第6部:結末
車の運転は、研究所で父が教えてくれた。「いつか役に立つから」と。
(本当だわ。こんなに役に立つなんて。)
バックシートの美鈴が目覚めないかと、ついバックミラーを除いてしまう。二葉は免許証など当然持ってないが、警察の目を怖れる余裕はない。
これから研究所へ戻り、セシリアを取り戻す。美鈴より、所長のほうが怖くない。美鈴はここにいる。所長が拉致に直接手を下すとは思えないから、とりあえず安全だ。このまま美鈴と一緒に断崖から車ごと飛び降りて心中してもいいが、やはりセシリアの行方が気になる。助けられるものなら助けたい。
お金がないため高速道路を使わず、下の道を四時間ほど走らせ、研究所にたどり着いた。
何度も通ったとはいえ、よく道を覚えていたと思う。この、人里から完全に隔離された、迷路の奥のようなこの場所へ。
限界の身体に鞭打って、美鈴のジャケットの襟首を両手でつかみ、研究所の入り口に立った。美鈴の腰元のポケットを探って、カードキーを取り出す。
キープラス指紋認証。
キーを差し込んで、美鈴の腕を引っ張り上げ、黒い液晶画面に五本の指を押し付ける。
扉が開くのはたったの五秒。
その間に中に入りきるよう、美鈴の身体を床をすべらせるように押し込み、ドアが閉まりかける寸前に飛び込んだ。倒れこんだ肩から肘までの肉から骨に、強い衝撃が走る。だが、間に合わなければ強制的に閉じた鉄の扉の餌食になる上、研究所中に警報が鳴り響く。この建物内には、所長自らが細心の注意を払って許可した「研究員」のみで、警備員も運転手もいない。完全セキュリティシステムは他人の介在を許さず、所長自らがプログラムして作り上げた、まさに「極秘」のものだった。侵入者には、容赦なく死が与えられる。
廊下の至る所に待ち受ける、扉という扉すべてにカードを通し、美鈴の指を用いる。
どれくらい同じ操作を繰り返しただろう。ようやく目的の場所へたどりついた。
開いた扉のところに立っていたのが美鈴ではなく二葉であることに、のんびりコーヒーを飲んでいた基は息を呑んだ。
髪をふりみだし、美しい制服はよれよれになっているが、その目は獣のようにぎらぎら光っている。足元に崩れているのが美鈴であると気付いたのと、二葉が小さな銀色に光るものをぐったりとした喉元に押しやるのは同時だった。
「主任を殺されたくなければ、セシリアを目覚めさせてください。」
こんなに暗く、太く、そしてしっかりとした二葉の声を、基は始めて聞いた。
基は、冷静だった。色々な意味での限界を悟っていたから、黙って二葉に歩み寄った。
「一緒に来なさい。美鈴は置いておけばいい。麻酔銃を使ったんだろう?少なくとも三日は目が開かない。それに、美鈴は私にとっての人質にはならないよ。お前が今美鈴を殺しても、私はなんとも思わないのだからね。」
「・・・。」
基の研究室からのみ入れる実験室こそ、最高機密の部屋だ。そこが、セシリアの眠る冷凍装置のある場所。
八年ぶりにセシリアに会える。
その喜びがあるはずなのに、心は高揚しない。
命がけのはずが、その必要なしに目的を達成できてしまうからなのか。
暗くて狭い廊下を通りぬけ、天井の高い、広い部屋にたどり着いた。その中央に、セシリアの眠る棺のようなカプセルが置いてある。かつて、この脇でどれほど泣いただろう。
ひんやりとした部屋の中で、背筋を伸ばし、唇をひきしめた。
会える。
やっと、会える。
だが、その棺に近づこうとした瞬間、基が言った。
「セシリアは、そこにはいない。」
「えっ。」
思わず見た基は宙をにらみつけたまま言った。
「セシリアは、十日ほど前、死んだ。」
二葉は口を開けたまま、二の句が告げない。基は、一体何を言っているのだ。
「実験は、失敗だった。手の施しようがなかった。」
「そんな・・・。」
二葉は、棺の所へ駆け寄った。ふたには鍵がかかっておらず、思ったよりもずっと軽かった。十日ほど前、美鈴が血相をかえて研究所へ戻ったのは、やはりセシリアのためだったのだ。
