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この狭い世界の中で  作者: しば
方歴975年
2/3

 ぐつぐつ。

「…た、頼む。やめてくれ…。」

 ぐつぐつ。

「…しつこいですよ、いい加減にお腹括って下さい。」

 ぐつぐつ。

「そんな物入れたら、絶対酷い有様になるって…あぁあ、そんなに大量に…!」

 ぐつぐつ。

「もう諦めて、さあこれを。…食べられないというなら、力づくで口に放り込みますよ?」

 ぐつぐつ。

「う…!?く、くそおぉぉ…!」


 …もぐり。

「…あれ?旨い。」

「だからそう言ったじゃないですか。」

 半ば無理やりに食わされた彼女の料理。

 呆れ顔の月夜の宣言通り、それは予想していた味を遥かに上回っていて。顰めていた顔はみるみる緩んでいった。

 料理名は彼女曰く、『ガマグチの薬膳梅煮こみ』。

「いや、梅干しなんか入れるっていうから、滅茶苦茶に酸っぱいのを想像したんだが。」

「薬香草と和えて、魚の身と自然に合うように整えてあります。そんなに梅の味自体は立たせていません。」

 はぁ。と料理を全くしない暁が感心しながら、その手に持った皿を再び眺める。

 巨大だったガマグチの身は縦に切られて、脂の乗った煮汁に浸されて上に葉と梅干が乗っかっている。

 もう一口運ぶと、ガマグチの良く締まった身からは肉汁とも言えるくらい濃厚な汁がじわりと溢れた。

 噛むだけで骨もほろほろに砕けて、じっくり煮込まれた事が窺い知れる。

「うん、うまい、美味い。」

「そうですか、それは何よりです。折角の数少ない活行草、嫌々食べたのでは効きが半減します。」

「?…この葉っぱの事か?」

 身に乗った、薄くて少し辛い様な香りのする葉を摘まんでそう聞いてみると、月夜は小さな口をもくもくと動かしてから飲み込んだあとに答えた。

「…、はい、食用にも薬にも使える薬草ですね。身体の巡りを促す効果があります。」

「巡り…。」

「栄養の有るものだとか、薬だとかの効き目をちゃんと伝えてくれると言う事です。病人、つまり今の暁さまにはうってつけなんですよ。」

 『病人』という指摘をされて、昼間打ち付けた背中の辺りが痛んだ。

「…なるほど。それは有難いな。」

「…(こくん)…でも、今年は実りが悪かったので、あまり採れなかったんです。よく使うので困っています。」

 喋る事と料理を食べる事を決して同時にしない月夜をみて『行儀良いな』などと考えていた暁だったが、残念そうに発した月夜のその一言にはっとする。

「不作、っていう事か?今年だけ?」

「え?ええと…」

 暁の声色が変わった事を不思議に思ったのか、月夜は少しの間思案して言った。

「…そうですね、こんなに草木の育ちが悪いのは、此処では初めてかも知れません。ずっと採取には困っていませんでしたから。」

「そう、か…。」

 周りと比べると自然豊かだと思ってはいたが、これでも不作だったらしい。

「…麓の、俺の村の方でもそんな状況なんだ。いや、もしかするともっと広域に広がってるかもしれないんだが。」

「不作が、ですか?」

「ああ。それでこっちの山奥の方まで遠出して狩りをしに来たんだよ。思った通り、獣は多く生息していたしな。」

 そう言うと、月夜は怪訝そうに眉をひそめた。

「…こちらの方はまだ、豊かな方だと?」

 それは、『ここよりも悪い所が在るのか』というような聞き方だ。

「?そう思ったんだが。」

「…実は、つい最近の事なのですが…急に木が枯れる事がありました。ほんの二、三日の間に…。」

「え…」

 ぞわり、とした。忘れかけていた事を思い出したように。

「在り得ない事だと思ったのですが、この辺りの植物は見間違えない位に把握しています。間違いは有りません。」

 そうだ、この山には不可解な現象が起こった。九死に一生を得たことで、目を背けていた事が。

「獣たちにはまだ影響無いようですが…あんな事が頻繁に起こるなら、じきにこの山は、…?暁さま?」

「…ん…あ、あぁ、何だ?」

 こちらを覗いてくる月夜の姿に我に返り、努めて明るく返事をしたつもりだったが…医者の心得が持つ月夜は騙せなかったようだ。

「…顔色が良くありません。料理、やはり口に合いませんでしたか?それとも、他になにか…?」

 心配そうに暗い顔でそう聞かれて、迷った。


―――あの幻について、話した方が良いのか。

―――しかし、今思い出そうとすると、幻聴がし始めた辺りからの記憶はもうすでに曖昧だ。

―――そんな話をして、世迷言だと思われたら。月夜に余計な心配をかける事になる。

―――怪我が治り次第ここから発たなくてはならないというのに、後々まで彼女の負担になるような事は避けたい。


「…暁、さま…?」

「―――あはは、逆、逆。あんまり美味いから、ちょっと放心してた。」

 月夜の不安を無くす為に、笑いながらそう言って料理を口一杯に頬張る。

「ん、やっぱり美味いな、コレ!」

 料理の感想は嘘じゃない。こんなに美味しい料理を見知らぬ客人に振舞ってくれるこの娘に、不安を与えたくない。

 暁はそう結論付けた。

「…。…あまり、暴食はしないで下さいね。消化を助けるために良く噛んで食べるのは、大事な事なので。」

 彼女はちょっと間を置いてから、表情をにこり、と柔らかく崩してそんな風に言ってくれた。

 

 やっぱり、笑ってくれる時の顔はとても可愛らしく、これを奪いたくない、と思う。

 

 月夜が初めに見せていた、隙を見せない、凛としていて冷たい剃刀のような反応は随分と薄れていた。

 大人しい印象は変わらないけれど、話していると言葉と表情の端々から、微かな『気安さ』が、見られるようになった気がする。同年代どうしらしい雰囲気、とでも言えばいいのか。

 …多分、素っ気ない言い方をするのは、警戒心があるせい。

 …本当は、倒れている他人を見捨てては置けない優しい性格で、初めて見るものには興味を隠さない子供らしさもあって。

 …薬の事を話すと自信たっぷりだし、怪我すれば過剰に心配するし。もちろん普通に怒ったり恥ずかしがったりもする、年相応の女の子。

 一緒にいるだけで、月夜のことが何となく分かっていくような。そんな、初めてできた友達みたいな感覚。

 ―――月夜もそう思ってくれてるかどうかは分からない。でも、暁はそんなの関係なく、もっと打ち解けた彼女を見たいと思うようになっていた。


「…そう言えば、先程狩りをしにここまでやって来たと言ってましたけれど、普段から獣を狩って暮らしているのですか?」

 湯飲みに入ったお茶をこくん、と喉に流して一息ついた月夜から、真っ直ぐとそう聞かれる。

「ん。実りの時期はな。でも、年中山籠もりしてる訳じゃないぞ。そんな事したら獣を獲りつくしかねないからな。」

 飯を掻き込んでいた暁はそれを素早く飲み込んでから答えた。

「ああ、同じ猟師の人が沢山いるんですね。」

「いや、今は殆ど俺ひとり。」

「え?ではどうして…」

 予想を否定されて疑問を浮かべる月夜に、暁は続けざまに答える。

 ふん。と胸を張って、茶碗を置いて腰に手を当てて。

「俺の弓の腕前が百人力なのさ。狙った獲物は生きて逃がさないのが、俺の信条だからな。」

「…。」

 暁の言葉に、固まって目を瞬かせる月夜。

 しばし沈黙の間が流れた後、その閉じた小さな口が彼女の自らの手によって覆われ、中から籠った笑いが零れた。

「…ぷっ…。…な、何ですか、その言い方…。」

「何だとはなんだ。こう見えても、村一番の弓手だぞ俺は。」

「…あ、暁さま一人で、山中の獣を狩り尽せるって、言ってるように聞こえます、ね…っ?」

「全くその通りだからな。前なんか五日連続で猪獲って威張ってたら、村長に乱獲だってぶん殴られたんだからな。」

「そ、その格好で、ですか…。」

 月夜が口元を押さえたまま眉をひそめて、暁の偉ぶる姿に目を移す。どうやら、そのおどけた風な格好が彼女の琴線に触れたようで。

「『大猟だぞ見てくれじいさん!』って、御裾分けに持って行ってやったってのに。近づいて来て褒めるのかと思わせてな?」

 その時の再現とばかりに、自分の位置と反対に動いてからヌっと表情を歪ませる暁。

「『お前が獲ったのは、来年の仔猪を育てる繁殖期のメスばかりだ!気性も荒いというのに、命知らずの大バカモンが!ガツンッ!』ってな。」

 暁が拳を振り下ろす真似をしてみると、月夜はまた笑いを噴き出し、両の手で顔を押さえてしまった。

 そんな彼女の様子を楽しみながら、ダメ押しに暁がその時殴られたであろう頭の部分を指差す。

「おかげで頭のてっぺんに山が出来た挙句、一年くらい髪が生えて来なかった。ほら。」

 月夜の方に向けられた頭頂には透けた地肌と、疎らに生えた細い髪の様子が見てとれて。

「…ぷ、くっ…あ、あははは…っ!」

 月夜はそれを直視し、もう限界だと声を漏らして笑い始めてしまった。

 暁の頭から目を離し、肩を揺らしてお腹を押さえて可笑しそうにする月夜。

 年相応にしか見えないその少女の姿に、何だか楽しくなった暁が調子に乗って追撃を掛ける。

「笑い事じゃない、4年くらい経ってようやくここまで息を吹き返したんだからな。この年で危うく禿げるとこだった。」

 ほらここ。と、見えるように暁が動いてやると、月夜はちらとだけ見て、お腹を抱えて苦しそうに笑い出してしまう。

「も、もうやめてくださ、…っぁはは…っ!あ、あたまっ。お腹、がっ…いた…っ。」

 笑って、ちょっと収まってはまた暁を見て、また笑って。

(やっぱり、こんなに屈託無く笑えるんじゃないか。)

