第三十六話:攻勢への前準備
まず始めに、クリスはこの時かなりの疲労状態にあったことを前置きしておきたい。一週間近くに及ぶ野宿での生活。寝心地の良いとは言えない寝袋での睡眠はもちろんのこと、いつ魔獣や魔物、その他の敵対生物と遭遇するか分からない状況に長い間晒され続けたのだ。
いくら強靭な肉体を持っていようと、場慣れしていないクリスたちには非常に負担が大きかった。そのような任務を遂行したことで疲れ切った身体だったのだから、柔らかなベッドの上でつい無防備になってしまっても誰が彼を責めることができるだろうか。
少なくとも一緒に行動していたアリシアとリオン、ベテランのルーカスだってそれはできまい。しかし、だからといって手加減してくれるほど、現実は甘くはなかった。
宿でターナと合流した日の翌朝のことだ。一切の警戒もせずに一週間ぶりの熟睡を堪能していたクリスは、珍しく覚醒に時間を掛けていた。
半目を開け、カーテンの隙間から朝日が覗いているのは認識できている。普段ならすぐに朝かと即座に起動を始める思考も、今日に限っては何時まで経っても電源ボタンを押されることに抵抗を続けていた。
起きなければ。否、もう少し大丈夫だろう。
リオンとフウを起こさなければ。否、二人だってまだ寝ていたいだろう。
ルーカスから今後の指示が出るはずだ。否、さすがに朝一には来ないだろう。
合理的な主張をする理性の言葉を、欲望に忠実な本能が全て叩き落していく。戦況は本能がやや、いやかなり優勢だ。一度でも理性が敗北したと気づいてしまえば、最早抵抗する気力は無い。本能に身を任せ、そのまま二度寝へ興じ──
「よっと」
「──ッ!?」
何者かの微かな着地音が鼓膜を刺激した。不満げに瞼を最低限開き、部屋に中の様子をきょろきょろと見て回る黒い影が居た。影はちょうどクリスとリオンのベッドの中間地点に佇み、布団の中で丸くなっているリオン一瞥すると、続いてクリスに視線を向ける。
その結果、クリスと影の目線が交わり、クリスは飛び起きた。
完全に油断していた。いくら都市内とはいえ“天使狩り”は空間を転移する技術を持っている可能性が高いのだ。
鍵が無理やり開けられたら、さすがに目が覚めるだろうし、この刺客は部屋内に直接現れたと見ても良いだろう。大した高さも無いはずの部屋で、着地音がしたこともそれを肯定している。
突然、部屋内に瞬間移動のように現れるなど他にいるはずがない。立ち上がり、即座に拳を作ると全力振りかぶる。それを目の前で驚いた様子の黒い影へ向けて、
「いい反応でやすが、あっしに向けられても困るっすよ」
「うおッ!?」
黒い影──ルーカスはあっさりとクリスの拳を手のひらで受け流すと、バランスを崩し前のめりになるクリスから身軽な動きで身体を退避させた。元より無理や体勢で放った拳であり、クリスの身体は転倒を免れない。
「ってやば」
そしてその先にあるのはリオンが熟睡中のベッドだ。このままでは彼の身体を押しつぶすことは明白。無防備かつ細身であるリオンの身体を筋肉質なクリスが踏み潰すのは少々よろしくないだろう。
急激に普段の思考速度を取り戻していく脳の命令に従い、ベッドの手前、リオンの身体が無い場所へ右足を落とす。だが、それだけで静止することはできない。未だ前傾姿勢の身体は次なる左足の着地地点を求めている。
即座に判断。今度はベッドの奥側、リオンの身体を跨ぐように左かかとだけで着地し、後は勢いに身を任せて飛び越えるだけ──
「ふぎゃっ!?」
しかし、その時のクリスはとことん運が無かった。布団の中に潜り込んでいたのか、聞き覚えのある子龍の悲鳴が左足の下、布団越しに響く。それの正体に気づき心の中で詫びながら、再びバランスを崩したクリスは頭から床へ突っ込んでいった。
「……うーん。あれルーカスさん、どうしているの? クリスさんもそんなところで寝て」
「ちょっと急ぎの要件があったんで、お邪魔したんすよ。クリスは……朝っぱらから元気っすよね」
騒ぎによって目を覚ましたリオンはルーカスとクリスを順番に見て、不思議そうに首を傾げる。殴り掛かったクリスも悪いが、早朝から部屋に侵入し容赦無い反撃をしたルーカスには文句の一つでも言わせていただきたい。
地面に倒れたままにルーカスを睨み付けると、困ったように苦笑を返される。それから悪い悪いと、手を合わせた謝罪のポーズを見て取るとクリスは深く息を吐いた。
「ボクにも謝罪の一つぐらいあってもいいんじゃないかな」
リオンの布団の中でぐったり倒れていた子龍の、不満げな呟きは誰の耳にも届かなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
「それで何があったんだ?」
ルーカス訪問から三十分ほど後。女性陣にもそのことを伝え、男性陣の部屋にターナ、クリス、アリシア、ジェシカ、リオン、ルーカスの六人と精霊であるフウが集まっていた。昨晩は女性陣の部屋で会話をしていたが、あれはそれ以外に場所が無かったための応急措置であり、わざわざそちらに出向く必要は無い。