棺の中には、塵一つ残っていなかった。セシリアのにおいも、影も、何も無い。
二葉は基の襟をつかんだ。
「どこかへ隠してしまったんでしょう?私の目の届かないところへ、やってしまったんでしょう!?」
基の表情が、悲痛に歪んだ。
「そうだったら、どんなにいいか。」
「大事にしてたじゃない!すべてを犠牲にして、守っていたでしょう?!」
「当たり前だ!・・・全力は尽くしたんだ。」
「だから、だから言ったのに!私は十二のあの日、わかってた。こんなことは無理だって!こんなことしなければ、セシリアは二十歳で、あと六十年生きられたのかもしれない!セシリアの両親はどうするの!?あんなに老いてしまって、それでもまだ街頭に立って、ビラを配って探しているのよ!死ぬまで、あんなことをさせるの!実験なんかのために、何人の人生を狂わせれば気が済むのよ!」
「実験に、犠牲はつきものだ。実験は成功するかどうかなどわからない。だからこそ成功に意義があるんだ。失敗も、成功のための布石なんだ。」
「他人の人生を踏みにじることが布石なの!?そんな上の成功に、何の価値があるというのよ!」
「お前にはまだわからないだけだ。」
「一生わからないわ。私には、どんな実験よりも、どんな成功よりも、セシリアや、クラスメイトのほうが大事よ。どんなに嫌いな奴でも、いざ実験台として拉致する手引きをした後は苦しかった。そのときになって、いとおしくなるのよ、どんな奴の命でさえも!」
「それは、きれいごとだな。」
基は、つかまれた襟を正し、少し笑った。
「どんな奴でも。なんていうのは嘘だ。お前の中では、確実に命の序列があったじゃないか。今までの一番はセシリアだった。だが、この前は違った。逆らって、セシリアが殺されることを覚悟していたんじゃなかったのか。その上で、保科由樹を美鈴から逃したんじゃなかったのか?」
「・・・。」
「そのせいで、セシリアが死んだと思えばいいじゃないか。覚悟していたんだろう?それでも仕方ないと思っていたんだろう?実験は失敗した。だがそれは、おまえ自身の行いが招いたことなんだ。」
そんなセリフを、基から言われたくはない。
一度はセシリアを捨てたのに、セシリアが自分のせいで死んだと思いたくない。
基は、白衣の胸元から、美鈴が持っていたのと同じ麻酔銃をとりだした。
「セシリア亡き今、お前はどうする?私や美鈴の生活は何も変わらない。お前は、これからどうするんだ?研究所に協力するか、それとも、死か。」
まっすぐに向けられた銃口を、二葉は正面からにらみつけた。
「研究所のために、そのためだけに生きる人間は、もはや人間ではないわ。研究という名に踊らされた、ロボットよ!」
「それは違う。」
「いいえ。研究のために、みんな、人間らしいことをすべて捨てているじゃないの?所長も、主任も、ずっと、ずっとすべてを諦めて、犠牲にしてきたくせに!」
「犠牲ではない。目的達成のための、必要最低限のことをしてきただけだ。」
「人の生死を操ろうなんて目的は滑稽よ!誰だって、いろんなものを抱えながら、精一杯今を生きているのに、その『今』をとりあげて、何が人類の発展よ!」
「では、私たちに協力はできないのだな?」
基の指が、引き金にかかる。
「実験体として生まれたんだ、その使命をまっとうするがいい。」
基は、だまって薄笑いを浮かべた。
この絶体絶命に思える状況下において、二葉は自分でも信じられないほど冷静でいられた。
二葉の心身は、今、ただ一つの目的を達成するためだけに存在している。
今、この命はその達成のためだけに生かされているのだ。
「・・・私の今の使命は、」
二葉は、スカートのポケットに手を入れた。
「ただ、ひとつ!」
美鈴から奪った麻酔銃をすばやく抜き、間髪を入れずに引き金をひいた。
パ・・・ン・・・!!
