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第十一話 呼ぶ声の先

 家に帰ってからも、瑠美子はまともに起きてはいられなかった。治りかけた傷に菌が入ったかどうかは定かでないが、帰った途端上がった熱が、どうにも下がってくれなかった。まともに食べ物が喉を通らず、そのため体力も落ちているのだろう。なかなか良くなる気配がない。

 ベッドの中で毛布にくるまりながら、瑠美子は毎日夢と現を行ったり来たりしていた。時々ルロッタが持ってきてくれるナンクルのジュースが、今は一番の楽しみだ。瑠美子は上半身だけ起こすと、先ほどルロッタが置いていったコップへと手を伸ばした。

「お母さんにこんな風にしてもらったことなかったなぁ」

 口に含んだジュースは、今日もかすかに甘く感じる程度で。だがこれがすごく美味しいものだということはわかっていたから、彼女の舌がおかしいのだという自覚はあった。今は結婚して離れてしまったが、近所にいたマルテアがくれたナンクルの実で作ったものだ。

 瑠美子がヌオビアに流されてきたばかりの頃も、よくルロッタはこのナンクルジュースをくれた。子どもならばジュースが好きなはずだと、そう思い込んでるみたいだった。しかしこの飲み慣れないジュースがはじめは異世界の象徴のようで、彼女はいつもおそるおそる口にしていた。

「お母さん」

 今はもうそんなこともない。しかし体調が悪くなると、どうしても日本のことが思い出された。いや、それだけが理由ではないだろう。最近よく見る夢が、彼女の心を十年前へと引き戻しているのだ。

「元気かな」

 中身が空になったコップを、彼女はベッド脇の棚へと置く。するとまた徐々に意識が遠のいて、瞼が重くなった。寝たくないという思いはあるのに、体のだるさがそれに容易く打ち勝ってしまう。眠ればまたあの夢を見るとわかっているのに、まどろむことには抗えなかった。

 見慣れた天井がぼやけた。色という色が消えていき、あらゆる物が輪郭を失っていく。何とか毛布を口元まで引きずり上げて、彼女は抵抗を止めて目を瞑った。扉の向こうから話し声が聞こえた気がしたが、それを確かめることはできなかった。



 辺りを懐かしい音色が満ち始める。耳に残ったリコーダーの旋律に混じって、穏やかな川のせせらぎが聞こえてきた。

 ふと気づいた時には、瑠美子は欄干から川面を見下ろしていた。茜色の夕日に染められて煌めく様は、綺麗なはずなのにどこか物悲しい。

 またこの夢だ。徐々に鮮明に、長くなっていく夢。無意識に記憶の奥底へと押し込めてきたものが、最近になって突然その姿を現しつつある。思い出す度に心臓が止まりそうになるから、本当はこんなものなど見たくなかった。それでも眠る度にそれは現れ、瑠美子を過去へと引き戻していく。

「綺麗」

 夕日に照らされた川面を、じっくり見るのは『その時』が初めてだった。瑠美子はそこから目を離せなくて、欄干に手を載せるとほうっと息を吐く。

 重くなったランドセルを背負い直すと、友だちからもらったお土産のキーホルダーが小さな音を立てた。確か外国で買ったのだと楽しそうに話していた。それが羨ましいとは、瑠美子は誰の前でも決して言ってはいない。けれどもこの鈴の音を聞くと、少し寂しい気分になった。

「いいなぁ」

 外国とまでは言わなくても、せめてどこかへ旅行に行きたい。例えば遊園地にでも行って、仲のいい友だちにお土産を渡してみたい。いつももらってばかりの彼女だって、誰かに何かを渡してみたかった。

 そうずっと思っていた。それがささやかな願いであることはわかっていたが、そう願えること自体が幸せであるとはまだ知らなかった。

 瑠美子は軽く目を瞑って開くと、今度は空を見上げた。茜色から徐々に紫へと染まりつつある空には、うっすらと雲がかかっている。綺麗な夕焼け空だ。きっと明日はよく晴れるだろう。

