↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『梅咲けば あなたのもとへ 還る春』  作者: もふ森こはく


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/7

第七章「梅の花の咲く頃、あなたに還る」

 あの日、崖の上で鶯の声を聞いてから、詩の時間は少しずつ動き始めた。


 何かが突然変わったわけではない。失ったものが戻ってきたわけでもなければ、春真が再び笑顔で帰ってきたわけでもなかった。長い年月の間に積もった悲しみは、一羽の鳥の声を聞いただけで消えてしまうほど浅いものではない。


 それでも――詩は、歩き始めた。


 崖の端に立ち尽くしていた身体を、ゆっくりと動かす。長いあいだ、生きることを考えるよりも、ただ今日という日を耐えることだけに使ってきた足は、思うようには動かなかった。膝には力が入りにくく、踏み出した一歩もひどく頼りない。


 それでも詩は、足元の小石を靴底で押しながら、一歩ずつ海から離れていった。


 頬を撫でていく春の風には、まだ冬の名残を感じさせる冷たさがあった。その中に、草の青い匂いと、遠くで咲く花のかすかな香りが混じっている。長い冬を越えた大地が、眠りから覚めようとしているようだった。


 何度か立ち止まり、息を整えながら歩く。


 やがて詩は足を止め、ゆっくりと振り返った。


 遠くに、先ほどまで自分が立っていた崖が見える。その向こうには、どこまでも広がる青い海。陽の光を受けた水面はきらきらと揺れ、波は何事もなかったかのように岸へ寄せては、静かに引いていく。


 ほんの少し前まで、詩はあの場所から先へ進むつもりなどなかった。


 すべてを終わらせてしまえば、もう苦しまなくて済むと思っていた。春真を失った悲しみも、梅を失った痛みも、自分だけが生き残ってしまったという罪悪感も、何十年経っても薄れることのなかった後悔も――すべて海の向こうへ置いていけるような気がしていた。


 けれど、あの声を聞いた。


 ただ、それだけだった。


 それだけだったのに、閉じていたはずの記憶が、胸の奥から静かにほどけていった。


 だから詩は、もう一度だけ歩いてみようと思った。


 悲しみが消えたわけではない。これから先の人生が、急に明るく見えたわけでもない。


 ただ――もう一度だけ、自分の足で歩いてみたい。


 それだけの小さな思いが、消えかけた灯火のように、胸の奥でかすかに揺れていた。


 風が吹いた。


 遠くの木々がざわめき、その葉擦れの音に重なるように、どこからか懐かしい鳴き声が届く。


「ホーホケキョ」


 詩は、思わず足を止めた。


 振り返っても、そこには誰もいない。青い空が広がり、春の草が風に揺れているだけだった。


 それなのに、不思議と寂しくはなかった。


 むしろ、その声を聞いていると、長い年月をかけて胸の奥へ押し込めてきたものが、少しずつ外へ流れ出していくような気がした。


 母の手。


 父の声。


 白い梅の花。


 小さな鞠。


 幼い頃に聞いた童歌。


 そして――梅の木の下で、もう一度、春真と出会った日のこと。


 記憶は一度にすべて戻ってきたわけではなかった。


 忘れていたと思っていた出来事が、季節の移ろいのように、一つずつ静かに浮かび上がってくる。ある記憶に触れれば、その奥から別の記憶が顔を覗かせ、さらにその先へ、また別の景色が繋がっていく。


 詩は急がなかった。


 思い出せないものを、無理に思い出そうとも思わなかった。


 ただ、歩いた。


 春の道を。


 風の中を。


 そして、自分が長いあいだ閉じ込めていた、遠い記憶の中を。


     ◇


 やがて、見慣れた場所が視界に入った。


 そこに立っていたのは、長い年月を生き抜いた一本の梅の木だった。


 白い花を幾重にも咲かせ、その枝を春の空へ大きく広げている。


 詩は、その前で立ち止まった。


 幼い少女だった頃から、この木はここにあった。戦争の炎に焼かれ、枝を失ったこともあった。それでも枯れることはなく、失った枝の間から新しい芽を伸ばし、幾度もの冬を越して、そのたびに花を咲かせてきた。