基が倒れるのと、二葉の膝が崩れるのは、ほぼ同時だった。
眠っていないのと、耳たぶを切り落としたのと、極度の緊張が続いたことが重なり、二葉の体力は限界を超えて、その場に大きい音をたてて倒れこんだ。
(まだ駄目よ。まだ・・・!)
基の身体が沈んだことを確認し、二葉はかろうじて肘で上半身をもたげた。
基と美鈴は眠っているだけだ。ここで止めを刺さねば、今までの苦労が水の泡になってしまう。
由樹が一生、研究所から狙われるなどという恐怖から開放されるために。
セシリアや、多くの少年少女のような理不尽な犠牲がこれ以上繰り返されないために。
二葉はもはや残らない力を、強い思いだけで再び奮い立たせた。
二葉が去った朝、警察に事情聴取されるなどして心配する両親を尻目に、由樹は登校した。
二葉が合図したのだ。もう、家に隠れる必要はないのだろう。
万が一、あの「叔母」が何か仕掛けてきたとしても、もう、二葉に守られてなどいられない。自分の身は、自分で守らねばならない。
登校すると、あまりにもそこはいつもどおりに時間が流れていて、夕べからの非日常が夢のようにさえ感じられる。
「由樹、大丈夫なのか?」
武士にさえ、何も話せない。ただ、だまって頷くだけだ。
一瞬、嘉納の方を見やったが、一連のできごとは話せないと思った。話せば、嘉納の両親から二葉のもとへ捜査の手が伸び、犯罪者にしてしまいそうだからだ。
その日の朝、担任は開口一番に、告げた。
「昨日、遠野の親御さんが来校して、退学手続きをなさった。」
わかっていたことだった。
教室のどこからともなく、
「やっと退学してくれたよ。」
という声が聞こえてきたが、由樹は拳を握り締めて、耐えた。二度と問題は起こせない。母に、あんな思いは二度とさせまいと誓った。ここで相手の襟首をつかんでも、何も解決はしないのだから。
授業に没頭しても、部活に汗を流しても、ふと立ち止まれば今朝のシーンがよみがえる。夢のように儚くて、鮮明な記憶。真っ先に脳裏に浮かぶのは、風で髪が翻り、ピアスごと赤くくりぬかれた耳と、強くて激しい稲妻のような目を持った、女の顔。それは、由樹のクラスメイトの顔ではない。
楽しいことがあって頬の筋肉がゆるむたび、心の奥に針がささったように記憶がよみがえる。こんな平和な時間を安穏と過ごしている自分が、許せなくなる。自分に出来ないことが無いなんて思ってはいなかった。しかし、本当にどうにもならない事が起こった時の無力感は、現実以上の現実を突きつけてくる。
家に帰って、母がいつもどおりに出迎えてくれたときには、ほっとした。
「何も、おかしいことはなかった?」
「ええ、大丈夫よ。それに、何かあっても、そう簡単にはやられていないわ。自分の身ぐらい自分で守れないと、由樹のことも、お父さんのことも守れないものね。」
今日、初めて自分が自覚した思いを、母はいつも、当たり前のように思っていたのだ。母にも、そして、父にも、守られているという実際的な何かがなかったとしても、いつだって守られていたのだ。
「・・・ごめん。本当に、心配も、迷惑もかけて。」
「バカね。そんなふうに思ったことはないわよ。だって、由樹は私の大事な子供なんだから。心配するのは当たり前だし、迷惑と思うことでも、受け止めるのが務めなんだから。」
母を大事にしなければ、と強く思う。今までだってそう思ってきたし、そうしてきたつもりだった。だが、本当にそうだっただろうか?
