2-1
「ふふふ〜ん♪」
リサは上機嫌に鼻歌を歌いながら、青色のワンピースを着て、くるくる回転する。下布の部分が遠心力でふんわりと開くのを、楽しんでいた。リサにとってのおしゃれといえば、この服を着て髪の毛をいい感じに編んでもらうことなのだ。
準備バッチリ、あとは出発するだけとなって、リサは暇を持て余し始めた。
じっとしていられず、居間をうろうろ歩き回る。
「あ、そうだ」
ふと、レレムは何をしているんだろうと気になった。別に大した用事はないけど、と思いながら、興味本位でドアをそっと開けてみる。
寝室は、小窓はあるけれど、薄暗くてこじんまりとした部屋だった。シーツも衣服も支給品が使われていて、どこか味気がない。棚に本が何冊か並んでいる以外は、他の召使い部屋と変わらない。小さいけれど、殺風景な場所だとリサは思う。
(あ、いた)
レレムは、漆喰で塗り固めた壁に手を触れて、そのまま立ち止まっていた。いつもはテキパキと応対するけど。たまに手が止まり、心あらずと言ったふうになることがある。そんな時、「どうしたの?」と訊くと、いつも決まって「考え事をしていました」と答える。今のレレムもその時に似て、とても静かな雰囲気に思えた。
(何してるんだろう)
こっそり見ていると、ゴツゴツとした壁のくぼみをなぞっていた手が止まった。レレムは人の気配を感じ取ったらしく、振り返る。ドアから半身を乗り出しているリサの姿を認めると、穏やかな微笑をたたえた。
「どうされましたか」
「なにか、考えてたの」
リサは尋ねる。
「そうですね」
レレムは壁から手を離すと、体をリサに向ける。背中のくるみ色の髪が引っ張られたように揺れた。
「存在と認識について、でしょうか」
にこりと笑いながらすごく哲学的なテーマを口にした。今日の晩御飯は何だろうかなあと的外れな予想を立てていたリサは、思いもよらぬ答えに、意外に感じた。
「例えば」
と言って、レレムは指を一本立てる。数字のイチ? それとも何かを指している?
「……こうすると、意識が指に向かうでしょう?」
リサは続きを期待して待っていた。けれどレレムは黙ってリサを見ている。
「えっと、それだけ?」
戸惑った声を聞くと、レレムは楽しげに瞳を細める。
「今は、そうですね。それだけです。認識できるものは存在すると言えるのか。そしてその存在が偽物だったら? でも、物がここにあると認識できるということは、一種の体験をしているんですよね? ということはですよ、例え本物じゃなくても、その体験は本物。そう思いませんか?」
嬉しそうに話されても、何を言っているのかさっぱりわからなかった。
(認識できるが体験?)
頭がこんがらがってくる。レレムは短い笑い声を立てて、
「いいえ、忘れてくださいな」
とお願いした。
忘れると言っても、理解できないことを覚えるのはとても難しい。
けれども、笑われたから、
(もしかして、からかわれたんじゃないのかな?)
