肉食小夜子の旅の終わり 3
1㎞以上に渡る美しい砂浜を有するコルネリアの海岸は、普段は海水浴客で賑わっている。しかし今日は砂浜を大勢の人々が埋め尽くしており、異様な雰囲気で皆一様に空を見上げている。
しばらくすると騒めく人混みの中から声が上がった。
何もなかった上空に突如、黒髪を靡かせた上から下まで黒づくめの小柄な人影が現れたのだった。その人影は上空に浮かんだまま、海岸に集まった信徒達を見下ろしている。
その人影が突如眩しく光を放った。
「うわーっ!!」
「目がぁっ!」
物凄く眩しく光っただけなのだが、まともに上空を見上げていた人々は衝撃を食らって大騒ぎになった。人々の眩んだ眼が元通りになり始めた頃、また人々は上空を見上げながら口々に声を上げる。
「使徒様だ!」
「本当だ!黒髪に黒い服だ!」
上空に浮かんだ小柄な人影は背後に光を背負い、人々を静かに見つめていた。その姿は確かに神の啓示に姿を現した使徒に酷似していた。
「使徒様!」
「使徒様―っ!」
最初人々はやっと現れた使徒らしき人影に大興奮していたが、いくら呼びかけても使徒からの反応は無く、だんだんと人がごった返した海岸は静まり返っていった。
それからしばらくして、やっと使徒が人々に語り掛け始めた。
『それであんた達、私に何の用なの?』
その使徒の声は良く通り、海岸と真逆に位置するコルネリア大聖堂へまでも届いた。
しかし予想外の蓮っ葉な口調の女性の声に、信徒達は全員が黙り込んだ。
全世界で目撃された大空に映し出された神の啓示では、可憐な黒髪の少女が登場し、悪しき魔物との戦いを勇ましく繰り広げた。
多分空中に浮かんでいるのはあの時の少女であると思うのだが、完全に逆光となってしまい神々しくはあるが人影の人相などは全く確かめられない状況だ。
しばらく無言の膠着状態が続いたが、勇気を出した信徒が1人声を上げた。
「使徒様!私の病をどうか治してください!どうか私をお救い下さい!」
1人の男が上空の使徒に向かって叫んだ。
『・・・なんの病気なの?』
「あ、ありがとうございます!」
使徒が自分の願いに言葉を返してくれた事に男は感動して打ち震えた。
「わたしの病は胸の病です。少し歩けば鼓動がはげしくなり、息も苦しく、身動きも取れなくなります」
『・・・・・』
「医者からは食事の制限もされ、満足に物も食べられません。このままだと命はあと5年もつかと言われております。使徒様、どうか私をお救い下さい!」
『うるせえ!痩せろ!!』
突然の使徒からの一喝に男は驚き、心臓を押さえながらその場に膝を突いた。
『それだけ太ってたら少し動けば動機息切れするわ!!運動しろ!食事は野菜とゆで卵だけにしろ!以上!』
使徒の怒りを買ってしまった男は、肥満体をプルプル震わせながら砂浜に蹲っている。周囲の信徒達は使徒の怒りの巻き添えにならないようにと男から距離を取った。
『今の男みたいなふざけた事を言ったら、もう二度と信徒の前には姿を現さん。分かったか!』
肥満体の男の所為で、使徒との会話へのハードルはグンと上がってしまった。
しかし意を決して海を渡ってコルネリアまでやって来た信徒達は、信徒を前に直接願いを伝える千載一遇のチャンスを前に、何もせずして帰れないと再び勇気を奮い立たせた。
「し、使徒様!私の病をどうか、治してください!今、私は死ぬわけには、いかない!子供もまだ小さいのです。社員の生活も守らないといけない!」
『・・・・じゃあ、1000万ゴールド。教会に払って。それで治してやる』
しばらくしてからの使徒からの回答であった。
「ふ、ふざけるな!使徒のくせに金を取るのかよ!!」
「なんて金に汚いんだ!」
「お前なんか使徒じゃない!」
望みに対して金を請求してくる使徒に、望みを伝えた男ではなく周囲の信徒達から文句の声が口々に上がる。
『お前らこそふざけてんのか!!!!』
しかしそれを上回る使徒の怒号が海岸どころかコルネリア大公国全体に響き渡った。
使徒の怒声にビリビリと大気が震えた。信徒達の中には腰を抜かしてへたり込む者もいる。