次の日の午後は、三年生を送る会だった。受験日に当たっている三年もいるが、そうでなければ、この日だけは登校してくれる。それが、出て行く者の礼儀と務めだという認識を代々継いでいるからだ。来年、由樹たちも今年の三年と同じように、送る会に出ようと思う。今、自分達が先輩に心からの感謝を捧げようという気持ちを、来年は自分達がきちんと受け止めなければならないと胸に刻むからだ。
四時間目のホームルームから昼休みにかけて飾りつけされた教室に、十八名の卒業生を迎え入れ、会が始まった。机は卒業生がお茶やお菓子を食べられる分だけ残し、後は椅子を人数分入れておく。
メインはオリジナル映画の上映だ。由樹は運営からは一切手を引いていたため、ただ見ていれば良い立場だった。撮影班長ではあったが、編集は由樹が停学中に行われたらしく、どんな映画に仕上がったのかは知らない。
黒いカーテンを引いて暗くなった教室にスクリーンを下ろし、プロジェクタを置いて、上映が始まった。
クラスメイト全員参加だから、登場人物が多くて脚本にも無理がある。だが、ストーリーは単純なものにしているし、表現力でうまく見せている。
だが、映画が終わったときに由樹ははっとした。
映画の中に、二葉がいなかった。
撮ったはずだ。涼子が、撮影できたと喜んでいたのだから。
だが、なかった。
見逃してなどいない。
卒業生への何の感慨もなく、会を終えた由樹に、武士が一枚のDVDを渡した。
「保科に、やるよ。」
「・・・これは?」
「遠野のシーン、カットする前の映画。」
「・・・・・。」
「遠野が退学した後、切られたんだ。・・・とめられなかった。ごめん。」
「どうして橘が謝る?それに、なんで俺にそれを渡すんだよ。」
武士の細い目が、歪んだ。
「遠野に連れ出されて、学校出て、欠席した日、何かあったろう?何かはわからないし、聞かない。でも、保科があの日から一度も笑っていないから。休み時間は、屋上にいりびたってるし、・・・痩せたし。だから、」
「それをもらって、俺はどうすればいい?それを見て、映像の中の遠野を見て、どうすればいい?!何もできない、無力な自分を嘆けばいいのか?それとも・・・!」
言葉につまる。それ以上は武士に言えないからだ。
武士が何を言いたいのか、わからないわけではない。だが、それを素直にのむことができない。
「いらないなら、捨ててくれてもいいんだ。でも、とにかく受け取ってくれ。保科しか考えられないんだよ、これを持っているべきヤツが。」
「・・・・。」
「じゃ。」
去ろうとする武士に、由樹は言った。
「すまない。」
「謝るなよ。心配して当たり前だろ、これでも親友のつもりなんだから。」
自分が、無頓着に多くの人に支えられていたことを、罰当たりだと思う。わかっていたつもりなのに、本当は何もわかっていなかったのだ。
次の日の実力テストで、由樹は初めて上位五十人に入らなかった。心配する担任に、由樹は言った。
「少し、時間を下さい。必ず、立ち直りますから。ただ、少し気持ちの整理をするのに時間が欲しいんです。自分でしか解決できないことです。すみません。」
思う以上に、二葉の残した傷跡が由樹を支配していた。
非日常的な衝撃、というよりは、他人の陰の部分を垣間見てしまったことへの罪のような意識だった。二葉を救う方法など、いまだにわからない。他人の人生に責任を持つことなどできないのに、安易に関わってはいけなかったのだ。だが、由樹自身、あのときは確かに当事者だった。研究者に狙われている実験台だった。そう、それも、いまだに由樹を傷つけている。
だが、次の日、ことは起こった。
朝、教室に入った由樹を待ちかねていたのは、嘉納だった。
「保科、ちょっと。」
コートを着たままの由樹を教室のバルコニーへと連れ出す。まだまだ寒い時期、こんなところへ来る物好きは他にいない。
「これ、見たか?」
それは、今朝の朝刊の記事だった。隅のほうに小さく載っている。
『山林で研究所火災。十人死亡』
その見出しに、由樹の身体がはじかれたように動いた。
「これは・・・。」
「遠野基博士の研究所。誰も知らない、極秘の施設だったけど、すごい火事で身元がわれた。県境の奥地らしい。死体の身元確認なんか、誰がすればいいのかもわからないみたいだぜ。研究員も、家族とかとの連絡を完全に絶って、働いていたみたいだからな。もしここに遠野がいたとしたら・・・絶望的だな。」
由樹はその新聞を握り締めた。
「これ、ちょっと貸してくれ。」
「えっ、ちょっと、保科!」
由樹は、鞄を持つと、学校の外へと走り出した。途中すれ違った武士が声をかけても、返事もせずに駆けていった。
たどり着いたのは、二葉のマンションだった。
だが、目的の部屋には、誰もいない。管理人の話では、二葉が退学した日に引き払っているという。
もう一度新聞を読み返す。
確かに、遠野基という遺伝子工学の権威である博士の所有する研究所と書いてある。だが、果たして二葉がここにいたという可能性はどれほどか?あの叔母を連れて、一体どこへ行ったというのか。やはり、ここしかないのか。
(だけど、わからないじゃないか。死体の身元確認ができないのなら、誰が誰だかなんて、わからない。ならば・・・!)
