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外伝 月の嘆き

王子の母、清月妃の話です。

 妊娠だなどと、思った事もなかった。

 月のものが暫く途絶えていたのは、心痛と心労によるものだと、イリナはずっとそんな風に考えていたのだ。


 けれど気付けば腹はふくらみ始めており、自分を診た侍医は顔色を変えてどこかへ行ってしまい、ややあって側近らと共に駆けつけてきたアクヴァル王は、ひどく険しい顔で自分に妊娠を告げてきた。


 最初は、王が冗談を言われているのだとイリナは思った。

 だって、自分が妊娠する筈がない。

 一年前、王の寝所に呼ばれるようになってから、自分は一度も夫と会っていない。抱かれたのは王だけだった。


 嘘です、そんな筈がない…!と、イリナは狂ったように激しく首を振った。

 六寿の王に子は生まれない。そんなことは、ムーアに暮らす誰もが知っていることだ。


 王は自嘲とも嫌悪ともつかぬ目で、イリナのおなかを見つめていた。

 イリナの傍に控える女官たちの目は、それよりももっと露骨だった。王の寵愛を受けながら他の男と通じたのだと、あからさまな軽侮をその眼差しに宿していた。


 自分の荒い息遣いだけが、イリナの耳元に響いている。

 ふくらみかけたこのおなかに新しい命が宿っているなど、信じたくもない。

 身に覚えのない懐妊にイリナは動転し、それ以上に腹の中に巣くう得体のしれないモノの存在に怯えた。 

 一体わたくしのおなかの中に、何が入っていると言うのだろう…。


「トロワイヤ家に帰らせましょう」

 王にそう進言したのは、王とともに駆け付けてきた重臣のムーロだった。


「王の御子でないことは、誰の目にも明らかです。

 このまま王宮に留められては、イリナ様が余りに惨い。トロワイヤ卿の下に返し、ご夫君の子として育てさせるべきです」


 その瞬間、イリナの体を喜びが駆け抜けた。

 …夫の下に帰れる?


 ならば、化け物が腹の中にいるのだとしても耐えられるとイリナは思った。

 あの方の下に帰れるならば、あの方にお会いする事ができるならば、どんなそしりを受けようと、腹から何が生まれようと構わない。


 だがイリナの希望は、他ならぬ王によってすぐに打ち砕かれた。


「ならぬ!」

 狂気すら籠る声音だった。


「イリナをトロワイヤ家に返す事は断じて許さぬ!

 これは私の子だ!

 今日よりイリナを月妃に召し上げる!」


 あり得ない言葉に場は凍り付き、イリナもまた呆然と王を見仰ぐより他はなかった。



 王の寵を賜った女性は、一夜限りの遊び相手としてそのまま捨て置かれるか、星妃の称号を賜って後宮に部屋を賜るかのどちらかだった。

 

 妃の称号を賜れるかどうかは、その者の出自と王の寵愛の深さとで定められる。

 生ける神ともいえる王の情けを欲しがる女性は数多あまたいるが、王は基本、そうした女性たちに執着しないからだ。


 万が一にも王の心をとらえる事ができれば妃の一人として召し上げられ、その後、子を身ごもる事によって月妃の称号を与えられる。


 王を取り巻くそうした女たちの中で、イリナは異質な存在だった。

 ここ一年、毎夜のごとく王の寝所に呼ばれてはいたが、形の上ではイリナは王の女官の一人だった。


 何故なら、イリナには夫がいるからだ。

 婚礼を間近に控えた一寿の娘とまだ七つの嫡男が、領地で自分の帰りを待っている。


「お許しを!」

 イリナはそう叫ぼうとした。


 月妃の称号を賜れば、自分はもう、二度とトロワイヤ家に帰れなくなる。

 愛おしいあの方と二度と添えなくなるなど、到底耐えられない…!


 けれど、イリナの口を封じようとするように、王が冷たい言葉を割り込ませた。


「そなたに、清月妃の名を与える」


 それは確固たる王命だった。


 喘ぐように喉元に両手を当て、必死に首を振るイリナの頬に、王はゆっくりと手を伸ばした。


「ムーランを喪った私を支え、ここまで生かし続けたのはイリナ、そなただ。

 苦しみにのたうつ私の心に寄り添い、共にムーランの死を悼むそなたの存在があればこそ、私はこの一年何とか死の誘惑から逃れ得た。

 

