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この狭い世界の中で  作者: しば
方歴975年
1/3

 もう日が向こうの山に隠れようとしている時分。木を割る小気味の良い音がひとつ、村に響き渡った。

「…慎、こっちの薪割りは終わったぞ、そっち手伝うか?」

「心配要らん。…今終わった。」

 二人の若い青年が、額に浮かんだ汗を拭って、互いに斧を肩に背負った。

 その足元には、均等に割られた薪が足の踏み場も無くなる位の量で重ねてある。

 活発そうな方の青年がにっと笑ってから、満足そうに伸びをした。

「よぉーーーし…っ。っはぁ、これで、村の備蓄は全部終わったって事になるんだな。」

「ああ、そうだ。各々余分に作っておいたから、足りなくなっても分け合えば冬を凍えて過ごすなどという心配もしなくて良いだろう。」

 対称に、抑揚の無い調子でもう一人の青年がそう返事をする。

「やれやれ、結局今日は半日分がこれで潰れたな。流石に腕が疲れた。」

「だが、これで冬越しに要る日用の道具は用意が出来たはずだ。…暁、助かった。礼を言う。」

「はは、よせよ慎。この量の薪割り、お前ひとりに投げられるかって。」

 慎、と呼ばれた方の青年が、快く仕事を手伝ってくれた唯一無二の親友に向かって、涼しげだったその顔に微かな笑みを浮かべる。

 

 と、そんな二人の元へ、ぱたぱたと駆け寄ってくる人影があった。

「…兄さん!」

「ん?陽か。どうしたんだ。」

 『兄さん』と呼ばれた方の青年が、そのよく見知った二つ下の妹の顔を認識する。慌てながら近づいてきたその顔の眉間には、十六の娘らしからぬ深い皺が刻まれていた。

「どうした、じゃないわよっ。」

「うぉっ。」

 足元の薪も目に入っていないのか、がらがらと音を立てて倒しながら兄のもとへと顔を寄せ、睨みつけた。

「隣村に荷運びに行ったきり、何も知らせずに薪割りなんかして!お昼には一度戻って来るって言ってたのに!」

「あ、あー…悪い、慎と一緒に昼飯食ったから、そのまま流れで仕事始めちまってたんだ…。」

「こんな時間まで帰ってこなかったら、心配するでしょうっ!慎ちゃんも、分かってたなら一声かけてよっ!」

「うっ…!?す、すまん、陽。」

 いきなり矛先を向けられた慎と、その兄は、激しい剣幕に暫く見舞われた。

(…おい。陽に黙って来ていたとは、知らなかったぞ。)

(…悪い、俺もすっかり忘れてた。疲れて帰って来たとこに飯誘われて舞い上がっちまって。)

(子供か、お前は。おかげでとばっちりだ。)

(面目無い。)

 ひそひそと話す若者ふたり。しかし、その行動は目の前の小さな鬼には筒抜けだったようで。

「聞いてるの二人共!?」

「「は、はいっ!!」」

 一喝され、背を最大限伸ばす二人。そのまま歯を噛みしめ踏ん張っていると、妹…陽は、暫くの間睨みつけていた眼差しをふっと息切らしたように閉じた。

「…はぁ。…もう、帰るよ。」

「え…。」

「ごはんの支度、もう出来てるんだから。慎ちゃんも、お母様にはお話してあるから、家で食べていって。」

「…む…そ、そうか、分かった。」

 そう言うと振り返って、村の自宅の方へと歩き始める陽。その後をついていきながら少しだけ離れて、内緒話を始める二人。


(…やれやれ…今回はすぐに腹の虫が収まったようで良かった…。)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

(今のはお前のせいだろう…いい加減に陽を怒らせるのを止めにしたらどうだ…?)

(いやしたくてしてる訳無いだろ。…大体、おまえも他人事じゃないぞ。来年からは『アレ』が連れ合いになるわけだからな。)

(暁と一緒にするな。俺はお前みたいに毎日喧嘩などしない。)

(どうだかな~。…ま、あの口煩いのがどんな人妻になるか今から楽しみだ。)

(自分の妹を何だと思ってるんだ、お前…。)

 くっくっくと笑いを噛み殺しながら話す二人。その幼少の頃から全く変わらぬ仲が示す通り、性格は似ていずとも紛れもない同類で…

「…全っ部聞こえてるよ!このばか兄!!」

 …いつの間にかこちらを振り返っていた陽に気付かずに叱られるのも、この村ではよく見られる光景だった。




 この『バカ兄』と呼ばれた青年、暁。

 彼の仕事は薪割り…などでは勿論無く、猟師を初めとした様々な仕事を生業としていた。

 狩り、獣退治、道具作りに、荷運び。たまにではあるが、親友である慎の用心棒の手伝いをする事もある。

 なぜそこまで手を広げているのかというと、彼、そして妹の陽の両親が、小さい頃に他界しているのが原因だった。

 幸いにも同じ村の村民たちが幼い二人を大きくなるまで助け、育ててくれたが、それでも暁は妹のことは自分で守りたいと思い、自分に出来る事はどんな事でもやって来たのだった。

 生来の器用さもあり、彼は大概の仕事を安定してこなせた。また、迷子探しや怪我で動けない人の家事手伝いなどは、頼まれれば断れない人の良さも持っていた。

 その評判は暁の成長と共に大きくなり、今この辺りでは親しみを込めて『お人好し屋』なんて呼ぶ者も多い。


 そんな暁の妹、陽が立派に成長し、花も恥じらう十六になりたての頃。

 暁の親友でもある、慎と陽が、次の春を迎えるのを節として、祝言を挙げる事になった。

 小さい頃から家族ぐるみの付き合いをしていた親友と妹との婚姻に、暁は泣き、喜び、祝福した。

 そして出来る限り華やかな結びの日にしようと、今まで以上に金策に励みだしたのだった。

 

 冬に向けての用意も粗方終えて、いよいよ妹の支度金稼ぎに集中できる。

 そんな夜。陽が作った夕食を団欒のうちに平らげて、舌鼓を打ちながら…話題は暁の明日の出先について移った。

「…隣り山、か?」

 何処に狩りに行くのかを初めて耳にした慎は、訝しげにその場所を聞き返した。

「ああ。いつも行っている山は、最近、というか近年実りが悪いからな。少し遠出して良い所を開拓しようと思ってさ。」

 暁が主に生業としている事、それが猟師だった。

 それはこの辺りに住む同業者たちと同じく、村に寄り添うように望む山林で行われていたが…そこにも、件の災害は兆しを見せていたのだった。

「だが、不作はこの辺りだけじゃなく大陸全体に起こっているものだぞ。隣り合う山くらいでは変わるとは思えんが。」

「不作はそうかも知れないけどな、そもそも奥の方なら人の手が入って無いだろ?そっちの方にウサギやら猪やらが引っ込んでるって事もあるからな。」

 暁はそう言って、飯の碗に入れたお茶をかき混ぜて米粒ごと飲み干し、息をついた。

「しかし、簡単に言うが一山隣りというとかなりの距離になるぞ。大丈夫なのか?」

「大丈夫って、何がだ?」

 顔を顰めて聞く慎に対し、暁は涼しげな表情で囲炉裏の湯を急須に入れ、また茶を注いだ。

「…私も心配だわ。兄さん、そんなに遠くまで行った事無いでしょう?」  

 そんな二人のいる座敷へと、食器を洗い終えた陽が上がり、心配そうに声を掛ける。

「もし、山の中で迷ったらどうするの。いつもなら行き来してる人に訊けば良いけど、そうはいかないじゃない…?」

「迷う心配なんて無いさ、今まで遭難したことなんか一度だって無かったろ?」

 暁は十になった頃から狩りをしていて、その辺りの技能にはちょっと自信があった。

 弓の才能もあったし、手先の器用さもある。熟練の猟師たちとも交流しており、危険回避のすべは心得ているつもりだった。

 実際この八年間で、迷ったことも猛獣相手に怪我を負わされた経験も暁には無縁の物だったので、今回の出発にも無理など無いと考えていたのだった。

 しかし、たった一人の家族が未開の地に行くと聞けば、妹としては不安を覚えずにはいられないのは当然のことで。

「でも…」

「陽の言う通りだ、一人で行くには不安が大きすぎる。俺も一緒に…。」

「馬鹿言え、慎がいなくなったらこの村を誰が守るんだよ。俺たち以外は皆そこそこ年だし、この所の不作で猟師やめた人たちも多いんだぞ?」

 暁にも一人で行くのには考えがあった。

 今この村の防衛戦力は、暁を入れて弓矢を持った猟師が数人と、剣を使える慎が矢面に立つことで成り立っていた。

 自然に囲まれたこの村は、稀に熊や猪などの猛獣が出没した。年に一度出るかどうかの頻度とはいえ、これには弓を使える人間が対応しなければならない。

 暁が小さい頃、猟師が皆出払っている時に猪が現れ、この窮地に陥った事がある。たった一人立ち向かった父が死んだ理由だった。

 さらに、ここ最近、不作と同時に流れてきている噂があった。賊の存在である。

「獣ならそれでも良いだろうが、もし盗賊なんかが徒党を組んで来たらどうするんだ。弓矢なんか役に立たなくなる。」

「それは…」

 同じことを少なからず危惧していたのだろう、慎は言い返せないようだった。

 そんな空気を振り払うように暁は笑って。

「大丈夫だって、俺も山の危険さはもう十分知ってる。むやみやたらに突き進んだりはしないし、獲物が獲れればちょくちょく持ち帰りに来るしさ。な?」

 言い聞かせるように話す暁をしばらく考えながら見ていた慎だったが、ふと短く息を吐いたかと思うと同時に緊張の糸を切らし、半ば呆れるかのように苦笑した。

「聞かない奴だよ、お前は。…陽、多分何を言ってもこいつは山に入る。せめて出掛ける準備位は万全にやってやるか。」

「…はぁ…もう、仕方ないわね。兄さん、絶っ対に、無茶なんかしちゃダメだからね?約束だからね?」

 もう既に夫婦かのように通じ合った二人が、同じ表情でこちらを見ながら言う。

 暁は、幼い頃よりずっと一緒にいたこの二人の事を、何より大事に思っていた。だからこそ、約束した。

「ああ、必ず獲物を獲って、帰って来るさ。約束する。」




 次の日の朝。

 二人に見送られて、普段狩りをしている山に入った暁は、途中何か獲れるものが無いか、獣がいないか弓を準備しながら探してみた。

 が、やはり予想通り実入りは無く。小さなウサギが、一瞬で目の前を走り去ったのみだった。  

 見慣れた道を効率よく進みながら、この頃の不作について考えを巡らせてみる。

 