『タダで私に望みを叶えてもらえると思ってんのかぁ!!なんて面の皮の厚い奴らなんだっつの。恥ずかしくないのか、自分のさもしさが!浅ましさが!他力本願に神頼みして、自分の願いを努力もしないで叶えてもらうつもりでいたのかよ。願いがあるなら対価を払え!お前達が出せる最大の金額だよ。手ぶらで来た奴は全員とっとと帰りやがれ!!』
「お、お前なんか使徒じゃない!この悪魔!!」
『んだとこらあ!!女ぁ!!お前の顔はバッチリ覚えたからなあ!!地獄の果てまで追いかけ回してやるからなああーーーーー!!!』
使徒の周りに突如バチバチと火花が散り、使徒から放たれた雷が光の柱となって次々と海へ落ち始めた。これまで快晴だった空に突如暗雲が立ち込め、暗い海に雷が次々と落ちる様は、まるで聖典に書かれてある地獄そのものだった。
「きゃあああああ!」
「うわああああ!」
それからは阿鼻叫喚。
大気を揺るがす使徒の怨嗟を浴びた信徒達は恐慌を来たし、散り散りに逃げ出した。
それを高みから見下ろす使徒は、信徒達を追いかけるのかと思いきや、さっきまでの荒振り様は嘘のように静かに空中にフワフワと静かに浮いていた。
当初海岸には1000人を超える信徒達が集まっていたのだが、騒ぎの後に海岸に残った使徒は20人にも満たなかった。
使徒に今持てる最大の対価を支払う覚悟をした信徒達である。
病を治してほしいと願った、子持ちの社長もその場に留まっていた。
『うん。イーサン、もういいわ。下に降りる』
使徒は何者かと話をすると、するすると信徒達がまばらに残る海岸に向けて降りてきたのだった。
光魔法で背負っていた光を消して、小夜子は海岸へと降り立った。小夜子の背後で、風魔法で小夜子の声を拡散していたイーサンも一緒に降り立つ。
海岸には覚悟を決めたのか、単に逃げそびれたのか、十数人の信徒達が残っていた。
小夜子はイーサンと共に信徒たちの前に立った。
「サヨコ、これからどうするの?」
「対価を払う覚悟があるなら、話だけでも聞いてみようかと思って」
小夜子の顔をはっきりと見て、信徒達の緊張は否が応でも高まった。その顔は確かに神の啓示の中で魔物と雄々しく戦う使徒の顔だった。
「お待たせ。私が使徒よ。さあ、あんた達。対価を払う準備は出来てるんでしょうね」
「は、払う!今日中に1000万ゴールドを教会に払う!」
小夜子が浜辺に残った信徒達に声を掛けると、子持ちの社長が声を上げた。
小夜子が鑑定で社長の健康状態を確認すると、その男には脳に腫瘍がある事が分かった。腫瘍の副作用として激しい頭痛も時折起こるらしい。小夜子はあっさりと男に治癒魔法をかけた。
「はい、おしまい。寄進の受付はコルネリア大聖堂よ」
「あ・・・、ありがとうございます・・・」
使徒は治したというが、男の病は見た目では完治したのかどうか分からない。当の本人すら治ったかどうか分からないのだ。病が治ったと喜び泣くわけでもなく、戸惑いながら小夜子に礼を言う男を見て、周囲には何とも言えない空気が漂い始める。
「さあ、信じる者は救われるって言うわよ。私を信じるか信じないかは自分次第。願いがある者は私に対価を払いなさい。今日は特別、対価は後払いでいいわ。やっぱり止めるのもあり。咎めたりしないから、気が進まないなら今すぐ黙ってここから立ち去りなさい」
すると治療を受けた男を含め、10人以上の信徒達が使徒に願いを伝える事無く海岸を後にした。
そして海岸には5人の信徒達が残った。
「結構残ったわね」
「よっぽど困り事があるのかな」
5人の信徒はしばらくお互いの様子を見ながら、小夜子達の前で逡巡していたようだったが、やがて意を決して一組の親子が前に進み出た。
「使徒様、どうか娘の目を治してください。私の持てる財産の全てを差し上げます」
母親がまだ成人前だろう少女と一緒に小夜子達の前に跪いた。少女は右目を布で覆い隠している。
小夜子の鑑定によると右目は怪我が元で完全に失明しており、左目もだいぶ視力が低下している。
小夜子はサクッと治癒魔法をかける。
「み、見えるわ!!」
「はい、次の人」
両目の視力が戻り歓喜する少女と母親を放置し、小夜子は淡々と信徒からの願い事を聞いていく。