 その姿を見上げているうちに、詩の胸へ一つの思いが浮かんだ。


 ――自分も、同じだったのかもしれない。


 何度も失った。


 もう立ち上がれないと思ったことも、一度や二度ではなかった。それでも、どこかで生きることをやめなかった。


 それが強さだったのか、それとも、ただ生きてしまっただけなのか。


 今となっては、どちらでもよかった。


 大切なのは、長い時間を越えて、自分が今ここにいるということだった。


 詩はゆっくりと手を伸ばし、梅の幹へ触れた。


 ざらついた樹皮の感触が指先へ伝わる。幼い頃に触れたときよりもずっと太くなった幹には、長い歳月を刻む深い皺が走っていた。


 その皺を指先でそっとなぞりながら、詩は小さく息を吐く。


「……ただいま」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 母なのか。


 父なのか。


 春真なのか。


 梅なのか。


 それとも、長いあいだ帰ることのできなかった、幼い日の自分自身なのか。


 けれど、その言葉を口にした瞬間、不思議なほど胸の奥が温かくなった。


 そのときだった。


「ホーホケキョ」


 すぐ近くから、鶯の声がした。


 詩が顔を上げる。


 梅の枝に、一羽の鶯がとまっていた。


 あの日、崖の上で出会った鶯だった。


 逃げることもなく、枝の上から静かに詩を見つめている。


 その姿を見つめているうちに、詩の胸の奥で、遠い昔の少年の姿が重なった。


 梅の木の下に座っていた少年。


 厳しい稽古のあと、少し疲れた顔をしながら、それでも詩と目が合えば照れたように笑った少年。


 自分の歌を聞きたいと言ってくれた少年。


 そして――何度でも、と約束してくれた少年。


 気づけば、詩の頬を一筋の涙が伝っていた。


「……どうして、あなたを見ると、こんなに懐かしいのかしら」


 鶯は答えない。


 ただ、黒い瞳で静かに詩を見つめている。


 詩は涙を指先で拭い、ほんの少しだけ笑った。


「……私ね。ずっと、あなたを探していたのかもしれない」


 鶯が小さく羽を震わせる。


「春真さんを……探していたのかもしれない」


 その名前を口にした瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。


 けれど、もうその痛みから逃げようとは思わなかった。


 痛みも。


 幸せも。


 出会いも。


 別れも。


 そのすべてが、自分の人生だった。


 詩は、長い年月をかけてようやく、そのことを受け入れ始めていた。


「……坊ちゃん」


 もう一度、その名を呼ぶ。


 声には、かつてのような絶望はなかった。


「私、ようやく思い出したわ」


 幼い頃、梅の木の下で出会ったこと。母から教わった歌を、春真に聞いてもらったこと。春真が三味線の稽古で傷ついた指を隠していたこと。花街へ売られた自分を、春真が迎えに来てくれたこと。そして、あのとき「怖いままでいい」と言ってくれたこと。


 梅が生まれた朝。


 三人で過ごした庭。


 梅の花を眺めたこと。


 童歌を歌ったこと。


 そして――最後の朝。


 自分が「行ってきます」と言い、春真と梅が「いってらっしゃい」と送り出してくれたこと。


 その一つひとつが、鮮やかな色を取り戻していく。


 すべてが、確かに胸の奥へ残っていた。


 失われていたのではない。


 ただ、あまりにも痛かったから、心が自分を守るために深いところへ閉じ込めていただけだった。


「……私、忘れていたんじゃなかったのね」


 詩は涙を拭った。


「忘れたくなかったから……ずっと苦しかったのね」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥に長いあいだ絡みついていた何かが、静かにほどけていく。


