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第1話:鳴る、無駄美人の耳

放課後の校舎。窓から差し込む夕陽は、廊下を琥珀色に染め上げ、どこか夢の中のような浮遊感を漂わせていた。

その静寂を、激しい足音と、鈴を転がすような、しかし切迫した声がぶち壊す。


「つよしせんせーーーい! どこですか!? 私、もうダメです! 耳が、耳が熱いんです!!」


廊下を猛然とダッシュしてくるのは、一年生のすずだった。

風になびく黒髪は絹のように滑らかで、夕陽を弾いて金色の粒子を撒き散らしている。整いすぎた目鼻立ち、潤んだ瞳。その姿は、まるで天界から迷い込んだ天使が、地上で何らかの試練に遭っているかのような神々しさだ。

しかし、彼女が叫びながら教員用ジャージの袖をギュッと掴み、顔を近づけてきた瞬間、その「神秘」は瞬時に「喜劇」へと塗り替えられる。


「……すず。廊下を走るなと一万回は言ったはずだ。それと、顔が近い。心臓に悪いから三歩下がれ」


職員室の前で、出席簿を抱えたつよしが、深いため息をついた。

つよしは、すずが中学生の頃からの知り合いであり、現在は彼女の担任……というよりは、もはや「専属の世話係」のような立ち位置だ。彼女の「聞こえすぎる」特異体質を知り、その暴走を物理的、あるいは説教で食い止められるのは、この世で彼をおいて他にいない。


「だって先生! 音楽室のピアノが、さっきから『ああん、もっと優しく叩いて! そこは弱音ピアニッシモよぉ!』って、身悶えしながら叫んでるんです! その声が……その、なんだかすごく艶めかしくて、聞いてる私の耳が火傷しそうなんです!!」


「……どんな人格だよ、そのピアノ」


すずは顔を真っ赤にし、つよしの腕に顔を埋めてスリスリと甘えた。

「先生ぇ……助けてください。先生の声を聞かないと、私の耳が変な音に汚染されちゃいます! 先生の、その……低くて、ちょっとぶっきらぼうだけど安心する声を、もっと近くで聞かせてください!」


「……っ、この、無駄美人が……!」

つよしの心拍数が跳ね上がる。自覚がないのか、すずは無意識につよしの懐に潜り込み、上目遣いで彼を見つめてくるのだ。千歳(姉)譲りのその美貌で、こんな距離から「声を聞かせて」などと言われて、理性を保てる男がこの世に何人いるだろうか。


「……分かった、案内しろ。……あと、袖を離せ。……いや、離さなくていい。……どっちだ」

「離しません! 先生を逃がしたら、私、音楽室の変態ピアノと二人きりになっちゃいます!」


二人は、すずがつよしの二の腕にガッチリとホールドした状態で、夕闇の迫る音楽室へと向かった。


音楽室の扉を開けると、そこには古びたグランドピアノが、西日を浴びて妖しく鎮座していた。

周囲には誰もいない。だが、すずの耳には、そこから溢れ出す「欲求不満な音楽の精霊」の吐息が届いていた。


『……ああ、もう! さっきの吹奏楽部の部長、失恋したからって鍵盤を乱暴に扱いすぎよ! もっと指先で、こう……愛撫するように弾いてくれないと……っ!』


「ひゃわわっ!? 先生! 今、ピアノが『愛撫』って言いました! ピアノのくせに、私よりエッチな単語を使ってます!!」

「……お前、語彙力が貧困なのを棚に上げるな。……よし、下がってろ」


つよしはすずを背中に隠すようにして、ピアノの前に立った。

彼はポケットから、清め塩をこれでもかと染み込ませた「特製調律ハンマー(という名の肩叩き棒)」を取り出した。


「……おい、聞こえるか。お前の不満は分かった。だがな、うちの生徒の純真な(?)耳に、そんな色気のある愚痴を垂れ流すのは教育上よろしくない。……ここは一つ、俺の説教で我慢してくれ」


つよしはピアノの蓋をそっと撫で、低い、しかし包容力のある声で語りかけた。

「いいか。お前はこの学校の長い歴史を、誰よりも見てきた。……生徒たちの不器用な恋も、失恋の痛みも、全部音として受け止めてきたんだろう? なら、あいつの乱暴な打鍵も、『心の叫び』だと思って許してやれ。……明日、腕のいい調律師を呼んでやる。それまでは、俺のこの声でも聞いて、大人しく眠っていろ」


ピアノが、一瞬だけ『ポーン』と、温かい和音を響かせた。

すずの耳に届いていた「ネチャついた愚痴」が、次第に満足げな、安らかな寝息へと変わっていく。


『……ふん。いい声じゃない。……あんたみたいな男に説教されるなら、悪くないわね……』


「あ……止まりました。ピアノさん、先生の声にうっとりして寝ちゃいました。……やっぱり、先生の声は魔法ですね」


すずは、ほっとしたように胸をなでおろし、つよしの胸板にポンと頭を預けた。

「先生……私、改めて思いました。先生の声、世界で一番好きです。……あ、顔も、ジャージ姿も、ちょっと加齢臭を気にしてる努力も、全部大好きです!」


「……最後のは余計だ。あと、そんなところで告白まがいのことを言うな。……鼻血が出るだろ」


つよしは照れ隠しに、すずの額を指でパチンと弾いた。

「いったぁい! 先生、これって『デコチュー』の代わりですか!? 先生、意外と積極的!」

「違う! お前の思考回路を調律しただけだ!」


つよしは真っ赤な顔で視線を逸らしたが、その口元は微かに緩んでいた。

彼は知っている。この少女がどれほど「無駄」だと言われようとも、その真っ直ぐな想いが、自分の凍りついた教師生活をどれほど温めてくれているかを。


「あ! 先生! そういえば、お礼にお姉ちゃんから預かってきた『添い寝券』、使いますか? 私が代行してもいいですよ!」

「……お前、姉さんの許可取ってないだろ! 帰るぞ、この無駄美人!」


「あはは! 先生、顔がリンゴみたいですよー!」


夕暮れの廊下。

二人の賑やかな、そしてほんの少しだけ甘い境界線が、長く長く伸びていた。

春の風が、二人の距離をまた少しだけ、いたずらに縮めていった。

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