とリサは思い始めた。
「どういう意味?」
ふてくされ気味に説明を求める。
「幻は本物と言えるのか、ということですよ」
種明かしをするみたいに言葉を区切って、レレムは話す。
「リサ様はノーヴ家の大切なご令嬢なんでしょう? そういえば、夢と幻の魔法について、何かお聞きになりませんでしたか?」
ご令嬢、と改まって言われると、リサはドキリとした。リサが本当の養子ではないことを、レレムは知らないのだ。魔法がどうだと聞かれても、教わったことのないリサには答えられない。
(で、でも、何か答えないと怪しまれちゃう)
頭が真っ白になった挙句、苦し紛れに、
「あ、あのね、ノーヴさんからは秘密だって言われてるの」
と答えた。秘密と言ったのにも関わらず、後になってから、思っていることがたくさん出てきた。
「あたし、夢と幻の魔法って、嘘だと思うの」
「へぇ、それはどうして、ですか?」
レレムは意外そうに眉を上げる。知的な好奇心に満ちた眼が、どこまで踏み込んでいいのかと迷いながらも、リサの顔に注がれていた。
「そういう噂が広がったのって、3年前になってからだから……。それより前はそんな話、全然無かったんだよ? きっと領主さんが悪い噂をばら撒いて……ノーヴさん、そんなひどいことする人じゃないもん」
一生懸命、弁解したつもりだった。噂だけが先回りして、悪印象を持たれがちなノーヴさん。でも、せめてレレムには良い印象を持ってもらいたいと思った。
「それなら、その噂自体が幻ということになりますね」
リサの話に合わせて、レレムは薄く微笑む。
「そう……! ノーヴさんが良い人だって、みんな知らないだけだもん」
「リサ様はご当主様のこと、お好きでいらっしゃるんですね」
「うん」
照れながらリサは頷く。自分の気持ちをわかってもらえたとリサは嬉しくなった。
遠くの空から時報の鐘がこだまする。
「……そろそろ行きましょうか。セルビア様が心待ちにしていらっしゃいますよ」
レレムは小さく息を吸うと、そう言った。
家紋の入った銀食器、足元やふちに曲線美の装飾が彫られたテーブル。その上には、白い磁器の花瓶に、紫のフリージアが花をほころばせている。洒落たお菓子入れには上等なケーキが並び、リサの目はそこに釘付けになった。
視界に入るチェストやソファ、ちょっとした置き物を見ても、これが本物の貴族の家なんだと実感する。大抵の人は寮生活をしているのだから、各部屋に各家のミニチュア版が生まれていると想像すると、お部屋巡りをしてみたいと思ってしまう。
お行儀よく木製の椅子に座っていると、古風なじゅうたんの上に、ワインレッドのドレスを着こなしたセルビアが現れた。黒いラインがアクセントとなって、大人びた色彩の布が豊満な体のシルエットを包んでいる。
「お越しくださってありがとう」
おだやかな言葉遣いに、貴族としてのゆとりを感じた。
「セルビアちゃん、お洋服、かわいい」
素直にリサが感想を言うと、パッと表情が明るくなって、
「そうかしら。この服、私の住んでいる所ではみんな来ているのだけれど、ここだと浮いちゃって……仕方ないから部屋着として使っているの」
「そんな、見せないなんてもったいないよ。すごく似合ってるもん」
生活環境が違えば一般的な服の概念も変わってくるのだろう。リサはちょっぴりエキゾチックなワインレッドのドレスを着たセルビアが、パーティーに出ているところを想像した。それはとても魅力的に思えて、自分の言葉に確信を強める。
その想いが伝わったのか、セルビアは上品に顔を綻ばせた。女性と洋服は、切っても切り離せない関係にあるものだ。
50代の召使が、うつ伏せのティーカップを返し、お茶を注ぐ。召使が部屋から出て二人きりになると、セルビアは解放されたかのように気を緩める。生来の明るさが顔に現れたかと思うと、ちょっと悪びれて肩をすくめた。
「別に駄目なんじゃないんだけどね、オバチャン……レオローレと一緒にいると、気を遣ってしまうわ。私のこと、田舎から来た世間知らずのお嬢様だと思って、細かいことを注意されるんだもの。召使とずうっと一緒にいると疲れちゃうわ」
と紅茶をすすりながら、小さめの声で打ち明けた。いくら大人びて見えても、本心を知れば共感できることもあるものだ。
「そうなの?」
リサはキョトンとして首を傾げる。
「リサちゃんはそういうことはないかしら?」
「あんまり、考えたことないかも」
疲れるなんてあったかなと宙を見上げる。レレムと一緒にいても、特にそう感じることはない。意識していなかったけれど、それって実は幸せなことなのかもしれないと思い始めた。
セルビアはゆったりとした調子で続ける。
