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第十話 繰り返す旋律

 とにかく寒かった。浮いているのか沈んでいるのか、生きているのか死んでいるのかわからない中で、肌を突き刺す冷たさだけが全てだった。音もしない。いや、耳を澄ませばかすかに何かが聞こえてくる。これは何の音だろうかと、瑠美子はぼんやりした頭で考えた。

 聞き覚えのある音色が反響している。これは、ソプラノリコーダーだろうか? もの悲しいメロディーが次第に大きくなるが、それはあるところで音を外して途切れてしまう。そしてまた、最初から繰り返す。

 何度も何度も吹いた曲。必死に動かした指が疲れてますます動かなくなっても、それでも練習するのを止めなかった曲。何という曲名だっただろうかと、彼女は記憶の中を探った。けれども思い出すのは旋律ばかりで、肝心の名前が出てこない。確かあの時担任だった小林先生は、イギリスの民謡だよと教えてくれたのに。

 リコーダーの音が響き続ける。終わらない旋律はいつも同じところで途切れて、撒き戻る。「もう終わりにしようか」という声が聞こえるまで、それは続くのだ。

 あれは誰の言葉だっただろうか? よくよく思い出そうとすると、ぼんやりとその姿が脳裏に浮かんできた。クラスで一番音楽が不得意だった、背の低い男の子だ。何回練習しても途中で躓いて、いつも泣き言を漏らしていた。彼と二人教室で吹くリコーダーは、旋律も手伝ってひたすらに寂しい。

『もう終わりにしようか』

 幼い声が頭の中に響く。途端頭の中を夕焼け空が埋め尽くし、瑠美子は息を呑んだ。恐ろしいほど綺麗な茜色の空に、うっすらと雲が漂っている。その一部は紫に染まり、夜の訪れまで感じさせた。凍えた指先を伸ばして、掴み取りたくなるくらいに綺麗だ。

 けれども手を伸ばそうとしても、体は全く動かない。金縛りにでもあったように空が見えるだけだった。リコーダーの音が消えてしまえば、それ以外はもう何もない。

 寒さに凍える身を震わせればと、頭がずきりと痛んだ。夕焼け空もにじんで、世界と体との境が曖昧になる。このまま溶けていくのだろうかという思いに囚われて、彼女は必死に声を絞り出した。指先さえ満足には動かせないが、喉を震わせることくらいはできる。

 その不安定な声が世界に染み渡るにつれ、黄昏は徐々に姿を消した。全てが暗闇に包まれ始め、目に捉えられる色という色が消えていく。

 ついで耳に届いたのは、聞き覚えのある声だった。

『ルミコさんっ』

 必死に名前を呼ぶのは誰だろう。今にも消え入りそうな、悲しげな声の主は誰だろう。泣きそうな声音が胸に痛くて、彼女は辺りを見回そうともがいた。それでも何も見つからない。暗闇では自身の体が存在しているのかさえ曖昧で、思考だけがぼんやりと巡り、漂っては消えていた。

 頭の中だけでまた、リコーダーの音色が繰り返される。いや、もうそれが夢なのか現なのかもよくわからなかった。ふわふわとした頼りない感覚では、何が現実なのかも把握できない。ここが天国なのだと誰かに言われれば、信じてしまう程全てが不確かだった。

「ルミコっ」

 再び名前を呼ぶ声が聞こえる。いや、よく聞けばそれは先ほどの声と違う。額にじんわりと温かさを感じて、彼女は何とかそれに触れようと指先を動かした。とにかくここは寒すぎる。

「ルミコ?」

 暗闇だった世界が、かすかに白みだした。目の前にある何かの輪郭が、徐々に露わになっていく。彼女は何とか瞳を瞬かせて、鮮明な視界を得ようとあがいた。すると曇り硝子越しの光景が、少しずつはっきりとした像を結び出す。

 彼女は息を吐いた。すぐ近くに見えたのは、ノギトの顔だった。驚きに見開かれた瞳が見る見る間に輝きを取り戻し、安堵の色を帯びて細められる。その様を瑠美子はぼんやりと眺めた。

 何故彼が目の前にいるのか、考えてみてもわからない。これは夢の続きなのだろうかと訝しむと、彼の手が音もなく額から離れた。そこでようやく、縋ろうとしてた温かみが彼の手によるものだったと気づく。彼女は何度目かの瞬きをしてから、眉根を寄せた。

「ノギト……?」

「そう、俺。わかる? うなされてたぞ」

「ノギトだってことはわかるけど。ここ、どこ?」

「ここは病院。お前、ソイーオと森で襲われて怪我しただろ。だから連れてきたんだ」

 疑問を口にすれば、ノギトはゆっくりと説明してくれた。それでようやく彼女も何が起きたのかを思い出す。そうだ、森で黒衣の男たちに襲われたのだ。あの時は無我夢中だったが、確かに腕や手に怪我をした覚えがある。

 そう意識した途端左腕が痛み、彼女は顔をしかめた。ちらりと視線をその方へと向ければ、包帯で巻かれた後しっかりと固定されている。右の手も巻かれていた。これでは動かないわけだ。

