「受難告知」2
*
渡された移動通知書を見て、僕は頭の中が真っ白になった。
真っ白にしたいのは移動通知書のほうだ。
なんでよりによって僕が異端審問室なんだ?
平凡な人生を求め、平凡な余生をすごすために神父の道を選んだのに。
けっして、神父の仕事を舐めているわけではない。
ただ、神父という存在は現実の隣にいるようで、そこにあこがれて、辺境の小さな教会の雑用でも構わないと願書には書いたのに。
いつもは書類に書かれたことや上からの命令を素直に聞く自分だけど、今回の件に関しては無理だ。
着任したその日に死ぬ未来しか見えない。
「いきなり魔女との戦闘に出されるとか、そういうことはないって」
そう言って笑うのは神学院で担当教官を務めていたギュスターヴだ。
「異端審問室ってところはいつだって人材不足なんだよ」
対面式のソファ、ギュスターヴはまるで飲み屋にでもいるような気軽さで話してくる。
短く切った髪はダークブラウンと最近増えた白髪で斑だが、不格好とは思わないし、老けても見えない。
実際は五十を超えているはずだが、異端審問室実働部隊員ばりに鍛えた長身の体躯。このままだと、自分の方が老けて見える未来が少なからず来そうな気がする。
唯一、似合わないと言ったら、たぶん教壇に立っている姿だろう。あと子供たちと戯れているところとか。
「それって、魔女との戦いで殉死とか、そういうのが多いからってことじゃないですか?」
「まあ、それもなくはないな」
「やっぱり辞退させていただきます!」
「まあ待てって、」
ギュスターヴは僕を呼び止める。
彼の元で学んで、神父になった者と、異端審問官になった者は約半々だろう。彼の元で基礎を学んだ後、一般大学院で専門課程に進む者はすくなくはない。異端審問室司法部所属の審問官が魔女裁判のために覚える知識量、考える量は一般司法官の二倍に及ぶ。
魔女に関する知識ももちろんだが、魔女事件じみた一般人の起こす凶悪事件などの見極めなども行う。
異端審問室司法部はエリートの中のエリートとして羨望のまなざしを受けるし、なるための努力を知っている僕だって、少し憧れた時期もあるけれども、携わる事件資料を少し見ただけで貧血を起こしてしまった。気質的にも頭の出来的にも僕には無理な仕事だと早々に諦めたのだ。
いっぽうの異端審問室実働部隊。こちらは魔女と直接戦う機関なので、頭脳よりも運動能力を求められる。
この場合、神学院出身者もいないことはないが、その下の神学校ですでに特殊訓練を積んでいる者が多い。
以上が異端審問官になる人たちの大まかな道筋なのだが……、学部で神父の勉強しか収めていない僕のところに異端審問室行きの書類がくるなんておかしいだろ。
「異端審問室の人材不足っていうのは今に始まった話じゃないんだよ。特に魔女を監視する専任審問官が圧倒的に少ない」
「専任、審問官?」
「教会に記録されている魔女には一人、ないし二人の監視が付く。その監視を専任審問官と言っている。監視は危険度に応じて一日中だったり、外出時のみだったり、色々だ」
「そんな危険な存在だったら独房に入れておけばいいじゃないですか」
僕の言葉に、ギュスターヴは首を横に振る。
「それは、魔女の存在を認め、一般人と変わらない生活を求める『赤の法』に反する。魔女ってのはみんながみんな人殺しってわけでもないし、殺せるだけの能力を持っているわけでもない。加えて、自分で望んでなるわけじゃない。ある日突然なっちまうんだ。それを犯罪者扱いしようってほど、お前だって冷酷じゃないだろ?」
「それは、そうですけど」
「能力に目覚めた者は、どんな能力であれ、国のために尽くすという義務が課せられる。専任審問官っていうのは、一般人の中で魔女が普通の生活ができるようにする潤滑剤みたいなものなんだよ」
「でもさっき、監視とかって……」
監視という言葉から危険な臭いしかしないのだが。
「俺だって一応は教会の人間だから、教会用語を使っただけだぜ? 監視って言葉が当てはまるのは危険度の高いAクラスの魔女の専任になった場合だな。といっても、気が合えば教会の宿舎よりも全然快適な暮らしができるぜ」
「まるで、体験談みたいに言うんですね」
「俺の教室から異端審問室に行ったやつは少なくはないからな。いろんな話が耳にはいってくんだよ。専任審問官は魔女と良好な関係を築けることが前提なんだが――」