「あ、今何時かな」

 だがいつまでもこうしてはいられない。早く帰ってご飯の支度をしなければ、母の帰りに間に合わない。そう焦る心はあるのに、体は動き出そうとはしなかった。いつもならもう準備を始めている時間だが、今日はリコーダーの練習で遅くなってしまった。

 母娘二人の生活の中で、母にとっては唯一夕食の時間だけが心休まる時のようだった。だから疲れて帰ってきた母に喜んで欲しくて、美味しそうだと微笑んで欲しくて、ずっと頑張っていたのに。もうすぐ誕生日だから、その時はとびきりのご馳走を用意しようと張り切っていたのに。

 それも全てリコーダーのせいで吹っ飛んでしまった。繰り返したメロディーが頭にこびりついて離れない。いつも同じ所で途切れる旋律を思い出す度に、どっと疲れが出てきた。

「早く帰らないと」

 声に出してみてもやはり足は動かない。彼女は軽く俯くと、もう一度ランドセルを背負い直した。キーホルダーの甲高い鈴の音が、鋭く胸を突く。

「ねえ君」

 だがそこで不意にかかった声に、慌てて彼女は顔を上げた。足音はしなかったはずだった。不思議そうに瞳を瞬かせれば、目の前に立っているのは三十過ぎくらいの男の人だった。見たことのない人だ。少し汚れた黒いコートに黒のズボンと、黒ずくめの恰好をしている。

 黒い男は、危険だ。

 心臓の高鳴りを瑠美子は感じた。幼かった自分には感じられなかったものを、全てを知っている今の彼女には感じ取ることができる。ここで逃げればよかったのだ。首を傾げてる場合ではなかったのだ。それなのに『その時』の彼女は傍に止めてある車と彼を見比べるだけで、走り出しはしなかった。

「こんな時間にどうしたのかな? 迷子になっちゃったの?」

「ううん、家に帰るところ」

「今まで学校にいたの? 疲れたでしょう。お兄さんが送っていってあげようか」

 微笑んだ男に、当時の瑠美子はそこでようやく嫌なものを感じ取った。そういえばこの前、近くの学校で変質者に絡まれた子どもがいるという話を聞いた。幸いその時は両親が傍にいたため、何事もなかったようだったが。

「い、いいです。一人で帰ります」

 じりじりと瑠美子は後退った。しかし同じだけ、男は数歩近づいてきた。彼女のアパートまでそれほど離れてはいないが、そこに母はいない。近所の知り合いも、この時間はまだ帰ってきていないはずだった。みんな仕事やパートに出かけている。

「遠慮しなくていいって」

 男の手が彼女の手を捕らえた。怖くなって振り払おうとしても、力では到底勝てない。もう片方の手を欄干へと伸ばして、彼女は思い切り声を上げた。何を叫んだのか覚えていないが大声を出した。

 だが橋の上を通りかかる人はいない。車もいない。男の腕に抱え上げられても、助けてくれる大人はいなかった。

「こら、騒ぐなっ」

 男の声を無視して、彼女は無我夢中で手足をばたつかせる。必死だった。右足を強く蹴り出すと、偶然にかそれは男の腹に当たったようだった。呻き声と同時に、小さな体が空へと放り出される。

 ついで感じた背中への衝撃。痛いと思った時見開いた眼の中に、広がったのは鮮やかな夕焼け空だった。左足だけがかろうじて欄干に引っかかったものの、体重を支えきることはできずに靴が脱げる。

 橋から落ちたのだと、理解した時には水の中だった。頭に走った強い痛みに、視界が白とも黒とも言えない色で塗りつぶされる。冷たくて痛くて苦しくて、彼女はもがいた。しかし思ったよりも川は深かったようで、水面から顔を出そうとしても重くなった服がそれを邪魔する。

