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俺はビクリとしてボウガンを持ちあげ、椅子に座ったまま振り返る。
視線の先には犬が一匹いるばかりだった。
白い毛で、薄い茶色が混ざっている、毛色のよくないシーズー。
家で飼っていた中の一匹、最後まで残ったオスのブン太だった。
親父とお袋は犬が好きで、シーズーを六匹にも増やしてしまっていた。
病気になる前はお袋が世話をしていたが、シーズーは長生きする。
お袋がリュウマチで動けなくなると、すべての世話は俺の仕事になっていた。
お袋も死んだので、俺は世話が面倒くさくなり、犬どもを外へ解き放ったのだった。みんな喜んで広い世界へ旅立っていった。ブン太一匹だけとはいえ、戻ってくるとは思わなかった。自分の飼っていた犬なら、撃つ気にも食う気にもなれない。
ブン太は勢いよくしっぽを振って、俺を見つめていた。俺も見つめ返す。
突然、ブン太の口の端がつりあがり、ニタリと笑った。犬にはありえない笑い方で。
俺はゾッとして、身動きできなくなる。
だが、それも一瞬のことだった。ブン太の顔は普通の犬に戻っている。
今の邪悪な微笑は、薬を飲んでいないことによる幻覚だったのかもしれない。いつか限界がくる。それがこないことを祈ってはいたが。
俺は気を取り直してブン太を見つめた。ブン太が近づいてくる。
ドッグフードはまだ残っていた。戻ってきたなら餌を恵んでやろう。
俺は家へ入り、ドッグフードを持ってくるとブン太に与えてやった。
ブン太は餌を食うと、また気楽な調子でどこかへ去っていった。
俺も自分の食事を終えて一息つく。今日も米はうまく炊けた。満足できた食事だった。
三十分ほど経って、口の中が粘ついてくると歯磨きをする。今や、虫歯になっても歯医者はいない。歯磨きも重要な日課の一つだった。口を濯ぐのもペットボトルの水を使う。
食べ物はだいぶ余裕あったものだが、水のほうが先になくなるだろう。それに重くかさばるので、運ぶのも大変だった。
そんな水をトイレに使うわけにはいかない。大便小便は庭に穴を掘り、そこで済ませていた。
少し離れた場所には川もあったので、水が飲めなくて死ぬことはないだろう。
しかしもっと面倒がない、いいアイデアはないだろうか。
自分の浅学さが恨めしい。
腹はいっぱいになったが、電気が使えないとなると、家にいてもやることは少ない。
ホームセンターから発電機を二台運んできていたし、燃料も豊富だったが、音があまりにうるさいので、あくまで非常用だった。この先、寒さが厳しくなったら使う。
俺の新たな日常は、日用品を漁ってくるか、読書をするか、街を散策するかしかなかった。
今日は天気もいいし、散歩に出かけよう。
残った米でおにぎりを三個作り、梅干しを詰めてリュックに入れる。リュックには飲み物のペットボトルも加えた。
何が起こるかわからないので、武装もしていく。暴発が怖いので、ボウガンから矢を外す。その矢は肩からかけるベルトに収める。ベルトには全部で十本の矢が差し込まれていた。それから大振りな鉈を腰にぶら下げた。
これで準備は整った。
ボウガンを両手で持って、門から外へ出る。
街はいつも通り静かだった。風が近くの神社の樹々をざわめかせている。どこかで雉が甲高い鳴き声をあげていた。
俺は足を踏み出し、車も人もいない道路の真ん中をゆったりと歩いた。
死の世界は、まったく居心地がいい。
少し前まで、俺は自分の病気と親の介護、貧困によって世界から置き去りにされていた。
それが今じゃ世界の王だった。
人の営みには置き去りにされてしまっていたが、世界そのものが目の前に残されていた。
空気に満ちる薄い腐敗臭は、このさい甘受しよう。海辺にいるのと変わらない。
俺は落ちついた気分で、自分の領地を眺めながら歩いた。