 暁も、そんな月夜の様子を、好ましい変化だと嬉しく思いながら眺めた。

「…はぁ…っ…もう、…可笑しな人です、暁さまは…。」

 涙が出るまでひとしきり笑って、潤んだ目元を指で撫でつけながら言う月夜。

 後を引いているのか、笑みが少し残ったその顔がとても良い表情をしていた。

「お互い様だ。俺の方こそ、月夜がそこまで可笑しそうに笑うと思って無かったよ。」

「え、…わ、わたし、笑ってましたか?そ、そんなに…?」

 自分でも意識していなかったようで、暁に指摘された月夜は、ぱっと指先を口に宛がった。

「いや、変って意味じゃなくてさ。むしろ、月夜はもっと笑った方が可愛らしくて良いと思うぞ。」

「んっ、ぅうんッ。…よ、余計なお世話です。私だって、笑う時くらいちゃんと有ります。…普通に。」

「はは、そっか。ごめんごめん。」

 ちょっと咳き込んだ後に『失敬な』、と唇を尖らせながら睨んでくる月夜へ、謝る暁。

 ―――ふと、母親と暮らしていた時の彼女は、ずっとこんな感じだったのかも知れないな、なんて考えた。 

「そ、それよりも。暁さまの暮らしぶりの話の続き、お願いします。」

「ん、…どこまで話したっけ?」

「狩りばかりしている訳じゃない、と言っていました。」

「あぁそうそう。獣を獲りつくすといけないから、狩りは決まった期間だけで、それ以外は他の村に行って色んな仕事を……」



 その後、夕食を食べ終えても暁と月夜の語らいはしばらく続いた。

 暁が、狩りの他にはどんな仕事をしているのか。

 仕事ではどんな所に出掛けて、そこにはどんな物が有るのか。

 普段いる村にはどんな人がいて、どんな物を食べて、どんな暮らしをしているのか。

 もっぱら月夜の質問攻めとなってしまっていたが、好奇心たっぷりに聞いてくる彼女の眼差しに、暁も饒舌に答えていったのだった。

 

 …いつの間にか、夜も更けて。

 鍋を外してゆっくりと燃えていた囲炉裏の火が弱くなっている事に、暁が気付いた。

「あ、月夜。」

「…え?何ですか?」

 「囲炉裏、いろり。」と暁が指で示すと月夜がそれに気づいて、薪が置いてある家の端の辺りへ目をやる。

「あ、薪…もう中に有った物は、使い切ってしまいましたね。」

「そうか、じゃあ俺、外で取ってくるよ。昼のうちに割り貯めて置いたから。」

 そう言って、よっと、と腰を上げる暁。

 外に向かおうと戸を開ける暁に、月夜がちょっと考えてから声を掛けた。

「ああ、すいません…でも、今日はもう遅いですから、火、仕舞ってしまいますね。」

「…うお、寒っ…そうだな、じゃ取りあえず朝の分だけでも取ってくるな。」

「はい、お願いします。私も寝る用意をしておきますので。」

 ああわかったとだけ返事をして、暁は家の戸を閉めた。

 夜更けの風はもう木枯らしの如く冷たく、体を震わせる。暁は服を押さえると裏の薪置き場を目指し、暗い外を歩き始めた。


「…うっはぁ、さぶっ!滅茶苦茶さむい…!」

 薪の山を抱えて戻り、暁が家の戸を急いで閉める。寒風に晒された顔を引き攣らせながらも、入り口横の壁に移動して薪をまとめて置く。

「ありがとうございます。火、まだ仕舞ってないので当たって下さい。」

「お、こちらこそどうも―――」

 風を凌げるだけでも有難いと思った矢先、更に嬉しい心添えを与えてくれる月夜。 

 暁がお礼を言おうと薪を置き終えて、その家の主の方を振り返った、その時だった。

「―――ありが、…っ!?」


 暁の目に映った、月夜の姿は。

 ただの素肌に腰巻を穿いたその上に、袖付きの薄着を羽織おうとした状態。

 何時もの真白に彼岸花が映える着物を脱ぎ去り、白色の寝巻を『着ようとしている』真っ最中だった。


「っうわっ…!?」

 反射的に後ろを向き、月夜を視界から消す暁。

 冷えてしまっていた身体は一気にかぁと紅潮し、汗が噴き出した。

(やばい、謝らないと…!いやでも、着替えてるなんて知らなかったし!とはいえ、そもそもここは彼女の家だし…っ!?)

 ぐるぐるかき回された頭で、必死に何といえば良いか模索し始める暁。

 そんな純な青年をよそに、肌を見られた当の本人の反応は、実に淡白な物だった。

「…暁さま?そんな所にいては寒くないですか。」

「え。」

 どのような悲鳴が上げられるかと戦々恐々だった暁は、実に低音で不審そうに発せられたその声に、思わずそちらを振り向いてしまう。

「この家も建てられてから長い年月が経っていますから、建て付けも、余り良くない所が出てきているんですよ。」

 既に寝巻に着替え終わっていた彼女は暁の方へとスタスタと近づいていき、通り過ぎたかと思うと三和土を下りて戸を掴み、「よいしょっ」と言ってしっかりと閉め直した。

「ほんとうに、寒い…。布団に入る前に、暖まった方が良いです。」

「あ、ああ…?」

 あまりにも自然な月夜にあっけらかんとし、囲炉裏へと促されて火にあたる暁。

(…無防備だなぁ)

 冷えた指先を温めながらそんな風に思って。


 ふと、横に敷かれた布団に目がいった。

 数が、ひとつ。

「…なあ月夜、今日からは君が布団を使うんだろ?俺は毛皮被って寝るよ。」

「え、そうなんですか?」

 何故か不思議そうにそう返す月夜。また床で寝ようとしていたのだろうか。

「俺はこっちの方が合ってるからさ。」

 内心、布団で寝れるというのは有難くはあるが。月夜を冷たい床に寝かせるわけにはいかない。

 暁は持ち前の毛皮を振り上げると肩にかけ、月夜に向かいにっ、と笑いかけた。

「…うぅん…そうですか、わかりました。」

 しかし月夜は何か思案したような風に視線を下に移してから、暁に向かって頷いた。

 火を仕舞い、美しい黒髪を軽く束ねる。その彼女の姿は、経験の無い艶やかさがあって。

 少しどきりとしながらも、暁は毛皮をばっさと被ると月夜とは反対向きに寝転がった。

「じゃ、おやすみ。」

「はい、おやすみなさい。」

 背中の向こう側から布団の擦れる音がしたかと思うと、そのうちに、しん、とした静寂が流れ…。


 ……。


「…母の布団、もう使わないと思って…燃やしてしまったんです。」

「え?」

 …突然、彼女がそう言った。

「ごめんなさい。暁さまのように、人が来ることなど考えもしなかったので。」

「ああ…気にするなよ、置いて貰ってるだけでも十分だから。」

 振り返りざま、体の周りに冷たい空気が流れ込んで。暁は思わずくしゃみをしてしまった。

 『うわ格好付かないな。』と思った時にはもう遅く、月夜のこちらを見る目に心配がちな様子が表われていて。

「いや、大丈夫大丈夫。今ちょっと動いたから鼻がくすぐったかっただけだから!」

 取り繕うものの、暁の体がぶるっと震えたのを見て。

 月夜がある一言を放った。

 何故か布団の端を広げて、誘うように。


「…あの、こちらに来ませんか?そっちの方が温かいですよ。」


 …は?

 口が開いて固まって。

 しばらく考えて暁の頭に浮かんだ答えは、『聞き違い』と相成った。

「…今なんて言った?」

「え?ですから、私の布団で一緒に、と。」

「なに?」

 間髪入れずに聞き返した暁。条件反射も良い所だ。

「…むっ。…暁さま。私の話を聞いてないんですか。」

 何度も同じことを言わされて不機嫌になったのか、眉をひそめて睨む月夜。

「さっきから、なにか私をお避けにしていませんか。」 

 おれは何を責められているのだろうかとこんがらがりつつも、何とか自我を取り戻した暁は、思わず上体を起こしてから

「…ななっ、なんだよそれ!?」

 と叫んだ。

「避けてないし!てかまだそこまでの仲じゃ無いしっ!?」

「っな、何ですか?突然声を大きくしてっ。」

「何って、君は自分で何を言ってるか分かって無いだろ!?」

「?、?、?」

 そう言われた月夜は、暁の言った通り、物分からぬ顔で戸惑っているようだった。

(…無防備とは思ったけど、ここまでヒドイ箱入り娘、見た事無い!)

