは限らねえだろ?」
続いてルーカスの足元の地面が盛り上がり、思わず身体をふらつかせた彼にルスベルが斬りかかる。安定しない体勢でどうにか一撃目を回避し、引く動作で放たれる二撃目を短剣を合わせることで受け流した。
短剣は非常に取り回しが良く、使い手の技量次第では目にも止まらぬ連撃を放つことができるのが特徴だ。ルーカスもルスベルもその実力は世界有数のものであり、身体のあらゆる急所を狙い合う二人の戦いは一切油断できないものとなっている。
秒間に眼で追いきれないほどの斬撃を放ち、防ぎ、それら一つ一つは失敗すれば即座に死へと繋がる達人の一撃。
短剣と漆黒の短剣が真正面からぶつかり合い、ルスベルの手から漆黒の短剣が零れ落ちた。それはぶつかり合った衝撃によって高速の回転運動を行うと、そのままの勢いでルーカスの顔面目掛けて飛来していく。
当たれば顔のパーツをグシャグシャにするであろう一撃に、さすがにルーカスも大きく身体ごと飛び退いて回避する。背後へ漆黒の短剣が通りすぎたのを確認すると、武器を失ったルスベルに止めを刺そうとして、
「──ッ!?」
「おっと、油断はダメだぜ?」
目の前のルスベルの姿が、ルスベルの幻覚が消え失せ、同時に背後から放たれた声が鼓膜を刺激した。慌てて振り返ると空中で漆黒の短剣をキャッチしたルスベルが居て、盛り上げた地面に着地すると腕が振り下ろされる。
脳天より放たれる一撃を無防備に受ければ即死は必至。だが、短剣で受け止めることも、体捌きで回避することも間に合いそうにない。
二つの選択肢が潰され、驚愕を顔面に貼り付けたルーカスは──三つ目の選択肢を取る。
漆黒の短剣がルーカスの頭を割る直前、彼の姿が消え失せ、その実体が世界から消滅した。結果、何も無くなった空間を斬撃は通り抜け──即座に横薙ぎに振り直された斬撃は、何も無いはずの空間で確かに何かを捉えていた。
「びっくりしたぞ、ルーカス。『世界の裏側』の発動までずいぶんと早くなったじゃねえか! まさか今の一瞬で逃げられるとは思ってなかったな」
「はあ、はあ、黙れ……! その思い出はあんたのものじゃない……!!」
ルスベルから距離を取った位置に再びルーカスの姿が現れ、その左手は苦しげに腹を抑えていた。その指の隙間から流れているのは抑えきれない量の血。別空間に逃げ込んだルーカスだったが、ルスベルの放った二回目の斬撃はその空間にまで干渉していた。
「一発目を“裏側”に飛ばすのは間に合わなかったけど、二発目はこの通りだ。次は逃がさないぜ」
「その力を使うんじゃねえ……この力はあっしと兄貴の二人で作った魔法っす! あんたに扱う資格は無いッ!!」
内臓にまで被害が及んでいるのか、口から血を垂らすルーカスが吠える。例えどのような怪我をしても譲れないものはあるのだ。
死体を綺麗な状態にしたい。そう甘く考えたのがバカだった。相手は英雄“ルスベル”の肉体を持つ、この世ならざる存在だ。手を抜いて勝てるわけがない。
「だから、どんな手段だって使ってやるっす!!」
「おいおい、諦めておけよ。その傷で俺に勝てるとでも……」
諦めの悪いルーカスに、ルスベルが呆れたような視線を寄越す。そのまま余裕の表情で言葉を紡ぎ、
──ルスベルの右半身が爆風に巻き込まれたのは突然だった。
「え」
予知せぬ爆発を受けたルスベルは、間抜けた声を置き去りに吹き飛んでいく。全身に土煙を浴び少なくない怪我を負ったルスベルは、その瞳に怒りを乗せながら右手を付いて立ち上がろうとし、
「──っがあぁぁぁ!!?」
声にならない悲鳴を上げて、ぐちゃぐちゃに歪んだ右手を見ることしかできなかった。それぞれの指があらぬ方向に曲がり、中指などは今にも千切れてしまいそうなほど。