ギュスターヴはソファに背を預けて言う。
「異端審問官を希望するやつらは、多かれ少なかれ、魔女に因縁がある人間が多い。魔女に関して良い感情より、悪い感情――はっきりいって憎悪を抱いている連中が多い。それを悪だとは言わねぇぜ? 実際、悪い魔女だっているが、良い魔女だっている」
ため息を付いて、彼は言葉を続ける。
「魔女だからって、全員悪人だとは限らねぇ。そこらへんの見極めができる人間が異端審問室には必要なんだよ」
「……もしかして、異端審問官に僕を推薦したのは先生とかって、そんなことないですよね?」
「んなわけあるかよ。俺はそんなに偉くねぇよ」
そう言ってギュスターヴは破顔して、僕もつられて笑ったが、限りなく黒に近いグレーに近づいたような気しかしない。
魔女は望んでなれるものではない。
ある日突然、宝くじに当たったくらいの確率で能力に目覚める。
能力によっては嬉しいと思う人もいるかもしれないけど、多くは青天の霹靂。思い悩む人が多いんだろうな。
*
「こんにちは」
庁舎役員の人に呼ばれて行くと、そこにはシスター・アナと、彼女の押す車椅子に座ったドルチェの姿があった。ドルチェは両手でヴァイオリンケースを大事そうに抱えている。
「実はセシルさんの絵をちゃんと見たことがないんです」
そう言いながら、アナは身をかがめ、車椅子のタイヤ部分を持ち上げる。
タイヤが扉の下枠に引っかかってスムーズに室内に入れないのだ。
一緒に車椅子を持ち上げて室内に入れる。
「ありがとうございます。こういうことがありますから、あまり美術館などには行けないんですよ」
「階段の上り下りも大変そうですね」
「ええ、しかも私ももうおばあちゃんですから、どうして男として生まれなかったんだろうって最近思ってしまうんですよ」
「男と言っても、僕もあんまり力ないですけどね」
そう言って苦笑いを浮かべる。
セシルは二人が来たことに気づいているのか気づいていないのか、一心不乱に筆を動かしている。
ほぼ徹夜で、たまに床に敷いた布団で仮眠をとるが、気づけばまた筆を握っている。
「もう完成しているように見えるのですが、まだ納得できていないんでしょうね」
「僕も、セシルさんの世話を任されてから絵のことはだいぶ勉強したというか、覚えさせられたというか。それでも完成と未完成の違いがわかりません」
「この子もそうですよ」
アナはドルチェに顔を向ける。
「楽譜通りに演奏できているのに、これじゃだめだって、弾き直すんです。この子の場合、感情が音に表れるので、どのフレーズで躓いているのかすぐにわかっちゃうんですけどね」
アナの言葉に、ドルチェは頬を染めてアナを振り返る。「はいはい、この話はもうしませんよ。もっと近くで絵を見せてもらいましょうか?」
「他に完成している絵があるので、そっちも見てください」
床に乱雑に散らばったゴミやら布を拾い上げながら彼女たちのために道を作っていく。
今回描いているのは連作五枚だ。
有名な神話の五つのシーンを描いている。
うち、完成しているのは三枚。今手がけているのは四枚目。
今まで聖典に関する絵ばかり描いてきたので、セシルの描く絵の中では珍しいシリーズだ。
これらの絵は、王都の方に飾られる予定になっている。
絵を見ている二人は、こちらがわざわざ説明しなくても何の神話の、どのシーンを描いたものか理解しているようだ。
高い部分まで細かく描かれているのだが、梯子に登らせて見せてあげられないのが悔しい。
セシルの描く絵は、画家はもちろんだが、小説家も筆を折るほどの質量をもっていると言った人がいた。
描くテーマはもちろんだが、物語も感情さえもすべて詰まった至高の一枚。
そう評価した人は、彼女が魔女だと言っても、同じように評価してくれるだろうか?
魔女の能力で人々を魅了している――ズルだって言わないだろうか。
「ジャックぅー、手伝ってくれ」
呼ばれて見てみれば、梯子から降りたセシルが絵の横に立っている。
「梯子の位置をずらすんですか?」
「いんや、全面に光が当たるようにあっちの壁に移動したいんだ」
セシルが指差す先、そこには午前の光を浴びる壁がある。
「最後の一枚を描くためにあそこの壁は空けてたんじゃなかったでしたっけ?」
「一時的にそこに置くだけだよ」
「?」
全体のバランスを見るとかそういうことだろうか?