 妹を持つ身としては、女の貞操観念について暁なりに学んでいたつもりだ。


 むやみに肌を見せるな。

 男の家にみだりに行くな。

 思わせぶりに仲良くなるな。

 男は狼の姿を持っていると思え。

 

 …もちろん、幾つか自分勝手で、不本意で、差別的な事を教えた気もするが…大事な妹を守るため、大切な事を教えたつもりだった。

 それを、この娘は。

 出会って間もない男を、あろうことか同衾しようと誘っているのだ。

 信じ難い。『親の顔が見てみたい』なんて、年寄り臭い事さえ考えてしまった程である。

「…月夜は、同年代の友達とか居たか?」

「いえ…。」

「縁談、とか、…結婚の話は?」

「い、いえ、ずっと独り身でいるようにと、母に言われましたので…?」

「……」

 成程、何か事情があったのだろうが…。

 それでもこの状況で、言わないわけにはいかない。

「…はぁ。あのな、月夜。」

「はい…?」

「男と女が一緒に寝るっていうのは、家族か。」

「?」

 暁が重い口を開ける。

「…許嫁とか、…結婚を誓い合った仲の間柄だけ。なんだよ。」




 次の日の朝。

 今日は目覚めてすぐ傍の台所に立っていた月夜に、羽織っていた毛皮をずり落としながら挨拶。

「おはよう、月夜。」

「(びくっ)おっ、おはよう、ございますっ…!」

 肩をいからせながら振り返った月夜。

「いい、今っ、朝食、出来ましたから…っ。」

 声を震わせながらもお盆に乗せた色鮮やかな粥からは良い匂いの湯気を立たせていて、暁の腹を鳴らせた。

「あぁ、ごめん。手伝えなかったな。」

「いえ、大丈夫です、簡単なものですから。」

 目の前に並べられた美味しそうな朝食を手に取って、二人声をそろえた。

「じゃあ、いただきます。」

「頂きます…ッ?!、…けほ、けほっ…!」

「!?お、おい月夜、大丈夫か…?」

 一口目で勢いよくむせ込んだ月夜に、暁は彼女の背中に回ってぽんぽんと叩いてやった。

「い、いえっ…だ、だいじょぶ、ですッ…こほっ、こほんっ…!」

 助けを制しながらも、せき込み続ける月夜。

 …どうやら、よほど昨日の自分の言葉が恥ずかしかったらしい。

 いつも冷静な彼女らしくなく、また可愛らしい一面が明らかになったな、と、暁は笑いを溢してしまった。

「…ッ…?!な、何を笑ってるんですか!」

「あ、いや。…そんなに慌てさせてしまうんなら、そのまま一緒に寝ちまえば良かったかな、と。」

「!?っ暁さま、い、意地悪、です、もうっ!!」

 腕で軽くシッシと振り上げて、暁に怒る月夜。そんな反応もまた、無邪気で、面白くて。

「うわっ、ごめん、ごめんって。あはは。」

「もう、知りませんっ…ふんっ…。」




「じゃあ、今日は役割分担って事で良いんだな?」

「はい。私は魚を獲ってきますから、暁さまは薬草を摘んできて貰えますか。」

 朝食をとった後、暁も仕事をすることを許可された。

「お母様の墓石周りに、これと同じような物が生えているはずですから、それをお願いします。」

 月夜が家の引き出しから薬草を取り出し、暁に見せる。丸い葉が左右交互に叉になっていて、特徴的だった。

 これなら暁にも覚えられる。

 …だが問題が一つ。

 月夜がこちらを睨んでいる事だった。

「…あの、月夜、さん。」

「…何ですか。」

「まだ、怒ってる?」

「…。…怒っていません。」

「ごめん、ほんの冗談だったんだ。この通り。」

 今度は真剣な顔で頭を下げる暁。

 月夜がそれを見て、ふう、と息を漏らすのが頭の上で聞こえた。

「…も、もういいです。それは。私が考えていたのはそっちじゃありません。」

「『そっち』?」

 顔を上げて月夜の表情を覗くと、それはどこか恥じらうような、ばつの悪そうなものだった。

 どうやら、からかった件は自分でも引っ込みがつかなかっただけで、許しては貰えたらしい。

「私は。暁さまが一人で無理をしないかが心配なんです。」

「え?」

 よく意味が分からなかった。月夜は暁が動く事に同意してくれたのでは無かったのだろうか?

「『それ』、どうするおつもりですか。」

 すると彼女はぴしっ、と暁、

 …の背中にある弓矢を指さしたのだ。

「薬草を摘みに行くのに、なんでそんなものが要るんですか。」

 ああそう言う事か、と暁は納得した。

 つまり月夜は、病人である暁が弓矢を使う事を心配してくれているのだ。

「いや、これは護身用も兼ねてて。」

「『兼ねて』って、やっぱり狩りする前提なんじゃないですか!」

「いやいや、しないしない!誓って!」

 手振りで否定し、月夜を宥める。月夜は疑いの眼差しを向けながらしばし考えた後、「~…必ず、ですからね。破ったら承知しません。」と答えてくれた。

「それよりもさ。月夜の方は、釣れるのか?魚。」

「大丈夫です、昨日ちゃんと覚えましたから。」

「ホントかなぁ。」

「ホントですっ。」

 見に来るような事はしないで下さいよ、と念を押して。月夜は小川の方向へと向かって歩いて行ってしまった。

 それを見送るようにしながら、暁も体の調子を確かめる。

 手足の節々がいつもより重いのは変わらないが、辺りをうろつくには問題は無さそうだ。

「さて…あれ?」

 すると、さっき月夜が消えていった方から微かな声が聞こえた。

「月夜…?!」

 何かあったのか、と思い暁が走り出そうとした、その時だった。

「暁さまっ!」

「うわっ…!?」

 はあはあ息を切らしながら叫んで、月夜が飛び込んで来たのだ。

「ど、どうしたんだ?」

「っ…はぁ、…い、言い忘れた事がありました…!」

 尋常ではない雰囲気の中、月夜は林の向こうを指さしながら「あの、大樹なのですが。」とかすれ声で言った。

「大樹って…あぁ、あれがどうかしたのか?」

 暁が背中を伸ばし、丘の下の方に、微かに樹の頭の様な葉の集まりを見つける。

 位置的には家から見て、墓石の反対の場所にあった。

「あの、先には、行かないように…して下さい。」

 「え、どうしてだ?」と反射的に聞き返す暁。

「そッ、それは、あの…ど、どうしてもです!」

 ますます分からない答えが返ってきて、暁は唸るように首を傾げた。月夜はそれに続けてこう言う。

「あれより先に行ける様な体力、貴方さまには無いんです!」

「ああ、そう言う事…なら、そう言ってくれ。」

 体の事を心配してくれていたのかと思い直し、笑いかける暁。

「大丈夫だって、結構良い調子だから、ホラ。」

 肩をぐるぐると回し、体に異常が無い事を月夜に教えるが、それでも彼女は慌てた顔をしていて。

「とにかく、ダメです!家の周りから、遠くにまで行かないで下さい!分かりましたか!?」

 矢継ぎ早にそう言う月夜に抗えず、暁は「わ、わかったよ…?」と言わざるを得なかった。

「…で、では。私は魚を獲ってきますから。大人しく薬草摘みをしていて下さい。何かあれば私を呼ぶように。分かりましたね?」

 服の乱れを少し直し、こほん、とそう言って。

 月夜は再び、小川の方へと歩いて行った。

「…まあいいか。言われた通りに薬草を採りに行こう。」

 呆気にとられつつも、暁は自分の仕事にとりかかるのだった。



 母君の墓石の辺りには以前見止めた赤い狐花の他にも、それを取り囲むようにして色々な植物が生い茂っていた。

 とは言っても、それぞれ一つ一つ丁寧に場所が分けられており、月夜が手入れを欠かさずにいる事が見てとれて。

 おかげで、頼まれた薬草の調達はすぐに終わってしまった。

「ふう、こんなもんで良いのかな。」

 言われた薬草は『鈴生りになっている部分をもぎ取ればまた生えてくる』との事で、暁の手には、事前に渡されていた木の籠いっぱいに肉厚の葉が入れられていた。

「あんまり取ると、後で困るのかな…」

 その辺も訊いておけば良かったと、暁が立ちすくんでいた時。


 びゅう、と強い風が一瞬、ふいた。


 ぞくり。と感じる風だった。どこか、覚えの有る様な。

 そうだ、あの山で感じた雰囲気だ。と暁には感じられた。

 だが、しかし何かが違った。

 あの時感じたのは明らかな『敵意』だったが。

 なんだろう、と、やって来た方角を探ると、それは丘の上からやって来ていた。

「…月夜?」

 薬草を手にしたまま、暁は月夜の家へと歩いた。

 百歩も行っただろうか。家につき、戸を開ける。

 月夜は居なかった。

 