手の甲なども肉を大きく削がれ、白い骨が見えるほどだった。どう見ても重症だ。少なくとも短剣を握ることはもうできないだろう。
「“裏側”の世界に爆弾を設置して、爆発する寸前にこっちに戻したんすよ。この方法は、離れた位置にある物を操作するのは、兄貴の生前には思いついてもいやせんでしたからね。気づけなくても無理はないっす」
ルーカスの説明も痛みにのた打ち回るルスベルには聞こえていなかった。ルーカスには知る由も無かったが、身体と技術と記憶を引き継いだところで、その中身の人格は平和な暮らしをしていた日本人。痛みに対しての耐性は非常に低いのだ。
「や゛りながっだな! 殺してやるぞぉぉ……!!」
「それはこっちの台詞っすよ……くっそ痛え……」
方や腹を切り開かれて、方や右手を使い物にされなくされた。どちらも万全とはいかない状態であり、お互いに目の前の男を殺すことだけで思考を埋め尽くされる。
恩人の身体を汚す冒涜者を殺すべく。身体に傷を刻み込んだ生意気なNPCを殺すべく。それぞれの怒りを胸に殺し合いはまだまだ続いていく。
☆ ☆ ☆ ☆
「それにしても、変なところに飛ばされたもんだぜ」
「呑気に言ってる場合じゃないわよ。早くみんなと合流しないといけないじゃない」
空間魔法によって分断されたアリシアとジェシカの二人組もまた、奇妙な空間に飛ばされていた。二人が飛ばされた場所は、窪んだ平たい空間とそれを囲うように高みからの見物席が用意された建物──闘技場だった。
そこの窪んだ空間、つまり選手同士が戦いを繰り広げるであろう場所に二人はいたのだが、その空間にアリシアは見覚えがありすぎた。
「ここってPvPアリーナのマップだぜ。たぶんだけど、一対一部門のマップだな」
「あたしはPvEしかしなかったから分からないけど……あんたは好きだったもんね」
「やっぱり対人戦の緊張感は一度経験したら忘れられねぇもんでよ。……で、どこから出ればいいんだ?」
肝心の部分について何も知らないアリシアにジェシカはわざとらしくため息。だが、ゲームの時であればマップへの移動は全てシステムによって行われていたため、出口が分からなくても仕方がないだろう。
ジェシカもそれを理解しているのだが、アリシアの反応が面白いためについついやってしまうのだ。今回もそれを期待してのからかい。否、非常事態で平常心を少しでも保つための軽口であった。
しかし、傍らにいるはずのアリシアは黙ったままであり、不安から黒髪の少女へ視線を向け、
「ちょっと、無視ってアリシアの癖に生意気……」
「──静かにしてろ。何か、来るぜ」
緊張を纏ったアリシアの声に身体を思わず硬直させた。アリシアの視線の先、選手の入門口らしき場所から何者かがこちらに向かって歩いてきていた。
短く切り揃えられた赤い髪。鋭い瞳に、好戦的な笑みを張り付けた二十代前半ほどの顔つき。筋肉によって引き締められ、まるで戦いのためだけに作られたような身体だ。そこから圧倒的な闘気を放っているのがジェシカにさえ分かった。
「まさかお前が出てきやがるか。あの屑たちの味方するなんて正直残念だぜ」
「こっちに来てからはあいつらに食い物を分けてもらっていたんでな。まあ、最低限の恩返しと言う訳だ……それに強いやつと戦えそうだったと言うのもある」
「そこらの魔獣か魔物で勘弁してくれや。こっちに来てまで戦闘狂を突き通せるって、もう変態じゃねぇのか?」
「何日か前に行ってきた山でゴーレムの群れなら潰してきたんだが、それでは満足いかなかった。許せ。変態と言うのも……まあ自覚はあるな」