最も女性三人のうち二人の中身は男性であり、残りのジェシカもあまり気にする性質では無いのでどうでも良かったりするのだが。
「敵の拠点を確認しやしたから、本来は逃亡を始める前に素早く攻撃を仕掛ける予定だったんすけどね……少し事情が変わってきたんすよ」
「事情が変わったとは?」
ルーカスの物言いに銀髪の少女は、ターナは首を傾げる。本人は無自覚そうな可愛らしい動作を受け、ルーカスは話を続けた。
「相手の戦力や、目的が予想していたのとかなりズレがあったことが原因っすね。転移者なら戦闘力は低いと見積もってたけど、この間の敵の動きを見る限りそうとも思えなかったっす。逆に集団として機能していない可能性もありやすんで、速攻で叩き潰すか、慎重に動くべきか意見が割れているんすよ」
その説明を聞きながらターナは大方事情を呑み込む。その集団がまともに連携を取れていないのも納得できた。元より平和な日本暮らしをしていたのが転移者だ。突然、ゲームに酷似した世界に連れてこられて、右も左も分からない状況で大人数をまとめ上げられる人材が居なくてもおかしくない。
ただ、安心を求めて固まっているだけの烏合の衆である確率は高いだろう。しかし、そのような烏合の衆も一人一人の戦力が高ければ十分に厄介な勢力となりうる。
「ルーカスさんでも対等にやり合えるやつがいて、それぐらいの実力を全員が持ってるなんてゾッとしないわね。それ、今からでもあたしたちに適用されないかしら」
同調する様に、この場にいるルーカスとフウを除く五人が一斉に頷いた。実際、今からルーカスと真正面から戦えと言われても、一瞬で首を落とされる未来しか想像できないのだ。
それは強靭な肉体と魔力を与えられても、扱う中身の人間の力量が足りていないことが原因であり、何故か向こうの転移者には適応されていない様子なのである。
「死んだはずの“天の落とし子”の姿そのままだってんなら、召喚魔法で憑依させられた日本人ってのは間違いねぇよな? おれたちと何が違うってんだ?」
「でも、ルーカスさんが確認したのって二人だけなんだよね? ターナさんと同じでその人たちだけが例外だったってことは……」
それぞれの疑問を口にし、リオンはターナへ視線を飛ばす。それを受けターナは複雑な表情。何度言われても、自分の中に別の人間がいるというのは現実味が無く、今いち実感に乏しかった。
だが、元の身体の主の魂が残っているという例外がここに存在する以上、肉体のスペックを完璧に引き出せる転移者と言う例外もまた十分に考慮できる。
「それならあっちでも議題にされやしたよ。だけど、不確実な情報で動くのも難しいっす。失敗したらもう後が無いんすから特に」
素人が思いつく程度のこと、やはりと言うべきか既に議論済みだったらしい。敵も味方も個人では無いため、楽観的な行動ができないのは当たり前だ。それに敵勢力に都市長の身柄を奪われてしまっている。ルーカスの言う通り、失敗は決して許されない。
「って話が逸れたけど、ルーカスは何を伝えに来たんだ?」
話がトントン拍子で流れてしまったが、今の状況を説明するためだけに朝一にから押しかける必要は無いだろう。さすがに別の目的があるはずであり、ルーカスへ答えを求める。
「現状報告ってのも目的の一つっすよ。後は午後からの会議に出席するよう頼みに……事実上命令になっちゃうんすけどね」
「別に俺たちはできることも無くて暇だし、協力できるっていうなら歓迎だけど……俺たちが参加して役に立つのか?」
申し訳なさそうな表情のルーカスに、クリスは怪訝そうに質問を返した。歴戦の冒険者と都市を護る兵士たちの会議に混じったところで、クリスたちにできることなど皆無だ。
せいぜい厳格な雰囲気に痺れを切らしたアリシア辺りが騒動を起こす程度だろう。邪魔でしかない。
「別に積極的に会話に混ざらなくても平気っすよ。ただ、同じ転移者だからこそ気づけることもあるかもしれやせんから」
なるほど、と納得する一同。そのような理由があるのであれば、先ほど述べた通り不謹慎にも暇しているターナたちだ。断る理由は何一つない。
「この間みたくよ、ターナとクリスだけじゃダメなのか? 会議とか堅っ苦しいのは嫌いなんだが」
「悪いんすけど、全員連れて来いって言われてやすから」
「諦めなさい、アリシア。そんな格好でも一応大人なんだから……それとも中身までわがままな女の子にでもなっちゃったかしら?」
「なってねぇよ! おう、分かったよ、行ってやるよッ!!」
ジェシカの煽りに驚くほど素直に乗せられ、アリシアは大げさに叫んで見せる。素直というよりも単純という表現が適切だ。現在の容姿が小柄な少女なのだから、悪い大人に騙されないか不安で仕方がない。
後でそれとなく注意しておくべきかと、ターナは心の中にメモを残しておく。無防備と言う意味ではターナも周囲の人間に同じことを思われているのだが、本人がそれに気づく予定は今のところ存在しなかった。




