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遺残の犬  作者: 進常椀富
2/11

 俺はビクリとしてボウガンを持ちあげ、椅子に座ったまま振り返る。

 視線の先には犬が一匹いるばかりだった。

 白い毛で、薄い茶色が混ざっている、毛色のよくないシーズー。

 家で飼っていた中の一匹、最後まで残ったオスのブン太だった。

 親父とお袋は犬が好きで、シーズーを六匹にも増やしてしまっていた。

 病気になる前はお袋が世話をしていたが、シーズーは長生きする。

 お袋がリュウマチで動けなくなると、すべての世話は俺の仕事になっていた。

 お袋も死んだので、俺は世話が面倒くさくなり、犬どもを外へ解き放ったのだった。みんな喜んで広い世界へ旅立っていった。ブン太一匹だけとはいえ、戻ってくるとは思わなかった。自分の飼っていた犬なら、撃つ気にも食う気にもなれない。

 ブン太は勢いよくしっぽを振って、俺を見つめていた。俺も見つめ返す。

 突然、ブン太の口の端がつりあがり、ニタリと笑った。犬にはありえない笑い方で。

 俺はゾッとして、身動きできなくなる。

 だが、それも一瞬のことだった。ブン太の顔は普通の犬に戻っている。

 今の邪悪な微笑は、薬を飲んでいないことによる幻覚だったのかもしれない。いつか限界がくる。それがこないことを祈ってはいたが。

 俺は気を取り直してブン太を見つめた。ブン太が近づいてくる。

 ドッグフードはまだ残っていた。戻ってきたなら餌を恵んでやろう。

 俺は家へ入り、ドッグフードを持ってくるとブン太に与えてやった。

 ブン太は餌を食うと、また気楽な調子でどこかへ去っていった。

 俺も自分の食事を終えて一息つく。今日も米はうまく炊けた。満足できた食事だった。

 三十分ほど経って、口の中が粘ついてくると歯磨きをする。今や、虫歯になっても歯医者はいない。歯磨きも重要な日課の一つだった。口を濯ぐのもペットボトルの水を使う。

 食べ物はだいぶ余裕あったものだが、水のほうが先になくなるだろう。それに重くかさばるので、運ぶのも大変だった。

 そんな水をトイレに使うわけにはいかない。大便小便は庭に穴を掘り、そこで済ませていた。

 少し離れた場所には川もあったので、水が飲めなくて死ぬことはないだろう。

 しかしもっと面倒がない、いいアイデアはないだろうか。

 自分の浅学さが恨めしい。

 腹はいっぱいになったが、電気が使えないとなると、家にいてもやることは少ない。

 ホームセンターから発電機を二台運んできていたし、燃料も豊富だったが、音があまりにうるさいので、あくまで非常用だった。この先、寒さが厳しくなったら使う。

 俺の新たな日常は、日用品を漁ってくるか、読書をするか、街を散策するかしかなかった。

 今日は天気もいいし、散歩に出かけよう。

 残った米でおにぎりを三個作り、梅干しを詰めてリュックに入れる。リュックには飲み物のペットボトルも加えた。

 何が起こるかわからないので、武装もしていく。暴発が怖いので、ボウガンから矢を外す。その矢は肩からかけるベルトに収める。ベルトには全部で十本の矢が差し込まれていた。それから大振りな鉈を腰にぶら下げた。

 これで準備は整った。

 ボウガンを両手で持って、門から外へ出る。

 街はいつも通り静かだった。風が近くの神社の樹々をざわめかせている。どこかで雉が甲高い鳴き声をあげていた。

 俺は足を踏み出し、車も人もいない道路の真ん中をゆったりと歩いた。

 死の世界は、まったく居心地がいい。

 少し前まで、俺は自分の病気と親の介護、貧困によって世界から置き去りにされていた。

 それが今じゃ世界の王だった。

 人の営みには置き去りにされてしまっていたが、世界そのものが目の前に残されていた。

 空気に満ちる薄い腐敗臭は、このさい甘受しよう。海辺にいるのと変わらない。

 俺は落ちついた気分で、自分の領地を眺めながら歩いた。

 どこかには俺のような生き残りもいるのだろうが、目に入る範囲には存在しなかった。それでよかった。

 コンビニの廃墟へ向かう下り坂を降りかけたとき、視野の隅に動くものがあった。

 反射的にそちらを見る。

 坂の始まり、安っぽいアパートの前にある駐車スペースで、赤い軽自動車が揺れていた。中でカップルがレスリングをしているかのように、ギシギシと。もちろん誰も乗っていない。身体の一部さえも見えなかった。