見上げた空が、薄い薄いブルーで、白に近い。
太陽は雲で隠れて見えないのに、まぶしくて、思わず目を細めた。
(あのまま、死んでしまったなんて言わないでくれ。俺を助けたばかりに、死んでしまったなんて、そんなこと・・・。)
この火事の詳細が知りたいと思い、由樹は新聞社に電話をかけた。
取材をしたという記者は三十歳前後の男性で、由樹が「元クラスメイトの居場所がわからないが、この博士と同じ苗字だから気になる」という子どもじみた理由にも迷惑そうな声は出さず、話せる限りのことを丁寧に教えてくれた。だが、本当に知りたい二葉の消息はやはり不明のままだった。記者は、もし何か進展があったら連絡してくれるとまで言ってくれたため、とりあえず急く気持ちに区切りがついた。
由樹が恐る恐る学校へ、そして教室へもどると、三時間目が始まるところだった。
「担任には、忘れ物して家に帰りましたって言っといたけど、俺の言うことだから信用されてないかもな。」という嘉納に、由樹は「サンキュ、助かる。」と素直に礼を言った。単純に、嬉しかった。
その日帰宅すると、由樹宛に差出人の名前のない、白い封筒が届いていた。不安になったが、とりあえず開けてみる。中には手紙らしき白い紙と、電子データが保存されているであろう、フラッシュメモリが入っていた。
手紙に目を走らせ、由樹は電流が体内をかけめぐるほどの衝撃を受けた。
その手紙は、二葉からだった。手書きの、きれいだが、しっかりとした文字だ。思わず紙を握る手に力が入り、小刻みに震えだす。
『もう、誰もあなたをさらうことがないようにしました。安心してください。
保科君にこのメモリを託します。この中に、研究所の犯した罪の証拠と、遠野基の二十年の研究成果が保存されています。保科君なら、これを正しい判断で使ってくれると確信しているからです。私ができなかったことを、あなたにお願いしたいのです。十年後に、ファイルのロックが解除されます。もしそのときまでに何も判断できなかったとしたら、ファイルは決して開かず、処分してください。
あなたがあなたの人生をあなた自身の力で生きて、活躍することを心より祈っています。そして、その姿を一生見届けていきたかったと、心から思います。』
由樹の緊張した唇が、少しほどけた。
今まで、何人もの女子の口から告白を受けたが、由樹自身に思いがなかっため、それに応えられずに申し訳ないという気持ちしか湧いたことがなかった。だが、この二葉の手紙の最後の一文は、堪えた。
『一生見届けていきたかった。』
それは、由樹が一番欲しかった言葉。
誰かから言われたいと思っていた、言葉だ。
好きとか嫌いとかではなくて、愛してるとかそんな理解できない抽象ではなくて、もっと確かな言葉。誰かの一生を、ずっと見届けていきたいという気持ち。そして、その対象になることを、漠然と夢見ていた。それを、二葉からもらえたということが由樹の身体の奥を熱くした。
だが、それはそこまでの話だ。
二葉は、死んでいるかもしれない。いや、死んでいる可能性が高い。
『もう、誰もあなたをさらうことがないようにしました。』とは、どういうことなのか。そのために研究所に自ら火を放ったというのか。
手紙の消印は火事があったという日になっている。手紙を出した後、事を起こしたと容易に推測される。
手のひらに乗る小さなメモリ。これを今すぐ開けて見たい衝動にかられた。その中に、二葉の消息に繋がるような何かが入っていないかと思うからだ。だが、十年後までは見ることができない。
十年後、一人前の大人になっていれば判断がつけられる頃だと、二葉は思ったのだろう。
