頁:65 その【賢者】絶体絶命につき。
ニヴェイシア邸から離れた場所にある、海が望める展望台。
月光に照らされた石畳を、目的も無く彷徨い歩くセラ。
本来、海が一望できるその場所は絶景なのだが、現在のセラには響かない。
肩で呼吸し、来た道を振り返るが、既に屋敷の影は遠く、未だ落ち着かずにいた。
潮の香りを感じる夜風が頬を撫でるが、全くと言っていい程、落ち着かない。
彼の体温が、未だに肌に残っている感覚。あの温度の感じない“優しさ”――
腹部に回された腕の力は、確かに命を握られているような悪寒を感じた。
耳に、脳に残響する、彼が自身を呼ぶ『セラフィーナぁ?』という問いかけ。
全身に、彼に対する恐怖が確かに刻み込まれ、改めて“人間とは異なる”と。
再認識させられたようで、今までの軽薄な態度は、演技だったのか?と――
信頼しかけていた心が離れかけるが――それでも、最後に見せた表情。
彼の孤独に沈んだ、諦念を帯びた闇が忘れられず、精神を揺さぶられる。
忘れようとすればする程に、輪郭がより濃くなり、深みに沈んでいく。
思わず両手で耳を塞ぎ、目を瞑り、現実逃避をするように、情報を遮断した。
それでもどうすれば良いのかセラに分かるはずもなく、ただ小さく震える。
身体を丸め恐怖を抑え込むが――彼女のその背後には、いつのまにか人影――
一体、いつから居たのか、どこから湧いて出たのか。
「お、お嬢さん……? こ、こんな夜更けにどうしちゃったのかなぁ……?
おじちゃんが、今、安全な場所に連れてってあげるからねぇ……?」
がしりと肩を捕まれ思わず振り返ると、そこには小汚い男の姿。
乱れた衣類に、酒に濁ったような瞳……全身から漂う嫌な匂いに、下卑た笑み。
生臭い吐息が至近距離で触れ、咄嗟に腕を振り、拒絶するセラ。
「まっ、迷子ではありませんっ! どうか、放っておいて……やめっ!」
「こんな夜中じゃあ、誰もこねぇよなぁ? これあ……ご褒美だあ……!
日々クソみたいな生活してる俺に対しての……ヘヘッ!!」
必死に腕を払おうとするが、セラの腕では到底敵うはずもない。
男は力任せにセラの腕を引き、どんどん暗がりへと連れて行かれていった。
それでも必死に抵抗し、がむしゃらに腕を叩くが、無駄。
(なんで、なんでよりによって……こんな時に……もうやだ……)
ずるずると身体を引かれ、最後の抵抗にと、声をあげるセラ。
「いやっ!! 誰か……誰か助けてッ……!!!」
声を上げたと同時に、引かれていた身体が制止し、何事かと瞳を薄く開ける。
「このような場所で……暗がりで何をなされようと?
婦女暴行は、この国では立派な不法行為デスが。」
温度は無いが、どこか胡散臭い声音――男の視線の先には、アメトリクス。
先程見せた半魔の姿ではなく、阻害を纏った人間としての姿の彼。
いつもの胡散臭い微笑で、男の腕を掴み、瞳の奥底に宿る色は――軽蔑。
「今、あなたが手を触れているお方は【聖女】サマですヨ?
そんな方に手を出されたとなれば、間違いなく極刑は免れないかと。」
「今ならボクも治安官に報告すること無く、見逃しますヨ?
