1話 前世終了
玉木千春は物心つく前には既に両親はいなかった。
幼い頃は母方の祖父母の元で育ったが両親は駆け落ち婚だったらしく特に祖母からは他の孫達より冷遇され祖父母亡き後は世間帯を気にする親戚の家を転々とし厄介者扱いされながら育った。
高校卒業同時に一人暮らしを始め、仕事で得た僅かな給料をやりくりしながら親戚宅で暮らしていた頃に買えなかった漫画やゲームを買い、休日は安アパートの自宅に引き篭もり戦利品やソーシャルゲームを堪能する少々オタクが入った普通の日本人女性である。
「おのれ同僚…。今日の12時にイベント終了するのにシフトを押し付けやがって腹立つ…」
千春は少々低めの声でブツブツと愚痴を呟いた。
本来であれば休日だったのだが毎月のようにシフトの交換をゴリ押しする同僚に"また"頼まれ出勤する羽目になったのだ。
午前12時に彼女が最近ハマっているソーシャルゲームで開催されている期間限定イベントクエストが終了、職場の昼食休憩も12時丁度に開始されるので休憩時間中にイベントクエストで手に入るアイテム集めをすることが出来ない。
自宅のベッドに寝転がりながら終了時間ギリギリまで彼女の推しキャラが主役のイベントクエストを堪能するつもりでいただけに彼女はその鬱憤を糧に自転車をこぎながら職場に向かっていた。
「ホント毎月うんざり…」
シフトの交換は数回であれば容認できるが毎月となると嫌にもなる。
そもそもその同僚は千春の元同級生だったのだが会話をまともにした事も無いその辺にいる他人と大差ない女だった。
それなのに同じ職場になった途端、馴れ馴れしく一見仲が良かったかのような態度で千春のプライバシーをまるで粗探しするかのように聞き出し嘘がつけない生活の千春は休日は家に引きこもっていることうっかり話してしまったのが社会人になってからの不運の始まりだったかもしれない。
千春の職場は少々ブラックに近い会社で上司は病欠や身内の不幸で無い限り有給休暇を取ることは許されず他の用事は同じ部署の社員とシフトを交換しなければならないという暗黙のルールがあった。
家族もいない、旅行する機会もなく、彼氏もいない、休日は家で趣味を満喫している千春はリア充の同僚の格好のターゲットにされてしまったわけである。
それが毎月続き千春がうんざりして断っても『どうせ家でゲームしているから暇でしょ?』『一人暮らしなら融通をきかせられるでしょ?』『○○さんが困っているのになんで交換してあげないの!』と本人だけでなく別の人間、特にこの同僚の友人とのシフト交換を断れば横から口出ししてくる始末だった。(しかも、千春がシフト交換を頼んだ場合は交換してくれた試しがない)
そのやりとりが繰り返されるうちに面倒だが断れば仕事の妨害をする程しつこく余計面倒だと思うようになり仕方なく交換し、それが1年弱続いた。
今思えば相手は実家暮らしで千春にはシフト交換を拒否する理由をしつこく聞く癖に同僚は一度もシフトを効果する理由を言わなかったのだから用事を何が何でも聞き出し家の用事であれば『それなら家族に頼め』とでも何が何でも断るべきだったと彼女はこの先後悔することになる。
何故なら…。
キキキィーッ
「ちょっ!?」
赤信号で自転車を停車させていた時、タイヤが外れスリップしたトラックが彼女がいる方にきた。
車体が近づいてくるのに気付いた彼女は逃げようとしたが間に合わず、車体の下敷きとなり命を落としてしまったのだから…。
彼女がこれまでの人生で体験したことがない激痛が全身に走り意識が黒一色に染まった…。
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「ん…、ここは…どこ…?」
目覚めた千春はベッドの横になったまま部屋の周囲を見回す。
彼女は起き上がりたくとも体が動かせず動こうとすると体の至る所に痛みを感じた。
痛む片腕をどうにか動かし確認すると包帯が巻かれていた。
おそらく他の痛む部分にも包帯は巻かれているだろう。
ー確かわたしは…トラックに突っ込まれた…。
目覚めたばかりのぼんやりした頭で彼女は覚えている範囲のことを思い出そうと頭を働かせた。
『玉木千春』という名前で年齢は25歳だったこと、自転車で通勤していた時にスリップしたトラックに突っ込まれ全身にそれまで体験したことがない激痛が走り意識が黒一色に染まったところまでは覚えている…。
ーあの事故の割には軽症だし部屋も個人病室にしては豪華すぎる…。
室内にはシンプルながらも材質の良い家具が並んでいた。
まるで彼女が好むファンタジーを題材にした作品で目にする貴族の屋敷にある一室のようだ。
今横になっているベッドの枕、毛布、シーツ、クッションも彼女が今まで体感したことがないほどとても高品質の物だった。
キィ…
突然部屋の扉が開きメイド服を着た緑髪、赤い瞳をした若い女性が入ってきた。
「あの…すみません…」
「!!」
彼女は変わった容姿のメイドに内心驚きながらも自身の状況を確認する為メイドに声をかけた。
だがメイドは彼女に声をかけられると何か恐ろしいものを見るかのような表情になり手にしていた水入れとコップが乗ったお盆を落としかけた。
「だ、だだっ、旦那様!『ルァナ』お嬢様が目覚めました!!」
メイドは盆を近くにある小テーブルに置くと仕える主人に報告しに慌ただしく部屋から出て行ってしまった。
ールァナお嬢様…?ルァナって…わたしのこと…?
詳細を聞く前に一人残された彼女はルァナと呼ばれ混乱していたがどうにか上半身を起こし近くにあった手鏡で自身の姿を確認すると…。
「なにこれ…」
鏡には長い白金の髪、金色の瞳、そして頭には白い猫耳を生やした17~20歳前後くらいの女性が映っていた。
この日から彼女は玉木千春でもルァナでもない半妖として異世界ファルディールを生きていくことになってしまったのだった…。