 ここ数年、確かに山の実り…ひいては獣たちが、段々とその数を減らしていた事を感じてはいた。

 村の皆で話し合い、数が安定するまでは狩りを控えるようにと決めたのが去年の事だ。

 それだというのにも関わらず、今年になって、不作は一段どころでは無い位に悪化した。しかも、何の前触れもなく突然に、だ。

 そのせいで猟師たちは狩場を考え直さざるを得なくなった。

 最近では都の方でもその影響を受けてか、年貢の取り立てが始められるという噂も流れ始めており、村人たちの間にはこれからの身の振りについての懸念が付いて回っていた。


 暁はその他の仕事もあるからまだ良いが、それでもやはり慣れた弓の腕を発揮できる狩りには儲けが劣るため、辞めるわけにはいかなかった。

 もしこの山の向こう側、自然が此処よりも深い場所へ行っても、この不作は起きているとしたら。

 あまり想像したくはない事だったが…そうなればもう、猟師を軸とした生活は改めなければならない。


 早々に初めの山に見切りをつけ、山々の間の谷間を縫うようにして歩いてまだ行った事の無い奥の方を目指し進む。

 段々と人の通った跡が無い道が増えていき、元気の無さそうな枯れ木がその数だけを増やした光景に変わってゆく。

 時々その木に鉈で目印をつけながら、景色に注意し後で迷わないように進み続け…そうして、いつしか日が沈み始めていた頃だった。

「…ん?…あれは…。」

 目の前に、また隣り合った山肌が見えた。どうやら今いた山はここで終わりの様だ。

 その、視界の先の方にある山肌で、何かが動いた。咄嗟に足を止め、近くの太い木に身を寄せながら観察する。

 …雄の猪だ。

 藪の横で、もそもそと口を動かしていた。木の実でも探しているようで、こちらには全く気付く様子が無い。

 迷い無く背負った筒から矢を取り出して、思いきり弓を引く。

 かなりの距離と、間の木立が邪魔だが、暁には当てる揺るぎない自信があった。

 ギィンッ、と錫の鏃が空気を震い、音を辺りに響かせた。

「ブギュ、ッ…!」

 一瞬で矢は猪の目のすぐ横を貫き、反動で体が地面に倒れたのを最期に猪は声を上げなくなった。

「…っし。」

 拳を握りしめ、久々の獲物を静かに喜ぶ。腕が鈍っているなんて事は無かったようだ。

 立ち上がって今いる傾斜から下り、倒した猪の方の傾斜へと上り歩いて近づくと、その個体は暁の膝丈ほども高さがあった。

「うぉ…結構でかい。こんなやつまだこの辺に居たのか…。」 

 立派な牙と、黒く、意外に滑らかな毛並みが見事な猪。解体してそれぞれの部位を余すことなく町で売れば、中々の額になるだろう。

 と、そこまで考えてから、今いる場所を良く見渡してみると…ある変化に気が付いた。

 猪がいた場所は、丁度山と山の境目を挟んでの向こう側だった。たった今、暁は違う山に足を踏み入れたことになるのだが…。

「…ここ、あっちの木よりも実が多く付いてるな。」

 さっきまで居た木々と比べ、明らかに育ちが豊かな事が見てとれた。それに、枯れている木も余り無い。

 これらの実りを糧とする獣たちは多い。猪と自然の様子を考えると、その均衡は取れている。

 つまりここが暁の求めた、不作の波を受けていない格好の狩場といえる場所だった。

 …しかし。

 暁は喜ぶよりまず、あらためてその自然を見比べた。

 なにか、違和感を感じたのだ。

 ただ谷間を挟んで山を跨いだだけでここまで違いが出るだろうか、と。

 距離にすれば、たかだか三十歩ほど。その間には特に土の変化があるわけでもなく、なにか特殊な地形があるというわけでもない。

 何より周りの様子を見ても、あちらとこちらでその差が明確過ぎる。木を見ただけでそれがどっちの山に属しているか一目瞭然なほどなのだ。

「うぅーん…。」

 暁は暫しその不思議な現象について思案したが、いつしか日が暮れていることに気が付き…とりあえず獲物を処理して、野営の準備をすることにしたのだった。




 次の日になって、暁はその山を練り歩いた。

 他の山と何か違うものがあるのか、本当にここは環境がすべて豊かなのかを調べるために、ちょくちょく遭遇した獣もとりあえず捨て置いた。

 が、いち猟師でしかない暁が原因を突き止められる訳も無く。昼まで探索して分かったのは、やはりここは絶好の狩場だ、と言う事のみだった。

(…お、ウサギ…)

 またも目の前にいた白の獣。だがその姿も例に漏れず、一回り大きく立派な耳と後ろ脚が目立つ個体だ。

 普段なら小さすぎて弓矢で仕留めると言う事はしないが、あれほど大きければ狙う価値はあった。それに、ウサギはこの山に入ってから何度も遭遇していた。

 そこそこの数を獲っても環境への影響が少ないという事は、心置きなく仕事が出来るという喜ばしい事である。

 暁は矢を取り出し、少し力を抜いて弓を引いた。命中重視の一撃を用意する。

 キリキリと弦を引き、矢の先にウサギを置いて片目で見据えた。と…

 ぱきり、と。

 運悪く、弓の一部が甲高く軋み鳴った。ウサギの長い耳にも、その音は届いたようで。

「…ちっ」

 瞬間、引き絞った弦を放ち、矢を撃つ。だが既にこちらに視線を移していた白い獣は、その場を健脚で跳んで余裕で矢を避けた。

 こうなれば奴の速さにはもう敵うことはない。あっという間に木々の奥へと走り去り、暁の目の前から消えてしまった。

 やれやれと言いながら矢の刺さった場所まで歩いて、それを回収する。

「…失敗。矢が飛ぶ前に気付かれたらもう駄目って所が、さすがの草食小動物だな…。」

 これだけ木があると、追撃は無理だった。丘や草原ならまだしも、山でウサギ狩りというのは流石に難しいもの。

 それでも挑むのは、単に獲物が欲しい事もあるが、弓の腕を磨く意味もあった。

 いつかは『一人で』ウサギを続けざまに獲れるようになりたい。それが暁の弓手としての一つの目標だったのだ。

(まあ、この調子ならまた機会は巡って来るか。)

 兎にも角にも獲物さえ獲れればそれが一番だと、気を取り直してまた山の中を歩きだす事に。


「…やー、大猟たいりょう、っと!」

 次の日の朝。

 暁は上機嫌で帰路に着いていた。その後ろには数頭の猪と鹿が山になって、板に結ばれて運ばれている。

 ウサギを取り逃がした後、更に上の方へと獲物を捜すと、調子良く収穫を得られたのだった。

 結論、この山は間違い無く狩りに向いた場所だと言う事が分かった。そこそこ移動して様子を見てみたが、不作の影響は全く受けていないようだ。

 少し村から距離はあるため往復の手間があるものの、これだけ獲れるなら無理してでも通う価値はあると、暁は思った。

(まだ秋が終わるには早いしな。町でこれを売ったら、またすぐ来る事にしようか。)

 獲物の質も良かったので、結構な値で売れる筈だ。帰りを待っている陽たちの喜ぶ顔を想像すると、思わず顔が緩んでしまう。

 そんな事を考えながら歩いていると、一昨日野営をした跡がある場所に着いた。

 ここがこちらの山の入り口だ。ここが分かれば、あとは谷沿いを進んでいけばいつもの山までは一本道だった。

 歩くだけで迷う事無く村まで辿り着ける。

 そう思った、その時だった。


  


―――マ、―――テ―――



 …初めは、風で木々が揺れた音だと思った。

 『それ』は後ろから聞こえていて、暁は今来た道を振り返り見た。



―――アァ―――ニクイ―――



「…え…」

 風など、何処からも吹いてはいない。それどころか、周りの景色はその時を奪われたかのように息を止めていた。



―――タノ―――ム―――アノ、コヲ――――



 ぞわり、と背に悪寒が走った。

 …この世で聞く、生きて血の通った声では無い。しかし『それ』は確かにこちらに向かって何かを発しているのだった。

「だ、…誰だ!?誰かいるのか!」



―――ガ、―――アァ―――ナゼ―――



 その『声』は、こちらが大声で問うたのを受けてか。



―――シ、―――ヲ―――グァァ…―――



 段々と、雑音を混じらせる。



―――――――――シ―――



「ッ!?」

 突然、辺りが揺れた。目の前の木が、その太い根を露わにしながら倒れた。



―――シニ。―――キ…―――ヲ―――



 夜でもないのに、空が暗くなっていく。木がひとつ、またひとつと倒れ、大きな地響きを起こす。

「なっ…なん、だ―――」

 視界は開けていっているはずなのに、目から光が失われ始めた。

 そして。



―――――シ―――――




 たった一文字、何故か無機質なはずの『声』から感情が伝わり―――



 ―――そのまま訪れた闇と同時、意識が途絶えた。





 気が付くとそこは、夜の山林の中だった。

 眼を開き、覚醒したのを意識した途端、暁はばっと立ち上がった。

 なにが起きた?

 俺はどうなった?

 あれからどれくらい経ったんだ?

 色々な疑問が頭の中をぐるぐると巡る中で、意識が途切れるまでに起こった事を思い出そうと必死に記憶を辿る。

 

 『死』。


「…っ…!?」

 足の先から痺れる様な恐怖が放たれて頭までを駆け抜けた。

 最後に聞こえた『声』と共に、自分の中へ流れてきた意識だ。


 ―――あれは、自分を殺そうとしていた―――?


 ぶんぶんと頭を振るい、身体中の麻痺を振り掃う。…落ち着け。自分から墓穴に足を突っ込んでる場合じゃあ無い。

 冷静さを取り戻そうと悪い考えを捨て去りながら、暁は改めて自分の周りの確認を始めた。

 すぐに目に入ったのは、暁自身が起こした火の跡。野営の場所だ。

 先程…といっても、あれが今日とはまだわかっていないが…とにかく、倒れる前とまったく同じ場所のようだった。

 暗がりの中、焚火の辺りを良く確認してもその様子は変わっていないように見える。

 ここに着いたのがちょうど昼くらいだったから、普通に考えれば半日の間眠っていたのかと驚きながら。

 暁は近くに落ちていた袋の中から火打石を取り出し、火を起こして手近な木に移し明かりを灯した。

「…あ、れ?」

 視界が紅く照らされた瞬間、見えた景色の中に嫌な違和感を憶えた。

 火を目の前に掲げて、ぐるりと回って…その正体は、明らかになった。

 空が、広い。

 今いる場所はこんなに遠くを見渡せるところだったろうか?


「…!!」

 …そんなばかな話があるわけない。

 ここは山の入り口だったはずだ。

 すぐ向こう側に、隣り合う山の斜面が見えていたはず。

 だがそこにあった地面は無く、こちらの山肌が奥底の暗闇に向かって伸びていた。

 暗夜の空を横に見れば、今まで越えてきた山々がそこに広がっている。

 つまり。麓であったはずの場所が中腹へと、丸ごと上に移動したかのように変化を遂げていたようだったのだ。

「…っ、くそっ…!」

 暁は居ても立ってもいられなくなり、後ろに転がっていた獲物も構わず山を下り始めた。

 走って、走って、火が消えそうになるのも構わずに、まるで滑落するように傾斜を走り下りる。

 もう一つ、おかしい事があった。

 横をすり抜けて避けている、枯れて葉の無い木立。

 この山に、こんな枯れ木があっただろうか。

 あんなに自然豊かに見えた、この山に。

「っハァッ、はぁっ…!」

 おかしい。

 下りても、下りても、辺りに何の気配もしない。昼間にはあんなにも沢山の獣たちがうろついていたというのに。

 同じ山にいるとは思えない位、此処は異様な雰囲気に包まれていた。

 おかしくなっているのはこの山か、それとも自分自身か?

