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遺残の犬  作者: 進常椀富
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 しかし、その日はあまりうろつかなかった。どのみち、建物ほどの大きさはある物体が失われていないと、変化には気づけなかっただろう。今日は消える瞬間に立ち会わせたから、異変に気づいたに過ぎない。

 それより、家電店の近くに行ったとき、ちょっとしたアイデアを思いついたのだった。

 俺は大して荒らされてもいない店の中から、ビデオカメラと三脚、新品のバッテリーを漁って戻ってきたのだった。

 車が消えた現場にそれを仕掛ける。溶けて歪んだコンクリートの前、アスファルトの路上に三脚を立てて、録画スイッチをオンにした。

 人がいないのだから、盗られたり壊されたりする心配もない。バッテリーがもつ間だけでいいから、俺がいないときの様子を見てみたかった。

 ビデオカメラがきちんと動作しているのを確認し、俺は家路をたどる。

 何事もなく、お袋がゆっくり腐っていく家に帰り着いた。

 家電店で時間を食っていたので午後も遅い。もうすぐ夕闇が帳を下ろす。

 食べずに帰ってきたおにぎりで食事を済ませた頃には、すっかり暗くなっていた。

 電池式のランタンを三つ灯し、明かりを得る。

 ペットボトルの水を使って顔を洗い、歯を磨いたあと、いつものことでコーヒーを淹れた。手動のミルで豆を挽き、アルコールランプのサイフォンを使う。

 挽きたて豆のコーヒーが出来あがると、俺は自室にこもった。氷点下でも凍えないという高級寝袋に入り込み、ランタンの明かりで本を読む。合間にコーヒーを啜る。

 人も車もいないとはいえ、夜はやはり危険が伴うために出歩けない。何かが起こっても助けがないのだから、寝そべって過ごすしかなかった。だが、俺はこの世界の夜が好きだった。

 自動車の走行音もせず、何かしらの機械音もしない、真に静謐な夜を過ごせる。

 小説を四十ページほど読み、一息つく。

 考えてみれば、病気が悪化すると小説など読めなくなる。もちろん字を読むことはできるのだが、読んだものが情景として脳のスクリーンに投影されなくなるのだった。脳に不可のかかる想像力が、その働きを弱めてしまうためだと思われた。

 冷たくなったコーヒーを啜りながら考える。

 車が消えたのは現実だろうか、脳の異常だろうか。悪化が始まっているのかもしれない。

 せめて現状維持するには薬が必要だった。

 薬を手に入れたい。どこへ行けば残っているだろうか。

 ネットも使えない今となっては、調べるのも難しい。

 薬が飲めないのならば、次善の策は睡眠だった。できるだけ多く眠ろう。静けさを味わう以外に、起きていなければならない理由もない。俺は枕を用意するとランタンを消して、寝袋に埋まった。

 目をつぶり、一時間くらい物思いに耽っていると、ジャラジャラいう金属の擦れるような音が聞こえた。音は近づいてくる。続いて、家の門が軋んだ。

 この家の門は鉄製で、動かすとキイキイ音がする。低い足音が敷地の中へ入ってきた。二足歩行の足音が。

 俺は驚きのあまり動けなかった。鼓動が早まり、冷や汗をかきながらどうするか考える。

 人間とは関わりたくない。特にこの世界の生き残りならなおさらだ。しかし、放っておいても何をされるかわからない。火をつけられたりしたらたまったもんじゃない。

 やはり迎え撃つべきだろう。

 俺は寝袋を抜け出てボウガンを取り、聞き耳を立てた。

 庭からガチャガチャと音がする。米の残ったガス釜をいじっているらしかった。目当ては炊いた米か。確かに今の世界では、どこにでもあるものじゃない。飯などくれてやるにはいいが、向こうは俺がいることを知っているに違いなかった。臆病者と思われるよりは、出て行ったほうがいい。