 びゅう。


 また、あの風が吹いた。そして―――

 ―――それは大樹から吹いているのだと、暁は『頭』で感じた。


「…う…ぉ…。」

 目の前まで行くと、『それ』は予想以上に巨大だった。

 暁が二人、いや三人になって腕を繋いでも足りない程に太い『樹』。

 幹も、手の届く事がやっとの位に高く、見事に紅葉した葉の房をそこかしこに生やしていた。

(丘の先が、こんなになっていたなんてな)

 おそらくここは、何処かの山の中腹にあたる場所なのだろうが、位置的に家より低く、墓よりはもっと低い。

 高低差によって、あるいはこの大樹の大きさによってこの場所が近くに見えていたのだろう。

 だが大樹は目測よりだいぶ離れた場所で、その居を構えていた。

「……。」

 さわ、さわ…と、豊かな木立が揺れる。


 まるで、暁を呼んでいるかのようだ。

「…あの山に入ってから…俺にくっ付いてるのは、お前か?」

 ざわ、ざわ…

 大樹は、答えなかった。

 『あの時』のように、不気味な声は返ってこなかった。

「……。」

 さっきまでが嘘のように、風は止んでいる。

「…はぁ。…何言ってるんだ、俺は。」

 自分でも馬鹿らしくなって、暁は大樹の前に大の字になって寝転んだ。背負っていた弓矢がカシャンと音を立てた。

 大樹を見上げる。綺麗な樹だった。

 さわさわと、葉の擦れる音が心地良い。

「薬草も、取ったし…無理しないようにって、言われてるしなぁ…。体慣らしに、弓の練習でもしておくか。」

 …もう一つの言い付けも忘れて。

 よっ、と上体を起こし、横に転がった弓を拾い上げる。

 肩に掛けていた矢筒から一本の矢を取り出し、横向きに構える。

(良し、大丈夫)

 腕の具合を確かめ、矢を放った。

 

 タン、タン、と矢が古木の洞に刺さる音が辺りに響きわたる。

(うんうん、狙い通りだ)

 暁が思ったのと同じ場所に、矢は当たり続けた。

 本来ならば的を掛けて練習にするのだが、今回は仕方ないので、既に倒れてしまった木に向かって打ち込んでいく。

 ふと気が付くと、結構な時間が経過していた。

(と。そろそろ戻らないとな)

 起き上がり、古木に刺さった矢を回収しながら、暁は月夜の言っていた事を今更ながらに思い出した。

(あ、しまった…遠くに行くなって言われてたっけ)

 今いる方向と家の方向を確認し、暁はその場を後にしようと…

「…ん、…!?」

 …大樹の向こう、木々の間にいた『影』に気が付き、身構えた。

 その、正体は。

(熊だ…!)

 ちょうど暁ほどの大きさの、翠色の毛皮を持つ若い『ヒスイグマ』だった。

(っ、しまった)

 気が付いた時には既に遅く、暁の存在を気取られてしまっていた。ぎろりと黄色に輝く眼が、こちらを見ていたのだ。


 熊に出会った場合の対処。

 威嚇状態を保たせ、相手の興を冷めさせるか。

 もしくは。

(倒す…か。いや)

 だが、今の暁には武器こそ有るものの、熊の厚い毛皮を射抜けるほどの力は回復していなかった。

 普段なら目を射り、その隙に腹を射る事も、あるにはあったのだが。

「グゥウ」

 ヒスイグマは四つん這いになってこちらを見ながら唸っている。

(頼む、どこかへ行ってくれ)

 いつでも矢を打てる体勢を取りながらも、暁はそう祈った。それしか出来なかった。交戦状態になれば、撃退することは難しい。

 なにより、この先には月夜がいるのだ。

 出来れば無茶をせずに、この場所を『人間が居る危険な場所』だと認識してもらいたかった。

 だが―――


「…ガァッ!」

「くそっ!」

 ―――熊はその雰囲気に堪らなくなったかのように、いきなりこちらへと飛び込んで来た。

 暁は舌打ちしながら、弓矢の初打を放った。

 その一矢に驚いたのか、ヒスイグマは太い脚を一度止めて横向きになった。

 こちらに横っ腹を見せている状態だ。いつもなら皮の薄い所を目掛けて打つところだったが。

(そこだ)

 素早く次の一矢が放たれた。そして。

「ギァアッ!」

 その切っ先はヒスイグマの右目横ぎりぎりを射抜いた。翠の毛皮に、鮮血が飛び散る。

(よし、これでどうだ―――?)

 暁としては、この熊をここで倒す気は無かった。

 まだ若い熊の様に見えたので、痛い一撃を与えれば逃げ帰るだろうと考えたのだ。

「…グゥ…フッ、フッ…!」

 だが、その予想は外れた。それどころか、かえって敵愾心を煽ってしまったようだった。

「…くそ…!」

 もうダメだ、と思った。

 こうなってしまえばもうどちらかが死ぬまで戦うしかない。

 そして今、暁には相手に止めを与える手立てが無かった。

 それでも。

(…こうなったら、出来るだけ月夜の家から離れた場所に、逃げながら戦うしかない!)

 拾われた命だ、彼女のために使うのは道理だろうと。

 暁はヒスイグマの後ろへと回り込むようにして走った。

「ほら!こっちだ、こっち!」

 そうして、大樹の外側へ移動した時だった。


…キュウゥーンッ!


