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日差しがジリジリ照りつける中、水着姿の同級生が、きゃっきゃっ叫びながら、冷たいシャワーを浴びている。私はそれを、日除けの下で、ベンチに座って眺めている。隣にいる体調不良の女子生徒が、みんなを羨ましそうに見つめている。彼女はいつもクラスの中心にいて、高圧的で嫌いだ。
私は今年、一度もプールに入っていない。体育教師の神木先生は、体調が悪いですと一言伝えれば、休ませてくれる。こういう時、女として生まれたことをラッキーだと思う。男の先生は深読みして、何も聞かずに放っておくからだ。
準備運動を終えて、次々とプールに入り込む。調子に乗った佐々木が、勢いよくジャンプして四方に水が飛び散る。取り巻きの松井と小林も飛び込むが、二人合わせても、佐々木の衝撃には負ける。それだけ、佐々木は太っていた。
「おい、飛び込むな!怪我をするぞ。ゆっくり、安全に!」
神木先生が大きな声で、注意する。佐々木達は、気にすることなく、泳いでいる。
素足を日除けで守られた場所から、太陽に照らされるタイルの上に捧げてみた。ずっと付けていたら火傷するほどの、熱さだ。すぐに涼しいベンチの上に足を乗せる。
「古屋さんは、プールに入りたくないの?」
一緒に休んでいる女子が話しかけてきた。
「別に。疲れるし」
腕の傷が出来る前から、プールは嫌いだった。人の口から出た水を、吸わなければいけないなんて、拷問以外の何でもない。ましてや小学校のプールには何が混じっているか、そう考えただけで身震いする。
「気持ちいいのに。人生損しているよ」
大して話した事もない人間に、自分の人生をとやかく言われる筋合いは無い。
「あっそ」
素っ気ない返しに、明らかにムッとしている。
「ねえ、古屋さん、自分はクラスの人とは違うって思っていない?」
刺々しい言い方で、敵意をむき出しにしている。
「そりゃ、みんな違うでしょ」
「そんな、屁理屈じゃなくて!自分は特別だと思っている。私達クラスメートのことを、見下している!」
目は滾っている。何が彼女をここまで燃えあがらせるのだろう。
「いや、特別じゃないし、見下してもいない」
この言葉は半分嘘で、半分本当だ。彼女の指摘はあながち間違っていない。私は自分のことを特別だなんて思った事はない(欠陥品だとは思う。だが、彼女の言う特別はそういう意味では無い)でも、たまにクラスメートの事を、頭の中で猿呼ばわりしている事実は、見下していることになるかもしれない。
プールに入っている人達は、楽しそうに泳いだり、友達とふざけあったりしている。それを上から見ているプールサイドでは、陰湿な戦いが続いている。
「いつも私達を冷ややかな目で見ている。くだらないって」
鼻をぷかぷかさせている。滑稽な姿に、ふっと笑ってしまった。
「何がおかしいのよ!」
顔を真っ赤にして怒っている。
「ごめんなさい。ただ、何故あなたがそこまで、私に突っかかるのかが分からなくて」
「嫌でも目に入るのよ!ねえ、学校が面白く無いならば、来なきゃいいじゃ無い。誰も困らないわよ」
さも名案が浮かんだ様に、手を叩いた。意地悪な笑みがいらいらさせる。
「私が困る」
学校なんてくその塊だ。但し、給食だけは別である。
「あなたが困る分には良いじゃない!ママが言っていたわ。あなたのお母さんは、水商売をしていて、この街を不健全にしているって。親子諸共害虫よ!」
次の瞬間、彼女は顔を仰け反らせていた。否、私が思い切り殴った。彼女は叫んだ。ベンチに後頭部をぶつけた彼女に追撃する。右手を振り翳して落とす。ごすっ、鈍い音が響いて血が飛び散る。彼女の鼻から赤黒い液体が流れ出ている。先程まで威勢が良かったのに、もう涙と血で顔をぐしゃぐしゃにしている。
「や…やめて」
必死で懇願する彼女に、もう一発食らわせようと思ったら、羽交い締めにされた。
「な、何をしているんだ!誰か、まず救護の先生、それから他の先生を呼んでくれ!」
和気藹々としたプールの授業は、阿鼻叫喚の場へと変わった。水着姿のクラスメートは、泣いていたり、叫んでいたり、まちまちだ。神木先生の腕の中で、私は暴れた。
相談室に連れて行かれた。相談室は他の教室と、醸し出す雰囲気がまるで違う。相談室と聞こえは良いが、ここに連れて来られる生徒は、いじめっ子や学校の機材に悪戯をした子が殆どだ。
「幸いなことに、小泉さんの怪我はそこまで酷くは無いそうだ」
児玉先生は普段とは打って変わって、厳しい表情をしている。
「そうですか」
あの子は小泉って名前か。名前を知らない人を殴るなんて、何だかおかしい。口元がにんまりする。
「面白いことなんて、何もありませんよ!」
児玉先生の怒る姿を初めて目の当たりにした。いつも穏やかな先生が怒ると、びくっとする。
「どうして、暴力をふるったんですか?小泉さんに酷いことを言われたんですか?」
いつもの優しい口調で、聞いてきた。
「えーっと…」
あれ?何であいつを殴ったんだっけ。悪口は言われた。でも、それが直接的な理由じゃ無い…はず。冴えない頭でじっくり考えてみると、一つの解が出た。
「むかついたからです。私は小泉さんのことを前々から、鬱陶しく思っていました」
先生は目を細めた。
「それは、どうして?」
「確かに、嫌なことは言われました。けれど、それ以上に、私は生理的に彼女が嫌いです」
児玉先生が頭を抱えた。
「小泉さんともこの件についてお話しします。だけど、古屋さんの行為は間違っているよ」
「どういう意味ですか?」
何を言っている、先生は。
「あのね、嫌いな相手だからといって、その人を攻撃して良い理由にはならないんだよ」
「どうしてですか?」
「どうして?古屋さんも殴られるのは嫌だよね?」
「はい、痛いのは嫌です」
「ならば、小泉さんを殴ったことは間違いだ。自分がされて嫌なことは、人にしてはいけないよ」
当たり前のことを言っているかの様に、先生は私の理解を求めるが、さっぱり理解出来ない。
殴られるのは嫌だという事実と、殴ってはいけないという文章が結びつかない。私の母は酔った男の人に暴力を振るわれて泣き叫ぶが、私を殴る。
黙っていると、先生は私が反省していると思ったのか、温かい目で見つめてきた。
「古屋さん。今日は疲れているだろうし、授業どころでは無いよね。お母さんが今学校に来ているから、一緒に帰りな」
体中がぞわぞわした。母が、来ている?