 忘れたくなかった。


 忘れてしまえば、春真も、梅も、本当に消えてしまうような気がした。


 だから詩は、二人の記憶だけではなく、その記憶に結びついた痛みまで抱えて生きてきたのだ。


 けれど――今なら分かる。


 記憶は、痛みだけではない。


 触れた手の温もりも、母から受け取った歌も、梅の花の香りも、家族で過ごした穏やかな時間も、そして失った悲しみさえも。


 そのすべてを抱えて、初めて一つの記憶になる。


 だから、もう痛みだけを抱えていなくてもいい。


 詩は鶯を見上げた。


「……ありがとう」


 小さな声だった。


 鶯は答えない。


 ただ、春の風が梅の枝を揺らし、白い花びらが一枚、詩の肩へ舞い落ちた。


 その瞬間、詩は思った。


 ――この鶯が、本当に春真なのかもしれない。


 けれど、確かめる必要はなかった。


 人は死んだあと、どこへ行くのか。


 魂は残るのか。


 生まれ変わることがあるのか。


 詩には分からない。


 そして今は、答えを証明してもらいたいとも思わなかった。


 ただ、この声を聞いたことで、自分の胸の奥へ、長いあいだ帰ってこなかった何かが戻ってきた。


 それだけで、もう十分だった。


     ◇


 それから、詩は少しずつ歩くようになった。


 毎日ではない。身体が思うように動かない日もあれば、梅の木の下まで行けない日もあった。それでも以前のように、生きることそのものを拒むことはなくなった。


 朝になれば窓を開ける。


 冷たい風が残る日は、少し顔をしかめながら、それでも外の空気を胸いっぱいに吸う。春の花を眺め、鳥の声に耳を澄ませ、身体が許してくれる日は、梅の木の下までゆっくりと歩いていく。