 なあ、イリナ。そなたはこのムーアを滅ぼしたいか?」


 気味の悪い程、優しい問いかけだった。


 イリナは涙を零し、それでも懸命に首を振った。

 神に祝福されたこのムーアを滅ぼしたいなどと、そんな恐ろしい事を自分が願う筈がない。


「まだ陽世継ぎが定まらぬ中で、神から賜った王座を蔑ろにして私が自死を選べば、神はこの王家への加護など打ち捨ててムーアを滅びに向かわせるだろう。


 祝福だけをぬくぬくと甘受しているただ(びと)にはわからぬだろうが、神はただ優しく、気高いだけの存在ではない。

 意に逆らえば、怒りは人の予想を軽く超え、容赦なく人どもを呪う」


 自ら神の奇跡を体現する王は、遠い闇を見据えてうっそりと微笑んだ。


「イリナ、もしそなたが私の下を離れるならば、私はこの場で命を断つ。

 ムーランを喪い、この上そなたまで失っては、私は到底生きてはゆけぬのだ」


 イリナは血が滲むほどに唇を噛みしめ、ただはらはらと涙を零し続けた。


 王の言葉は、国の命運を盾にとった脅迫に他ならない。

 けれどイリナには、その王を恨むことはできなかった。


 陽の王は、ムーアの民にとって神にも等しい存在だ。

 そしてまた、三つの時に父母を失い、兄ムーランの手元で育てられていたイリナにとって、アクヴァルはもう一人の兄とも慕う大切な存在だった。

 

 そうした思慕と崇敬を体に覚え込まされたイリナには、どれほど理不尽な命をアクヴァルから賜ったとしても、逆らうことなど思いもつかない。

 そしてまたこの王命が、アクヴァルの単なるわがままではない事をイリナは知っていた。


 王にはイリナが必要だった。

 連生を誓った最愛の守陽ムーランを自らの手で追い詰めて死なせ、王は精神を朽ちかけさせていた。

 ムーランが愛し、ムーランを慕っていたイリナという存在が傍らにいなければ、王はもう正気を保っていることができないのだ。


 気の毒なお方だ…とイリナはどこか麻痺したような心の中でぼんやりとそう思った。

 この方はわたくしが不貞を働いたと信じておられる。それでもなお、わたくしを手放すことには耐えられないのだ。


 これほどに恵まれ、望むすべてを手にしておられたお方の、何と惨く哀しい姿である事か…。

 

 

 聡明で武に優れ、母君の血筋も良く、容姿にも恵まれた陽の王子だった。

 叶わぬ恋に身を焼く事もなかった。

 初めて心を奪われた美貌の貴子ムーランはアクヴァルの求愛を受け入れて連生を誓い、その後アクヴァル自身は神にも愛でられて、陽の王に即位した。

 

 世界があまりに王に優しかったから、王は慢心してしまった。

 絶対的権力を持つ王の周囲には女性が群がっており、目に留まる女性がいれば、王は躊躇いなく閨に引き入れた。


 子ができにくいとされるムーアにおいて、王は異例の五男二女をもうけた。

 子をなせぬ年寿となった後もそうした遊びはとどまることがなく、多くの美女が王の周りを彩った。


 寵愛と執着は変わらずムーランの元にあったが、ムーランにはそれが耐え難かったのだろう。

 王の守陽として、富も栄誉も権力もすべて身に持しながらムーランは一人孤独を深めていき、ある日、絶望のままに馬を駆り立てて、王の目の前で落馬して息絶えた。


 当時、婚家で穏やかな日々を送っていたイリナは、兄の唐突な死を知らされて、取るものもとりあえず急ぎ王宮へと向かった。

 あれほど華やかな場所にいた兄が死んだということがどうしても信じられず、通された控え所でイリナはただ泣くばかりだったが、その頃、遺体のある寝所では大変な騒ぎが起こっていた。