どこかには俺のような生き残りもいるのだろうが、目に入る範囲には存在しなかった。それでよかった。
コンビニの廃墟へ向かう下り坂を降りかけたとき、視野の隅に動くものがあった。
反射的にそちらを見る。
坂の始まり、安っぽいアパートの前にある駐車スペースで、赤い軽自動車が揺れていた。中でカップルがレスリングをしているかのように、ギシギシと。もちろん誰も乗っていない。身体の一部さえも見えなかった。
俺は慌ててボウガンに矢をつがえた。いつでも撃てるように構えて、様子を見守る。
車は動力源もなく揺れていた。ただそれだけだった、今は。
俺の領地で何かが起こっているなら、それを見過ごすことはできない。
見ていても埒が明かなかった。俺はボウガンを構えたまま、ゆっくり慎重に近づいていく。
数歩進んだとき、さらなる異変が起こった。
車の輪郭に沿って、藍色と金色の二重になった煌きが広がる。それに包まれると、揺れる軽自動車は端から溶けるように消えていった。
残った藍色と金色の煌きは、空中を漂い、駐車スペースのコンクリートに垂れた。薄汚れたコンクリートが、可塑性プラスチックのように、ぐにゃりと歪んでいく。
駐車スペースの大半を溶かして変形させたあと、煌きも消えた。
人間、信じられないような光景を目にすると、まずは好奇心に支配される。
俺は数メートルの距離で立ち止まったまま、歪んだコンクリートをじっくりと観察した。
音も匂いも動きもない。
溶けたコンクリートに向かって、ボウガンの引き金を引き絞る。
矢が飛び出し、硬い音を立てて跳ね返った。コンクリートの地面は、確固とした実体を持っているようだった。
俺はすぐそばまで歩いていって、さらにしばらく眺めた。
おずおずとつま先を伸ばして触れる。硬い。それからバンバンと足で踏みつけてみた。古びたコンクリートの感触がする。最初からこんな、溶けてうねった形をしていたのかもしれない。そんな気までしてくる。
しかし、赤い軽自動車は跡形もなく消滅していた。この世界からこぼれ落ちてしまったように。
俺は頭を捻った。
空は晴れ渡り、風がそよぎ、鳥の鳴き声が聞える。
左手を伸ばして、車のあった空間を探ってみた。何も異常はない。俺はできるだけ論理的でありたいと、考えを巡らせてみた。
そもそも、ここに車があったことは確かだろうか。俺のような人間は、まずそこから考え始めなければならない。記憶を探る。動かないものだったから、特に注意を払っていなかった。だが、車は確かに存在していた。何週間もずっと、動かずに。手で触れたことはないのが、今になってみると悔やまれた。そうだ、俺は車を目にしていたが、金属のボディの感触を確かめてはいない。
あの車は俺の脳が作り出した幻影だったのだろうか。ゼロじゃないとはいえ、その可能性は低かった。
幻覚というものは不規則で、気まぐれなものだった。
統合失調症が悪化し、初めて陽性症状が燃えあがったときも、視覚に訴えるよう幻覚はほとんどなかった。
ときおり人の口が不自然に動いて見えることならあった。その口が俺のことを謗り罵る。
人の口が偶然動いたときに幻聴が乗ったのか、口の動きそのものが幻覚だったのか、今となってはわからない。
だが、視覚的な幻覚は、あったとしてもそれくらいのものだった。はるか過去、最も悪化していた時期でさえそんなものだった。
自動車みたいな大きいものが、何週間も存在し続けるような幻覚が見られると思えない。
それならばやはり。
車が世界から消えたのだった。少なくとも、俺の世界からは。俺が持てる精一杯の論理ではそうなる。
さらにしばらく、その場に留まって周囲を観察した。納得のいく答えなど得られない。ヒントもなかった。
俺は諦めて、歩くのを再開した。他の場所で同様の異変がないか、見て回るべきだった。