病や怪我の理由も聞かず、それからは流れ作業で小夜子は残り3人の信徒への治療を施していった。顔面に酷いやけどを負った男、怪我で左手が動かなくなった女、事故で前歯を全部失った男、といった感じでこの世界の医療では回復の手立てがない者達の治療だったので、全て小夜子の治癒魔法で事足りた。事業を成功させて欲しいだの、結婚相手が欲しいだのであれば小夜子の手には余る所だった。
最後まで海岸に残り使徒の治療を受けた信徒達は、見た目にも完治したと分かりやすい者達だったので、使徒の奇跡の御業を受ける事が出来た幸運に5人の男女達は興奮状態になっている。
「じゃ、支払いはコルネリア大聖堂までねー」
小夜子とイーサンは信徒達をそのまま海岸に残し、現れた時と同じく突然に姿を消した。
「ただいまー」
「使徒様、聖配様。お疲れ様でございました」
以前面談の場を設けた豪奢な応接室に小夜子達が転移で戻ると、大司教以下、大公家一同が小夜子達の帰りを待っていて跪き首を垂れた。
ちなみにイーサンは使徒の配偶者という事で、大司教に聖配様などと言われるようになってしまい非常に居心地が悪い思いをしている。これまで通りにとイーサンがお願いしても、大司教も頑として譲らない。小夜子は大公家に跪くなと言ってもこの調子なので、もう好きにさせる事にした。
小夜子達だけ椅子に座り大公家が跪く前で、海岸での顛末を小夜子は説明し始めた。
「私の声はここまで届いてたでしょ?思いっきり使徒のイメージを壊して、信徒達には嫌われてやったわよ。これで使徒目当てに大聖堂に信徒達が押し寄せる事はもう無いでしょ」
「サヨコはとても生き生きとしてたよ」
笑顔で報告する小夜子達の前で、大公家一同は一緒に笑う訳にもいかず微かな微笑みを浮かべるにとどめた。ちなみに海岸に突如暗雲が立ち込めたのは小夜子達の仕業ではないので、神々の誰かが頼みもしないのに悪ノリした結果の様だった。
「すべては使徒様の御心のままに。教会は使徒様に何ら枷を負わすものではございません。自由の魂の赴くまま、使徒様はどうか安らかにお過ごしください。此度は教会のためにご尽力くださり、誠にありがとうございました」
再び大司教以下、大公家は小夜子とイーサンに深々と頭を下げた。
「あ、ひょっとしたら、私の治療を受けた信徒がお布施を納めに来るかも。でも誰も来ないかも」
「はて?」
小夜子の声が大聖堂まで聞こえたのは、空中でイーサンが声を拡散させていた時まで。
なので、海岸に降り立った後の小夜子と信徒達のやり取りも一応大司教たちに説明しておく。そして誰も来ない可能性もあると伝えると、ローランドが憤慨していた。
「使徒様のご慈悲を受けながら、感謝を示しもしないなどと!」
「まあまあ。私は対価を要求したけど、後払いとなると支払いを惜しんで躊躇う奴もいるでしょ。常に煩悩に塗れているのが人間ってものよ」
「なんと」
「さすが使徒様。達観なされておいでですわ」
大公家は勝手に小夜子を上に持ち上げてくれるので、今の小夜子の言い分にも何やら勝手に感じ入っているが、小夜子は前世でも現世でもクズをたくさん見て来たからクズの思考回路が想像できるというだけの話だ。
「それに、信徒達の行いを聖ハイデンは全部見てるしね」
この発言には大司教以下、大公家一同の背筋が伸びた。
「私は逆に払ってくれない方がいいな。罪を犯した意識があるなら、使徒との約束を違えた信徒は教会に寄り付けなくなるでしょ。そうなれば使徒から治癒を受けた事も口外できなくなる。使徒が奇跡を起こす評判なんて大きくならない方がいいもの。でもただの治癒魔法よ?教会の聖女にだってできるでしょ?」
これには大司教が首を振る。
「使徒様、我が教会の聖女が出来る事はせいぜい痛みを和らげ表面の傷を塞ぐ程度。使徒様のように損なわれた体の機能を回復させ、欠損した部位を修復、復元するなどはまさしく神の御業でございます。人の身の聖女には無理なのです」
「そうなんだ」
聖女は自分と同等の治癒を行えるのかと思っていた小夜子は、認識を改める事にした。どうりで救護室で聖女達が小夜子を必死で引き留める訳である。まあ聖女の能力と自分の能力の差を認識したからと言って、今後も小夜子は自分の能力の使用を自重するつもりはない。
