Σ(゜д゜lll) 敬意と信頼
少し経ってから、アヤトはゆっくりと、緑色のハリセンを降ろした。
静寂とまではいかないが、赤の回廊内における音の量が、先ほどまでと比べて、格段に減少している。
役者たちが無言で撤退していく。彼らの足音も沈黙していた。
回廊の『役者連館』側も、完全に静まり返っている。立て続けに次の突破を仕掛けてくる、そんな気配はまったくなかった。
この静けさの中、新たに十数人の《役者勢》が、アヤトの両側を撤退していく。
今は敵味方という関係だが、たとえ味方同士であったとしても、あの役者たちにかける言葉を、すぐには思いつきそうになかった。
彼らは勇敢だった。アヤトも『海箱座』のオーディションに合格していれば、マユハ同様、《役者勢》側の人間だっただけに、複雑な感情を抱かずにはいられない。
自然と背を向ける。役者たちが撤退していく姿をずっと見続けるのは、心苦しかったのだ。
彼らの健闘を称えて、背中だけで見送る。
この行為、《役者勢》には理解されないかもしれない。正直言って、自己満足だと思う。
でも、こんな形であっても、役者たちへの敬意を示したかったのだ。
体の向きを百八十度変えたことで、後衛にいる《劇番衆》と目が合った。
青い道着の女の子が、こちらに笑顔を向けてくる。
アヤトが予想していた通りの人物だ。《猫印》のケイリィ。
彼女が普段戦っているのは、赤の回廊ではない。別の回廊を主戦場にしている。
専用武器は右手のグローブと左足のシューズで、あれによる攻撃は、猫の足あとによく似たマークを残すことができる。
彼女とは直接の面識こそないものの、その戦いぶりなら、これまでに二回、目撃していた。
一回目は、代表支配人室から。
あれはアヤトにとって、初めて目にした《ゲキバン》だった。
二回目は、『橋舞台』で。
彼女は海箱ユユと、壮絶な戦いを繰り広げた。
橋の上空でケイリィが見せた奥の手、無数の飛沫を発射する技。あの飛距離は、一メートルくらいあったと思う。
(ということは・・・・・・)
いくら発射台を使おうとも、役者たちは天井ぎりぎりの位置、五メートルの高さを、常に飛んでいるわけではない。彼女がジャンプすれば、三メートル半くらいまでなら、射程圏内に収まりそうだ。
つまり、あの技は「対空」攻撃としても、十分に通用する。
アヤトは瞼の裏で、ケイリィが戦っている姿を回想していて、あることに気づいた。
彼女の専用武器、一回目は「オレンジ」で、二回目は「緑」だった。
そして、今つけているのは、緑色の方だ。
赤の回廊で使用されるペンキは、「緑」と決まっている。その色の専用武器なら、使うことが可能。
まさか彼女が赤の回廊に現れるとは、《役者勢》も計算外だったようだ。
アヤトも最初、信じられなかった。
だって彼女は、青の回廊の《選定候》なのだ。《選定候》とは、各回廊「最強」の《劇番衆》。基本的には個人を指すが、過去にはコンビでそう呼ばれたケースもあったという。
各回廊の象徴たる《選定候》が、自分の持ち場を離れて、別の回廊に駆けつけるなんて、普通はあり得ない。
はずなのだけど、ケイリィは実際に、目の前にいるのだ。
アヤトは一つの可能性を閃く。
(ひょっとして、先輩?)
先輩には「変身能力」がある。異世界転生の際に、授かった力が。
ニセモノのケイリィならば、ここに来ることも可能だろう。
でも、その可能性をすぐさま閉じた。目の前にいる相手、先輩とは雰囲気が違う。
「あの、ありがとうございます」
アヤトは感謝の言葉を伝える。ケイリィが救援に駆けつけてくれなければ、赤の回廊は今頃、《役者勢》の突破を許していたに違いない。
続けて、さっきの疑問を口にしてみる。
青の《選定候》なのに、どうして赤の回廊にいるのか?
助けに来るのは、青の回廊にいる他の《劇番衆》でも良かったはず。普段からハリセンを使っている者なら、赤の回廊には予備のハリセンがある。それに持ち替えればいい。
ハリセンでは、空中への攻撃はできないが、新型《空中戦艦》は今回が初見。その存在を知らなければ、普通は考える。ハリセンで十分だと。
なのに、他の《劇番衆》ではなく、回廊最強の《選定候》自ら駆けつけているのだ。
赤の回廊の戦力が薄いことを心配したからだとか、赤の回廊で使用可能な専用武器を持っているからだとか、いくつかの理由は思いつくものの、《選定候》は回廊の象徴。この間にもしも、青の回廊が突破されることにでもなったら・・・・・・。
すると、ケイリィが穏やかな声で、ある真実を告げてくる。
「よく誤解されるんだけど、あの回廊最強の《劇番衆》は私じゃないよ」
そのあとで、青の回廊の方向を見上げると、彼女は頼もしそうにつぶやいた。
「青の《選定候》は現在も、あの回廊にいる」