「…え?」

 大樹の上から陽光を背負って、何かが飛び降りてきた。

 一瞬目がくらんで、黒い塊にしか見えなかったそれは。

 …やはり、真っ黒な。

 狐…だった。


「ガァアッ!」

「しゅっ…フシュゥウッ!」

 黒い狐はすぐさま手負いのヒスイグマに対峙すると、遠目でも分かる位の威嚇を始めた。

 熊も威嚇を返し、爪の一突きを繰り出すものの、すばしっこく動く狐には全く当たらない。

 しかも狐は、その攻撃を躱しつつもヒスイグマの脚に噛みつき、反撃した。

「グァッ、グアァゥッ!?」

「しゅーっ!」

 目まぐるしい威嚇、目まぐるしい反撃。

 しなやかな身体から生み出される動きは、まるで何かの舞の様だった。

 敵わない、と悟ったのか。

 ヒスイグマは段々と山の下の方へと追いやられ、やがて背中を向けて逃げ出してしまったのだった。


「……。」

「フー、フーっ…。」

 棒立ちの暁の目の前には、大樹と、肩で呼吸を繰り返す黒狐が一匹。

 暫し呆然と立ち尽くしていた暁だったが、我に返って。

「…あ。…おい、大丈夫か?」

 満身創痍そうに見えた狐に近づき、一言呼んでみた。

「ッ!?…フシャーッ!」

「うおっ!?」

 すると狐はばっ、と後退りして、暁に向かっても威嚇し始めた。

 そもそも暁の存在に気付いていなかった、そんな反応だった。

「ぐるる…!」

「違う違う、敵じゃないって…!」

 そういえば、父から昔聞いた事があった。

 『狐は人に懐かない』と。

 狐なんて近くの山では遭遇した事が無かったし、小さい頃黒い犬を飼っていたから、ついそれと同じように接してしまった。

「あー…そうだ!ほーら、山葡萄、食うか?」

 閃いて、頭の先にぶら下がっていたそれをもぎ取り、しゃがんで手の平に乗せてやった。

「ぐー、…(スンスン)。」

 少し警戒を解いたのか唸るのを止め、その場で頭を低くし、匂いを嗅がれた。

「ありがとな、お前のおかげで命拾いしたよ。…お返しだ、な?」

「ぐー…。」

 言葉をかけるものの、理解されるはずも無く。

 しばらくの間喉を鳴らした後、ぷい、と踵を返されてしまった。

 やはりだめかと思ったが、その視線の先をよく見ると、動くものがあった。

「あ、ウサギか。」

「…しゅっ!」

 『それ』を目掛け、黒孤は追いかけ始めた。


 さっきの疲れが響いているのか、直ぐに捕らえられるかに思えたウサギはちょこまかと狐から逃げおおせた。

 狐の狩りというのも初めて見るので、ちょっとの間観察していた暁だったのだが。

「うーん…。」

 なんだか目に見えてヘロヘロになっていく黒孤が、不憫に思えたので…少し手助けすることにした。

「よっ、と…ほい。」

 不意に目の前に矢を打ちこまれたウサギは、キキッと動きを止める。

「フーッ…がぶっ!」

 その好機を逃さず、ウサギに牙をたてる事の出来た黒孤。

「おー。」

「……。」

 ウサギの息の根を止めた後、なぜか暁の方を睨んできた。

「あれ?な、何だよ…ちょっと手伝っただけだろ…?」

「……。」

 親切のつもりで行った事の、その反応に戸惑う暁。そんな彼へと黒孤はトコトコと近づいて。

「…フンッ…!」

 折角の獲物を、目の前にポイ、と放り投げてしまった。

「なっ。」

「キュォーン!」

 そして一声鳴くと、一目散に大樹の向こう側へと走り去っていった。

「…狐は犬と違って気高い、か。」

 父から言われた言葉を今一度思い出す暁だった。




「…で、これは一体何なんですか。」

 夕暮れ。

 ウサギを持って家に戻った暁を待っていたのは、腕を組んで怒り顔を浮かべた月夜だった。

「いや~…ちょっと、事情があってさ…」

 かくかく、しかじかと。

 暁は昼間あった事を話すが、月夜の表情は変わらなかった。

「…成程。あれだけ言ったのに、大樹の方まで行ったんですね。」

「ご、ごめん…。」

「しかも熊とも遭遇したって。どうして私を呼ばなかったんですか。」

「いや、月夜の方行ったら危ないだろ?だから何とか俺だけで対処しようと思って…。」

「…あのですね。」

 声は静かなまま、月夜の顔に怒気が籠った。

「私はずっとここに住んでいるんです。熊避けの丸薬だって持ってますから。」

「う。」

「大体、貴方さまは。療養中の身だと何度言ったら分かるのですか。」

「…すまん、面目ない。」

 今回ばかりは素直に謝るしかないと、暁は頭を下げた。

「…もう、いいです。それ、貰えますか。」

 視線を少し上げると、月夜がウサギを指でしめしていて。

「え?あ、これなら俺、自分で捌けるから…。」

「(じっ)」

「うっ…お、お願いします。」

「はい。…あと。」

「?」

「狐の方は、私も対処できませんので、近づかないようにして下さい。」

「え…いなかったのか、今まで?」

「私は、余り遠出をしないものですから。」

「うぐ。」

 


 その後、意外というか当然というのか。

 月夜が捌いたウサギ肉によって作られた夕食が、暁に『ちゃんと』振る舞われた。

 肉を捌ける事もそうだが、正直、飯抜きの制裁を覚悟していたので、暁はほっとして囲炉裏の前についた。

「頂きます。」

「い、いただきます…。」

「?どうかしたのですか。」

「いや、夕飯作ってくれないかと思った。」

 ぷっ…と月夜が口元を押えた。

「…こ、子供じゃないんですから…。」

「いや、妹だったら明日の朝まで飯抜きにされてる。」

 ふふ、と、今度は笑いを隠す様子も無く。

「随分と仲が良い妹さまがいるのですね。何だか羨ましいです。」

「はは、そっか、確かに周りからはよく言われるよ。月夜は兄妹いないのか?」

「はい。私は一人っ子ですので、そういった賑やかな家庭に憧れますね。」

 少しだけ寂しそうに目を伏せながらそう言い、夕食を口にする月夜。

「そうか…。」

 そんな月夜を目にして、暁はそれを励ますように言う。

「なあ、俺の体が治ったらさ。」

「はい?」

「妹と、友達も連れてくるよ。月夜に会わせてやりたいんだ。」

 笑顔の暁に、しかし月夜は複雑そうな顔をした。

「そう、ですね…。」

「?…もしかして、迷惑か?」

「えっ…い、いいえ、そんな事は無いです。」

 陰りが差したように見えた表情は消え、にこやかに笑うその顔を咲かせて。

「ぜひ、その妹さま方を紹介して下さると嬉しいです。お願いしますね。」

「…お、おぉ。任せろ。」




 次の日。

 『どうせ遠くに行くのなら』と、月夜は半ば呆れがちに。

 それ以上先に行かない事を条件に、と頼まれた薬草と木の実の採取の為に大樹の方へと出かけた暁。

 言われた通りに大樹の近場を散策すると、墓地のように、不作とは裏腹な多くの植物がある事が分かった。

「月夜はどうやって暮らしてるのかと思ったけど…意外と作物は取りやすい場所なんだな、ここって…。」

 理由は分からないが、不思議な事が多く起こる場所だな、と暁は思った。

 だから、月夜もこんな辺鄙な山で生きていけるのだ、と。

「ん?」

 と、何か遠巻きに視線を感じて後ろを振り返ると、少し遠くにある草むらが揺れた。

(何だ?)

 敵意は感じない。またウサギでもいるのかと、弓矢を構えようと―――

「あ…。」

「…きゅぅうっ!」

 ―――そこに現れたのは、昨日の黒い狐だった。

 気取られた事に気付いたのか、葉っぱの間から顔を覗かせると、一気に暁の横を通り過ぎてから身構えた。

「何だ、お前か。」

「ぐるるるっ。」

 威嚇しているつもりのようだが、進んで攻撃してくるつもりが無い事は昨日の様子から見てとれた。

 暁は変に刺激を与えないように、そのまま薬草の採取を続けることにした。

「昨日はありがとさん。今日はどうしたんだ?」

 顔の向きを変えず、そのまま気軽に、挨拶するように暁は話しかけた。

「ぐー…。」

 喉を鳴らし、威嚇ともそうとも取れないような中途半端な返事(?)をする孤。

 

 その後、採取の途中で何度か月夜の家に寄る途中にも、黒狐はこちらとの距離を一定に保ちながら付きまとった。

 家の中から隠れ見ていると、入り口の方に近寄って来たり。

 ばっと戸を開くと、驚いたように走って距離を取ったりで、面白かった。

 どうやら、人間に興味が有るらしい。月夜も会った事が無いような事を言っていたし、新参若者の狐なのだろう。

(可愛いなあ、テツもあんな頃があったっけ)

 暁は飼っていた犬を思い出した。

 小さな頃に妹と一緒に遊んだ、テツと名付けた犬。

 数年前に、老衰で息を引き取ってしまったが…村の皆からとても可愛がられた、良い奴だったと、暁は覚えていた。

 ころころ、もふもふとしたあの毛触りが思い出される。

(アイツも触ってみたら気持ちいいんだろうな…って)

「あれ、どこ行った?」

 さっきまで暁の横を付かず離れず歩いていた狐は、いつの間にか姿を消していた。

(飽きてどこかに行ったのかな)

 変に気になって、暁は少しだけ辺りを探して回った。

(近づかないようにって言われたしなぁ)

 月夜を怒らせたくはないし、それまでにして仕事を続けようとして―――

「あ。」

 ―――木の上で、その姿を見つけて。思わず隠れる。

 …山葡萄を取ろうとしている様だ。細い四肢を懸命に枝に乗せ、口元を枝の先へと伸ばそうとしている。

(可愛いなー)

 うーんうーん、と必死な声が聞こえてくるかのような光景だった。

 そのうちに。

 狐は足を踏み外して、枝から落っこちてしまった。

 さすが狐なだけあって、怪我はしなかったようだ。

(あらら…しょうがない、取ってやるか)

 暁は自分の頭上にも生っていた葡萄をひと房もぎ取ると、狐の足元に向かってほうった。

 ころころ転がった山葡萄に気付いた黒孤は、それに驚いたのか軽く飛び上がってから、方方を見渡した。

 それから、くんくんと葡萄の匂いを嗅ぎ、かぷっとくわえて食べた。

(ふっふっふ、手袋のせいで人間の気配も悟れまい)