後日談だが、使徒からの初回サービスを受けた信徒達の内、教会へ寄進に訪れた者は娘の目を治してもらった母子だけだった。この母子は大公国の国民で、非常に信心深かった。母子は生活費を削って寄進額を捻出し、躊躇いなく使徒から言われた対価を差し出した。
「あらまあ。それじゃ、信じる者は救われないとね」
大司教からこの母子の話を聞いた小夜子は、大司教経由でこの母子に黄角の欠片を渡した。大司教に呼び出された事にびくびくしながら大聖堂にやって来た母子は、初めて足を踏み入れる祭祀にのみ使われる豪華絢爛な礼拝堂に圧倒され、大司教に直に声掛けをされ緊張に固まり、最後に使徒からだと伝説の万能薬を手渡されて母親が卒倒した。
結局母子は、その黄角の欠片を扱いに困ると大司教に買い取ってもらった。そして、その金を元手に小さな店舗兼自宅を建て、住宅街で食堂を始めたという。観光産業に朝から晩まで従事し、食事は外食が中心のコルネリア国民にとっては、住宅街の庶民向け食堂は大変需要がある。母子が始めた食堂は非常に繁盛しているとの事だった。
使徒を目当てに海岸に集まった信徒の大半が国外から聖地巡礼にやって来た信徒達で、大公国の国民の殆どはその日の仕事に励みながら荒ぶる使徒の声を聴いていた。恐ろしい使徒だと声を聞いて震えあがっていたコルネリア国民だったが、母子からその後の顛末が他の国民へと漏れ伝わり、大公国での使徒の人気はじわじわと高まっていった。
しかしコルネリア国民は、使徒について他国から来る信徒達に口外しなかった。申し合わせた訳でもなく不思議な事だったが、大公国民だけが知る使徒の話を、誰しもが何となく内緒にしておきたかったのかもしれない。
やがて自然と神の啓示騒ぎは落ち着いていき、海を渡ってくる信徒達はこれまで通り聖ハイデンの聖地を巡礼し、聖ハイデンに祈りを捧げる以前の風景が戻った。
コルネリア国民は聖ハイデンとその他の聖人たち、そして聖ハイデンの使徒へと日々の感謝を捧げるようになった。
コルネリアでの後始末も終わり、小夜子とイーサンはコルネリアを後にする事となった。
「温泉観光が途中だったわ。色んな種類の公衆浴場にも行けなかったし、時間が出来たらまた遊びに来るわね」
「是非いつでもお越しください。滞在されたホテルは使徒様方がいつでも使えるように致します」
「そう?それなら今度はアレクとアリーも連れてこようかしら」
「サヨコ様!」
和やかに別れの挨拶をしていると、大公家の並びからミシェルが飛び出してきた。
「ミシェル。温泉とプールが中途半端になってしまったわね。今度またゆっくり遊びましょうね」
笑顔の小夜子に対して、何やらミシェルは思いつめた様子で小夜子を見上げてくる。
どうしたのかとミシェルに目線を合わせて腰を低くした小夜子に、ミシェルは真剣な表情で言ったのだった。
「サヨコ様。10年経ったら僕は18歳、大人になります。そうしたら、僕と結婚してください!」
まあと、最初にミシェルの母、姉から華やいだ声が上がった。
それからミシェルのプロポーズの可愛らしさに大公家一同とその場に控えていた聖職者達からは笑い声が上がった。しかし大人達の笑い声にビクリとミシェルは肩を揺らし、ミシェルの瞳にはみるみると涙が盛り上がる。
「こら、大人達!人の真剣な告白を笑うんじゃない!」
小夜子がピシリと言えば、バツが悪そうに大人達は笑うのを止めた。
小夜子は泣きそうになっているミシェルに目線を合わせて微笑んだ。
「ミシェル。私と結婚したいと思うくらい、私を好きになってくれたの?」
ミシェルはとうとう堪え切れずにポロポロと宝石のように澄んだ涙を零し始める。泣きながらもミシェルは小夜子に懸命に頷いた。
「ありがとう。とっても嬉しいわ」
涙を零し続けるミシェルを抱きしめたいと思うが、ここは一人の紳士として扱わねばミシェルに失礼だろう。
「知ってると思うけど、私にはもう夫が2人もいるのよ。ミシェルはそれでもいいの?」
「は、い。僕も、サヨコ様の夫に、なりたい」
しゃくり上げながらも、ミシェルは懸命に小夜子に訴える。笑うなと小夜子に叱られたので、居合わせた大人達は皆口を噤んでいるが、ミシェルの母と姉は身を捩らせてミシェルのいじましさに悶絶している。しかしその気持ちは小夜子も良く分かる。
(ミシェルかわいいぃ!)