知り合いだったのか、気軽な様子で会話を交わす二人。それに置いてけぼりにされたジェシカは、何だか納得がいかず抗議の声を高らかに挙げた。
「ちょっと! あたしを置いていかないでくれる!! それにあんた誰なのよ!?」
「うん? ああ、悪かった。アリシア、適当に紹介してくれ」
「全部丸投げにしやがって……あいつの名前はグレン。PvP一対一の個人戦で常にランキング一位。六対六のチーム戦でも十位以内にはいつもいる変態だ」
「まあ、俺は対人戦特化の育成方法だからな。その分勝たせてもらっているだけだよ」
「ランキング一位って……」
この世界と瓜二つだったMMOは対人戦も盛んなタイトルだった。プレイしている人口もそれに応じたものであり、その中で一位とは正に廃人、否、廃神だ。アリシアの変態と言う評価も納得である。
「でも、二人は知り合いなんでしょ? だったらグレンくんもあたしたちに協力して……」
「さっきも言ったように、あいつらには多少でも恩がある。確かにあいつらの悪行は許しがたいものがあるが、それとこれとは話が別だ。それにな」
「それに?」
「──せっかくこっちの世界でアリシアと戦えるんだ。やめるわけにはいかないな」
荒々しい笑みを浮かべるグレンにジェシカは返す言葉を見つけられない。少なくとも、彼は魔物相手に戦った経験があると言っていた。命の奪い合いを経験して尚、それを求める気持ちがまるで理解できない。
言葉を失うジェシカの横顔を見つめていたアリシアは頭をかきながら、
「あいつが言ってるのは“殺し合い”じゃなくて、“試合”何だよ。俺だって殺し合うなんてごめんだけどよ、“試合”だったら戦いたがる気持ちも分からなくねぇ」
「あんたまでそんなこと言いだすの!? どっちも変態じゃない!!」
「それだけは全力で否定だ。あいつと一緒にするんじゃねぇよ!」
仲が良いのか、悪いのか。アリシアは右腕を振り上げてジェシカに抗議する。同じ扱いにだけはされたがらないアリシアに、グレンは苦笑だ。当たり前のように言葉を投げ合う三人は敵対している間柄とは見えなかったが、
「ルールはまあ適当だ。戦闘不能になるか降参したらそこで決着。お前が勝ったらここから出してやる。逆に俺が勝ったら時間になるまでここに閉じ込めさせてもらうからな」
「ここから出してやるって、この空間はお前が作ってんのか?」
「悪いが、それも秘密だな」
グレンが切り出したことで話題は“試合”開始の方向へ再び持っていかれた。アリシアは背負っていた剣を抜き放ち、グレンも両の拳を合わせて息を吐きだすと戦意を研ぎ澄ませる。
戦闘準備は万端だとばかりに向き合った二人はしかし、ほぼ同時に距離を取っていたジェシカへと顔を向けた。
「……何よ?」
「いや、試合開始の合図を頼みてぇんだ。ゲームの時みたいにシステムでアナウンスしてくれねぇからな」
「右に同じくだ。頼む」
二人に頼み込まれてジェシカは壮大にため息を吐く。何が嬉しくて仲間の戦いを始める合図をしなければならないのか。しかし、ジェシカが断ったところで彼らは勝手に始めてしまうだろう。
「分かったわよ! もう勝手にやってなさいよ! ただ、大きな怪我はしないようにね」
幸いにも命を奪い合うつもりは無さそうなので、止められないのなら釘を刺して見守っておくのが次善の策だ。それに多少の怪我であればジェシカの手で治療することも可能である。
「それじゃ、始めッ!!」
ジェシカが力強く叫ぶと同時に、アリシアとグレンはお互いに向かって駆け出していく。他と比べれば平和ながらも、戦意だけは高い不思議な戦いが始まった。