まだ乾ききってない絵の具に触れないように、セシルと一緒に絵を移動させる。
壁に立てかけると、セシルは一本の細い筆を手に、絵の端に、控えめなサインを入れる。もちろん偽名だ。
「アナ、ドルチェ、ちょっとこっちに来い」
筆を手にしたまま、セシルは二人を手招きする。
「完成したんですか?」
「たった今ね。だから、君たちが一番最初の鑑賞者だよ。車椅子ならこの位置がたぶん良く見える」
そう言って、セシルは立ち位置を譲る。
アナは車椅子を押して、ドルチェとの絵の前に立つ。
言葉を失うとはこういうことだろう。
午前の光に照らされ、まだ乾ききらない絵の具がキラキラと輝いている。
それは英雄の物語。
魔物を退治する荒々しいものだが、描かれた英雄はどこまでも気高く美しい。その表情に一切の戸惑いはなく、剣を振り上げる。
対する魔物は四肢の一部を失ってなお、英雄に牙を向ける。
まるで本物。
セシルは空想具現化の能力を持っていない。
だが、絵の情報量は十分に具現化が可能なレベルに達している。
――カチ、カチ。
何かの金属音に、目を向けるとドルチェがヴァイオリンをケースから取り出していた。
本体を肩と顎で固定し、弓を張る。
広い室内に調律の音が響く。
音を止め、ドルチェは大きく一度深呼吸をする。
そして、表情が一変する。
第一音からその場の空気を激しく震わせるフォルテ。
弓が一度弦から離れ、これからが本番だと、弓が弦を激しく震わせる。
フォルテの状態からの細かいクレッシェンドとデクレシェンドの繰り返しはまるで嵐の海。
だが恐れはない。見えるのは偉大なる大海原。
スタッカートで音が切れたのち、現れるのは転調。さながら雲間から現れた太陽。
カンタービレを天上に向けて奏でるのではなく、太陽の暖かさを招き入れる旋律に。
徐々に速度を落とし、波は穏やかなアルペジオに変わる。
囁くような最後のメロディが天に戻っていく。
セシルの拍手の音で現実に引き戻された。
一体今のはなんだったんだろう?
突然物語の中に突き落とされたような。
――これが、音楽家の能力。
気持ちを変化させるだけではなく、彼女自身が思い描く情景を人々に見せることができる。
まるで、セシルと一緒じゃないか。
演奏を終えて、肩で息をするドルチェ。その手から、弓が落ちる。
慌てて拾い上げて、ドルチェに渡す。
彼女も演奏ですべてを出し切ったという感じで、疲労が見て取れた。
「ドルチェのこんな激しい曲を聴くのは久々だわ」
見ると、アナは目を潤ませていた。
「やっぱり人の心を穏やかにするには、そういう曲でなければないんですか?」
「そんなことはないんですよ。どんな曲でも、ドルチェの想いはその通りに乗りますよ。だけど、作曲家が曲に込めた想いを大事にしたいって。家にいる時は何時間も楽譜とにらめっこです」
ドルチェは自分の話をされるのが恥ずかしいのか、頬を赤く染めてヴァイオリンをケースに戻していく。
もっといろんな曲を聴きたいけどなあ。
「今日は本当に良いものを見せてもらってありがとうございます」
「いえいえ、僕のほうこそ。すごい体験をさせてもらいました。また機会があったら来てください。しばらくはここで作業してますから」
「ありがとう、ジャックさん。セシルさんも、体には気を付けてくださいね」
「この仕事が終わったら一年は遊んですごしたいよ、ほんと」
その言葉にアナは苦笑を浮かべる。
「それでは、また」
来た時と同じように扉で車椅子を少しだけ持ち上げる。
車椅子を押すアナの背が遠ざかっていく。
ふと、ドルチェがこちらを振り返り、手を振ってきたので、同じく手を振って応えた。
「ふぁー、嵐の後の静けさとはまさにこのことだね」
セシルは完成した絵の前に座り込み、背伸びする。
「本当に、すごすぎて僕なんてまだなにがあったのか理解できてないですよ」
「別に、理解できなくてもいいんじゃない?」
セシルはその場にゴロンと横になる。
「すごいものはすごい。それでいいじゃん」
「それはそうだけど……」と言い返すよりも先にセシルの寝息が聞こえてきた。
まったく、この人は絵を描く以外はどうしようもないんだから。
椅子に置かれた布団をそっとかける。
「起きて体痛いとか言っても知りませんからね」
そう言って、完成したばかりのセシルの絵を見上げた。
*
それから三日後、僕は音楽家――ドルチェの突然の死を知る。