 そんな風に頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回しながら、それが晴れる何かが目の前の先に在る事を祈り、走る。

 走り、

 走り、

 走り続けて―――

「―――!!!」

 そこにあったのは。焚火の、跡。

 ついさっき逃げ出し始めて、いまはもうずっと後ろの方にある筈の、焚火の跡だった。

「…なんだよ、これ…。」

 …頭の中が真っ白になる。

 理解できない事の連続に、暁は地に膝をついて崩れ落ちて呆然と前を暫くの間見つめた後。

「…なんなんだよ、ここはッ!?」

 内からわき出したぶつけ様の無い怒りを叫び、一帯に響かせた。




 …それから、幾つの朝と夜をこの山で迎えたか。

 何処まで下りようが、上ろうが、若しくは回り込もうと横に歩こうが、暁が山から脱することは出来ないままだった。

 頂上まで登ることは出来た。そこから周りを見渡し、方向も確認できた。来た道とは違う道を行き、反対側からの下山も試みた。

 だが、麓まで行きつく事だけがどうしても叶わなかった。

 更に。何回も考えうる道を歩いている内に、ある重要な事に気が付いた。

 この山には、水場が無かったのだ。

 今までの道にはいくつか川が流れていた所があって、暁はその場所を覚え水筒がカラになりそうになればそこに寄って飲み水を得ていた。

 しかし、ここではそれが出来ない。

 空腹は我慢できても、喉の渇きはそうはいかなかった。 

 暁はじきに走れなくなり、獲物の肉も獲る事が出来ない程衰弱して…

 …とうとう、歩く事すら叶わなくなった。

 

「…俺…なんで…。…こんな所で、何を…やってるんだ…?」

 冷たい風で大量の落ち葉が舞い落ち、敷かれた絨毯に倒れて呟く。

 何処へ行こうが、何をしようが全ては元の木阿弥。

 あれだけ豊かだったはずの自然や獣たちも、まるで幻でも見ていたかのように、どちらも枯れてしまっていた。

 水が無くなり、食事も取れなくなり…もう、何かをする力は残されていなかった。

 なんで、こんな事になってしまったのか。

「…獲物を獲って…帰って…、また、…陽と、慎と…あったかい家の中で、飯、食って…。」

 本来ならば、そうなっていたはずだった。

 二人が心配していた通り、道に迷ったわけじゃ無い。獣に襲われたわけでも無い。

 ただ、此処から抜け出せないだけ。

 …なんてくだらない理由だ。

 もし家に帰ったら、怒った陽に遅くなった理由を問いただされるだろう。

 そんな妹に、

『下りても下りても元の場所へ戻されてしまう山があってさ』

 なんて言ったら、顔を真っ赤に茹でたあいつから大目玉を食らう事間違いない。飯抜きになるかも知れない。

 ああ、でも、前に帰りが遅くなった時もそう言って、結局あとで暖かい夕飯を作り直してくれた事があったっけ。

 あいつ、お兄ちゃん子だったからな…

「…は、は…。…」

 渇いた喉から、渇いた笑い声が微かに発せられる。それは暁の耳に届いて、かえって虚しさを広げただけだった。

「…ここで、…死ぬのか…。」

 空腹と渇き。冷たい秋風が体に当たり、残り僅かな体力が奪われていくのを感じる。

 …もう二度と、皆に会えないのか。

 せめて最期に、あいつの花嫁姿を祝ってやりたかった。

「…陽…ご、め……ん…。」

 涙が自然と溢れ、顔を伝って地面へと吸い込まれる。 

 死を意識したからだろうか。

 急激に身体から力が失われていくのが感じられた。

 身体が冷たい。意識が朦朧とする。涙で曇った目から、光が失われてゆく。





「…」

 暗く重く、夢の中に落ちた時のように、時間の感覚が無くなって。

 そんな中。ふと、なにかが前に立ち、闇に覆われた視界の中により深い影を差した気がした。

(…なん、だ…)

 生き物、獣…肉食獣。…ああ、そうか。弱った生物は強い生物に食べられるものだったな―――

 ―――暁の意識は、そんな自然の掟に従うような、微かな諦念を最後に途切れた。




 幼い頃、風邪で寝込んでいた時の事。今は亡き、優しい母が看病してくれた時の事。

 囲炉裏の火の温かさが当たる様に、横に置かれた寝床から、鍋に向かう母の姿が目に移る。

 色々な山菜と野菜を細かく切り、一片の香辛草と、米を煮込む。好き嫌いの多い子供だったが、こんな時に作る母の雑炊は、とろりと甘くて、あったかくて、元気が湧いた。

 こんな時になってもそばにいてくれずに昼間は仕事に出掛けてしまい、余計に家の中を広く寂しくさせていた、今は亡き父。

 突然外の方から走る音が聞こえだしたかと思うと、ばん、と勢いよく戸を開けて、にか、と笑って。手に持ったのは、大きなイノシシ。

 「これを食えば元気が出るぞ」と大きな声で近づき、母に「声が大きい!」と耳を引っ張られて外に放り出されて。中で出来ないからそのまま捌くまで家に入れて貰えなくて。

 そんないつもの夫婦喧嘩に笑って、せき込んでしまいながらも外のほうへ向かって「ありがとう、がんばっておとうさん」と声をかけると、また笑い声が聞こえて。

 夕食は皆でそのお肉で鍋を囲んで、父がイノシシに頭突きを食らったとかくだらない話をしながら食べて。

 夜には、川の字になって父と母に挟まれて、布団がずれないように掛けられながら眠る。

 忘れ得ぬ、大切な記憶。両親との、あたたかい思い出。

 それから、父は村に入ってきた大きな熊と刺し違えるように亡くなってしまい、その直後、母は陽を出産すると同時に具合を悪くして亡くなってしまった。

 続けて親を亡くし、俺は聞かん坊のように、世話をしてくれた大人たちに逆らうようになってしまった。

 妹の事を、「こいつのせいで母さんは死んだんだ」と、あろうことか恨んでいた事もあった。

 そんな気持ちを抱いたまま、「なんで何もしてくれない奴に優しくしないといけないんだ」と、妹を避けるようになっていた。

 でも、ある時。陽が風邪を引いてしまったとき。家には陽と自分以外誰もいない時、熱にうなされた陽が静かに泣いて、

 「おにいちゃん、おにいちゃん」と自分を呼んだ。

 その時に気付いた。

 陽には、「思い出」すら無いんだ。父さんと母さんの「思い出」を、陽は一生貰えないんだ。

 訳もわからず涙が溢れてきて、急いで妹の横に行き手を握ってやると、「おにいちゃんだぁ」とぼんやりとした目で陽がこちらに笑いかけた。

 両親の気持ちが分かった気がした。俺は陽に自分を重ね、せめてこいつにはあんな風にあたたかい「思い出」を途切れる事なく貰って欲しい。俺みたいに誰かを失くす悲しい気持ちを知って欲しくないと感じた。


 今になって、俺は思う。

 親は自分の子供に、誰かに優しくなって貰いたいから、愛する事で優しさを教えるんじゃないか、と。

 だから、俺は出来る限り、誰かに優しくしたい。

 父さんと母さんに返す事が出来なかった愛情を、せめて。

 手の届く、誰かに。

 



 ぱちり、と囲炉裏の火が弾ける音がした。

 昔の夢を見ていた暁は、その夢と同じ光景が目の前にある事に困惑する。

「…俺は…ここは、…あの世…?」

 しかし、歪みかけた視界で辺りを見渡すと、そこは慣れ親しんだ夢の中の家とは全く違う景色で。

「…体は、動く、な。…よ、っととっ…!」

 不思議と体は倦怠感があるのみで、空腹感などは消え去っていた。立ち上がろうとすると萎えた足が崩れそうになり慌てて立て直そうとする。

 どんっ。

「お、っ…?」

 「何か」にぶつかった。どうやら死角になっていた真横に「何か」置いてあったようだ。

 体勢を直して、その「何か」に目をやる。

「…っ!?うわぁっ!?」

 そこには、白い着物姿の女が微動だにせず座っていた。驚いて後ろへ尻餅をついた暁をじっと見ている。

「…。…具合は、よろしいみたいですね。」

「な、なっ…!?」

 狼狽する暁を見て、女は心外そうな表情を浮かべる。

「…化け物でも見たかのような反応ですね。一応言っておきますと、私、幽霊ではありませんから。…少し、明りを点けましょうか。」

 自分の姿が見えないと思ったのか、女は横にあった楼台に囲炉裏から火を移すと自分の横に置いた。

 その生身めいた動きに少し冷静になり、明るく照らされた女の姿を改めて確かめて…

「…ぁ…。」


 …暁は、その姿に釘付けになった。

 女は若く、暁と同じくらいの年に見えた。ほっそりとした身体に真っ白な着物を纏っていて、腰まである長い黒髪がそれに映える。

 はっきり『美人』だと言える程に顔立ちが整っており、その綺麗さに少し圧倒される。

 しかし暁が見つめてしまったのは、前髪の間からこちらを覗いている、何処か幼さとあどけなさを残したまま―――

 ―――深く、昏く陰った、瞳―――

 

「…。」

「…。………あの。」

「はっ…す、すいません…。」

 完全に見入ってしまった失礼を詫びる暁。彼女が声を掛けなければ、いつまでも無言の時間が続く所だった。

 ごほん、と咳払いして照れを振り払いながら、暁は質問する。

「ええ、と。…ここは、貴女の家、ですか?」

 こくり、と頷く彼女。

「失礼ですが…俺は、山で倒れていたと思うんですが。…どうして、私はここに?」

「その通りです。私がこの家の前で食べ物を捜していたら、貴方さまが倒れていらしたので…どうかとは思いましたが、ここまで連れてきました。」

 と、言う事は…俺は、本当に、助かったのか。(何か引っかかる言い方だったが。)