小夜子が口パクでイーサンに訴えると、眉尻を下げたイーサンは片手で口元を押さえている。イーサンは小夜子には無言で頷いてみせた。
「ミシェル、そんなに想ってもらえて光栄だわ。でも、プロポーズの返事は保留にしておくわね」
「僕が、子供だから、ですか?」
「そうよ」
年の差ばかりはどうしようもない。
小夜子の返事にミシェルはショックを受け、とうとう嗚咽を漏らし始めてしまった。それが余りにも可哀想で、もう小夜子も我慢せずミシェルを抱き寄せた。
「泣かせてしまってごめんね。でも、ミシェルが小さな子供だから、プロポーズは受けられないわ。これから先の10年で、ミシェルは沢山遊んで、沢山勉強して、色々な人に出会って、国外に勉強に行ったりするかもしれない。今まだ知らない事を沢山経験するのよ。そうすると、きっとミシェルの考えも変わっていくわ。私よりももっと好きになる人も現れるかもね。でももしも、10年経ってもミシェルの気持ちが変わらなかったら、その時はもう一度私にプロポーズをしてね」
小夜子の話を聞いて少し気持ちが落ち着いたのか、嗚咽からまたしゃくり上げ程度になったミシェルから小夜子はそっと体を離す。
「ミシェル。私の夫は今隣に居るイーサン・バトラーと、帝国に居るアレクシス・ヨーク。2人共とってもカッコいいのよ。ミシェルが私の夫達と同じ位にカッコいい大人の男性になるのを楽しみにしているわね」
「・・・はい!」
涙に濡れた瞳に確かに決意も漲らせて、ミシェルは小夜子に力強く頷いた。
「ミシェル、立派だったぞ。それでこそハート家の男だ」
いつのまにかローランドがミシェルの後ろに立っていて、ミシェルの頭に暖かな手を置いた。ミシェルもそこで限界を迎えた。
「・・と、とうさま、父様あっ・・・!」
ミシェルは振り返るとローランドに思い切りしがみ付いた。ローランドもミシェルを抱き上げてギュウと抱きしめる。
「よしよし、その年で本気の告白をするなんて、すごい勇気じゃないか。お前の兄達よりも男らしいぞ」
「うっ、うう・・、うわああー!」
父親に抱き上げられてとうとう子供らしい鳴き声を上げ始めたミシェルを、目を細めて小夜子は見送った。ミシェルは家族達に囲まれて代わる代わる慰められている。
「はあ、なんて純粋なの。胸が一杯になったわ。汚れた信徒達に関わってささくれ立った心が浄化されたような気分よ」
「はっはっは。私の孫が使徒様と縁付く事となったら、これほど喜ばしい事はありません。私もあと20年は生き長らえなければ。楽しみな事です」
「ははは、大司教猊下。ミシェル様は可能性の塊ですから。10年の内に他の良いご縁に恵まれるかもしれないし、結婚よりもやりたい事が見つかるかもしれませんよ。サヨコの夫も2人で十分ですし」
「はっはっは。聖配様の言う通りにございますな。なあに、子供の言う事です。可愛らしい初恋でございますよ。誰しもが一度は年上の女性に憧れるものですからなあ」
「ミシェルはこの10年で目の覚めるような絶世の美青年になると思うわよ。きっと大公国を越えて世界中に名前が轟く位の良い男になるわ」
「おお、使徒様にそこまで言っていただけるとは。我が孫はきっと使徒様の3番目の夫に相応しい男になりましょう。使徒様と良きご縁がありますよう、この10年に期待するとしましょう」
イーサンは内心ぐぬぬと歯噛みしている。
このような事態を阻止するためにアレクシスからもコルネリアへの同行を言い渡されたというのに、海千山千の大司教には牽制をのらりくらりと躱されてしまう。そのくせ小夜子対しては冗談に紛らせながらもぐいぐいと孫を推してくる。