 そのまま続けて、暁は気付かれないよう注意しながら投げ続けた。

 ぽい。

 かぷり。

 ぽい。

 かぷり。

 面白いように食い付いてくる様子に、つい調子よく葡萄を投げ続ける暁。

 狐の方もそれは同じ様で、ふわりとした黒い尻尾をしゃなりしゃなりと揺らし楽し気にしていた。

 …そして。

 美味しそうに食べる狐の様子に見とれてしまった暁は、狐との距離が無くなっている事に気が付かなかったのだった。


「―――キュゥッ?!」

「―――うおっ!?」

 お互い逆方向へ飛び上がり、離れる一人と一匹。

 息を乱して胸を押さえつけ、自分を落ち着かせながら、暁はまた狐に話しかけてみた。

「…よ、よう。」

「ふーっ、ふーっ…!」

 驚かせてしまった代償に、また狐は威嚇を始めてしまった。

 さっきと違い、いっぱいいっぱいの様子ではあったが。

「ごめんって、悪気はなかったんだよ。…ホラ、これ、食べたかったんだろ。」

 手の平に乗せた沢山の山葡萄を見せると、狐はそれと暁を見比べるようにしながら次第に落ち着いていった。

「…ぐぅう。」

 そして一声喉を鳴らし、急にこちらへ近づき始め…

「…(ぱくり)。」

「!」

 大口を開けて、暁の手から葡萄を全てくわえて持って、走り去ってしまった。

「…ふう…噛みつかれてもおかしくなかったけど…まあ、少しは慣れてくれたのかな。」

 昨日は見向きもせずに逃げられたことを思うと、暁は何だかほっとした気分になった。




 ―――父から聞かされていた話によると、狐は群れを作らず、『家族』単位で行動するらしい。

 つまり、一緒の血が通っていて、一緒に暮らした、気の許せる相手としか行動しないと。

 だから、暁には漠然と、気になっている事があったのだ。

 …あの黒孤はどうして一人でいるのだろうか、と。

 どこか離れた場所に巣があって、そこに家族が居るのかとも考えたが…

 何故か、あの黒孤からは寂し気な何かが感じられたから。

 ―――そう、最近にも見覚えがあった、孤独を宿したその目に。




 月夜に頼まれた薬草類の採取を終えて家に戻り、月夜に報告しに川に行く事にした暁だったが。

 何故か釣りをしているはずの彼女の姿がそこに無かったので、辺りを探しながら大声で呼びかけてみる事にした。

「おーい、月夜ー?」

 すると、返事は奥の下流の方から聞こえてきて。

「…はい…暁さまー…!」

 見ると、草むらの中から走り出てきた月夜がそこに居た。

「うぉっ、どうしたんだ、そんな所で。」

「…ちょ、ちょっと。…食べ物を探していました。」

「食べ物?魚、今日は釣れてないのか?」

 釣り場に何も置かれていなかったのが見えたのでそう言うと、月夜は申し訳なさそうに頭を垂れた。

「あ、ええと…すいません、その通りです…。」

「そっか、…じゃあまた俺が、ウサギでも獲ってこようか?」

 取り繕うように暁がそう言うと、月夜はそれを遮った。

「そ、それはだめです…!暁さまは病人だと…っ!」

「月夜は心配し過ぎだって。大丈夫、自分の身くらい自分で守れるからさ。実は、体の調子も結構戻ってきてるんだ。」

 暁は月夜の不安げな顔を払拭するために弓を取り出し、一つ弾いて見せた。

 それを見た月夜は何かを言おうとしたが、少し黙った後でこう言った。

「…では、この薬丸をお持ち下さい、目掛けて投げれば、獣除けの煙が出ますから。」

 懐から取り出したそれを暁に手渡し、狩猟に行くことを了承してくれた。

「決して無理はしないで下さい、病み上がりの身なのですから…。」

「…わかった、ありがとう。」


「さて、と…あれだけの事言って、手ぶらでは帰れないよな。」

 大樹の方へと戻った暁は、弓矢を手にしながらそう独り言ちた。

 『ウサギを獲って来る』と言ったものの、それは中々簡単な事ではなかったからだ。

 確かに手近な獲物としては最適だが、なにぶん病み上がりの身だ。

 あの素早い相手をいつも通りに仕留められるかどうか、正直微妙な所だろうと思っていた。

 だが、それでもじっとしているよりはマシだと。

(…あ!)

 暫くの間音を殺しつつ歩きまわって、やっと獲物がいた。

 二十歩ほどむこう、木の皮を齧っているウサギ。普段なら十分に狙える位置だった。

 気取られないように木陰に身をひそめて静かに矢をつがえ、狙いを定める。

 だが、いざ集中してみると、やはり筋力の衰えが手の震えとなって現れている事が身に染みてわかった。

(いけるか…?)

 その迷いは、実際の矢の軌道に影響した。

 放たれた矢は少し斜め上に外れ、木の幹に刺さったのだ。

 当然、音に驚いたウサギは跳ね跳び上がり、その場を離れて逃げてしまう。

(…くそっ…)

 しかし、不思議な事が起きた。一度は視界から消えたウサギが、こちらに向かって走って来たのだ。

(な、なんだっ…くっ!?)

 あり得ないほどの好機に、暁は素早く矢を構えて再び打ち込んだ。

 ギッ、という断末魔と共に、ウサギは暁の矢に貫かれて命を失った。

(ふう。何とか獲れたけど…でも何で、こっちの方に来たんだ?)

 ウサギにはこちらの気配を気取られていたはずだった。なのに、どうして。

 

「キュウッ!」

「あ!」


 その答えは、間もなくウサギの後を追って正体を現した。

 あの、黒孤だった。


「そっか、お前も狙ってた獲物だったか。」

 暁は納得した。

 初めの矢を打ち込んだ時、狐は横から狙っていたのだ、と。

 だからウサギは狐の方に行くわけにはいかず、姿の見えないこちらに逃げ込んで来たのだ。


 暁はウサギの体に刺さった矢を取り除いて、そのまま横たえた。

「悪かったな。ほら、横取りした獲物、返すぞ。」

 手柄はあちらにあると、暁はその場から少し離れた。

 が、狐はウサギの方には来ず、暁の方へと寄って来た。

「?」

「ぅるるる…。」

 喉を鳴らし始めたかと思うと、暁の横に離れて座り込み、尻尾を波のように揺らした。

「…なんだよ、お前も腹減ってるんだろ?」

「ぅるるぅ…。」

 そう問いかけても手応えが無く、暁には狐が何をしたいのか直ぐには分からなかった。

 が。

「…まさか、くれるのか?コレ。」

 暁がおっかなびっくりウサギを持ち上げ、まさかとはおもう答えを出す。

 すると、狐はすくっと立ち上がって、軽やかに森の向こうに走って行ってしまったのだった。




「…と、いうわけなんだけど。」

「まさか。野生の狐がそんなことするはず在りませんよ。」

 その夜。

 月夜お手製のウサギ鍋を囲みながら、暁は昼間有った事を伝えたが。

 当たり前というか、信じて貰えない暁。

「その点は、猟師である暁さまが一番よくご存じだと思うのですが。」

「まぁ…俺もそうは思ったんだけど、実際そうしたんだよ、その狐。」

「…狐に限った事ではありませんが、この辺りの獣が人に懐くなんて、見た事がありません。」

「うーん…。」

 夕食を食べる手を止めてまで腕組みをし、考え込む暁。

 そんな暁に、月夜は声を潜めながら言い始めた。

「あの…あまり、深入りしない方が良いかと。」

「え?」

「可笑しな行動をするといっても、しょせん獣です。いつか、痛いしっぺ返しを受けてしまったら…。」

「……。」

 暁はその言葉を受けて、顧みた。

 確かに、相手は獣だ。しかも肉食獣。猟師としては、つまり敵にしかならない相手だ。

 しかし…

「あいつ…独りなんじゃないかな、って思うんだ。」

「…え?」

 いきなり発せられた暁の一言に、月夜も箸を止めた。

「狐って、群れじゃなくて家族で一緒に居るものなんだけど、一匹でずっと行動してるんだよ、その狐。何だか寂しそうっていうか、一匹狼っぽいっていうか…そんな雰囲気があるんだよな。」

「……。」

「だから、仲良くなられるなら、そうなりたいなって、さ。」

 突飛だが、それが暁の考え方だった。

 誰かに優しくできるのなら、優しくしてやりたい、と。

「…そうですか。どうぞご自由に。」

「え…それだけ?」

「だって、貴方さまは言っても聞いた事が無いじゃありませんか。」

 じと…と眉を上げて暁の事を軽く睨む月夜。

「う…ご、ごめん。」

「…別に、謝られなくても結構です。もう慣れましたから。」

 ふふ、と、一瞬前とは変わった表情で微笑みかけられて。

 暁は頭を掻きながら、顔に熱が宿るのを感じたのだった。


 次の日もまた、大樹へと出掛けた暁の前に…黒孤は現われていた。

 今度はつかず離れずではなく、ウサギを追いかけながら。今日はその姿を隠そうともしていないようで。

「はは、元気良いなあ。…よっし。」

 暁は昨日のお返しと言う事で、また狐の手伝いをしてやることにした。

 ビシュッ、と放たれた矢は前と同じように足止めするような形でウサギの目の前の地面に突き刺さる。

「ガァウッ!」

 動きを一瞬止めたのを逃さずに、狐が飛び掛かって見事にそれを仕留めた。

 そしてそのままムシャムシャとウサギを食べ始める狐。

(…今なら、多少近づいても大丈夫かな)

 暁はその様子を伺いながら、ゆっくりと横を通って矢を回収しようとする。

 狐はある程度の所でピクリと顔を上げ暁を見上げたが、再び肉にかぶりつき始めた。

「…ふー。ちょっとは、慣れてくれたか?」

「…(がつがつ)。」

 しゃがんで矢を回収したまま、狐に向かって話しかけてみる。以前の様な警戒心は、無くなっているように感じられた。

「こうやって間近で見ると、お前って綺麗な毛並みをしてるよなあ。」

 首元の豊かな毛房に、そこから尻尾へと流れていくように整った漆黒の毛並み。

 それに、尖った耳やツンとした鼻先まで全てが綺麗な曲線美を描いているように感じられた。

(触ってみたいけど、流石に無理だろうな)

 犬とは違ったふわふわの毛並みを感じてみたかったが、野生の狐にそこまでは求められないだろう。と…

「きゅぅん!」

「おわっ。」

 見惚れているうちに、狐の食事が終わったようだった。

 舌なめずりをして口の周りを拭いた後、こちらに何かを伝える様に一鳴きする。

「い、いきなり吠えるなよ。びっくりするだろ?」

「キュッ!」

 すると狐はまた走り出してどこかに消えてしまう。

「あれ、今日はもう行っちゃうのか。」


 そう思って薬草採りをしていた暁のもとに、いつの間にか狐が現れていた。

 しかし、先程とはうって変わってけたたましい音を立てながら。

 …それもそのはず、狐は大きな獣と戦っていた。

「今度は猪を狙ってるのか。」

 相手は自分と同じくらいの体躯の、若い猪だ。牙が小さいので怪我はしないだろうが、ちょっと狐には分が悪い。

「…よし。」

 暁はまた弓矢を構える。だが、狐と猪が揉みくちゃになっていて狙いが定められなかった。

(厳しいけど…今なら、いける気がする)