「…死にかけていませんでしたか。」

「はい。だから、気付けと、食べ物と水を与えました。五晩ほど前の事でしょうか。」

 五晩。五日間も眠りこけて、彼女に世話されていたのか。

 生の実感が湧いてくると共に、感謝してもしきれない程の恩を受けた事を確信する。

 暁は離れていた距離を少し詰めると彼女の前に座り直し、正座をしたまま頭を深く下げた。

「…助かりました。貴女が居なければ、俺は命を落としていた。…本当に、ありがとうございます。」

 しばらくそのままの姿勢を保つ暁。

「…。」

 …しかし、何も返答が無い。あれ?と思い、頭を上げて、何かお礼を出来ないかと続けようと…

「…えっ、あれ…?」

 目の前に、彼女の姿は無く。奥を見渡すと、出入り口と思われる所にいつの間にか移動していた。

「あ…、あの?」

「…喉が渇いたので、水を汲んできます。貴方さまは、まだ寝ていらして下さい。」

 そういって木桶を手に戸を開く彼女。外から零れた月光が、美しい彼女をさらに美しく照らした。

「…は…。」

 その光景と、土下座に関する反応の無さとに色んな意味で呆然とする暁。そのまま彼女が出ていくのをしばらく眺め、そして我に返った。

「!…水汲みくらい、俺が…っ痛うっ…!?」

 萎えた足を動かす痛みに刺され、それに何とか耐えながらも、暁は後を追う。


「…ま、待ってくれ、手伝わせて…いつつっ…。」

 夜の暗がりに何とか彼女の姿を見つけて、自分でも情けないなと思いながらも足を引きずるように急ぎ追う。

「?…どうして。まだ体の具合も良くないでしょう?」

 付いてきた病人の声に振り返り、理解できないといった風に首を傾げる恩人。足を止めた彼女に何とか追いつき、暁は息を荒くする。

「はぁ、はぁ…。…せ、せめてものお礼がしたいし…それに、…女性に重い物は、持たせたく、無い…はぁ…。」

 ゼイゼイ言いながらの台詞では無いと知っていても、そこは男の衿持。黙って見ている訳にはいかなかった。

「…そうですか、分かりました。それでは私は、保護に徹します。」

「え?」

「こちらです。直ぐ先に清流がありますのでついて来て頂けますか。」

「…あ、ああ…?」

 さっきから少し会話に違和感というか、何かズレを感じながらも。暁は言う通り、彼女の横を歩くことにした。

「…この山にも、川があったんだな。」

「小さな川です。この辺りには一か所しかないと母が話していました。」

 成程、道理で見つからないわけだ、と暁は思った。

「母親と一緒に暮らしているんだな、今は出かけているのか?」

 素朴な疑問を投げかける暁。いつの間にか砕けた口調になっているのは、まだ自分でも気づいていなかった。

「…。…ほら、あそこです。」

 質問に答えずに、目の前を指さす彼女。その先にはごつごつとした岩場があり、その陰に隠れるように先ほど言った通りの小川があった。

「確かに小さいな…。」

 それは、走ればぎりぎりでも飛び越せそうなほどの幅で、流れも驚くほど緩やかな、ひっそりとした川だった。

「そちらに深く掘ってある溜まりがありますから、これを使って水を汲んでくれますか。」

 そう言って差し出された桶を受け取り、言われた所で水を汲もうとする。が、それは…

「ああ、わかった。…って、これ…」

 …木枠がガタガタいっている。取っ手も外れそうになっているし、何より。

「あ、穴が空いてるんだが?」

「何回か落としてしまった時に空いたんです。取っ手を持つときは気を付けて下さい。外れます。」

「…取っ手の意味が無いだろ。」

 呆れる暁。しかしどうしようもないので仕方なく水を汲むことに。

「っと…。意外だな、穴以外は漏れてない…。」

 小さな穴を避けて斜めに溜めると、水は漏れなかった。ガタガタのわりに隙間は無い様だ。安心する。

「折角ですから、もう少し入れて下さい。」

「え?いやこれ以上は零れて…?」

 暁の手から桶を取り、たっぷりと水を汲み直す。細い指が空いた穴を抑えるように添えられている。

「では、戻りましょう。私はこのままこちらを抑えていますので、そのまま運んで頂ければ。」

「っ!?」

 目の前にずい、と差し出される桶。暁は少し思案して、しかしそれを諦めた。

 桶を持ち上げると、彼女がそれを支えるように手をあてがう。

「…じゃあ行くぞ。」

「はい。」

 一言交わすと、二人は同時に来た道を戻り始めた。


「…。」

「…。」

 それなりに凸凹した道を、水が彼女の方に跳ねないように歩く。彼女の方も、じっと桶を見つめ真剣な表情で寄り添う。慣れているのか水は全く零れていない。

 が、どうしても体同士が密着した形になってしまい、暁は着物越しに感じる彼女のふっくらとした感触を意識せずにはいられなかった。

(…柔らかい。…こんなに細い体で、よく山暮らしなんてしてるな…)

 横目で盗み見て、そんな事を考えていると。

「…?」

 ふと目が合った彼女に、何か?とばかりに首を傾げられてしまった。その子犬のような可愛らしい仕草に何だか照れてしまい、暁は慌てて視線を前に戻し歩きだしたのだった。


 何とか家まで運び終え、中に入ってすぐ横に置いてあった水瓶へ注ぐ。石を磨いて作られた、水漏れの心配無用のそれに、飲み水としては十分な量が溜められた。

「ふう、これだけあれば二日は大丈夫だよな。」

「そうですね…あ。」

 桶を元あった場所へと戻した彼女が、何かに気付いたように口元に手を当てる。

「ん、どうかしたのか?」

「…どうせなら、直接川で飲めば良かった…。」

 そんな間の抜けた発言に肩透かしを食らう暁。

 …結構うっかり屋だな、この子…。

「…もう一度行ってきます。」

「え…俺も一緒に行こうか?道が暗くて危ないだろう。」

「必要ありません。慣れていますから。」

 先ほど手伝いを申し出た時のような表情で、きっぱりと断られてしまう。

「しかし…。」

「…あの。貴方さまは、早く体力を戻す事を考えなさってはどうでしょうか。」

 ぼんやりとした瞳は、しかし暁を真っ直ぐ見据え、少し強い語気で彼女は続けた。

「五日間眠ったままになる程に弱り、生死の境に居た事をお忘れですか。早く眠って、体を休めて、山をお降りになって下さい。病状が悪くなっても、これ以上私は対処しかねます。」

「!」

 明らかに非難を表す言葉を受けて、暁は言葉を無くす。

 彼女との会話をする中、さっきから引っかかっていた違和感の正体が分かった。彼女は、暁の事を歓迎していない。言葉は丁寧な形を取っているが実際には感情が伴っていないのだ。

 その社交辞令が透けるような言葉使いに、暁は無意識に合わせて普段通りの口調になっていたのだった。

「…それでは、お休みなさい。」

 言葉を出せない暁を一瞥して一言そういうと、彼女は黒髪を夜の闇に混じらせ戸の向こうへと消えていってしまった。

「…。」

 囲炉裏の微かな火の明かりに目を移しながら、暁はもやもやと思案する。人の厚意を都合良く解釈し過ぎたのだと。

 恐らく彼女は、初めから暁という来客を快くは思っていなかったのだろう。助けたのはあくまで成り行きで、不本意な結果だったのだ。そりゃあ、どんな人間だって自分の家の前に死にかけている奴がいればそのままになんてしておきたくは無い。

 こんな、他人と関わりのない場所で暮らしているなら尚更だ。突然来た病人の来客など色々物入りになってしまっただろうし、嫌な話になるが、恩を売って正式な謝礼が貰える訳でもないのだから。

「…早く山を降りろ、か。」

 ここにいる限り、彼女の重荷になってしまうんだという事を感じた暁は、言われた通り素直に休むことにした。

 さっきまで暁が寝ていた布団に入り込み、秋の夜に中てられて冷たい体をすっぽりと包む。横を向き、囲炉裏を背にして横になる。

 ふと目に入ってきたのは、山暮らしにしては余りに数の少ない家具と食料。

(母親と住んでるって言い方だったけど…こんなに物が無くて、女二人で、どうやって暮らしているんだろうな…?)

 薪と割るための斧、干された果物、小箪笥と上に置かれた鈴付きの杖、食器の入った篭と、巻かれた薬草…村で暮らしている人間でも、普通この倍以上は家財が有るものだった。

 

 そこに、ガラリと戸を開ける音が飛び込んでくる。

(ん…?)

 彼女が戻ってきたのだ。…先程よりも随分と早い。感覚的に片道分くらいの時間だった。

(走って来たんだろうか。)

 よっぽど喉が渇いていたのか、…あるいは見知らぬ客を家に一人にしておきたく無かったか。

(…寝るか、今は体を直す事を考えよう…。)

 悲観的な考えが湧いてくるのを出来るだけ無視しようと目を瞑る。と…

 しゅるるっ

 少し離れたところで布の擦れる音がした。続けざまに箪笥が開けられる音、また布の擦れる音。…どうやら着替えているらしかった。

(…。そりゃ、もう夜だし、あの格好で寝られないだろう。外に行くのもおかしいし、ここは彼女の家なんだぞ。)

 当然の事なのに、横であんな美人、もとい女性が服を脱いでいる事を変に意識してしまう暁。

 ドクドク鳴る胸を抑えて、早く寝ようと無駄な考えを捨て去るようにして。

 そんな事をしていると、そのうち音、そして気配が止む。

 しばし、訪れる静寂に耳を傾ける暁。

(…寝たのかな…あれ、そういえば…?)

 ふと疑問が浮かんだ。寝るのは良いが、布団が二つもあっただろうか。少なくともさっき見た中にそれらしきものは見当たらなかったし、今用意したとも思えない。

 気になって、音を立てないよう静かに寝返り、囲炉裏の向こう側へ目をやる。

 やっぱり、というか。床に直に寝転んだ状態で、彼女は眠っていた。

(な…ふ、二人暮らしじゃ、無かったのか…!?)

 見知らぬ客相手に、まさか一つしかない布団を譲って自分が床で寝るなんて。

「あ、…。」

 思わず声を掛けようとするものの、先ほどのやり取りが思い返された。

『早く眠って、体を休めて、山をお降りになって下さい』

 もしも彼女にとって俺が、板の間でそのまま寝る事以上に厄介な存在なんだとしたら。そう考えるとこれ以上物言いを加えるのは憚られた。

 暁は立ち上がろうとして床についた腕を止め、ため息をつくとともにゆっくりと戻してまた布団をかぶった。

 黙って言う通りにしていよう。

 囲炉裏もある、寒ければ遠慮なく取っていくだろうし。

 女性とはいえ、山暮らし、一人暮らししているんだ。慣れているのかも知れない。だからあんな風にして眠れるんだ。

 部屋の隅で丸くなって、体を抱えるようにして。まるで他人を避けるように独りで眠って…。

(…あぁ、くそっ!)

 突然半身を起こし、頭を横に払う暁。そのまま立ち上がると掛布団を手に持って、囲炉裏の向こうへと歩く。

 薄手の真っ白な寝巻を身に纏い、足元で小さくなっている彼女に目を移す。顔は影に隠れて見えないが、どことなく冷たく、寂しそうな印象を暁に与えた。

(…なんでそんな、寂しそうに寝るんだ。ずっとこうして暮らしてきたんじゃないのか。)

 勝手な想像なのは分かっている。でも、どうしても。在りし日、避けていた頃の、風邪を引いた妹の弱った姿に重なるから。

 暁は掛布団を彼女の足元から包み込むように被せ、軽く叩いて隙間を埋めてやった。

「…お休み。」

 起こさないように小声でそう言って、暁は横に置かれてあった自分の上着を見つけるとそれを掛けて眠りについたのだった。


 


 信用なんて初めからするつもりは無かった。そう母に教わって育ってきたから。

 家の傍で倒れている彼を、只の獣の餌として見捨てることも出来た。そうしなかったのは、私にもまだ人の血が通っていたからだろうか。

 …分からなかった。危険だと分かっていたのに、倒れている彼を目にしてそのままにしておけなかった。頭が真っ白になってしまったのだ。

 多分私は、彼に騙されても、どうでも良いと思っている。

 こんな人里離れた場所で、女一人。もし何かされようが、誰にも助けて貰えない事は承知の上だ。今更驚くことなんて何もない。

 それよりも、うっかり信用してそれを裏切られる、という方がよっぽど怖かったから。

 つまり、ただの気まぐれだったのかも知れない。…或いは、初めて会った「他人」というものを、ただ、投げやりに試して見たかっただけか。

 だから、眠りにつこうとして彼の気配が近づいてきても、「ああ、やはり"そう"なんだ」程度にしか考えなかった。

 少し胸がちくりとして、母親の事を思い出しながら『その時』を待っていた。

 …なのに、そんな私に降りかかってきたのは暴力ではなく、ふわりと私の身体を包むもので。

(…、え?)