 そこに春真も梅もいないことは、分かっていた。


 目を開ければ、そこにあるのは一本の梅の木だけだ。


 けれど、その木の下に立つと、不思議なほど二人の気配を感じることがあった。


 梅が花びらを拾っている。


 小さな足音が庭を駆けている。


 少し離れた場所では、春真がその姿を眺めながら目を細めている。


 そんな光景が、記憶の中から静かに浮かび上がってくる。


 以前の詩なら、その光景を思い出すたび、胸が引き裂かれるように痛んだだろう。


 記憶の中では笑っている二人が、目の前にはいない。その事実が、何よりも苦しかった。


 けれど今は違う。


 記憶の中で二人が笑っているのなら、それでいい。


 現実へ無理に引き戻す必要などない。


 ある春の日、詩は梅の木の根元へ腰を下ろした。


 背中を幹へ預けると、硬くざらついた樹皮の感触が衣服越しに伝わってくる。詩はしばらくその感触を味わうように目を閉じ、それから幹へそっと手を添えた。


「……お母さん」


 風に消えてしまいそうな声だった。


「私、ちゃんと幸せだったよ」


 白い花びらが一枚、詩の膝へ落ちる。


 詩はそれを拾い上げ、指先でそっと撫でた。


「怖いことも、いっぱいあったけれど……」


 そこで一度、言葉を止める。


 母の顔を思い浮かべる。


 幼い頃に握ってくれた手。


 父の声。


 戦争の空。


 そして、梅の木の下で出会った少年。


「幸せなことも、いっぱいあった」


 母から教えてもらった歌があった。


 父と過ごした時間があった。


 梅の木の下で、少年と出会った。


 花街へ行った自分を、春真が迎えに来てくれた。


 そして、自分を「お母さん」と呼んでくれた、小さな娘がいた。


 思い出せば、胸は今でも痛む。


 それでも、その痛みの奥には、確かな温もりが残っていた。


「だから……もう、悲しいだけじゃないの」


 詩は白い花を見上げながら、静かに微笑んだ。


「ありがとうって、思えるの」


 その言葉を口にできるまでに、どれほど長い年月が必要だっただろう。


 何度も泣いた。


 何度も自分を責めた。


 あの日、自分が町へ行かなければよかったのではないか。もっと早く帰っていれば、二人を助けられたのではないか。どうして自分だけが生き残ったのか。


 そんな問いを、何十年ものあいだ胸の中で繰り返してきた。


 けれど、どれだけ考えても、過去は変わらない。


 だから詩は、ようやく別の言葉を口にすることができた。


「ありがとう」


 誰もいない庭へ向かって、静かに語りかける。


「出会ってくれて」


 風が枝を揺らした。


「愛してくれて」


 白い花びらが、光の中を舞う。


「家族になってくれて」


 声が少し震えた。


「そして……私の人生に、幸せというものがあることを教えてくれて」


 最後の言葉を口にした途端、涙が頬を伝った。


 けれど、その表情は穏やかだった。


 悲しみに押し潰されるための涙ではない。


 長いあいだ胸の奥に閉じ込めていた幸せを、ようやく抱きしめるための涙だった。


 そのとき、頭上から懐かしい声が落ちてきた。


「ホーホケキョ」


 詩は顔を上げた。


 梅の枝に、あの鶯がとまっている。


「……また来たの?」


 思わず笑みがこぼれた。


 鶯は枝から枝へ小さく飛び移り、やがて詩のいる場所に近い枝へ降りる。


 その様子を眺めながら、詩はふと、幼い頃の自分を思い出した。


 歌を歌えば、誰かが聞いてくれた。


 自分の声を待ってくれる人がいた。


 そのことが、あの頃はただ嬉しかった。


「……じゃあ、もう一度歌おうか」


 春の風が、梅の枝を揺らす。


 詩は静かに息を吸い、幼い頃から何度も口ずさんできた歌を、今度は一つひとつの言葉を確かめるように歌い始めた。


「一かけ 二かけて 三かけて……」


 母から受け取った歌。


 春真にも聞いてもらった歌。


 そして、梅にも聞かせた歌。


 長い年月を越えて、詩はその歌を最後まで歌った。


 歌い終えると、庭にはしばらく静けさが残った。


 詩はゆっくりと息を吐く。


 胸の奥まで歌を届けたことで、身体の中に残っていた古い記憶まで、一緒に外へ吐き出されたような気がした。


 鶯は枝から飛び立つことなく、静かに詩を見つめている。


 その姿を見ながら、詩は小さく笑った。


「……何度でも、って言ったものね」


 遠い記憶の中で、少年が笑う。


 ――何度でも。


 ――君が聞きたいなら。


 詩は目を閉じた。


 耳の奥に、その声が鮮やかに蘇る。


 あの頃の自分には、その約束がどれほど大切なものになるのか分からなかった。ただ、自分の歌を聞いてくれる人がいることが嬉しかった。自分の声を待ってくれる人がいることが、たまらなく嬉しかった。