 俺は慌ててボウガンに矢をつがえた。いつでも撃てるように構えて、様子を見守る。

 車は動力源もなく揺れていた。ただそれだけだった、今は。

 俺の領地で何かが起こっているなら、それを見過ごすことはできない。

 見ていても埒が明かなかった。俺はボウガンを構えたまま、ゆっくり慎重に近づいていく。

 数歩進んだとき、さらなる異変が起こった。

 車の輪郭に沿って、藍色と金色の二重になった煌きが広がる。それに包まれると、揺れる軽自動車は端から溶けるように消えていった。

 残った藍色と金色の煌きは、空中を漂い、駐車スペースのコンクリートに垂れた。薄汚れたコンクリートが、可塑性プラスチックのように、ぐにゃりと歪んでいく。

 駐車スペースの大半を溶かして変形させたあと、煌きも消えた。

 人間、信じられないような光景を目にすると、まずは好奇心に支配される。

 俺は数メートルの距離で立ち止まったまま、歪んだコンクリートをじっくりと観察した。

 音も匂いも動きもない。

 溶けたコンクリートに向かって、ボウガンの引き金を引き絞る。

 矢が飛び出し、硬い音を立てて跳ね返った。コンクリートの地面は、確固とした実体を持っているようだった。

 俺はすぐそばまで歩いていって、さらにしばらく眺めた。

 おずおずとつま先を伸ばして触れる。硬い。それからバンバンと足で踏みつけてみた。古びたコンクリートの感触がする。最初からこんな、溶けてうねった形をしていたのかもしれない。そんな気までしてくる。

 しかし、赤い軽自動車は跡形もなく消滅していた。この世界からこぼれ落ちてしまったように。

 俺は頭を捻った。

 空は晴れ渡り、風がそよぎ、鳥の鳴き声が聞える。

 左手を伸ばして、車のあった空間を探ってみた。何も異常はない。俺はできるだけ論理的でありたいと、考えを巡らせてみた。

 そもそも、ここに車があったことは確かだろうか。俺のような人間は、まずそこから考え始めなければならない。記憶を探る。動かないものだったから、特に注意を払っていなかった。だが、車は確かに存在していた。何週間もずっと、動かずに。手で触れたことはないのが、今になってみると悔やまれた。そうだ、俺は車を目にしていたが、金属のボディの感触を確かめてはいない。

 あの車は俺の脳が作り出した幻影だったのだろうか。ゼロじゃないとはいえ、その可能性は低かった。

 幻覚というものは不規則で、気まぐれなものだった。

 統合失調症が悪化し、初めて陽性症状が燃えあがったときも、視覚に訴えるよう幻覚はほとんどなかった。

 ときおり人の口が不自然に動いて見えることならあった。その口が俺のことを謗り罵る。

 人の口が偶然動いたときに幻聴が乗ったのか、口の動きそのものが幻覚だったのか、今となってはわからない。

 だが、視覚的な幻覚は、あったとしてもそれくらいのものだった。はるか過去、最も悪化していた時期でさえそんなものだった。

 自動車みたいな大きいものが、何週間も存在し続けるような幻覚が見られると思えない。

 それならばやはり。

 車が世界から消えたのだった。少なくとも、俺の世界からは。俺が持てる精一杯の論理ではそうなる。

 さらにしばらく、その場に留まって周囲を観察した。納得のいく答えなど得られない。ヒントもなかった。

 俺は諦めて、歩くのを再開した。他の場所で同様の異変がないか、見て回るべきだった。

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