 思わず目を開いて何が起こったのか様子を見ていると、小さな「お休み」の言葉とともに彼が離れていったのが感じられて。

 しばらくの間思考して自分が受けた行為の正体が分かった時、思いもしなかった感情―――罪悪感というのか―――が私の心を強く締め付けた。

 深い正と負の感情が混じり合ったようなそれは、とても苦しくて。一つの言葉を外に出さずには居れなかった。

「…あり、がとう…」

 もっとも、彼には聞こえなかっただろうけど。





 屋根の上から聞こえる鳥のさえずりの喧しさに、暁は目を覚ました。すぐに布団の中で腕を動かし、調子を確かめる。…寝る前までと変わらぬ、明らかな怠さが感じられた。

「ん、…まぁ、昨日の今日だしな。そうそう回復はしないか…。」

 仕方なさそうにそう言って布団をめくり、半身を起き上がらせる暁。と、そこでこの家の主の姿が見えない事に気が付く。

「あれ…?こんな早く、どこか出かけたのか…あ。」

 彼女の姿を探しながら、昨晩寝る直前にした行為を思い出し、いま自分にかけられている布団にはっとした。

 いつ返されたのだろうか。起きた時か、それとも夜中のあの後直ぐか。…もし後者なら、やっぱり迷惑がられた可能性がある。またあの呆れた顔が思い出された。

 彼女の後を追おうとしていた暁を、その想像が諫める。が…

「…。…はぁ…だからと言って、ずっと寝ているわけにはいかないだろうが。」

 こんな朝っぱらから外に出ているのだから、何か仕事をしているに違いない。その横でただ寝て過ごすなど、暁には耐えられない事だった。

 囲炉裏の火は消えていた。

 布団を抜け出し、落ちていた上着を着直してから外へと出る。朝方の冷たい風が家の中へと通り、暁の身体を震わせた。

 もう秋も終わりが近い。彼女だって自分の生活があるのだから、突然の病人になど構っていられないはずだ。

 やはり、甘えてばかりはいられない。自分も出来る限りのことはさせて貰うよう伝えようと、暁は心に決めて、寒空の下の彼女を探し始めた。



 外に出て、落ち葉の絨毯の上を歩きやすい方へと足を進める暁。道とは言えずとも、普段から彼女が歩いているだろう跡を見つけるのは猟師にとっては自然な感覚だった。

「…お、いたいた…。」

 少し行って直ぐ、木々の下で座り込んでいる彼女の姿を見つける事が出来た。

「おはよう。」

「きゅっ!?」

「…『きゅ』?」

 少し離れた所から声を掛けると、そんな素っ頓狂な声が飛び出す。

「な、っ…び、びっくりさせないで下さい…!なんで、ここが分かって…!?」

 バっと立ち上がってこちらを振り返り、狼狽した様子で話す彼女。昨日話した時は見た事の無かった反応で、少し意外に思う暁。

「あ、いや…道に誰か通った跡があったから、追って来たんだが…すまん、そんなに驚くとは思わなかった。」

 呆気にとられながらも、頭を下げて謝る暁。そんな姿に冷静さを取り戻したのか、彼女は一つ息をついて元のすました表情に戻った。

「…はぁっ。…そうですか。そんな事が出来るなんて器用なんですね、貴方さまは。」

「まぁ、猟師だからな…それにしても。」

 場が落ち着いて、暁は彼女がいる場所を見渡した。

 そこは墓所だった。

 大人程の高さの石柱が周りを赤い花で一杯に囲まれており、墓石と思われるそれには綺麗な黒い玉石が紐で引掛けられ、煌めいていた。

「誰かの、墓なのか?」

「…ええ、私の母が眠っています。」

「…!」

 視線を落として紡がれたその言葉は、暁の中での、彼女の姿を少しだけくっきりとさせた。

 若い女が独りで住んでいるにしては不釣り合いな場所、偏った家財とそこから見える暮らしぶり…。

 同じく親を無くした身として、それが最近起きた変化である事が、暁にはいやでも想像出来てしまったのだ。

 ―――そうか。寂しそうに見えたのは、それが原因か。

「祈らせてもらっても、良いか。」

「え?」

 喉が苦しくなる感覚に襲われながら、暁は彼女にそう聞いた。

 少し驚いた様子の彼女は束の間、暁の顔を見てから、「…はい。」とだけ答えた。

 暁は前に出て彼女の横に並び座ると、血のように鮮やかな色の花のなかで聳える墓石に向かい合って…手を合わせ、目を伏せた。

 それを見て、隣りに居た彼女も同じように座りこんだ。そして暫くの間、二人で祈りを捧げ合った。



「…赤の他人なのに、勝手言ってすまないな。」

「いえ、祈って貰ったのに、謝られるなんて事は無いですけど…でも…。」

 立ち上がって、地面に着いてしまった服の部分を払ってから。見ず知らずの相手に祈った暁に、彼女は小さく疑問した。

「俺も小さい頃、親を亡くしたんだ。色々…感じる所があった。」

「あ…そう、でしたか…。」

 暁が自分と同じ顔をしていた理由がわかって、片腕で身を抱える彼女。痛みを抑えるようなそんな弱々しい姿を見て、暁はずっと思っていた事を口にする。

「…あの、さ。やっぱり俺も、君の仕事を手伝わせて欲しい。」

「え…でも、病人に働かせるのは。」

「病人と言っても、怪我があるわけじゃないんだ。萎えた身体を戻すだけなんだから、寝てるだけなんて逆に治りが悪くなる。それに、」

 これだけは譲りたくないと、暁ははっきりとした口調で続ける。

「自分を助けた人が一生懸命頑張ってくれているのを、横で見てるだけなんて…俺には出来ない。」

 真っ直ぐ目を見据えてそう伝えられた彼女は、ぼんやりした目をほんの一瞬だけ見開いてから、抑揚の少ない声で返してきた。

「…、……わかりました。そこまで仰るのであれば。でも、無理はしないと約束できたら、の話です。」

 どうですか?と聞いてくる彼女。

「ああ、もちろんだ。命の恩人にこれ以上迷惑かけるなんてしないよ。安心してくれ。」

「そうですか。それなら、安心しました。」

 暁の言葉に、彼女は、目を瞑ってすまし顔でそう答えた。

 自分の言い分を聞き入れられたほっとするのと同時に、暁は、そんな風に言い放った彼女の姿を見て内心で笑ってしまった。


『―――仕方ないなあ、兄さんは。一度言い出したら聞かないんだもの。』

 

 そんな、亡き母親に似て成長した、妹の呆れ顔が思い出される。

 …なんだ、結構表情豊かな娘なんじゃないか。もしかすると。

「…何ですか?」

「いや…うん、何でもない。気にしないでくれ。」

 そんな思考をする様子を怪訝に見られて、思わず手で口元を隠すようにする暁。

「?…そうですか、では…貴方さまは、家に戻って囲炉裏に火を起こして頂けますか。薪を切らしていたと思うので、そちらもお願いしたいのですが。」

「ああ、わかった。君はこれから何処へ?」

「私は…食糧を取ってきます。色々調達場所が違うので、とりあえず貴方さまは手伝わなくて結構です。」

「あ、ああ…はいはい。じゃあ、余裕があったら薪割でもしてるよ。」

「お願いします。…ああ、そうだ。家の外に如雨露があるので、水を入れて持って来て貰えますか。忘れないうちに墓の手入れをしたいので。」

 彼女は墓の前で供え物を掃除しはじめると、思い出したかのようにそう付け加えた。

 家の方向へ向かおうとしていた暁は、その声に足を止めて振り返るとその花々を改めて見渡し、ふと、彼女の着物の下端にも同じ花の刺繍がある事に気が付いて、素朴な疑問を投げかけた。

「わかった。…その狐花、綺麗だな。君が植えたのか?」


 ガチャンっ。


 …供え物の皿が、軽く落ちる音がした。

「…い、いま、な、何か言いましたか…?」

「は?な、なにって…何が?」

 ゆっくりと振り返った彼女のその引き攣った表情を目の当たりにし、ギョッとする暁。

 何か不味い事でも言っただろうか?しかし考え直してもそんな心当たりが無くて、再度さっき言った事を口にすることに。

「その花、君が植えたのか、って…聞いたんだが…。」

「こ、これ…彼岸花の事、ですか?」

「え?…あ、あぁ、都の方だとそう呼ぶらしいけど…。俺の村では、狐花って呼ぶんだ。狐に似てるからな。」

「………。」

 固まる彼女。そのまま無言の時が続いたかと思うと、口をぱくぱくさせながら声を絞り出し始める。

「…ぁ、…そ…そうなんですか…!」

 さっき声を掛けた時とは比べ物にならない程に慌てた様子で話す彼女。

「そ、その…母に教えて貰った名前が、違っていたかと思ったものですから…!」

「はあ…まあ広い意味では、そっちの呼び名が正しいのかも知れないが…?」

「ふ、深い意味は無いんです、それだけの話です!」

「お、おお…?」

「で、では、如雨露をお願いします。私は掃除をしなくてはいけませんので…!」

 そう言って話を一方的に切り上げると、彼女はまた墓に向かって作業を始めてしまった。

「…。わ、わかった…じゃあ、持ってくるぞ…?」

 暁は訳が分からなかったが、そうしていても仕方ないので彼女の言う通り動くことにしたのだった。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 家に戻り水を入れた如雨露を彼女の元へと持っていった後、暁は言われた通りに木材を薪にする作業に取り掛かった。

 大きな切り株の上に置いた一本の木材を斧で割り、火にくべられる位まで手頃に分割していく。

 …カンッ!

 置かれていた斧は高級な金属で誂えられ頑丈に作られており、本業の暁が思わず「おおっ」と感嘆する業物だった。

 軽量なのに扱いやすい斧が手伝い、作業は慣れてしまえば病人にも出来る程で、重労働では無かった。しかし…

「コツがわかってれば、の話なんだよな…。」

 溜めてあったなけなしの薪。どれも大きさ不揃い、切り口が斜めに入ってしまった失敗作だらけの山。

 おそらく、彼女が作ったものなのだろうという事が容易に窺えた。

「やっぱり…最近の事なんだろうな。」

 どう考えても、ここでの生活が慣れているような様子ではない。今までは他の人間が居て、それが無くなった環境に慣れようとしているとしか思えなかった。

 あの墓標。どこか寂し気な彼女の、独特な雰囲気。それが答えなんだろう。

 それがよく理解できてしまうからこそ、自分の身ではどうしようも無い事も暁は知っていた。

(首を突っ込む事じゃない。これは彼女の家の問題だ)

 誰だって親から別れなくちゃいけない時は来る。大人になる前に死に別れする親子なんて、この時勢ではそう珍しい事でもないのだから。

「…自分の力で、暮らせるようになるしかないから、…なっ!」

 哀れみと、同情。

 かつて嫌という程身に受けていた、その感情を叩き割るように。暁は、斧を振り下ろした。 


 ある程度作った薪を囲炉裏にくべて、石で火を入れる。弱い火に保つ。慣れた仕事だった。

 そうした後、再び薪を割り始める事に。

 激しい作業でもなく、いつもやっている事を反復するだけ。五日間も動かずにいた身体を働かせる喜びからか、暁は黙々と薪割りを続けていった。

「よっ!…ふーっ、うん、結構作れたなっ。」

 溜められていた木材の殆どを薪にし終えて、棚の中の仕切りが傾いていた。

(もう少しあれば、あの娘が冬越し出来るくらいまでの蓄えになるだろ)