自分の部屋の窓から見る風景は、もう平穏な日常ではない。自分の人生は、もう、自分だけのものではない。もちろん、自分を育てた両親や支えてくれた人々への恩返しに人生の半分は費やさねばならない。だが、それ以上に今の由樹の命は、一人の女に救われた命なのだ。もし二葉がいなければ、いつの間にかあの研究所の餌食になってしまっていただろう。その恐ろしさ。そして、今自分が生かされていることへの感謝。
色々な思いを馳せ、瞳を閉じ、二葉からの手紙に額を寄せた。
(生きていてくれ。それだけだ、それ以上は、何も望まない。あんな悲しい腕をしたまま、死なないでくれ。)
深い、深い吐息に切なさが滲む。
(俺に何も言わせないまま、逝かないでくれ。)
修了式の日になった。
この日、由樹を待つ白い車が校門の前に横付けされていた。
研究所の火事の記事を書いた記者が、由樹を現場へつれていってくれるという。由樹は色々考えた末、武士を誘い、一緒に車の後部座席に乗り込んだ。武士にはただ、ある事件の現場へ新聞記者が案内してくれるから一緒に言ってみないか、と誘っただけだった。武士は何も聞かず、すぐにOKを出した。
記者、石井は数日前に由樹の自宅へ電話をくれた。石井は由樹の母に「自分の記事に興味を持ってくれた高校生に、後学のため取材に同行させたい」という理由で許可を得てくれた。
由樹が武士を誘ったのは、少し不安があったからでもある。いつ攫われるかという恐怖がまだ癒えてはいない。もし石井が研究所の手先で、おとりの記事を新聞に載せ、由樹を誘惑したとしたら・・・と、勘ぐらずにはいられない。最悪の場合、武士まで実験台になってしまうのだとも考えた。しかし、その不安を打ち消すだけの対応を石井はとってくれていた。学校に来る前に由樹と武士の家を訪ね、保護者に直接挨拶をし、今夜九時には必ず送り届けることを約束してきたことを、互いの母親から電話で知らされたからだった。
「わざわざ、すみませんでした。」
由樹がそう言うと、石井は笑った。
「当たり前のことだよ。君たちは親御さんにとったら宝物だからね。見知らぬ男が夜遅くまで連れ回すなんて、心配だろう?」
引き締まった体つきといい、真っ直ぐな誠意ある瞳といい、実際の年齢よりずっと若く見える。機敏で、理知的。しかも、闊達明朗だ。素直に、憧れる。
石井は、高速にのってから、少しずつ話を切り出した。
「警察の検証が長引いた上、研究所のガスや薬剤の燃えた後遺でずっと立ち入り禁止だったんだよ。今でもまだ、相当の臭いは残ってるから、そのつもりで。」
わけが分からず、無言のままの武士に、由樹は言った。
「遠野のお父さんがやっていた研究所が火事になったんだ。」
「・・・えっ。」
「でも、死体の身元確認ができなくて、遠野自身がどうなったかはわからないから、石井さんに聞いたんだよ。」
武士は、突然の話に、一瞬言葉を失った。石井が由樹の言葉をつないだ。
「身元確認できる人が見つからないって、警察も言ってた。まあ、死体は男女の判別もつかないくらいだし、遺留品なんてものも無いに等しいからね。ただ、現場くらいは見ておかないと、気持ちの整理が・・・つかないんじゃないかと思ってね。」
武士は唇を震わせた。
「・・・死んだ可能性が高いってことなのか。」
「・・・信じては、ないけどな。」
「それで、一人で苦しんでたんだな。ずっと。」
「言葉にしたら、認めたことになりそうで。・・・でも、橘にはやっぱり知っておいてほしかったんだ。」
石井は二人の会話の切れ目に、遠慮がちに聞いてきた。
「遠野ってクラスメイト、女の子?」
「・・・そうです。」
「やっぱり。そんな気がした。」
「遠野博士に娘がいたというのは、よく知られていたんですか。」
「いや、娘がいたというのも、噂の域を出ないくらいだった。ただ、保科君の電話口での様子で・・・同性ではないな、と。」
何も言えない由樹のかわりに、武士がこたえた。
「すごく複雑な境遇にあったみたいでしたが・・・、いいやつでした。」
「だろうね。こんなに心配するクラスメイトがいるくらいなんだから。」