「今はお客様の前だから猫をかぶっているけれど、私と話しているときは、本当にマシンガントークでまくし立てるの。言い返す暇もないから、心の中でオバチャンって呼ぶことにしたわ。そしたらちょっと、かわいいかもって思えてきたもの。心の余裕って大切よね」
こんな内容でも嫌味を感じないのは、セルビアが彼女にチャーミングな点を見出しているからだろう。
リサが熱心に頷いていると、セルビアは話題を変えた。
「私の話ばかりしていても、あれよね。リサちゃんはどう? そういえば、パーティーの時とても嬉しそうだったわよね」
「うん! すごく、……すごくよかった」
答えた途端、リサは本物の王子様を間近で見た喜びが、舞い戻ってくるのを感じた。甘酸っぱい気持ち一色に包まれながら、15前後の少女にしか出せない、生きる楽しさと喜びを宿した瞳を輝かせる。
「あのね、会場に行って、私どうしたらいいのか分かんなくて、レレちゃんもいないし、どうしようって思ってたんだけど、そしたらテウト皇子様に声をかけられちゃって!」
「そうなの?」
「うん!」
運命のシーンを思い出すと、王子様が目の前に現れたかのような気分に襲われた。頬を赤らめ、少しだけ俯いたが、幸せそうな表情は全く隠れていなかった。
「何かお困りですかって。すっごく優しくて、ああ、でも、あたしのバカッ。頭が真っ白になっちゃってね、答えられなかったの。そしたら——」
女は耳で恋をするとよく言われるが、その言葉に漏れることなく、リサも会話内容を手に取るように再現し始めた。もしポエムを吟ずる趣味があれば、その時の王子様が、晴れた日の美しい湖面のようなまなざしを向けながら、自分の薄暗く惨めだった境遇から手を差し伸べて救ってくれた様子を、臨場感を持たせて語っていただろう。
でも実際はそうではないので、話があっちに行ったりこっちに行ったりしながら、一人でヒートアップしていた。
セルビアは熱っぽく語るリサを微笑ましげに見ていた。見ているうちにリサの初々しさに庇護欲が掻き立てられたらしい。思わずといったふうに手を伸ばす。
「それでね——ひゃ!?」
リサはいきなり頭を撫でられて、身をすくませた。
「ど、どうしたのセルビアちゃん!?」
「ずっとそのままでいてね……」
しみじみとした様子で言われても、リサはどうしたらいいのかわからない。セルビアは犬のポチのように撫で回す。
「それって……?」
「なんでもないわ。好きな異性がいるって素敵ね」
と淡白に告げられると、リサは解放された。それが疲れた大人が見せるそっけない態度に似ていたので、リサはひそかにビクッと震えた。
「セルビアちゃんはいないの?」
「私は……この前婚約者の方とお話しさせていただきましたけれど」
「こんやく!?」
意外のあまり、リサは素っ頓狂な声をあげる。危うく握ったフォークを落としそうになった。
「そうよ。俗に言う、政略結婚というものよ」
淡々と興味薄そうに告げる。
(政略結婚って貴族がするものだと思っていたけど、こんな身近にあったんだ)
とリサは驚いた。その後に、そういえばセルビアも貴族だったという事実に気がついた。セルべトス家は一人娘しかいないから、婿に継いでもらうということらしい。
「どんな人」
リサは興味の塊になって聞く。
「……マイヤーン卿のご子息の方よ。ブルキオさん、というお名前。長男ナンヤと次男ヤッファの後に生まれた三男坊らしいわ。……変わった方よ。初めてお会いした時、開口一番になんて言ったと思います?」
機械的に説明するあたり、あまりいい人じゃなかったのかもしれないと薄々察してきて、リサは困り笑いをした。
「えっと……」
「『僕が三度の飯より馬が好きなのは知ってる?』って。『だから正直、女を愛せるのかわからない』って、こうくるのよ、真顔で」
「何それ」
リサの本心からの声だった。女と馬を一緒にするなんて、デリカシーがなさすぎる。
「別にペットの趣味くらい、構いませんけれど、どうして私はここにいなくちゃいけないのって、本気で思ったわ。横で聞いていたオバチャンには、後で『そこは愛せるようにしてさしあげますわ、でしょう!』と叱られるんだもの」
「そっかあ……」
どう受け止めていいのかわからなくて、リサは曖昧に相槌を打った。婚約者と言われるととてもロマンティックな響きがするが、そういう世界だけでもないらしいと知って、内心ショックを受ける。
それでもセルビアは誰かに聞いてもらいたかっただけらしく、さっきよりさっぱりした笑顔で言った。
「でも話していたらなんだか気持ちが落ち着いてきたわ。こんな話をしてごめんなさいね」
「ううん、大丈夫だよ」
「ありがとう。お口直しに、ケーキをもう一切れいかが?」
と上品に勧めてくれる。お言葉に甘えて口の中に頬張ると、優しい甘さに、
「おいしい!」
体が震えて、ここにきた甲斐があったとリサは思った。