 王がムーランの遺体と共に寝所に閉じこもり、誰も部屋に入れようとしなくなっていたのだ。


 部屋から腐臭が漂い始めた頃、見かねた侍従らによって、イリナは王のいる寝所に通された。

 そしてイリナは、放心したように遺体を抱いて蹲る哀れな王と対面した。


 ムーランの名を呼び、泣きながら許しを請い、戻って来いと泣き叫ぶ王を、イリナは毎晩胸に抱いて共に泣いた。

 今まであまりに恵まれすぎておられた故に、その嗟嘆(さたん)が一層痛ましく、何とか王をお慰めしたいとただその一心だった。


 だから王がイリナの体を求めた時も、イリナは拒まなかった。

 王はイリナの温もりを必要としていたし、その気持ちに沿う事が臣下としての自分の務めだと思ったからだ。


 イリナが王に抱かれた事を知っても、イリナの夫はそれを許した。

 いずれ王の執着が薄らげばイリナは夫の下に帰るのだと、イリナも夫も知っていた。だから別離にも耐えられたのだ。


 けれど、月妃に立后するなど…。

 王の子を生み、月妃として王族に名を連ねてしまえば、自分はもう二度と帰れない。


 助けて…と喉元まで出かかっていた叫びを、必死に飲み下した。

 イリナが傍を離れ、もし王が本当に自死をしたら、トロワイヤ家は滅ぼされる。

 その罪は、イリナ一人の命では到底贖えない。

 夫も娘も息子も、トロワイヤ家に繋がる者は一族皆殺しだろう。


 イリナの懐妊は大々的に発表され、きらびやかな戴冠の間で、月妃立后の儀が華やかに執り行われた。

 イリナは参列者の中に最愛の夫の姿を必死に見つけようとしたが、その中に夫はいなかった。

 レイスタにとうとう見限られたのだと、イリナは笑みを浮かべた顔の下で哀しくそう思った。


 祝いの席でありながら、周囲の人々の目はイリナに突き刺さるかのようだった。

 誰もが、イリナの不義を責めていた。


 王の子であると信じる者は誰もおらず、王の側近であるミアズやムーロにしてもそれは同じことだった。

 トロワイヤ家に帰りたいがために、わざと過ちを犯し、不義の子を身ごもったのだろうと彼らは理解し、控えめな同情を向けてくるだけだ。

  

 王は毎夜イリナを訪れ、その体を気遣った。

 おなかの子が自分の胤ではないと確信しながら、決してイリナを責めようとしない。


 そうしてある日、イリナは気が付いてしまった。

 イリナが不義の子を身ごもったと信じる方が王は嬉しいのだと。

 

 過去に何度もムーランを裏切り、ついには死にまで追い詰めた王は、ムーランへの償いを望んでいた。

 だからもしイリナが王の目の前で他の男と契ったとしても、王はイリナを許すだろう。


 イリナは夫に会いたかった。

 自分を唯一の人と呼び、愛し慈しんでくれた夫に、一目だけでも会いたかった。


 もうわたくしのことを忘れただろうか。わたくしが不義を働いたと信じ、軽蔑しているのだろうか。

   

 どれほど夫を恋しく思っても、夫の名を口にすることは許されなかった。

 一言でもトロワイヤの名を口にすれば、月妃として立場を弁えるよう女官たちに責められた。


 今思えば、夫が自死をしたことを隠し通すよう、きつく命じられていたのだろう。


 イリナが真実を知ったのは、産み月が間近となった頃だった。

 ある日二階の渡り廊下から庭園を見下ろしていると、王の星妃の一人が取り巻きを多く連れて、庭に出ていた。


 彼らがイリナの姿に気付かなかった筈はない。侍女の一人がこちらに目を向け、星妃や取り巻きの女性らに何かを知らせているのが見えた。


「不義の子を孕んだ挙句、月妃の座に居座るなんて、なんて恥知らずな女なのかしら」

 イリナに聞こえるように、取り巻きの夫人の一人が声を張り上げた。

 そして、星妃は嘲るようにその後を続けたのだ。

「妻が不義の子を身ごもった挙句、離縁を打診されて自害した夫は本当に滑稽ね」


 体中の血が足元に落ちた気がした。

  

 レイスタが死んだ…?自害し、た…?

 わたくしが子を身ごもったから…?


 気付けば狂ったように叫び続けていた。

 悲鳴は後から後から喉から零れ出て、誰かが自分を宥めようと四方からイリナの体を押さえつけようとした。

 何も見えない世界の中で、ただただレイスタの腕を欲していた。


 苦しくて悲しくて、ただレイスタだけが恋しくて、喉が嗄れるほどに叫んで血の味が口の中に広がった。

 激しく暴れるうちに、身の奥がねじれるような壮絶な痛みが突如イリナを襲った。

 陣痛の始まりだった。


 錯乱して泣き叫ぶイリナの周囲を女官たちが取り囲み、数人がかりで産所へと抱き運ばれた。

 ばたばたと人が入り乱れ、侍医や侍女らの声が錯綜する中、自分の名を呼ぶ王の声が遠く聞こえた気がした。


 自分の骨をきしませて、生まれようとする赤子が憎かった。この赤子のせいで、夫は死んだのだ。

 この化け物が腹に宿りさえしなければ…!


 朦朧とする意識の中で、イリナは夫の名を叫び続けた。


 やがて、ひときわ激しい、身を引き絞るような痛みがイリナの体を貫き、次の瞬間、元気な赤子の声が産室を満たした。


 その異物が出た瞬間、唐突に痛みは引いた。


「王子様、ご誕生!」


 祝福の声が周囲から上がり、その物体が高々と掲げ上げられた。

 出血も多く、息も絶え絶えとなったイリナには、もはや叫ぶ気力も残されていなかった。


 荒い息を繰り返しながら、イリナは疲弊しきった目でその血塗れの物体を見る。

 猿のような顔をして小さな泣き声を周囲に撒き散らしている醜い塊。


 王子を見せようとした女官の手をイリナは激しく振り払った。


「それを私に近づけないで!」


 憎しみと絶望が胸を締め付け、うまく息ができない。

 我が子などでは決してない。それは、夫の命を吸って生れ出た悍ましい生き物だった。




「時のあなたに」のレビューをいただきまして、ありがとうございました。ただただ感謝です。

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