――幸いにも、手を触れただけのようですので……」
「さて、如何……なさいマスか?」
浮浪者風の男はゾッとしたような顔を浮かべ、謝罪を口にしながら逃亡。
脚を縺れさせながらも、どこかへと姿を消し、周囲には静寂が戻った。
「あの姿で、あんな事をしたらそりゃ怖いよね。 悪いことをしたね。」
胡散臭さという仮面を外した彼は、こうも冷淡なのかと。
そう思える程、凪いだ声音で語りかける半魔の彼。
能面のような顔。ぎこちなく口の端を釣り上げ、なんとか表情を作る彼。
その表情は、どこか幼く感じるもので、セラは益々分からなくなった。
「ぼくの屋敷が嫌なら、今日は別の宿に泊まると良い。
ぼくの名前を使ってもらっても構わない。 勇者には伝えておく。
きみの好きなようにするといい。 選ぶのは、きみだからね。」
アメトは「おっと……」と目を細め微笑み、セラの言葉を待つ。
だが、彼の言葉はセラの耳には届いては居らず、彼はその事を知らない。
もう少しで危ない目に遇いそうだった事、屋敷内での恐怖――
感情がぐちゃぐちゃに織り混ざり、胸に渦巻いていた混乱や不安。
耐える事などできるはずもなく、涙となって一気に溢れ出していった。
彼の服を掴み、胸に顔を埋めるが、激流となった感情は止まらない。
「もう、いや。 いやだよっ……! なんで、わたし、なにもしてないっ!
なにもしてないじゃないっ! どうしていっつもいっつも……!!
間が、わるいの……? ねぇ……わたし、わるいこと、した……?
かみさま……どうして、どうして……ふっ……ぐ、ううっ……!」
彼に吐露したところで、どうしようにもない事は、分かりきっていた。
それでも、何かに縋りつかねばならない程、セラはもう限界だったのだ。
宵闇の静謐の空気に、セラの嗚咽がこだまする。
「はぁ……そうだネ、うん。 キミは何もしていない。 何も悪くない。
ボクは、さっきキミに恐怖を与えたんだヨ? そんなボクに……
どうして縋れるの? キミの情緒が理解できないヨ……。」
今のセラに、刺激になる事はしない方が良いと判断したアメト。
正面からセラの身体を慎重に抱き寄せ、落ち着かせるように背中を撫でる。
「落ち着くまで、こうしてたら良い。 これで落ち着くなら……ネ。」
彼の指先は、セラの黒灰の髪を淡い手つきで撫でる。
少女を落ち着かせる為、彼なりに気を遣い、尽くしていた。
月明かりの下――泣きじゃくる少女を抱きしめる半魔。
彼は、自身に縋る眼の前の少女の事が、心底理解できないでいた。
◇ ◇ ◇
ニヴェイシア邸の早朝――
外界からの喧騒から隔絶された、静謐を体現した白亜の屋敷。
分厚い深緑のカーテンの隙間から、優しい黎明の光が部屋を包み込む。
まだ早朝とも言えない刻限。目を覚ました賢者は、周囲に目を向ける。
ぼやける視界に、自身が眼鏡を外していることに気が付き、瞳を細め散策。
幸いにもすぐ側に眼鏡は置かれてあり、しっかりと眼鏡を清掃し、掛ける。
(成る程。 ワタクシ……転送直後に気絶し、此処へ運ばれたのですな?)
「……さぁてッ!」と、意を決して寝台から身を起こし、部屋を抜け出す。
以前、モノクルで見た景色を頼りに、廊下を進むのだが――
彼は、この屋敷の広さを知らなかった。
長い廊下に、あまりに整然と配置された扉たち。そう……迷子になった。
「ウッソでしょ……?いえ、扉は五つほど越えました……まだッ……!
しかしこれ以上動くことはッ…… 来た道を戻りましょうッ……!」
踵を返し、来た道を戻ろうとするのだが――あまりにも似たような景色。
故に、賢者の脳内マッピングは意味を成さず、大混乱真っ只中。
(はて!? え……? たしかにこちらの廊下を……?)
(あちらの調度品を頼りにこちらに向かったはず……どうなって……?)
彼の記憶力は【加護】により常人よりは確かに優れてはいる。
しかし、このニヴェイシアの屋敷の内装は、あまりにも整えられていた。
また、目印となる調度品も同一の物で揃えられており、その事が混乱を加速。
賢者は悟りに至ってしまった――そう、彼は屋敷内で完全なる迷子となった。
「うっそでしょぉッ!? 嘘ですよねッ!? 屋敷内で迷子ですとッ……
ワタクシのそんげーーーんッ! ワタクシの自己の同一性ッッ!!」
なんとか脚を動かし歩くが、見知らぬ風景が広がり、首筋には汗が伝う。
賢者の体力は、最初から雀の涙程しか持ち合わせていない。
歩けば歩くほどに、彼の脚は震え出し、体力の限界を示すように膝が折れる。
ついに彼は、限界を迎えてしまい、その場にへたり込んでしまった。
「み、皆さまが仰っていた広間とやらは何処ッ!? くう……!!