 そして今、その小さな約束は、長い年月を越えて自分のところへ帰ってきた。


「……本当に、何度でも聞いてくれたのね」


 頬を、一筋の涙が流れた。


 けれど、その涙はもう悲しみだけのものではなかった。


 過ぎ去った幸せを、ようやく抱きしめるための涙だった。


     ◇


 春は、何度も巡ってきた。


 詩もまた、少しずつ歳を重ねていった。


 歩ける距離は次第に短くなり、梅の木の下まで行けない日も増えていった。そんな日は、窓辺に椅子を置いてもらい、そこから庭を眺めた。


 それでも春になれば、梅は必ず花を咲かせた。


 白い花。


 淡い香り。


 冬の名残を含んだ柔らかな風。


 そして、どこからともなく聞こえてくる鶯の声。


「ホーホケキョ」


 その声を聞くたび、詩は窓辺で微笑んだ。


 かつては、鶯の声を聞くたびに胸の奥へ寂しさが広がった。誰かを思い出させる声だったからだ。


 けれど、今は違う。


 その声は、長い旅を歩いてきた自分に、「もう大丈夫」と静かに伝えてくれるようだった。


 ある春の日、詩はいつものように窓辺に座り、庭いっぱいに咲く白い梅の花を眺めていた。


 風が吹くたび、花びらが枝から離れ、陽の光を受けながらゆっくりと舞っている。


 その景色を見つめていると、遠い昔から今日までの出来事が、一本の長い道として胸の中に浮かび上がってきた。


 両親を失ったこと。


 梅の木の下で少年と出会ったこと。


 花街へ行ったこと。


 春真に迎えに来てもらったこと。


 梅を産んだこと。


 三人で暮らしたこと。


 戦争が激しくなっていったこと。


 あの日の炎。


 そして、そのあとに続いた長い、長い悲しみ。


 どれ一つとして、切り離すことはできなかった。


 もし両親を失わなければ。


 もし梅の木の下で少年と出会わなければ。


 もし花街へ行かなければ。


 もし春真が迎えに来なければ。


 もし梅が生まれなければ。


 きっと、今の自分はいない。


 人生には、何度願ってもやり直すことのできない道がある。


 けれど、過去をやり直せないからこそ、その一つひとつが繋がり、今の自分を形づくっている。


 詩は胸へ手を当てた。


 そこには、たくさんの傷がある。


 長い年月を生きても消えなかった傷もある。


 けれど、その傷の奥には、それと同じくらい確かな幸せも残っていた。


「……私、帰ってきたのね」


 小さく呟く。


 誰もいない部屋だった。


 それでも、その言葉を口にした瞬間、どこかから答えが返ってくるような気がした。


「ホーホケキョ」


 詩は微笑んだ。


「うん」


 窓の外へ目を向け、白い花を見つめる。


「ただいま」


 その言葉は、誰か一人へ向けたものではなかった。


 母へ。


 父へ。


 梅へ。


 春真へ。


 そして、幼い日の自分へ。


 長いあいだ帰ることのできなかった、すべての場所へ向けた言葉だった。


 詩は静かに目を閉じた。


 すると、遠い昔の声が聞こえた気がした。


 ――怖いままでいい。


 ――一人で抱えなくていいから。


 その言葉を胸の中でそっと抱きしめながら、詩は微笑む。


「……ありがとう、坊ちゃん」


 長い旅の途中で何度も立ち止まりながら、それでも歩いてきた。


 そして今、詩はようやく分かっていた。


 帰る場所とは、過去そのものではない。


 失った人のもとへ戻ることでもない。


 これまで歩いてきた道のすべてを、自分の中へ受け入れたとき――そこが、自分の帰る場所になるのだ。


     ◇


 それから、さらに幾年かが過ぎた。


 詩の身体は、もうほとんど動かなくなっていた。


 長い人生を歩き続けてきた身体が、静かにその役目を終えようとしている。


 療養所の静かな部屋には、柔らかな春の光が差し込んでいた。白い壁に淡い光が揺れ、開け放たれた窓の向こうから、かすかな風が入り込んでくる。


 詩はベッドの上で、ゆっくりと目を開いた。


 身体を動かすことさえ、今では簡単ではない。それでも視線だけを窓へ向ける。


 そこに、白い花が見えた。


 梅の花だった。


 その景色を見た瞬間、詩の顔に穏やかな笑みが浮かんだ。


「……今年も、咲いたのね」


 声はひどく掠れていた。


 けれど、その一言には、長い人生を生きてきた人だけが持つ静かな満足が滲んでいた。


 枕元には、小さな紙片が置かれていた。


 そこには、幼い頃から何度も歌い、春真にも梅にも聞かせた童歌の最初の言葉が、詩自身の字で記されている。


 ――一かけ 二かけて 三かけて。


 詩は震える指を伸ばし、その文字をゆっくりとなぞった。


 すると、胸の奥から遠い記憶が静かに浮かび上がってくる。


 梅の木。


 白い花。


 小さな鞠。


 幼い自分。


 母の手。


 少年の笑顔。


 そして、家族で過ごした春。


「……坊ちゃん」


 小さく呟く。


 返事はない。


 けれど――。


「ホーホケキョ」


 窓の外から、鶯の声が聞こえた。


 詩の目が、ゆっくりと開く。


 窓辺には、一羽の鶯がとまっている。


 あの日と同じように、逃げることもなく、ただ静かに詩を見つめていた。


 詩は、その姿を見ながら手を伸ばした。


 けれど、もう窓辺までは届かない。


 それでも、指先を伸ばす。


 まるで遠い昔に握った、小さな手をもう一度探すように。


「……春真さん」


 名前を呼ぶ。


 胸の奥が、ほんの少しだけ震えた。


「……梅」


 その名を呼ぶと、幼い娘の笑顔が浮かんだ。


 花びらを両手いっぱいに拾っていた、小さな姿。


 自分を見上げて、「お母さん」と呼んでいた声。


 春真の隣で笑っていた家族の時間。


 詩は、その一つひとつを胸の中へ抱きしめるように、目を閉じた。


「……ただいま」


 鶯が鳴いた。


「ホーホケキョ」


 その声を聞いた瞬間、遠い昔の言葉が鮮やかに蘇った。


 ――怖いままでいい。