 ―――先程『彼女の問題』だと心決めしたのはどこへやら。

 面倒見の良さが結局先行してしまうのは、暁の性分だった。

「さてと、っと…あれ。」

 このままだと具合が悪いから、そこらで倒れている木でも探して来ようか、と考え始めたところで…木々の間にある太陽が、頭の上まで昇っていることに気が付いた。

 いつの間にか、結構な時間が経っていたらしい。彼女は全く帰ってくる様子が無かった。 

「う~ん、ああ言われたものの…こっちももう終わりそうだしな…。」

 てっきり朝食をとるために火を起こしたのだと思っていたが、もうとっくに昼だ。このまま点け続けるのも無駄が過ぎる。

「…よし、食料の場所も教えて貰いたいしな…用意して、捜しに行くか。」

 そういって暁は家に戻り、自分の鞄を手にすると、囲炉裏にかけていた鍋のお湯を横に置いて火を消し…外へと出かけた。


 彼女が何処にいるのか心当たりがあるはずも無く、取り合えず知っている場所…昨日水を汲みに行った、あの清流に向かうことにした暁。

 昼の明るい道を見渡し、食料になるものが無いか探しつつ歩く。

「結構、枯れ木が多いな…」

 呟く暁。この山に入る辺りでは秋の実りがそこそこ見られたというのに、この辺りはそれが疎らだった。…と。

 …ばしゃっ

「?」

 道の先から音が聞こえる。水の音だった。


「…てやぁっ…!」

 川の真ん中でバシャバシャ飛沫を立てて、何やら愉快に飛び跳ねている人影。

「たっ、やっ。わっ…!」

「………。」

 目を擦る暁。目を凝らして、そのずっこけそうになっている人影をよく確認する暁。

 その甲斐もなく、人影の正体は…先程、母親の墓標で祈りを捧げ合った、物静かな少女その人だった。

 その様子をよく見ようと、暁が川に近づいてほとりに立つ。

 水の深い所に入り、川底を睨んでいる少女。かと思うと、いきなりそこに向かって腕を突っ込み、また飛沫が上げられた。

「あっ…や、やったっ…っわぁ、っ!?」

 その手が水から揚げられて、魚が掴まれていて。そこでようやく、暁は彼女が何をしようとしているのかを認識した。

 恐らく目的の物だったろう手の中のそれは、しかし直ぐにびちびち身を捩り暴れ、彼女の手から逃げて川の中へと舞い戻ってしまう。

 がっくりと肩を落とすと、そのまま息を荒げだしてしまった。

(…何をやってるんだ…いや、何がしたいかは分かったが、しかし。)

 あんな魚の獲り方をしているんだから、さぞ慣れているのだと思って暁は観察していたのだが…あの疲れようである。

(まさか、俺が薪割りしてる間中、ずっと?)

 『余りにも無謀過ぎる』と訝り凝視し続ける暁。その視線にも全く気付かず、彼女は再び腕を水に突っ込み始めてしまった。

「やあっ!…むむ~っ…!」

「………。」

 あ。これは本気でやってるな。ムキになってるし。

 一つため息を漏らすと、暁は、必死に魚を追いかけている彼女に近づいて行った。

「~…っやった!こ、こんどこそっ…!」

「おーい。」

「えっ!?あ、きゃあぁっ!?」

 声を掛けられて不意を突かれたらしく、少女は魚を手に持ったままで足元を滑らせてしまった。

「!?あ、危ないッ!」

 周りは岩だらけだ。一瞬で事の危険さに気付いた暁は、病み上がりなのも無視して彼女のもとに身体を突っ込ませた。

 ―――大きな水飛沫をまき散らし、そこらじゅうの岩に当たって騒がしい音が起こる。

 そうして、瞬く間に静かになった後には…彼女の身体を受け止めて、川に浸かっている暁の姿があった。

「…うぅ、…っ?」

「いっ、…てててぇ…!」

「!す、すみませんっ…大丈夫ですか!?」

 すぐさま立ち上がって振り返り、暁の身を案じる少女。庇った甲斐あってどうやら怪我はして無い様で、暁は安心する。

「…あぁ…っ、だいじょぶだいじょぶ…。…いつぅーっ…、?」

 後ろにあった岩に腰ついて、痛む背中をさする暁。

 と、見上げた彼女の上に、何かがぴしゃぴしゃ音を立てて動いているのが見えた。

「…。」

「?あ、あの、どこかぶつけたんじゃ…。」

「…ぷっ。」

 え、と首を捻った彼女の方を見ながら、暁が噴き出した。

「あーっはっは!あはっ、あははははは!」

「え…?な、なに…?」

 暁はひーひー言いながら腕を上げ、不思議そうに見つめる彼女の頭の上を、「獲れてる獲れてる」と指さした。

 そこには、度重なる衝撃で弱り切った魚が、少女の頭を尾で叩いていたのだ。それはそれは恨めしそうに。

 ハッとして、少女は自分の頭に手を伸ばしてそこにいたものを掴む。

「…。」

 もう逃げる事すらできなくなったクタクタの魚肉。それを持って、申し訳ないやら、恥ずかしいやら、情けないやらが混じった表情を浮かべた彼女の顔はまた暁を笑わせてくれた。