 橋の上から悲鳴じみた男の声が聞こえた。だがそれも、すぐに小さくなりそのまま消えていった。男が逃げたためなのか、それとも彼女の意識が薄れつつあるからなのか。

 お母さん。

 心の中で、彼女は縋るべき人を呼んだ。口を開けば水が入ってくるだけで、全く声にはならない。体が痛くて重くて、とにかく寒かった。どちらが川底でどちらが川面なのかも、もうわからない。視界の端を赤い何かが横切ったのを見届けると、彼女は固く目を瞑った。

 もう何も感じたくない、考えたくない。思い出したくもない。男の顔だって忘れたいのに、それは脳裏にこびりついて消えてくれなかった。一見優しそうな笑顔の裏にあるものを想像するだけで、背筋を冷たいものが走る。

 どうしてもあの顔が浮かぶのならば、今すぐ気を失ってしまえばいい。そう思って瞼を下ろしても、繰り返すリコーダーの旋律が意識を手放すのを阻止した。練習なんてサボって帰ればよかったのだ。そうすれば、あの男に会わずにすんだのに。ヌオビアに流されずに、母の笑顔を見ることができたのに。

「ルミコ、ルミコ」

 そこで突然肩を揺さぶられる感覚があり、彼女ははっとして目を開けた。肺に染みこむ新鮮な空気の感覚が、彼女を現実へと引き戻していく。

 これは夢だとわかっていたはずのに、いつの間にか飲み込まれていたのだろう。そう認識することで、彼女はようやく安堵の息を吐くことができた。ここはヌオビアで、今危険は迫っていない。大声を出せば助けてくれる人がいるし、心配してくれる人がいる。

 にじみそうになった涙をごまかすように瞬きをすると、目の前のノギトが眉根を寄せた。その手が軽く瑠美子の頭に載せられる。

「大丈夫か? うなされてたけど」

「……うん」

 瑠美子がのろのろと体を起こせば、ノギトは少し離れて苦笑した。よく見れば彼の後ろにはルロッタの姿もある。その手には見覚えのある服があるところからすると、着替えを持ってきてくれたのだろう。おもむろに額の汗を拭って、瑠美子は口の端を上げた。夢の内容は二人には言えない。

「うん、大丈夫」

 瑠美子がそう繰り返すと、ノギトの横からルロッタが顔を出した。栗色の髪を珍しく結い上げた彼女は、一瞬だけ顔をしかめてから微笑を浮かべる。そして手にした服を掲げてノギトを押しのけた。

「そろそろ着替えた方がいいかと思って持ってきたわ。ほら、だからノギトは部屋出ていって」

「ありがとうございます、ルロッタさん」

 不満そうなノギトを横目に、瑠美子はルロッタから着替えを受け取った。だが離れていくルロッタの手がかすかに震えたのに気づき、怪訝に思って首を傾げる。ルロッタは何か言いたげに瞳を細めると、瑠美子からそっと視線を外した。

「……まだお母さんとは呼んでくれないのね」

 ぼやくようなルロッタの言葉に、瑠美子は息を呑んだ。昔は戯れに「お母さんと呼んでもいいのよ」と何度も口にしていたが、ここしばらくは聞いていなかった。だが冗談ではないことは、ルロッタの横顔から容易に読み取れる。

 まさかうなされながら、母のことを呼んでいたのだろうか? それを聞かれていたのだろうか? 後ろめたくはないはずなのに苦しくて、瑠美子は強く唇を噛んだ。

 ルロッタは実の家族のように接してくれる。優しくしてくれる。だがどうしても母とだけは呼べないのだ。もう二度と会えないだろう母のことを考える度に、それだけは一生言えないだろうと確信している。

「母さん、ハゼトが待ってるだろ」

「え? あ、ああ、そうね」

 凍りつきかけた時間は、ノギトの言葉でまた流れを取り戻した。だが二人の背中にかける言葉は見つからず、瑠美子は黙ったまま着替えを両手で抱きしめた。

 ごめんなさい。

 胸中でつぶやいた言葉は、じわりと体へと染みこんでいった。扉の閉まる音が、寂しく部屋に響き渡った。

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