ゆ、勇者殿ッ!! 騎士殿ッ!! 聖女殿ーーッ!! ルル嬢ーーーッ!!」
壁に手をつき、膝を折りながらも足を動かし、必死に一歩一歩進んでいく。
しかし賢者の歩行速度は、よもや這いつくばる虫ですら勝てそうな程、遅い。
やがて、前方から足音が反響し、賢者は縋る思いでそちらに歩みを寄せた。
すると、一人の好青年が姿を現した。短く刈り込んだ髪に、しなやかな体躯。
やや、粗野な雰囲気を纏っているが、仕立ての良い庭師の衣装に身を包んだ姿。
笑顔は柔らかく、青年は賢者に気がつくとそっと駆け寄った。
「おはようございます! 旦那様のお客様でございますか?
はじめまして!俺は庭師兼、警備係を任されておりますシリルです!
お顔色が悪いように思うのですが……お客様、体調が悪いのですか?」
そっと手を差し伸べ、賢者を立ち上がらせると、シリルは再び問いを投げた。
「歩けますか? ちゃんと、立てますか……? 大丈夫ですか?」
賢者は立ち上がったは良かったが、足が震えだし、耐えかね泣き言を洩らす。
「すッ……すびばぜんッ……! どうにかワタクシを広間にッ……
案内……いえ、無理ですな。 運んでは頂けませぬかッ……!」
情けない声で懇願する賢者の姿。
彼の言う“尊厳”とやらは、どうやら現在は家出中のようだった。
庭師の彼は気にする様子もなく、軽々と賢者を横抱きに抱え――
爽やかに微笑み、一言「了解ですっ!」と言うと、そのまま歩き出した。
「いやッ! ちょっとッ! あの、おんぶではなくなにゆえに横抱きにッ!?
勇者殿に続き、何故ワタクシを横抱きにするのでッ???
アッーーーーー!!」
羞恥に震える賢者をものともせず、シリルは悠々と渡り廊下を進んでいく。
やがて広間へと到着し、賢者をソファに下ろし、にこやかに告げた。
「少々お待ちくださいっ! 今、メイドに飲み物を持ってこさせますのでっ!」
彼は「ではっ!」と言い残すと、颯爽と扉の向こうへと、消え去っていった。
残された賢者はソファに身を沈ませ、己の無力さに苛立ちを隠せない。
両手で顔を覆い尽くし、その状態で小さく身を丸め、唸る。
自身の手の中で、悔恨の念たっぷりの声を洩らしていた。
「わ、ワタクシ、またもやご迷惑をッ……このような結果を招き――
誠に不甲斐ないッ……!これでしたら最初から、共に行動するなどとッ……!
なんたる無様な有様ッ……己の体力の無さは自身が一番理解していたッ……!
にも関わらずですぞッ! 愚鈍ッ!浅はかッ! スットコドッコイッ!!