由樹は、ずっと無言のまま、窓の外の荒野を眺めていた。
武士も、何も言う言葉がみつからない。突然の告白に、まだ実感がわかない。だからといって、慰めの言葉など見つかりはしない。
高速をおりてからは、標識もない複雑で同じような道を進み、ときには曲がりくねった急カーブの坂を上り、存在すら忘れられたような道をいくつも過ぎていく。
「道とはいえないようなところもあるから、しっかりつかまっておいで。」
砂利道、というより岩道のようなところを、車体を上下に揺らしながら進んでいく。
やがて、草が車に踏み潰されてできただけのような道を通り、聳え立つ杉の木の林の前でエンジンが止まった。
「ここからは歩き。一応、荷物は持っておいで。」
乗り物には二人とも強いつもりだったが、流石に体力を消耗していた。だが、すぐにかばんを肩に背負い、石井の背を追った。
「少し前までは警察が一杯で賑やかだったんだけど、こうなると少し心細いね。」
由樹たちは石井にすべてを委ねるしかない。そんな思いに応えるように、石井の足は迷いなくある方向へむかって真っ直ぐ進んでいる。
こんなところで誰か一人殺されても、日の目を見ず終わりそうだ。話にきく「樹海」というやつだろうか。
やがて、鼻を突く臭いが襲ってきた。それの正体は、すぐに目につきだした。焼けた大木、葉、土、それが空の面積に比例して増えていく。
「研究所の人たちがこんな道をいつも歩いていたとは思えないから、きっと裏道があるんだろうけど、一般人には不明のままだ。」
どれくらい歩いただろうか。
額がうっすらと汗ばんできた頃、遠くに焼け爛れた無機物が影のように見えてきた。
夕焼け空の下、広大な敷地が焼け野原になっていた。かろうじて焼け残った鉄骨の骨組みだけでは、建物の面影すら感じられない。ただの火事ではなく、爆発が何度も起こったのだろう。そうなると、死体は十どころではないのかもしれない。爆破で吹き飛ばされても、ここに元々何人いたかがわからないのだから、十の身元が確認できたとして、その中に二葉がいなかったとしても、安心などできないということだ。
まだ何かが漂っているような、不気味な静けさの中、誰もが言葉をなくしていた。こんな人里離れた場所に存在した研究所。人体実験を繰返していたとしても誰にも気づかれないであろうここでなら、何が起こっていようと不思議ではない。
「遠野研究所の実態は、ご存知なんですか。」
由樹の質問に石井はちょっとためらい、だが答えた。
「悪い噂は聞いているけど、実際はわからない。表舞台へはほとんど出ない人だからね。」
「例えば、人体実験のために人身売買をしているとかは、ありませんか。」
「ネットではそんなことも書いてあるけど、臓器売買の方が信憑性は高いよ。」
由樹は、意を決して聞いてみた。
「もし、研究所の違法の実態と、博士の研究成果が世にでたら、どうなりますか?」
「それは、すごいことだね。違法の実態は、まあ、本人が死んでいたとすれば一時の話題で終わるかもしれないけど、研究成果の方が莫大な価値があると思うよ。遠野基博士の父親も高名な学者だったから、それを継いでいる実験も多かっただろうし。ただ、その成果が世の中にどういう影響をもたらすかは、未知数だな。」
「影響、ですか。」
「それを利用することで、例えば、遺伝子を自在に改良してヒトクローンを簡単に作り出せるようになるとか、倫理的に正しく用いられなかった場合、この世の秩序を乱すことになりかねないんだよ。歴史上、そんなことは幾例もあるからね。」
二葉は、由樹にどうして欲しかったのだろう。
十年後になれば、『正しい判断』ができる大人に、本当になれるのだろうか。
一人、焼け跡に何か残っていないか、目を皿のようにして探し歩いたが、何もない。何かの手がかりになりそうなものは、残っていそうも無い。