 俺は右手にボウガン、左手に懐中電灯を持って、忍び足で玄関へ向かう。外の人間には気づかれていない様子だった。

 足で玄関を開け、懐中電灯のスイッチを入れて照らす。俺はボウガンを向けながら言った。

「誰だ! 何をしている!」

 光の中には、小汚い痩せた男がいた。男は薄汚れた顔の目を細め、両手をあげて答える。

「撃つなら、このごはんを飲み込んでからにしてくれよ!」

 男は俺よりだいぶ若かった。二十代に見える。ボサボサの髪は茶髪が伸びたもので、半分が黒かった。服装は黒尽くめ。黒のダウンジャケットに、黒いズボン、黒いブーツ。ひょろっとした痩せ型で、弱そうだった。ただし、腰に物騒なものをぶら下げている。血糊のついた糸鋸が何本も、ベルトに結わえ付けられていた。これが金属の擦れる音の原因だった。

 先手必勝か。

 少し迷ったものの、こっちは飛び道具を持っている。戦いになっても負けはしないだろう。

 怯えた様子でもないその男に、俺は名前を聞いてみた。

「おまえ、名前は?」

 本名を名乗るかどうかは関係ない。こいつの社交性と、病気の具合をチェックするためだった。生き残っているなら、俺と同じ薬を服用していた可能性が高い。それなら統合失調症だ。薬が切れて、統合失調症が悪化しているなら、こちらの言葉を正確に捉えることもできずに、予想のつかない返事が返ってくるはずだった。

 男は米を咀嚼しながら、気安い口調で答えた。

「『俺』と『アンタ』で十分だろ、こんな有り様じゃ。どうしても必要ならマサキって呼んでよ」

「そうか」

 まともな受け答えができるようだった。意思疎通は容易だ。俺は続けて聞いてみた。

「統失か? 生き残っているからには……」

 マサキは隠すでもなく言った。

「ああ、統失。もうずっと薬飲んでないけど、病状は安定してる。最初の陽性症状は酷かったけど、薬が効き始めてからはずっと調子いいんだ」

「俺も似たようなもんだ。薬はないが、なんとか現状維持できてる」

 統合失調症は、激しい陽性症状が一気に吹き出すタイプのほうが、予後は良いという傾向がある。

 俺も最初のときは酷い幻聴に振り回されて、生活をボロボロにされた。しかし、治療を受けると幻聴も徐々に治まり、以後ずっと調子がよくなっていくばかりだった。入院するような事態に陥ったことはない。

 このマサキが俺と同じタイプなら、その思考は安定し、一般的な良識に沿って行動できる人間であるはずだ。少しは安心していいかもしれない。しかし、ボウガンを下ろす危険は、まだ冒せなかった。

 今度はマサキのほうが口を開いた。

「ごはん、もっとない?」

「米が目当てか? 炊いた米はもうない。缶詰なら出してやれる」

「缶詰なんか自由自在じゃないか。ごはんが食べたかったんだ。夕方、アンタがここでおにぎりを食べてるのを見た。それで夜になるまで待っていたんだ。撃たれちゃ敵わないと思って」

「米なんていくらでも炊けるだろう、ガスコンロは使えるんだから」

「でも、こんな釜持ってないよ」

「コンロと鍋があれば十分炊ける。火にかけておくだけだ」

「知らなかった、そんなに簡単にごはんが炊けるなんて」

「まあガス窯ほど旨くならないかもしれないけどな」

 マサキは手を下ろし、馴れ馴れしく言った。

「アンタがごはん炊いてたら、またもらいに来てもいいだろ?」

 俺はあまり他人と関わりたくない。幸運で手に入れた死の世界に、一人でいたかった。

「自分で炊けよ! 今、教えてやっただろう!」

「でも、ガス釜ほど旨く炊けないんだろう?」

「ガス釜なんて、いくらでもファミレスに転がっている。持ってくるか、ファミレスで炊けよ。それに俺の残りを食うよりは自分で炊きたてを作ったほうが旨いぞ」

 マサキは食い下がった。

「ついででいいんだ。アンタが炊いてるのをみかけたら来てもいいだろ?」

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