当のミシェルに対して牽制するなど、あまりにも大人げなさすぎる。小夜子に幻滅でもされたら、そちらのダメージの方が大きい。
「しかし不思議よねえ。ミシェルは一体、私のどこを見て好きになってくれたわけ?」
小夜子としてはミシェルの気持ちを嬉しく思いながらも不思議でならない。コルネリアでは力技で津波を防ぎ、その後全世界に向けてティティエへの一方的な暴行を神の啓示として配信し、海岸では信徒達を口汚く恫喝し、海岸に集まっていた信徒達を心胆寒からしめ逃げ惑わせた。
客観的に考えても好きになる要素が無いと思うのだが。
「サヨコ、何を言っているの。小夜子はコルネリアを救って、世界をも救った英雄じゃないか。憧れる要素しかないよ。それに何より可愛いし」
「もう!イーサンだってカッコいいわ!」
小夜子がイーサンに抱き着けば、イーサンも笑いながら小夜子を受け止める。
そんなじゃれ合う2人を周囲の聖職者達は微笑ましく見守る。
そして大司教は目の前のイーサンも大した男だと感心している。
とうとう神の使徒とまでなった小夜子をありのままに受入れ、変わらずに愛しい妻として慈しみ愛情を注いでいるのだ。普通の男では普通の範疇を大幅に逸脱する小夜子をとても受け止められないだろう。そして帝国のヨーク公も小夜子の隣に並び立てるほどの、イーサンと同等の器の男なのだろう。
しかし齢8歳にして、強く気高い使徒に物怖じせず恋をした孫のミシェルも、なかなかの器を持っているのではないかと孫馬鹿ながらも大司教は思う。
ミシェルには早期の婚約を狙い、上は10代前半から下はまだ赤子の域をでない女児達が目通りを申し入れてくる。フワフワとしたドレスに身を包んだ綿菓子のような可愛らしい女児を目にする機会も多くあった訳だが、ミシェルが選んだのは小夜子だった。我が孫ながら目の付け所がとても良い。
大司教は孫の初恋をこれからも応援しようと心に決めた。
「使徒様は強く気高く、美しい。我が孫が恋をするのも無理はないでしょう」
「あはは、ありがとう」
小夜子は大司教の世辞だと思い笑っているが、その隣のイーサンは一緒に笑いながらも目は笑っていない。大司教との対決であればイーサンよりもアレクシスの方が適任だっただろう。コルネリアを発つ最後の最後にこのような事になり、イーサンとしても力及ばず忸怩たる思いだ。
ミシェルの小夜子への想いは純粋な物だと思うが、結局大司教からの布石を阻止できずにイーサンは小夜子とオーレイに戻る事になった。
それからしばらくしてコルネリア大公国聖ハイデン教会本部より、聖ハイデンより下された神の啓示についての発表が全世界になされた。
神の啓示が伝えるは「新時代の到来」。
その具体的な解釈については各々の胸に収めよ、神は全てを受け止める、との教会本部からの発表に、各国はこれ以上の神の啓示への質問を封じられた。神の啓示への質問を重ねる事は、信徒として独自の解釈へと到達出来なかった事を、聖ハイデンの教義に対して何ら考えを持たない事を意味するからだ。
新時代の到来と言えば、そう言えるのかもしれない。この世界を創造した古の神、ティティエはこの世界から消滅し、神々の勢力図はいよいよ聖ハイデン一強となったのだから。
もっともらしい事を言い、あまつさえ信徒達を感動までさせる教会のやり口に、大したものだと小夜子とイーサンは感心したのだった。