「めぼしい物は全部警察が持っていったけど、ろくなものはなかったよ。」
「何か、特徴のある死体はありませんでしたか。」
「特徴?」
「・・・彼女、両方の耳たぶが、無いはずなんです。」
「・・・!」
石井は目を見開き、息を呑んだ。が、すぐに首をふった。
「残念ながら、それを確認できないほどだったようだから。」
「そう・・・、ですか。」
「さあ、そろそろ帰ろう。これ以上日が暮れると、迷ってしまう。」
ここへ来たいと思ったのは事実だ。だが、実際目の当たりにし、結局何もできないまま帰らねばならない気持ちが、後ろ髪を引く。しかし、この荒廃した焼け跡には何の希望も絶望も見出せそうにない。だが、何も無いこと自体が希望になりうることもある。
ずっと黙っていた武士が、後ろから由樹の肩を抱いた。
「死体がない以上、遠野は『行方不明』なんだから、『死亡』にはならないんだぜ。」
「・・・ああ、そうだな。」
「でも、それを一生引きずって、遠野を『永遠の恋人』なんかにはするなよ。」
武士の声は真剣だったが、由樹は小さく笑った。
「大丈夫だよ。」
その答えの真意は、武士には伝わらない。由樹にとって二葉は、「恋人」なんて言葉では語れない。
(俺に許された未来は、俺のものだけではない。自分のために犠牲になったものに報いるための未来でなければならない。)
唇を引き締めた由樹の横顔が、軽く空を仰いだ。
夕焼けが、オレンジではなく火が燃えるような色をしている。今にも燃え尽きてしまいそうなほど、激しい、赤。
「すごい、紅蓮だな。」
石井が感嘆の声をもらし、立ち止まった。
由樹は、改めて日の沈む方向を見、まぶしさに目を細めた。
見覚えのある色。
(そうだ、あのピアスの色・・・。)
ゆれる髪の奥から一瞬除いた、赤。あれが「紅蓮」という色なのか。
二葉を縛りつけ、苦しめていた盗聴器と発信機つきのピアス。それを解き放ったとき、二葉はどんな気持ちだったのだろう。
「急ごう。車まであと少しだ。」
石井の声で、二人は再び足をはやめた。
由樹は、一瞬眼を閉じ、今の夕焼けの色をしっかりとまぶたの裏に焼き付けた。この色を忘れない限り、二葉のことを忘れない。この色を見るたび、二葉を思い出す。
忘れられはしないが、忘れてはならない。
自分を、命がけで助けてくれたクラスメイトのことを。
(生きているって、信じている。俺が信じ続ける限り、遠野は死なない。)
帰りの車の中、武士は疲れきって後部シートに横たわって眠ってしまった。
助手席に移った由樹は、石井と色々な話をした。こんなに他人の大人と打ち解けて話をするなんて、初めてかもしれない。
「保科君は、将来どうしたいんだい?」
由樹は答えた。
「僕は、ジャーナリストになります。」
それは、二葉から託された未来への答えでもあった。
「・・・なぜ?」
「伝えるべきことを、正しく伝えられる存在になりたいからです。物事の真贋を見極められる力を、どうしても身につけたいんです。」
「それだけかい?」
石井は探るような目でフロントミラーごしに由樹をちらっと見た。
「・・・付属する理由は、僕が石井さんのいる新聞社に入社できたら、お話します。それまで、待っていてくださいますか?」
「もちろん。君のような後輩を持てるなんて幸せだよ。待ってる。」
夜の高速道路を照らす水銀灯が導く道の向こうに、未来がある。
窓を開けて頬に当たる風は、まだ冷たい。だが、由樹はしっかりと目を見開き、進む先を凝視した。
いつか、必ず真相をつきとめてみせる。
そして、実験という名の下に人が犠牲になるようなことを、二度と繰返させはしない。それを、ペンの力で、実現してみせる。
二葉の遺志を実現することこそが自分に与えられた使命だと、由樹は確信していた。
やがて眼下に広がった街の無数の小さな家明かりは、由樹たちを優しく迎え入れるように、温かく瞬いていた。