「な、何で!?」
「流石に、お母さんに連絡しない訳にはいかないよ。自宅に連絡して、迎えに来て頂いた。怒られるとは思うけれど、先生も事情を説明するから」
怒られるなんて生易しいものじゃない、厄介ごとを起こしたら、半殺しだ。
操り人形の様に、先生に連れられて、職員室へ向かった。職員室へ入るなり、先生と話している母の姿が目に入った。綺麗できちんとした服装をしている母は、私を見るなり駆け寄って来た。
「南!友達に暴力なんて駄目でしょ!」
目元を寄せて、私を叱責した。とても怖かった。叱責が怖かったのでは無い。母が先生達の手前、普通の親の様に、私を叱っている事実が不気味だった。
「確かに、南さんのしたことは良くないです。でも、原因は小泉さんの悪口らしく…」
宣言通り、児玉先生はフォローに回ってくれる。
「それは南の言い訳です!この子は、小泉さんに、取り返しのつかないことをしました。先生方もご迷惑をお掛けして、大変申し訳ありません」
母が深く頭を下げる。先生達は、顔を上げてくださいとあたふたしている。私は下手な劇を見せられている様だった。
「じゃあ、南さん、また明日」
児玉先生が校門まで見送りに来てくれた。母は最後まで、ご迷惑をお掛けしましたと平謝りしていた。
児玉先生との距離が離れるにつれて、私は震えて来た。隣を歩く母は無表情だ。
「あ、私、ごめんなさい。あの、お母さんのことを悪く言われて…それで」
「黙れ」
母は低い声で呟いた。心臓がキュッとなって、息が苦しくなった。
それ以降私と母の間に会話は無く、コンクリートを打ち付けるハイヒールの音がつかつかとだけ聞こえた。
がちゃん、家の鍵が閉まった。もう朝まで、逃げる場所は無い。
「ご、ごめんなさい」
扉が閉まるなり、すぐに謝った。パーン、左頬に衝撃が走る。頭がぐわんとして、頬が痺れる。硬い床に倒れ込む。
「靴を脱げ!」
コンマ一秒で、靴を脱いで、玄関に並べる。
「ごめんなさい」
パーン、今度は右頬だ。キーンと耳鳴りがして、壁にぶつかった。
「面倒ごと起こすなって、何回も言っているよね!」
職員室での、顔とは全く違う。怒りに満ちた目をしている。
「はい、ごめんなさい」
「じゃあ、なんで!な、ん、でって聞いているの!」
唾を吐き散らしながら、怒鳴る。
「ごめんなさい」
お腹に蹴りが入る。手をお腹に当てて、蹲る。胃液が喉にせりあがってきた。甘酸っぱい嫌な味だ。
屈みこんでいる私の髪の毛を母はぐいと掴む。
「ねえ、お母さんがいけないの?」
これは質問では無い。何故ならば、選択肢が一つしか無いからだ。
「いいえ、全部私のせいです」
顔を仰け反らせながら、言うべき言葉を発する。
「今日は許してあげる。次は許さないから、覚悟して」
冷淡な顔の母は、髪の毛を掴んでいる手を離した。髪の毛は何本か抜けて、空中を彷徨っている。
「仕事行く。外出したら殺す」
母はそう言って、家を出て行った。
長袖を捲り上げる。ここ数日の切り傷は無い。カッターの刃をちりちり出す。今日は縦にいってみようかな。プスリ、最初は痛いけれど、その先には開放感が待っている。白い肌から赤色の液体が出て来る。いつ見ても不思議だ。世界には様々な人がいるのに、みんな血の色は同じって、変だ。線が延びるごとに、血も多くなる。最後まで線を引き終えて、カッターを肌から離す。達成感すら覚える。新たに刻み込まれた線は、これまでの傷を真っ二つに分けている。だから何だと聞かれたら、何の意味も無い。
もう一本引いてみようと、カッターをまた肌に近付けた。




