それは少し未来の話
『そう何でも上手くいくもんじゃないよね』
景色が流れてゆく。
『どうせ何も出来ないだろ?』
始発列車が朝靄を切り裂いてさらに速度を上げる。
『完全に、なるんだ』
結露に濡れた窓に自分を映して、ぼうっと想いを巡らせる。
谷間に架かる高架橋が見えてきた。
目的地まであと少し。
朝の涼しさと、田舎の新鮮な空気を五感でいっぱいに感じながら、無人の駅を進んでいる。線路を覗けば向こうには走り去る列車が。反対にはさっき渡り終えたトレッスル橋がうっすら見えた。
しかしこんな山の中に駅があるのか。
「さてはあの人話を盛ったな」
もう少し活気のある所だと聞いていたのに。
「まぁ、自分から来たわけだし、文句は言えないか」
無人の改札を出ると、巨木が覆い被さるように立っていた。葉の僅かな間から入る日の光が、美しく煌めいている。少し遠くを見やると、どうやら先へ続く道は一本道のようで、車が一台通れるくらいの幅だった。
そんな道の両側には、見下ろすように立つ深緑の木々が雑然と並んでいて、朝陽の明るさのほとんどを遮ってしまっている。
しかし、この晦冥は不気味さを助長しているのではない。生い茂る葉は夜空に、か細く差し込む木漏れ日は星のように、むしろ見るものを惹き付ける神秘的な光景を成していたのだった。
「………」
はっとして我に返る。
長い間こうしていたように思える。
たぶん数分なのだろうが、この風景の一部になってしまったような気がして、ぶるりと身震いをした。
「行こうか」
言い聞かせるように呟き、また歩き始める。
山合を走る線路にはまだ靄がかかっていると言うのに、木々のトンネルの出口はすでに昼間のような明るさだった。そのせいか、ここからでは眩しくて先が見えない。
その先はどうなっているのだろうと、少しの期待が歩みを速くさせる。だんだんと大きくなっていく出口の光に、最後は走っていた。
視界が開け、日差しが目を焼く。
眩しさに目を細め、やがて飛び込んできた景色に――。
「う、わ……」
切なさにも似た感情が溢れる。
見たことがないのにひどく郷愁を感じさせる。
遠くに囲む山々と、眼下に広がる水田や畑。
ぽつりぽつりと家があり、その先には町が見える。
そのさらに向こう、山と山の間からは海も見えた。
ただの田舎の風景の、どこに魅力があるのか自分でもわからない。わからないが、こんな辺鄙なところへ来てしまったと言う後悔は、少し薄れた気がした。
夜来たらまた綺麗なんだろうな……。
そんなふうに思っていると、タイヤが地面をこする音が聞こえた。
こんな土地で乗り回していたら確実に悪目立ちするような、やけに高級な車が目の前に停まる。
目を瞬かせ、車を見つめる。
見た目に驚いたのもあるが、それよりも急に車が現れたように感じたのだ。
景色に集中していたとはいえ、近付いてくる高級車に気づかないなんてことがあるだろうか。
しかし、驚いたのは数瞬だけ。
そこまで気にすることでもないと肩をすくめた。
この不思議な現象の原因など、分かりきったことなのだから。
そんな自分を急かすように、後部座席のドアが開く。
自動ドアのオプションもついているらしい。
いそいそと乗り込み、無駄に座り心地のよい座席に腰を下ろす。
車の中は黒を基調とした落ち着いた雰囲気だ。
物珍しくて首を動かしていると、運転席に座る人に目が止まる。
女の人、だろうか。身体の特徴が女性のそれだ。
そして、時折ふわっと香る花の匂いも、男性ではないと確信させる。
何と言っても。
その長い銀髪に目を奪われた。
ため息が出るくらいの綺麗な髪だ。
さらさらと長く、それでいて細すぎず、四方に散らばることのない丈夫な髪。
毎日どんな生活をしていたらこんなに美しくなるのか。
数秒おきに扇状に広がるのもまた、いとおかし……。
なぜ車の中で髪がそんなに動くのか。
そこが地獄であったことなど、その時は知る由もなかったのである。
さて。
数十分か数分か。はたまた数秒か。
時を忘れる感覚を一日に二度も味わうのは、これが初めてだ。
そして今、目の前に大きな洋館が佇んでいる。
ふらふらついてきてしまったが、大丈夫だろうか。
さっきの髪の綺麗な人は車を降りたら居なくなってるし、しかも車ごと無くなっているとは。
洋館へ足を踏み出して良いのか、戻った方が良いのか、途方に暮れてしまった。
「どうしよう……」
「どうしたの?」
後ろから声を掛けられた。
何とまぁ不思議な事がたくさんあるものだ。
いつの間にそこに居たのだろうか、金髪の女の子が顔を覗き込むようにして立っていた。
ポニーテールで全体的にふんわりしている。
身長は自分より少し小さいくらい。
「今日来るって言ってた新しい人?」
「えっと、そうなるかな」
「ここに来たってことは君も……?」
それきりあとに続く言葉はない。
同意を求めているようだったが、質問の意図が分からず肯定も否定もできなかった。
言いあぐねていると少女は後ろめたい事があると受け取ったのか、焦ったように
「ご、ごめん。言わなくていいよ」
あはは、と笑った。
「あ、いや、こちらこそごめん」
別に隠すようなことは何もないが、ここで色々と説明するのは面倒だったので止めておいた。どうせ彼らとも顔合わせをするのだろうし、込み入った話はそこですれば良いだろう。
少しだけ気まずそうにする少女に、小動物めいた愛らしさを感じて頬が緩む。
しかし、縮こまる彼女をこのままにしておくわけにもいかない。
そういえば名前を聞いていなかったな。
「君の名前は?」
少女は突然の質問に驚いたような顔をしたあと、なぜか嬉しそうに笑った。
「私はリエレシャーラ・エモ。リエレって呼んでほしいな」
「うん。よろしくリエレ」
リエレは花のような笑顔で笑う。
「こちらこそ。君の名前を聞いてもいいかな」
「ミカゼ・エルドートル。ミカゼでいいよ」
「よろしく、ミカゼ!」
元気よく言ってみたものの、少しリエレは恥ずかしそうだ。
特殊な環境にいたせいで、あまり慣れていないのだろう。
そういう星の下に生まれたのだ、仕方がないと思う。
だがしかし、世界は不条理で、そして美しく優しい。
この出会いもまた、時々見せる優しさの一つだろう。
思わず笑顔がもれる。
それを見てリエレはいっそう嬉しそうだ。
一頻り笑い合ったあと、リエレは、
「案内するね」
と言って、洋館の方へ歩いていく。
さて。
今日から住むことになるこの洋館には、どんな人達が居るのだろうか。
どんなモノ、あるいはどんなコトを持っているだろうか。
無意識に口角が上がる。
扉が、ひらく。