 ――だから、一緒に帰ろう。


 詩は静かに笑った。


「……うん」


 涙が一筋、頬を伝う。


「……一緒に、帰ろう」


 かつて春真からもらった言葉だった。


 けれど今度は、詩自身がその言葉を返すように呟いた。


 長い人生を歩いた。


 愛した。


 失った。


 泣いた。


 笑った。


 何度も立ち止まった。


 それでも、もう一度、生きることを選んだ。


 だから今度は、何も捨てずに帰れる。


 悲しみも。


 幸せも。


 出会いも。


 別れも。


 そのすべてを抱えたまま。


 詩は窓の外の梅の花を見つめた。


 白い花びらが、春の風に揺れている。


 その向こうに、幼い自分がいるような気がした。


 梅の木の下で、少年が笑っている。


 少し離れたところには、幼い梅がいる。


 母がいる。


 父がいる。


 みんながこちらを見ている。


 けれど、その光景は悲しいものではなかった。


 長い年月を越えてようやく辿り着いた詩を、誰も責めることなく、ただ穏やかに見守っている。


 詩は、ゆっくりと目を閉じた。


 もう、寂しくなかった。


 長い旅は、終わろうとしている。


 けれど、それは悲しい終わりではなかった。


 人生を終えるということは、すべてを失うことではない。


 これまで歩いてきた道も。


 出会った人も。


 愛した人も。


 失った人も。


 そのすべてを抱えたまま、自分の中へ還っていくことなのだ。


 詩の唇が、ほんの少し動いた。


「……一かけ……」


 声にならないほど小さな声だった。


「……二かけて……」


 そして、微笑む。


「……三かけて……」


 幼い頃から何度も歌ってきた歌を、詩は最後にもう一度、心の中で辿った。


 一かけ 二かけて 三かけて

 四かけて 五かけて 六をかけ

 橋の欄干 腰を掛け

 遥か向こうを 眺めれば

 十七、八の姉さんが

 花と線香 手にもって

 姉さん、姉さん どこへ行く

 わたしは九州 鹿児島の

 西郷隆盛 娘です

 明治十年 戦役に

 切腹なされた 父上の

 お墓詣りに 参ります

 お墓の前で 手を合わせ

 なむだぶつと 唱えます

 お墓の中から幽霊が

 ゆーらりゆらりと……


 歌が胸の中を静かに流れていく。


 母から受け取った歌。


 春真に聞かせた歌。


 梅に聞かせた歌。


 そして、自分自身の長い人生を見つめるための歌。


 窓の外で、鶯が鳴いた。


「ホーホケキョ」


 春の光が、部屋いっぱいに差し込む。


 白い梅の花びらが風に舞い、その一枚が、開いた窓から静かに入り込んできた。


 詩は、もう一度だけ目を開いた。


 窓の向こうに、白い梅の花が見える。


 その花の下に、誰かが立っているような気がした。


 少年だった。


 いつかの春と同じ顔で、少し照れたように笑っている。


 詩は、その姿を見つめながら、微笑んだ。


「……坊ちゃん」


 もう、声はほとんど出なかった。


 それでも、その名だけは確かに届いたような気がした。


 少年が笑う。


 そして、静かに手を差し出す。


 詩は、その手を取るように、ゆっくりと目を閉じた。


 最後に聞こえたのは――。


「ホーホケキョ」


 春の鶯の声だった。


 それは、さよならの声ではなかった。


 長い旅を終えた人を迎える、「おかえり」の声だった。


 梅の花が咲く頃。


 詩は、ようやく帰ってきた。


 母のもとへ。


 父のもとへ。


 梅のもとへ。


 そして――ずっと待っていてくれた、あの人のもとへ。


 けれど、本当に還った場所は、どこか遠い世界ではなかった。


 長い人生の中で出会い、愛し、失い、それでも歩き続けてきた――自分自身の人生だった。


 少女だった自分も。


 花街にいた自分も。


 母になった自分も。


 家族を失った自分も。


 何度も立ち止まり、それでも歩き出した自分も。


 そのすべてが、一人の「詩」だった。


 どれか一つを捨ててしまえば、今の自分にはならなかった。


 だから、もう何も捨てなくていい。


 悲しみも。


 幸せも。


 出会いも。


 別れも。


 あの日の後悔も。


 あの日までに受け取った愛も。


 すべてを抱えたまま、還ればいい。


 それが、詩の最後の旅だった。


 梅の花は、今年も咲いていた。


 白く、静かに。


 長い枝を春の空へ伸ばしている。


 春の風が吹く。


 花びらが一枚、窓辺を通り過ぎる。


 鶯が、もう一度だけ鳴いた。


「ホーホケキョ」


 長い旅の終わりに。


 そして、新しい春の始まりに。


 ――詩は、あなたに還った。


 梅の花の咲く頃、あなたに還る。


 それは、失った人のもとへ帰る物語ではない。


 長い人生を旅した一人の女性が、最後に自分自身の人生を抱きしめ、「生きた」と言える場所へ還っていく物語だった。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


『梅咲けば あなたのもとへ 還る春』は、これにて完結となります。


一人の女性が歩んだ、長い人生の旅。

その旅を最後まで見届けていただけたことを、心から嬉しく思います。


童歌、梅の花、遠い春の記憶、そして「最後に帰る場所」。


この物語が、皆さまの心に何かひとつでも残っていましたら幸いです。


もし少しでも心に残る物語だったと感じていただけましたら、

「評価」や「ブックマーク」で応援していただけると、とても嬉しいです。


いただいた評価やブックマークは、これから物語を書いていく大きな励みになります。


最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。


またどこかの物語で、お会いできますように。


もふ森こはく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。