「そっか、ノギトが助けてくれたんだ。――ってソイーオさんは!?」

「絶対聞いてくると思った。あいつなら無事だよ。お前が一番危なかったんだから」

 彼女が慌てて身を起こそうとすると、苦笑混じりの彼の手が肩を叩いた。だがその刺激でさえも腕に響いて、彼女は小さな呻き声を漏らす。彼がはっとしたように手を離すのを、彼女は涙混じりに見上げた。

「痛い、ノギト」

「悪い悪い、痛み止めも切れる頃だったな。じゃあ父さんたち呼んでくるついでに医者も呼んでくるから。ちょっと待ってろ」

「え?」

「大人しく寝てろよ」

 背中を向けた彼へと、彼女は咄嗟に手を伸ばそうとした。もちろん動かない腕では何もできず、痛みだけを伴って息が詰まる。その気配に気づいたのか、数歩進んだところで彼が振り返った。彼女は奥歯を噛んだまま、彼へと顔だけを向ける。

「ノギトは、怒らないの?」

 静かな室内に、彼女の声が響き渡った。意識が鮮明になればなるほど、何が発端となり何が起こったのか、どうして今ここにいるのか、改めて自覚してしまう。ディーターに止められていたのに、森へと出向いたことが全ての元凶だった。そう考えていくとじわじわと罪悪感が胸を満たしていく。

 ソイーオやノギトは、きっと心配したことだろう。イムノーやルロッタやハゼトもさぞ驚いたに違いない。ディーターはこのことを知っているのだろうか? 日本と違い、ヌオビアの人々はまず病院など利用しない。つまりそれだけ大事だったのだ。

「今は怒らない」

 それなのに、返ってきた言葉はそれだけだった。彼女が瞠目すると、彼は肩をすくめながら複雑そうな微苦笑を浮かべる。呆れているのか嘆いているのか、怒っているのか笑っているのか判断のつかない表情だった。

「元気になったら怒るから、早くよくなれ」

「そ、そんなこと言われたら元気になるの躊躇うじゃない」

「じゃあずっとここにいるのか?」

「……まさか」

「だったらその時でいいだろ。俺だって、こんなところで怒鳴るのは趣味じゃないんだ」

 だからこんなに彼の声音は優しいのか。黙って彼の顔を見上げていると、その視線が壁へと逸らされた。整えられてないぼさぼさの髪を掻き上げて、彼は呻き声のようなため息を吐く。見たことのない横顔に、彼女はできることなら首を傾げたかった。

「ソイーオなら、家に帰ってもらった。しばらくあいつは家を出ない方がいいだろうな。襲ってきた奴らのことは、俺が一応城に報告してきたけど」

 彼はそう付け加えると、もう一度深く嘆息した。何故彼がそんなに苦しそうなのか、理解できない言葉だ。今の言い草からすれば、やはりあの男たちの狙いはソイーオだったのだろう。だとすればノギトの判断は正しい。それを彼女に伝えることも、間違ってはいない。

「じゃあ父さんたち呼んでくるから」

 それなのに逃げるように背を向けると、ノギトは扉へと歩き始めた。記憶にあるよりもずっと大きな背中を、彼女は黙って見送る。

 聞きたいことならまだ他にもたくさんあった。あれからどれだけ経ったのかとか、彼はいつからここにいるのかとか、イムノーたちはどうしていたのかとか、疑問は次から次へと溢れてくる。わからないことばかりだ。

「寒い」

 ただ何を尋ねるにしろ、今はその時ではないらしい。彼がいなくなった部屋はやけに寒く感じられ、彼女は毛布の中に潜り込もうと奮闘した。手が動かないと不便だ。頬へかかってくすぐったい髪さえ、払うことができない。

「寒い」

 彼女は固く目を瞑った。すると再び意識が朧気になり、自分と周囲の境があやふやになっていく。遠くから聞こえる話し声に、かすかにまたリコーダーの音色が混じり始めた。

 リコーダー、黒衣の男、動かない体、体を包む冷たさ。何か大事なことを忘れている気がする。けれども鮮やかな夕焼けが浮かんだところで、頭にずきりとした痛みが走った。

 怖かった。怖かった。何が怖いのかもわからず、それでも怖くて仕方がなかった。ヌオビアに来たばかりの日々が、突然思い出されて胸が苦しくなる。どうしてあの時怖かったのか、何が怖かったのか、それがわからないのにとにかく怖い。黒衣の男が、怖かった。

「ルミコ、目を覚ましたの!?」

「あれ、寝てるよ」

「え? おっかしいなぁ。さっき話したばかりなのに」

「疲れてるんだろう、仕方ない。ザーテンダ先生、よろしくお願いします」

「会話ができたのならば、もう心配はないでしょう。後は体力の回復を待つだけです。ですが念のためもう一度診ておきましょうか」

 皆の声が聞こえても、もう一度目を開けることはできそうになかった。近寄ってくる誰かの気配を感じながら、彼女はまたまどろみに意識をゆだねた。

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