ワタクシは遺憾ッ!! 誠に遺憾ですぞッ!!」
彼の胸中では、自身に対する怒りで一杯だった。だが、誰にもそれは届かない。
ただ、広間の静寂に吸い込まれ、彼の静かな怒りの声は、かき消されていった。
◇ ◇ ◇
――その後。
暫くして、広間にて待機している賢者の元へと、続々と集まってくる一同。
時刻はまだ早朝ではあったが、窓から射し込む光が、陽の昇りを示していた。
賢者はメイドが淹れたであろう珈琲を啜り、読書に耽っているところ。
ただし、読書方は、彼ならではの独自のスタイル。
〈技能〉で本を数冊浮遊させ、同時に読み進めると言った技法だ。
さながら学術都市の大図書館――禁書庫での日常を切り取ったかのような光景。
賢者の次に広間に登場したのはルル。
彼女は寝癖そのままの白髪で、欠伸混じりに扉を叩き入室。
「はよー。 ザーちゃん起きるん超はえーのー。 すげーぜ……
朝っぱらから何をそんな読んどるん? てか本持ってきとったんか。」
彼女は眠気眼で目尻に涙を浮かべ、当然のように賢者の隣に腰を下ろした。
賢者は若干狼狽えていたが、平静を装い、挨拶を交わした後、言葉を返す。
「お早う御座いますッ……こちらの書物は大図書館から持ち出した歴史書ッ……
でしてッ……ワタクシの身体の不調に関する事、まだ調べている段階ゆえッ!
ですので、こうしてまだ見ぬ本に目を向けているのですッ……。」
「ほーん……? ザーちゃんの身体……なんかわかるといいなー。
ふわぁ……あたし駄目そーー……なんか超ねみぃー……」
出会った当初の賢者であれば、卒倒待った無しのルルのスキンシップ。
しかし彼は耐性を獲得……否、慣れなければ身が持たないと理解してしまった。
故に、ルルがどれだけ身体を引っ付けようが、気にしない方向で決意。
次に広間ヘと姿を見せたのは、寝癖すら愛嬌の勇者と、軽鎧を纏っていない騎士。
彼らは軽く挨拶を投げ、各々でソファや椅子に腰掛け、ノアが口を開く。
「皆お疲れ様ぁ……昨日、遅くに寝ちゃったから僕はまだねむたいよぅー……
あれ……?セラは? まだ寝ているのかな?」
「バルタザールとルルが居て……セラは居ねぇのか。 また風邪か?」
「ワタクシ、白明刻の前からこちらに居りますが――そうですなッ!
聖女殿はお見かけしておりませぬッ! 見かけた人物は……女中が二人。
それと庭師が一人、執事のご老人が一人でしたッ!」
賢者の言葉に、心配になったノアが「見てくるね」と言い伝え――
彼はとぼとぼと広間から居なくなり、廊下を抜ける音だけが静かに響いた。
勇者と入れ替わりで広間に響く、扉を打ち鳴らす音。
次いで、老執事が恭しい一礼と共に姿を見せ、声を行き渡らせた。
「勇者御一行の皆さま。 朝餉のご用意が整っておりますが……
お召し上がりになられますかな?」
丁寧に頭を下げ、言葉を伝える老執事。椅子に腰掛けていた騎士だったが――
彼は「ドカッ」と立ち上がり、すかさず割って入るように声を上げた。
「ああ、勿論だッ! 頂きたいッ!」
実に迷いのない即答――頭で考えるより、先に出た言葉なのだろう。
恐らく彼の空腹の胃袋から出てきた、謂わば条件反射。
自然な流れで彼らは食卓へと足を運び、その道中でノアが皆に合流。
四人で朝餉の為、食卓へと向かっていく中、ノアがセラの様子を伝える。
「セラは疲れてたのかな? 今はぐっすり、すやすや眠ってるみたい。
僕がほっぺをツンツンしても起きなかったから、そっとしておこうねぇ」
「子爵ちゃんの家のオフトゥンが恋しいつっとったしなー
ノアちゃんの指輪もあるし、安眠しとんかもしれんね。
セラちゃん、あんま眠れんみたいじゃし、良かったんじゃねー?」
「にしてもよ、ノア……そっとしておこうって言っておいて――
頬を突くのはご法度なんじゃねぇか……?」
朗らかな声で告げるノア。その言葉に対し、軽い調子で返すルル。
パルテオンだけは、勇者の所業にツッコミを入れるが――
誰も、聖女が昨晩大変な目に遭ったことなど、知ることなど無く……。
一同は朝餉の時間を、穏やかに、和やかな雰囲気で過ごすのだった。
【設定メモ:煌陽国の時間を示す言葉】
本文に出てきた単語白明刻ですが
煌陽国セレスタリアでの06:00~09:00頃を指す言葉です。




