第40話 正式な報酬
田中が書類の束を抱えてやってきたのは、昼前だった。
「今日こそ、ちゃんと交渉していただこうと思って来ました」
言いながら椅子に座った。書類をテーブルに並べた。
悟はお茶を二杯淹れて、田中の前に一杯置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。……まず報酬の形から説明していいですか」
「どうぞ」
田中が書類を一枚取り出した。
「月額固定報酬と、依頼対応ごとの案件費の二本立てです。月ごとの最低保証があって、そこに依頼件数が乗る形です」
悟は書類を受け取って、数字を見た。
「これで施設の設備を改善できますか」
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田中が少し止まった。
今日こそ交渉してもらおうと思っていた。もう少し増やしてほしいとか、条件を変えてほしいとか。そういう返しを想定していた。
「……十分すぎるくらいです」と田中は言った。
「そうですか」
「設備のどのくらいを想定していますか」
「飼育スペースの床材を一か所、変えたいと思ってて。あとは水回りを一か所補修したい。合わせてそれほどかかりません」
「それだったら、最初の月だけで全部できます」
「じゃあ了承します」
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田中がまた止まった。今度はさっきより長く止まった。
悟が書類を眺めているのを、田中は見ていた。
数字を見ている。でも金額そのものを見ているわけじゃない。この報酬で何ができるかを、そこだけを見ている。
ああ、この人はずっとそこしか見ていない。
田中は気づいていたつもりだったが、やっぱりまた気づかされた。
悟が顔を上げた。
「床材の補修って、自分でやると材料費だけで済むんですよね」
「そうですが……ご自分でやるんですか」
「動物園にいたころは設備の修繕も自分でやってたので、慣れてます」
田中は少し考えた。
「人を呼んでも今の報酬なら十分まかなえますよ」
「わかってますが、自分でできることは自分でやった方が安いですよ」
田中は何も言わなかった。
「ただし」と悟が言った。
「はい」
「魔物の状態が優先というのは変わりません。依頼の都合より、預かっている子たちの体調を優先します。それは最初から変えるつもりがないです」
「もちろんです」
「何かあったときに、組合の方から無理を言われることはありますか」
「言わせません」
田中が即答した。悟が少し驚いた顔をした。
「……そこまで言ってくれるんですか」
「契約書にそれを明記します。魔物の状態管理を優先する権限は施設側にある、と書きます」
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悟がお茶を一口飲んだ。
「珍しいですね」
「何がですか」
「こういう条件を契約書に入れてくれる組織って、あまりないですよ」
「悟さんの施設が珍しいんですよ」と田中は言った。「魔物の状態を最優先にするという方針で動いてる施設が、今のところここしかないんです。だから条件もそれに合わせます」
悟がしばらく書類を見た。
「わかりました」
「交渉、しないんですか」
「設備が直せれば十分です」
田中は何も言わなかった。何か言おうとして、やめた。
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悟が書類にサインをしようとしたところで、ガッシュが外からのっそりと事務所に近づいてきた。縁側から鼻先を突き出して、テーブルの上の書類をぷうっと鼻息で吹いた。
書類が一枚、ひらりと床に落ちた。
「ガッシュ」
ガッシュは知らん顔をして、また外に戻っていった。
田中が書類を拾いながら「今のは何ですか」と言った。
「ガッシュです。アームドボアで、うちの住人です」
「祝ってくれてるんですか」
「さあ」
悟は落ちた書類に皺がないか確認して、テーブルに戻した。それからサインをした。
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外でガッシュがのんびりと草を食んでいた。午後の日差しの中で、のどかな音がした。
悟がノートを取り出して、何か書いた。田中が横から覗くと、「草の品質・改善候補リスト」と書いてある。最初の行に「ガッシュ用・高品質牧草の仕入れ先を調べる」とあった。
「もうそっちですか」
「設備が直せたら次はそっちですよ」
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書類の確認が終わって、田中は帰り支度をした。
玄関で靴を履きながら、田中はふと振り返った。
「悟さん、一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「なんで魔物のことをやり始めたんですか」
悟は少し間を置いた。
「最初に来た子が怪我してたから、ですかね」
「それだけですか」
「それだけですよ」
田中は悟の顔を見た。何か別の答えが出てくるかと思って少し待ったが、悟は普通の顔をしていた。
「……そうですか」
「それ以外に理由はないですよ。怪我してたから、とりあえず処置して、それでそのまま続いています」
田中はしばらくそれを聞いていた。
「わかりました」と言った。
「何がわかったんですか」
「うまく言えないですが」と田中は言った。「なんかわかった気がしました」
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田中が出ていったあと、悟は縁側に出てお茶を一杯飲んだ。
ガッシュがこちらに歩いてきた。悟の足元まで来て、鼻先を向けた。
「設備、少し直りますよ」
ガッシュは特に反応せず、また草の方へ戻っていった。
悟はしばらく外を見ていた。翌月、振り込まれた報酬で何を直すか、頭の中でざっと順番をつけた。床材。水回り。それが済んだら排水溝。ホームセンターのチラシが先週届いていた気がした。
ノートを開いて、草の仕入れ先の候補を書き続けた。やることが増えた。それが悪くなかった。