「少し離れていろっ!」

 それは、口をついて出た言葉だった。

「…キューンッ!」

 偶然か、必然か。狐は暁の合図通りに揉み合うのを止めて、自分の体五つ分くらいの間を取った。

 そして矢が放たれ、猪の体を見事に貫いて、動きを鈍らせた。

 それに合わせたように狐がまた飛び掛かり、猪の喉笛を噛みちぎって息の根を止めた。

「よぉっし!」

 思った通りの軌道を描いた自らの弓の腕に、確信を持てた喜びに、暁は思わず声高に叫んだ。

(体の調子、戻ってきてるのかもな。これならそろそろ…)

「キュン。」

「?…わっ!?」

 少し考え事をしていた間に、狐が足元に移動していて驚く暁。横には獲物である猪が置いてあって。

「…それ、くれるのか?」

「キュンッ。」

 もはや会話が成立している事にも驚く事無く、暁は狐の言いたい事が何となく把握できていた。

「ありがとよ。じゃ、もうここで捌いちまうか。」

 

 慣れた手つきで猪を毛皮と肉に捌いた暁。

 途中、端の肉を狐に食べさせてやったりしながら、分けたそれらを大きな葉で巻いて蔦で結んで。

 そして狐に一声かけつつ、獲物を置きに一度家に戻ったのだった。


「あ…」

「……。」

 また大樹のもとへ出掛けた暁だったが、そこには狐がさっきまで居た場所でそのまま眠ってしまっていたのだった。

「……(すぅ、すぅ)。」

「…寝ちゃってたのか。」

 もう秋も終わりになってるとはいえ、今日は良い日和だった。腹がいっぱいになって眠くなったのだろう。

 暁は狐を起こさないよう気を付けながら、横に座り込んで並んだ。

 狐の方を、そっと覗き見る。

 全身のふわふわとした毛並みが、呼吸するたび、風が吹くたびにさわさわとなびいていて。

(…触りたい…)

 丸くなって眠っている狐の背中に、軽く、触れるだけ、してみた。

 外気を遮断する層を纏っているかのように暖かく、気持ち良くて。暁はさらに地肌の方に手を置いて、撫でてみる事に。

「…クゥ…。」

 さらさら、すべすべ。かと思えば、尻尾の方はふわふわとしている。

 何とも良い触り心地。

 狐の方も、何やら甲高く喉を鳴らしており、気持ち良さげにしていたので…暁は、そのまま狐の背中を撫で続けた。

「…~…♪」

「…クゥウゥゥ…」

 鼻歌さえ歌い始めた暁に、それでも狐は大人しく眠り続けている。

 一度死にかけた事を考えると、夢のようなひとときだと、暁は思った。

 命拾いして、友達が二人も増えて、体の調子も元に戻りつつある。

 

 だが、そんな今回の秋も、終わりが近づいていた。もうじきにこの地方には雪が降り始め、寒い冬が来るだろう。

 そろそろ、月夜にお世話になるのも、やめなければいけない。暁はそう思い始めていた。

 

「…短い付き合いだったけど、お前とももうお別れかもなぁ…せっかく仲良くなったってのに、寂しいもんだ。」

 この場所を離れてまた来るとしても、その頃には一季節またぐことになるだろう。もしかしたら、もっと長くなるかもしれない。

 そうなれば、この狐も暁の顔など忘れてしまうだろう。

「…ありがとな、俺の事助けてくれて。」

 そう言って、暁は狐の柔らかそうな頭の辺りに手を置こうとした。

 しかし。

「…ッシャッァ!?」

「ッ痛って!?」

 …光を視界から遮ったのが良くなかったのか。狐は頭上にあった暁の右手にガブリと噛みついてしまった。

「フーッ!フーッ…!?」

 すぐさま暁から離れ、威嚇しだした黒孤。だが、その眼には敵意というよりも戸惑いの色が浮かんでいるように、暁には見えた。

「…わ、悪かったよ…!お、驚かせて…っ痛ぅ…!」

 手の甲には狐の牙の跡が付き、血が流れ出ていた。

 幸い、本気で噛んだわけでは無かったようで、傷口は浅かったが。

「…ォーン!」

 さっきまでの関係が嘘のように、狐は暁の傷の事などお構いなしにと木々の向こうへ走り去ってしまった。

「…はは、馬鹿だな、俺っ…月夜に言われてたってのに…。」

 暁は噛まれた手を押えつつ、洗い流そうと小川の方へと向かった。

 ―――手は痛く無かった。それよりも、狐が見せた最後の視線の方が痛かった。

 …『裏切られた』、という、あの眼差しが。


「…暁さま、…!?どうかなされたんですか!?」

 家を通り過ぎた辺りで、月夜が小川の方から走って来た。どうやら、暁の悲鳴を聞いてやって来たらしかった。

「あ、ああ…ちょっと、狐に軽く噛まれて、な。」

「っ…見せて下さい、早く!」

「痛…た、頼む…。」

 月夜は暁の腕を取り、家へと連れ歩き出した。

 その頃空は、何かを暗示するかのように暗雲を立ち込めていた…。


 その後、月夜に傷の手当をしてもらった暁は一日安静にと言われ、その通りにすることにした。

 そして、夜になって夕飯時。

「い、良いって、自分で食えるから…!」

「ダメです!傷が塞がるまでは、極力動かさないようにしないと…!」

 月夜は暁の横に付き添い、手ずから料理を食べさせようとしてた。

 流石に恥ずかしいとそれを制す暁だったが、こういう時の彼女の頑固さは身に染みて分かっていたし、自らに非が有ったので…。

「はい、口を開けて下さい。」

「…あー、ん。」

 …されるがまま、月夜に手料理を貰う事に。

「美味しいですか?」

「ん…ああ、美味いよ。」

「良かった…はい、もう一口、どうぞ。」

 …そんな事を繰り返したため、そのうち暁は照れてきてしまって。

 キリの良い所で、顔を隠すようにして横を向き、月夜にある話をしようとした。

「?どうかしましたか?やっぱり、口に合わなかったとか…。」

「いや、そうじゃないよ。そうじゃなくて…。」

 喉に一度つかえた言葉を、改めて、吐き出すようにして。

「…俺、さ。もうそろそろ、村に帰ろうと思うんだ。」

「…え…。」

 そう言った時、月夜の動きが固まった。

「猪、獲れただろ。体力が戻ってきたから、獲ることも出来たし捌くことも出来たと思うんだよ。」

 暁は大袈裟に立ち上がって、腕を大きく広げて見せた。

「もう冬も近いしさ。あんまりお世話になるのも申し訳が立たないと思って。」

「…そんな、お世話だなんて。」

 月夜が、「むしろこっちの方が…」とぽつり溢した一言は、暁には届かなかった。

 そんな暁が、続ける。

「そうだ!月夜。俺の村に、一緒に来ないか?」

「!」

 それは、自然に胸の内から出た『提案』だった。

 獣だらけで、こんな辺境で、女一人で。

 余りに過酷で寂しいこんな環境に、月夜を置いていきたくないという、暁のある種の突飛な我儘。

「冬が来たら、一人じゃ大変になるだろ?みんなでいれば、月夜の知識だって役立つしさ。」

「……。」

 月夜は椀を床に置いて、暫し考えた。

「…それは、私にこの地を捨てろという意味ですか。」

「え、…それ、は…。」

「…お気持ちは有難いですが、私はこの地を離れるつもりはありません。」

 初めて会った時見せた、昏い瞳で。月夜は暁をキッと見据えて答えた。

「なので、お断りします。暁さまお一人で、お帰り下さい。」

「いや、でもな…!」

「この話は、これで終わりにしましょう。」

 月夜が食器を片付けて、夕飯を仕舞い始めてしまって。暁も言葉を無くす他無かった。

 



 その夜、いつものように床に入った二人だったが、会話は無かった。

 外にはいつのまにか雷雨が降り注ぎ、荒れた天気の中で、暁はぐちゃぐちゃとした頭の中を整理しようと躍起になっていた。

 月夜の事、早く帰らなければいけない事、狐に噛まれた事…。

(…あぁくそ、眠れないな…)

 手がズキズキと痛む中、ふと振り返って囲炉裏の向こうの月夜を見た。

 寂しそうな背中だった。『一人で帰って』と言われた時、感じた事を思い出す。

 本当は、一人は嫌なのではないか。暁が『帰る』と言った時、驚き戸惑った様に見えたのは気のせいだっただろうか。

 そんな風に考えていたその時だった。

 遠くに、雷が落ちた。

 強い光が辺りに走るのと共に、地響きが起こる。

「うぉっ。」

「―――っ!」

 …隣りから、声にならない悲鳴が聞こえた気がした。

「…月夜?おい、大丈夫か?」

 彼女の方を見ると、震えているようだった。

「だ、…だいじょうぶ、ですっ…。」

「…雷、怖いのか。」

 返って来た返事の様子からも、そうとしか思えなかった。

「そんな事、ありません…っ、子供じゃ、無いんですから…!」

 そう言った月夜の背中は、ぶるぶると震え続けていて、何だかいつもよりも小さく見えた。

「…月夜…なあ、そっち、行っても良いか?」

「…え…?」

 その言葉に少し驚いたようにこちらを振り向いた月夜だったが、一瞬の後、暁にゆっくりと頷いた。

 暁は月夜の隣に寝そべると、月夜の右腕をとって、自分の胸に宛がった。

「あ…。」

「心臓の音に、集中して…そのまま落ち着けば、直ぐ眠れるさ。」

「…暁さまの、音…トクトク、鳴っていて…。」

「…そうだ、そのまま目、瞑ってろよ?」

 月夜の布団に、もう一枚上から毛皮をかぶせる暁。

「暁さま…それだと、暁さまが、寒くて眠れなくなります…。」

「俺は大丈夫、だから…」

 と、暁が言いかけた時。


 ピシャッ、ゴゴォン!!