「くくっ、…お、おめでとう、粘り勝ちだな。」

「…そ、そんなに笑う事、無いじゃないですか…。」

 笑いをこらえる暁を睨み、心外そうに抗議する少女。

 もう、暁の中の、一人の『大人』として振舞っていた冷たく厳しい彼女の印象は、自分と同年代か少し幼いくらいの『女の子』にすっかり変わってしまっていた。

「はーぁっ…。…あれからずっと、この川で魚を獲ろうとしていたのか?」

「…そうですが。何か。」

「何匹?」

「…。」

 び、と両腕を差し出す少女。

「そうだと思った。…とりあえず、これに入れておいてくれ。」

 暁は鞄から、魚を入れておく網の袋を出してそれを渡し、そこに引っ掛かっていた細い金属のような何かを手に取ると、何やら藪の方を見まわし始めた。

「えー…と、あったあった。『童竿わっぱざお』。」

 そして、群生していた腰ほどの長さがある太い草を掘ると、その根っこにさっき取り出した金属を結び付けた。

 そのまま川に向かい、手に持った草を水の中に放った。太いが柔軟性のあるその植物は、重い根っこの方に引っ張られて急な曲線を描いている。

「…何をしてるんですか?」

 不思議そうに少女が暁の横に立ち、川の方を見つめる。

「その魚、ガマグチっていってな。気性が荒くて、自分の口に入る生き物はなんだって食べる。」

「はぁ…。」

「育つのは他の場所だが、秋になると生まれた川に戻ってきて、卵を産まなくちゃいけないからな。だから…」

 言って、ちょい、ちょいと暁が草を縦に揺り動かす。すると、横の岩陰からさっきと同じ種類の魚が姿を現した。

「あ…!?」

「…こうやって、釣り具を虫みたいに動かすだけでっ。」

 『ガマグチ』は飛び出したそのままの勢いで、根に付いた金属…釣り具を大きく咥えてしまう。すかさず暁は直上に引き上げて、ガマグチの体を川から脱出させてしまった。

「簡単に釣れるわけだ。」

「…。」

 ぽかんと小口を開け、釣れたガマグチを見ている少女の手にある袋にそのまま釣果を放り込む。掴まれ続けていたクタクタのも一緒に。

「時間さえあれば、釣り具じゃなくて落ちてる鳥の羽根とかでも編み込めば食い付く。一回しか使えないけどな。」

 そう言って、ずっと黙ったまま目を白黒させている少女の手に竿をポンと置く。彼女はそれと暁を順に見比べ、声を絞り出すように発した。

「…す」

「?」

「すごい…。な、何でこんな事思いつくんですかっ?」

 きらきらと目を輝かせ、感動極まれりといった表情で暁を見上げる少女。

「何で、って言われてもな。子供の頃からやってた遊びなんだよ。童釣りって言われてた。」

「へえぇ…っ。」

 興奮しながら釣り具を観察しだす少女。その姿は、初めて童釣りをした子供そのものの様に無邪気で、可愛らしい。

「わ、私もやってみて良いでしょうか?」

「ん。ああ、もちろんだけど…」

「では、こっちに来て教えてくださいっ。」

「…待った。」

 川に向かって身を乗り出そうとする少女を制しながら、暁は今更ながらに自分たちの状況を検める。

「まずはこのびしゃびしゃの服を何とかするのが先決だな。」

「…あ。」

 余りに熱が入り、二人して水を被った事も忘れていたのだろうか。彼女は言われてやっと気付いたかのように、水の滴った袖を持ち上げて困った顔を浮かべた。

 ―――着物が水を吸ったら、流石に動き辛くて気持ち悪いだろうに。


 …一旦家に戻り、それぞれ服を着替える、絞って乾かすして整えた後、逸り先を歩く少女に促されて再び元の川まで戻ってきた暁。

「いつつ…腰打ったな、こりゃ…。」

「どうしたんですか、こっちです、こっち。」

「はいよ。」

 さっき岩場にぶつけた所を気にする暁にも気づかず、興奮しながら手を掲げる少女。すっかり崩れたその様子に苦笑しながら、少し遅れて川の前に並んで座り込む。

「持ち方は、こうで良いんですか?」

「ああ、持ちやすい所を持てば良い。本物の釣竿じゃないんだから。」

「?本物、というのは…?」

「あれ、もしかして釣り自体知らないのか?」

 ふるふる、と首を横に動かす少女。

「んー…もっとちゃんとしたのはな、竹を組み合わせて作られたしなる棒を使うんだよ。こういう…。」

 そこら辺の小石を掴んで、足元の岩場にガリガリ擦り付けて竿を描いて見せる暁。

「えっ…。」

「どうした?」

「い、いえ…そうやって、岩に何か描く事が出来るんですね…。」

 感心そうに放ったその言葉に、目を軽く見開きながらも。暁は続けて描き、今ある童竿と比べる。

「…。と、もっと頑丈な奴でやってるんだが…子供でも用意できて安全に使える竿が、『これ』なわけだ。」

「へえぇ…。」

「こっちは魚を直接見て、食い付いたらそのまま揚げるだけだからな。しっかり掴んでれば良いよ。」

 暁の顔に目を向けて話を聞いていた彼女は合点がいったのか、しっかと頷く。

「わかりました。…えいっ。」

 小さな草の竿を、大袈裟に両手で持って。目の前の川に放ると、少女はじぃっとその方向を真剣な眼差しで見つめ始めた。

「…。」

「…。」

「…ちょちょっと動かさないと食い付かないぞ。」

「えっ…そ、そうなんですか?」

「さっき君が興奮して俺の釣り見てた時に言ったぞー。」

「うっ…興奮してなんか…!」

 にやにや笑われながら言われてしまい、恥ずかしそうに顔を朱くしながら。少女は振り返りたどたどしい手つきで竿を持ち上げ始めた。

「こ…こう、ですか?」

 ぱしゃぱしゃと波立つほどの勢いで、水面を釣り具が飛び跳ねる。…横の岩陰から飛び出した魚影が、驚きながら離れて行ってしまうのが暁の目に見えた。

「でかいナマズだったら食い付くだろうけどなぁ。…よっと。」

「あ…」

 これ以上笑ってしまうのも悪いからと堪えながら、暁は彼女の手のちょっと上を支え、手本を見せてやった。

「これ位の振れでいいよ。あんまり大きいと魚が怖がるからな。」

「は、はい。」

 少女は、失敗したことに気付いて少し負い目を感じながらも、懸命に暁の真似をしつづけた。

 よほど慣れない行為だったからか、初めはたどたどしい手つきだったものの…暁の説明を聞いていくうちに、意味を理解し始めていった。

「…。…こうして、あの魚が食い付いたら…あの針を突き刺しながら揚げれば良いんでしょうか?」

「そうそう。頑丈に作られてるから、あれ位の大きさのやつなら乱暴に扱っても大丈夫。」

「持ち上げてる途中で外れてしまいませんか?」

「それも大丈夫。ここからも見えるけど、釣り具ってのは矢尻と同じ切っ先になってるから。」

 暁が少女との間の足元にまた小石で描いて示す。

「思いっきり刺せば、返りに引っ掛かって外れる心配も無いわけだ。」

「…痛そうですね。」

「え?」

 暁が思わぬ言葉に顔を上げると、そこには苦い顔を浮かべた少女の姿が。

「…まぁ、最終的に食っちまうわけだから…そこは、悪いけど我慢してもらうと言う事で。」

 博愛精神の持ち主なんだろうかと思い、暁もちょっと声を落としながら話す。

 しかし、どうやらそういうわけではないらしかった。

「あ、いえ…別に可哀想という事ではないんですが…前に、矢が刺さって泣いている子熊を見つけた事があったものですから。」

 …『矢』そのものが怖いってことか、と理解する暁。

「あー…。それは悪い事したな…俺もたまに仕留め損なう事があるから、なんとも言い訳しづらいんだが…。」

「そう言えば、あなた様も弓矢を持っていましたよね。…あれは、仕方の無い事なのですか?」

「…猟師って言っても、所詮は人間だからな…足の速さじゃ勝てないし、接近されれば危ないから、遠くから道具を使って戦うしかないんだ…けど、いつも狙った急所を射抜けるわけじゃないから…。」

「…なるほど。」

 申し訳ない、といった様に事情を説明する暁の事を、その真意をはかるように少女は見つめて、それを納得したようだった。

「…悪意があるわけじゃ…ないんですね…。」

「ん?」

 ぽつりと呟かれた言葉が聞き取れなくて、聞き返す暁。

「あ…いえ、何でもありません。…この『わっぱつり』というのは、万療草じゃないと出来ないんでしょうか?」

 自然と言葉が口に出ていた事に気付きハッとした少女は、取り繕うように別の疑問を投げかけた。

「万療草?…この童竿の名前か?」

 頷き同意する少女。

「どうだろうな、これ以外の草でやったことが無いから分からないけど…何で草の名前なんか知ってるんだ?」

「この草は、怪我をした時によく使う薬草ですから。」

「薬草?」

「ええ。切り傷、擦り傷、打ち身に火傷…中の果肉は、どんな怪我の痛みも抑え、癒してくれる…まさに万療草です。」

 どこかうっとりと、笑いかけて流暢に話す様子の少女に、暁が「薬草の知識があったのか」と聞いてみる。

「はい、母が…きゃっ…!?」

 そんな時、少女の腕がガクンと揺れ、竿が大きく曲がりしなった。水面を見ると、その先はいつの間にか川の端の方に潜り込んでしまっていた。

 どうやら、今二人が座っている岩場の下にも川が通っているようで、そこにいる何かが食い付いたようだ。

「うぅ、っお、おもいっ…!」

「だ、大丈夫か?…うぉっ!?」

「きゃあっ!」

 余りの引きの強さに膝をついて竿を持ち始めてしまった少女を見かねて、暁が手を添えてやったが、それも虚しく。予想以上の力で、竿が川の中に引っこ抜かれてしまった。

「あっ、あぁ…!」

 取られてしまった竿を追うようにして少女が川の中を覗き込む。暁も同じく、竿を持って行った者の正体を見てやろうとしたが…岩場に隠れているのか、それは叶わなかった。

「竿…落としてしまいました…。」

「くっそー…釣り具も持ってかれたか…!」

 まさかこんな小川にそんな大物がいるとは。金魚すくいでもするみたいな感覚で釣っていた暁も悔しさに唇を噛んで言う。

 その横で、自分の実力不足のせいだと思った少女が肩を落としてしゅんとしてしまう。

「…私が、しっかり持っていなかったから…すいません、折角作って頂いたのに…。」

「いや、俺もこんな所でガマグチよりでかい魚がいるとは考えて無かった…!」

「どうしましょうか…でも、魚も二匹は獲れましたし…。」

 落ち込む少女は、もう道具も無いし諦めようと口にして、暁の方に顔を上げる。

 …しかし、暁はというと、いつのまにか川から離れてまた草むらの方で大量に群生している万療草を取り始めてしまった。

「…これと、これか。」

「?あの、何を?」

「ちょっと待っててくれ、今新しいの作ってるから。…このまま釣り具喰われて終われるか、っての。」

 最後に独り言でそう言って、草むらでしゃがみこんだまま何かを作る暁。その顔は意地悪く、微かに笑いを溢している。

 その様子に少し困惑しながらも、少女は何をしているかとその隣へと近づき、同じくしゃがみ並ぶ。

「え、と…貴方さま?」

「釣り具はあと一個ある。竿さえ作れば、まだ挑むことは出来る。…っと。」

「…でも、さっきの魚は、すごく重かったですし…万療草ではやっぱり無理があるんじゃ…?」

「なら、編み込んじまえば良い。」

「編み込む?」

 少女が聞き返すのと同時、暁が万療草同士を器用に結んだ。

 更にその周りを補強していくように、重ね合わせて、編み込んでいく。

 力を入れても切れてしまわないように箇所を工夫して結ぶその手付きは、遊びに慣れ親しんだ少年時代に培われたものだった。

「…わぁ。」

 見る見るうちにその柔軟で強固な竿が出来上がっていくのを、少女はまた興味津々に見つめる。

「…上手ですね…。私がやったらびりびりに破けてしまう所です。」

 子供の頃さんざやったことだからな、なんて返事をしながら。暁は、竿を奪った者に対する挑戦心を燃やしていた。それこそ、子供の様に。

(どれ程大物だか知らないが、獲物を獲ろうとしてるこっちを横から不意打ちとは。…遊びとは言え、このままじゃ猟師の名折れだ。)

 しゃかしゃかと目まぐるしく、そして力の篭った手つきで、いくつもの万療草を編み込んだ強靭な竿は完成した。 

「よしっ。出来たぞ、君も手伝ってくれ。」

「!わ、私もですか?」

 竿の出来具合を見るなり、暁にいきなりそう言われて戸惑い聞き返す少女。さっき大物から受けた腕への衝撃が彼女の心に思い返された。

「当然。初めての釣りで竿ごと持ってかれて終わりなんて、悔しいだろ?」

「それは…でも、私なんかじゃ力になりませんよ、さっきだってそうだったじゃないですか。」

「そんな事無いって、さっきは俺も君も油断してたからだ。今度はこっちがあっちを驚かせてやろうじゃないか。」

 自信満々に笑みを浮かべながらそう言い放つと、暁はほら、と促しながら少女の手を取ってずんずん川の方へと歩き出して。

「あっ…ちょ、ちょっと…!」

「見てろ…確実に、絶っ対に水の中から引きずり出してやるからな…~。」

「…。」

 少女は腕を引かれながら、暁のこぼしたそんな楽しそうな一人言を耳にして、反対は無駄だな、と悟る。

 みたび岩場に腰かける、暁と少女。

「さっきのガマグチ、小さい方で良いから寄越してくれ、餌にする。」

「え…勿体無くありませんか?そんなことしなくても、ガマグチ、っていう魚なら釣れるって。」

「いや、多分さっきのはガマグチじゃない。それにしちゃ力があり過ぎだったからな、確実に餌を使って、よりがっつりと食い付いて貰う。」

「…より食い付くって事は、さっきよりも引っ張られる力が直に来るのでは…!?」

「だからこそ、二人で釣り上げるんだろ?」

 ニカっと笑みを浮かべる暁に対し、それを聞いて、身の丈程の巨大な魚に振り回されてしまう自身の姿を想像してしまった少女。

 くらくらとそんな妄想に囚われている横で、暁はこれまた慣れた手つきでガマグチを針に付けて、水底の横の、大物が潜むであろう陰に向かってあっというまに竿を垂らしてしまった。

「周りには魚影無し。…来るとしたらさっきの奴しかいないぞ。いつでも良い様に心の準備しておいてくれよ。」

「は、はいっ…。」

 こくり、と喉を鳴らし、緊張しながら持つ暁に並んで草竿に手を添え、二人で掴んで水底を睨む。

「「…。」」

 秋風が木々の奥からすり抜けてくるようにして、横を通り過ぎる。動いてないと肌寒いくらいの風も、今の二人の集中の前には届かない。

 たまにざわつく枝の音に反応しつつも、見えない所から仕掛けてくるであろう大物への警戒を続けて、幾何かの後。

 草竿の先が、一瞬で底へ沈む。

「!!」

「来た…!」

 待ってましたと立ち上がり、二人で草竿を力いっぱい引っ張る。

 用意の甲斐あって、持ち手は崩されずに保てた。が、やはり力は相当に大きく、竿の端から端が円弧を描くように曲がり切っている。

「さっきと、全然竿の手応えが違います…!」

「ただでかくなったわけじゃないからな!目一杯しならせても壊れない筈だから、思いっきり引っ張れぇ、ッ!」

「は、いッ!」

 ぎりぎりぎりっ…!

 万療草同士がきしみ合い、編目を細くしその身を絞らせる。双方からの力で壊れる心配は無さそうだった。

 しかし大物はやはり手強く、二人がかりでこれだけ引いても岩陰からその姿を現わさない。

 引きこんだ手応えがあったと思っても、直ぐにまた奥に潜られる。その繰り返し。

 まるで大物の呼吸にこちらが合わせて動かされているだけの様な、そんな一進一退が続く。

「っ…!これっ、引き上げられていない気がしませんかっ?!」

「同じくらいの力、らしいなっ、…くっそ、埒があかん!君、向こうの岩場まで移れるか!?」

 長い均衡状態に業を煮やした暁。何か考えたらしく、川を挟んだ対岸の方を顎でくい、と少女に示してそう言った。

「えっ、な、何するんですっ?」

「この方向からだと引っ張りにくい!あっちへ移ってからまず横方向で岩の陰から引きずり出す!」

「むっ、無理ですよ!?浅い所から渡ってきます!」

「それだと渡ってる間に力負けするからダメだ!」

「だってそんなに跳べません!」

「じゃあ俺が腕を引っ張るからその勢いで跳べ!」

「えっ、えっ…!?」

 暁は絶対負けられないと、暴走気味に少女にそう要求を押し付ける。これ以上無い位に慌てる少女ごと草竿を持って、暁はじわじわと後ろに助走の歩幅を取った。

「ぐぐ…!っいいか、こっちが引っ張られ出したら『一二の、三』で跳ぶから、あっちに着地したらその勢いを足してそのまま全力で横に竿を引くんだぞ!」

「…ぅう、もう!分かりましたよっ!」

 少女も口を一文字に閉じてとうとう覚悟を決め、二人で踏み込む準備を完了させる。

 拮抗していた竿が、大物の呼吸によりその状態を崩してあちらの優位に変わった。

「よし準備良いか、行くぞっ!」

「はいっ!」

 脚を踏ん張らせて、きりきりと弓を引くように助走初めの発条ばねを溜めて。

「『一』、」

「『にぃの』!」

 二人掛け声を揃え、その発条を弾かせる。走り出した足は、ぴったりの息で岩場の端を踏んだ。

 そして。

「「…さぁんッ!!」」

 清流に響き渡る声と共に、二人は跳んだ。

 直前、少女の腕は怖さからか暁の腕を掴み、もはや竿に力を伝えていなかったが…ぴったりとくっ付いた二人の身は、予想以上の速さで対岸へと突っ込んだ。

「――――――。」





 宙に浮いた少女の目に、踏み切った暁の体と、眼下の川の反射と、自らの着物のはためきが、まるで刻が止まったかのように写った。


 怖い。

 すごい。

 体が浮かんでいる。

 すごい。

 速くて、彼に掴まれた腕が、羽みたいにふわふわしてる。

 すごい。

 この川がこんなに光って見えるなんて今まで知らなかった。

 すごい、すごい。

 体の中まで軽くなってるみたい。

 …あれ、ほんとうに、浮いて…

 …落ちる―――?





「―――っ!」

 ざっしいぃっ!

 足裏から削れるような音を立てると共に、体を完全に着地させる。

「…あれ…っ。」

「よぉーっしゃあっ!」

「!」

 思わず高ぶり声を上げてしまったが、少女は今の声にハッとしたように顔を上げたようだった。

「さぁ、一緒に反撃するぞ!」

「…あっ、…はいっ!!」

 暁は少女を鼓舞するように声を掛けて、離してしまっていた竿を示しながら彼女の方に寄せる。

 二人は再び草竿を掴み、まるで示し合わせたかの様に片側に寄って踏み込み、全体重を思い切り横に向かって振り―――

「ぬぉおおおりゃあああっ!!」

「やぁああああああああっ!!」

 ―――そして、振り"抜いた"。

「…あうぁっ!?」

 芋堀りよろしく、勢い余った力はそのまま体の後ろへと吹っ飛び、少女は耐えられずに倒れこんだ。…その後ろで、何とか耐えていた暁ごと巻き込んで。

「うぉっ、…うわぁッ!?」

 重なるように岩場に倒された二人は、受けた衝撃に呻きながらも何とか起き上がった。

「うぅっ…あ、す、すいません、また下敷きに…!」

「痛ぅ~っ…あ!竿、竿!」

「え…あっ…!」

 背中を痛がりながら言った暁の言葉にハッとなり、急いで周りを見渡す二人。

 その少し後方、川原の辺りに、クタクタになって横たわる万療草竿の姿があった。

 ああ、と少女は嘆息した。勢い余って竿を壊してしまったのだろうか。せっかくあんなに二人で頑張ったというのに。

 がっくりとうな垂れる少女。

 その肩を、同じく竿の方を向いていた暁が、ぽんぽんと叩いた。

「…よく見ろ、もっとあっちだ。」

「…え?」

 顔を上げ、暁が指差す方を目で辿ってみる。

 竿の先っちょ、釣り具が付いていた部分よりもっと離れた所に…何か、大きな、眩しく光る巨大な塊が動いている。

「………!」

 それは、魚だった。

 水のある所に逃げようと必死に動く大きな尾が、川原の小石を叩き巻き散らかすほど力の強い、立派なガマグチ。

 濃く翠色に輝くその鱗が、二人に向かって威嚇するかのように太陽の光を反射させていた。

「「…。」」

 ぽかんと口を開けたまま顔を見あわせるふたり。

 その表情が、ゆっくりと緩んでいく。

「「……や…」」

 やがて肩を震わせて、揃って口にした。

「「やったあぁっ!!」」

 …二人で勝ち取った、勝利の鬨の声、だった。



「―――いやあ、大猟大猟!」

 力尽きたガマグチを持って、二人は家に向かって歩いていた。

「?たいりょ…何ですか?」

 声高らかに笑いながら言う暁の方を、少女は不思議そうに見て尋ねた。

「『大猟』!良い獲物が獲れた時に言う、猟師の祝いの言葉だなっ。」

 ニッと歯を見せて少女に笑いかけてそう教えて。少女もそれにつられたのか、なるほど。と呟き、口元を少し上げて笑ってから。

「…大漁、ですね。」

「おう!」

 そう言って向かい合って、しばし笑い合う二人。

「それにしてもっ…すごい重さだなぁ、これ。こんな大きなガマグチ、今まで見た事無かった。」

「…というよりこれ、本当に同じ魚なんですか?なんだか形が、鋭い…というか。」

 改めて自分たちの獲物をじっくりと観察しながら歩く。

 初めに獲ったガマグチと比べると、その大きさは倍近いのが分かる。さらに、鱗の色は濃く深く、少女の言う通りヒレの形が流れるように後ろ向きに鋭く尖っていた。

「そう言われると自信無くなって来る程の違いなんだが…しかし特徴はガマグチそのものなんだよなー。」

 暁曰く。翠の鱗に、暴力的な食性、それに伴う顎の付いた大きな口は、他の魚に無い点だという。

「もしかすると、変異してる個体なのかもな。」

 変異?と聞き慣れない言葉を聞いた少女が暁に疑問する。

「ああ、普通は同じ種類の生き物で違いなんか微々たるもんだけど、例えば餌を多く食べた期間が長くて、それで大きな身体になったとするだろう。」

 こくこく、と頷く少女。

「大きくなれば口に入れられる対象が多くなる。こいつなんかは特に見境が無いから、普通は食べられないような生き物も餌にしてしまうと。」

 うんうん、と同意する少女。

「…で。でかくなり過ぎて食い扶持が無くなるから、他のガマグチとは違う場所で餌を獲るようになって、その場所に順応した形に成長してこの生まれ故郷に帰って来た、…と…。」

 成程…、と納得する少女。

 一々興味深そうに話を聞く少女の姿が可愛らしくて、暁は頬が緩むのを禁じ得なかった。

「…?な、なんですか?また笑ってます?」

「いや、別に悪い意味では無いんだが…村の子供に勉強教えてるみたいだと思って。」

「こ、こども…!?」

 面と向かってそんな感想を発すると、少女はむっとして眉を顰めた。

「あ、いや…。」

 まずい、機嫌を損ねたらしい。

 暁は、やっぱり言うべきでは無かったなと思いながらも、密かに、こういう所も子供らしいんだよなあと同時に考えてしまう。

「…貴方さまに言われるとは、まさか、思いませんでした。」  

「え?俺に…っていうのは、どういう?」

「覚えが無い、なんて言わせないです。」

 少女は少し呆れたように、じとっとした横目で暁を見ながらため息をついてそう言う。

「病人だというのに無理して動こうとしますし。」

「うっ。」

「自分の意見は押し通そうとしますし。」

「ぐっ。」

 少女は徐々に顔を近づけながら、暁を言葉で攻め立てていく。

「『釣り』という遊びにはむきになりますし。」

「…。あれ。」

 今の言葉には何か引っかかった暁。

「何ですか。」

「でも、釣りは初め、君からもやりたがってただろ。」

「…ぅ、そ、それは。」

 思わぬ反撃に怯んで、散々伸ばしてきた首を引っ込ませるように仰け反る少女。顔をほんのり赤くし、視線を下に逸らしてしまった。

 しばし互いに互いから与えられた痛手に閉口する二人。

 と、元々は攻めるつもりが無かった暁がその場を取り繕おうとするように、口を開いて。

「…え、ええと、そうだな。まあ自覚が無いわけじゃ無かったな、確かに。はは…。」

「…。」

「あ、謝る。結局無理を言って、色々迷惑をかけてしまってるよな。すまない。」

「…、…。」

 ちらり、とだけ少女が暁の方を傍目で見つめる。暁は、少し言いにくそうに空を仰ぎながらも、続けた。

「その…性分なんだよ。自分に何か出来る事があったら、迷う前にやってしまいたくなるっていう、そういう奴なんだ。」

「…ぁ、の…。」

「だからせめて邪魔になってる間の穴埋めとして、君の手伝い位はしないとと思ったんだ。朝も言ったが、なるべくは余計な事はしないようにするから…」

「…あのっ。」

 遮られて暁が少女の方を振り返ると、彼女はその赤みが残った顔を上げてきゅっと力を籠めて、はっきり、ゆっくりと話し出した。

「…迷惑では、ありません。そんな事、私、言ってないです。」

「え…。」

「仕事を手伝ってくれるのは、有難いです、…嬉しい、です。…ただ、それでまた体調を崩されると、困るなと思っただけですから…。」

 恥じらっているのか、言いながら、徐々に視線を逸らしていく少女。

 でも、そんな様子が、暁には嘘偽りなく言ってくれた言葉だと感じられた。わずかだけど、信頼の感情が感じられた。

 顔が自然とほころぶ。少女とすこし分かり合えたような気がして、暁は嬉しくなった。

「…心配してくれて、ありがとうな。」

「!」

 ぴくっと暁の言葉に反応し、背を伸ばして足を止め真っ直ぐ向き合う少女。暁もそれに倣って立ち止まる。

「は、はいっ。」

「大丈夫だ、ちょっとやそっとじゃ怪我しない位には頑丈だからさ、宿代払わすつもりで使ってくれていいからな。」

「はっ、…い、いえ、それはちょっと言い過ぎです。一応病人だという自覚は持って下さい。」

「ははは、そっか。ごめんごめん。」

「まったくもう…。…早く帰って、食事の用意をしましょうか。これくらいは貴方さまにも手伝ってもらえますよね?」

 暁に合わせて薄く微笑み、大きく一息をついてそう言うと、また歩き出した少女。暁は返事をしてから追おうとして、ふと何か思い出したように少女の背中に向かって聞き返した。

「そうだ、あのさ。」

「?」

「名前、訊かせてくれないか?君の名前。…いいよな?」

「あ…。」

 そう言われて少女も、"未だ"に名乗っていない事に気が付いたようだった。少女は再び暁の方に向き合い、目を見詰めて。

「…月夜、と申します。」

 その、柔らかくも耳に響く声で、自分の名前を口にした。

「月夜…。きれいな名前だな。良い名前だ。」

「…えっ…?」

 暁は純粋な気持ちで、感じた気持ちをそのまま、月夜に伝える。だが月夜はその言葉にワタワタと視線を泳がせ、生まれて初めて言われたかのような反応をし始めてしまった。

「…~~…っあっ…!」

「『あ』?」

「ああ、貴方さまのっ、お名前!私も未だ訊いていませんっ!!」

「…そうだったか?」

「そ、そうですっ。」

 誤魔化す様に聞いた少女に言われて、本気で自覚無しだった暁は笑いながら「ごめんごめん」とまた謝ってから咳払いし改めて、自己紹介する。

「暁、だ。体が治るまでの間、よろしくな、月夜。」

 名前を聞き、月夜は朱くなった顔に落ち着きを取り戻すため、ほぅ、と息付いてから。その名をゆっくりと、自らの中で反芻させるように呼んだ。

「…はい。よろしくお願い致します、…あかつき…暁、さま。」

 



 ―――こうして。

 暁と、どこか不思議な少女との、体が快復するまでという短い間の生活が始まった。

 

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