「きゃあっ!」

「っと…!?」

 さっきよりも大きな雷が落ち、その衝撃で月夜が悲鳴を上げた。

 恐怖のあまり、月夜は暁の胸に飛び込むような形でくっついてしまった。

「ご、ごめんなさいっ…本当は雷、怖いんですっ…!」

「大丈夫、わかってるよ。だから落ち着け…。」

「は、はい…。」

 暁は胸の中の月夜を抱きとめるようにして、背中をぽんぽんと軽く叩いてやった。

「…こうして、いた方が。」

「ん…?」

 月夜が暁の胸に、ぎゅうぅと顔を押し付けながら、言う。

「…暁さまの胸の中の方が、暁さまの鼓動以外聞こえなくて、すみます…。」

「…はは、そっか。」

「…このまま、こうしていても…構いませんか…?」

「ん…ああ、もちろん。」


「…母が、亡くなった日も…こんな夜でした。」

「え?」

 暁が月夜の華奢な体を包んでいると、彼女が突然、こんこんと語り出した。

「元々、体の弱い、ずっと病気がちな母でしたが…半年ほど前、眠るように…亡くなったんです。」

「…そう、か。」

「独り残された時、初めて『寂しい』と思いました。他に誰も居ない、誰も助けてくれない…そんな日々が続きました。」

「……。」

 黙る暁に、月夜は顔を少し上向けて、見上げるように続ける。

「本当は、『一緒に行こう』って誘われた時、嬉しかったです。」

「え…っ。」

 驚き、視線を合わせる暁。

「…でも、私は、母からこの場所を守るようにと、言いつけられているのです。…だから、一緒には行けません。」

「そんな…別に、一生ここに戻ってこれないわけじゃ無いのに…!」

 思わず早口になって、反論する暁。だが、月夜の返答は変わらなかった。

「ごめんなさい、それでも、どうしてもだめなんです。…ごめんなさい。」

 腕の中で縮みこむ月夜に、暁はそれ以上何も言えなかった。

 …何か、言えない事情でもあるのだろうか。

 そう思うと、やりきれなくなって。

 暁は腕の力を、少し強めた。

「…暁、さま…。」

「…別に、皆を連れてくるのは良いんだろ?まだ、明日お別れってわけでもないしな。」

「…は、い…。」

 

 遠雷が鳴り響いた。月夜の体はもう、震えてはいなかった。




 それから少しの間、暁は手の傷が塞がるまで、月夜の家にいる事になった。

 帰り道の途中で獣に会った時、武器で対処できるよう、弓矢の練習を徐々に行いながら。

 

 そして何日か経って。

 いつもの大樹の前の古木に向かって矢を打ち込んでいて、手ごたえを感じた暁。

 狙い打ち、全く同じ場所に三発命中させ、右手の痛みも無くなっていて。

「よし…。これで、大丈夫。…かな。」

 体の完治。それは、別れの時期を意味していた。

「…今夜あたり、話さないとな…。」

 ―――そう思っていた暁のそばの草むらで、何かが動いた。

 予感がした。やっぱり、あの黒孤、だった。

「……。」

「…よっ。丁度良かった、お前にも会いたかったんだ。」

 声を掛けるが、以前のように近づいては来ず、少し距離を取ってしまっていた。

「ケンカになっちゃったのは、謝るよ。もう俺は、ここには来れなくなるんだ。」

 一辺倒な感じはするが、暁はいつかのように山葡萄をちぎって、しゃがんで手の平に乗せた。

「この間はゴメン。仲直りだ、な?」

「……。」

 しかし狐は動かず、返事もしない。

 まだ警戒しているのか、と思っていると、狐の口に何か咥えている物があった。

「…栗?」

 暁が首を傾げてそれを見ているうち、狐はおずおずと申し訳なさそうに、その栗を彼の手の平に乗せた。

「…もしかして、お詫びのしるしか?」

「…きゅーん…。」

 今度は確かに返事をするかのように、小さく鳴いた。

「はは…ありがとな。貰っとくよ。」

「…きゅぅ。」

 暁が栗を受け取ると、狐は暁の右手をぺろぺろと舐めはじめて。

「?…あぁ、噛んだこと、気にしてるのか。」

 そうだと分かった暁は葡萄を地面に置いてから、右手を握って開いてを繰り返し、治った事を狐に見せてやった。

「ほら、この通り。お前の頭だって、撫でてやれるぞ。」

 暁はそう言うと、狐を驚かせないよう気を付けながらゆっくり、頭に手をやって優しく撫でてやった。

「な?」

「…きゅぅん…!」

 すると狐は嬉しそうに目を細めて、暁にふわふわの体を擦り始めた。

 どうやら、甘えているようだった。

「きゅん、きゅん。」

「わ、っと…あはは、わかったわかった。仲直り、なー。」

 その勢いに流されるように、暁が狐の体をまさぐる様に撫でまわして。それでも狐は、嫌な振り一つしなかった。

「お前の毛、柔らかくて気持ちいいなぁ。」

「きゅっ?」

「ん、褒めてるんだよ、美人さんだなーって、な。」

「きゅー。」

 一々返事をしてくれるのが楽しくて、狐と会話するということそのものを楽しむ暁だった。


 ひとしきり遊んだ後、夕方になるまで隣り合って日向ぼっこをした暁と狐。

 満ちた月が見え始めた所で、暁がよいしょ、と立ち上がった。

「さぁて、と…っと。…お別れだな、お前とも。」

「…きゅん?」

「熊とやり合うのは、程々にしとけよ?…まぁ、俺はそれで助かったんだけど。」

 狐に手を伸ばして頭を撫でてやりながら、暁は最後の挨拶をしようと言葉をかける。

「元気でやれよ。じゃあな。」

 そう言った時、大樹の葉の中で、ざわざわと何かが光ったような気がした。

(なんだ?)

 振り返って大樹の方を見るが、しかしそこには何もなかった。

 そして、狐の方も「きゅーんっ」と一鳴きし、丘の向こうへとあっさり消えてしまったのだった。

(…お別れだって、わかったのかな。…わからないだろうな。)




「…そうですか、明日、行かれますか。」

 その夜、月夜に『傷が治った』と言う事を伝え、もうここを出ていく事を伝えた。

「ああ。世話になったお礼も出来なくて、すまないけど。」

「いえ、そんな事。気にしないで下さい。…私も、暁さまがいて、いろいろ助かりました。」

 ありがとうございました。と畏まる月夜に、暁は戸惑ってしまった。

「月夜にそんな風にされると、俺の立つ瀬が無いよ。…それに、また会いに来る事だって、出来るんだし。」

 その一言に気のせいか一瞬、顔に影を差した月夜。

 だがそのあとすぐに顔を上げ、「はい、そうですね。」と返したのだった。




 真夜中。

 何か部屋の雰囲気がいつもより静かな事に目を覚ました暁。

 囲炉裏の横を見ると、彼女の布団がもぬけの殻だった。

「…月夜?どこだ?」

 返事は無い。

 家の隙間から、月の光がいっぱいに漏れていた。

 …その日は、満月の夜だった。


 何かに呼ばれるかのように、大樹の方へと様子を見に行った暁。

 月夜がいつもいた方とは逆だったが、夕方見た大樹の様子が気になっていて、そちらへ足が向いた。

 そして。

(…あ…。)

 その光景に、暁は言葉を無くした。

 ―――大樹の葉の一枚一枚が、蛍のように淡く黄色く輝いていたのだ。

 それは鼓動するかの如く明暗を繰り返していて、大樹の命を直に目にしているかのようだった。

 そして。その中央に、ひと際強く輝く光が、玉のように実っていて。

 そのすぐ横の幹に座り佇む、月夜の姿があった。

(月夜…)

 満月を後ろに背負い、大樹の光に当てられた月夜の姿は、言葉にしようも無いほどに美しくて。

 暁はその姿を暫く見つめていたが、ふと、我に返った。

 月夜のいる場所は、暁も手が届かないような高さの幹にあって。

 「どうやって登ったんだ」と不思議に思いながらも、あんな所に居ては危ない事を伝えようと、大樹に近づいた時。

 急に月夜が幹の上で立ち上がり、そして…

(―――!?)

 …黒い塊になって落下したかと思うと、そのまま見事に地面に着地した。




 その、見間違えようの無いその姿は。

 ―――あの、黒い狐、だった。 



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