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『梅咲けば あなたのもとへ 還る春』  作者: もふ森こはく


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6/7

第六章「失われた春」

 それから、幾度目かの春が巡ってきた。


 今年も、梅の花が咲いた。


 朝の淡い光を受けた白い花々は、庭いっぱいに小さな灯をともしたように枝を彩り、春の風が吹くたび、細い枝をしなやかに揺らしている。


 揺れるたびに花びらが幾枚かこぼれ、陽の光を透かしながら宙を舞い、やがて庭の土へ静かに重なっていった。


 その花の下を、幼い梅が駆けている。


「お母さん、見て!」


 振り返った娘は、両手いっぱいに花びらを抱えていた。小さな手からこぼれた花びらが風にさらわれ、梅自身の髪や肩へも降りかかる。


「まあ……そんなに拾ったの?」


 詩が笑いながらしゃがみ込むと、梅は嬉しそうに胸を張った。


「いっぱい!」


「本当にいっぱいね。これじゃあ、梅の木が寂しがるんじゃないかしら」


 少しからかうように言うと、梅は真剣な顔で木を見上げた。枝いっぱいに残る花を確かめるように眺めてから、安心したように首を振る。


「大丈夫!」


「そう?」


「うん。まだいっぱいあるもん!」


 その答えがおかしくて、詩は声を立てずに笑った。


「そうね。梅の言うとおりかもしれないわ」


 すると、少し離れたところから春真の穏やかな声が届いた。


「そうだな。梅が少しくらい拾ったところで、まだまだ花は残っているよ」


 庭先に立つ春真は、二人の様子を目を細めながら眺めていた。以前より少し大人びた落ち着きがその表情にはあったけれど、詩と梅を見つめるときに浮かぶ柔らかな笑みだけは、少年だった頃から変わらない。


「ほら、梅。お父さんも大丈夫って言ってる」


「でしょう?」


 梅は得意そうに笑うと、また花びらを拾い始めた。


 詩もそんな娘の姿を眺めながら、自然と頬を緩めていた。


 ――いつもの春だった。


 梅の花が咲き、娘が庭を走り、その姿を春真が眺めている。


 それだけの光景だった。


 けれど、詩にとっては、それが何よりも大切だった。


 ほんの数年前まで、こんな日が自分の人生に訪れるなどとは、想像することさえできなかった。


 両親を失い、梅の木の下でひとり泣いていた少女。


 明日を生きることだけを考えながら、花街で日々を過ごしていた娘。


 そして、長い年月を越え、ようやく取り戻した家族。


 詩はふと顔を上げ、梅の木を見つめた。


 白い花が風に揺れている。


 木そのものは、あの頃と何も変わらない。


 変わったのは、自分の隣にいる人と、この木の下に立つ意味だった。


 かつてここは、失った家族を思いながらひとりで泣く場所だった。けれど今は、家族とともに笑い、明日のことを話す場所になっている。


「お母さん?」


 梅の声に、詩は我に返った。


「なあに?」


「今日も歌って」


「歌?」


「うん。あの歌」


 詩は思わず笑った。


「また?」


「うん!」


 梅が嬉しそうに頷く。


 そのやり取りを聞いていた春真も、少し離れた場所から穏やかに声をかけた。


「僕も聞きたいな」


「坊ちゃんまで……」


 詩が呆れたように笑うと、春真は少し照れたように肩をすくめた。


「だって、梅が好きなんだろう?」


「坊ちゃんもでしょう?」


「……そうだったね」


 二人の視線が重なり、どちらからともなく笑いがこぼれる。


 詩は梅の小さな手を握り、梅の木を見上げながら、ゆっくりと歌い始めた。


「一かけ 二かけて 三かけて……」


 一かけ 二かけて 三かけて

 四かけて 五かけて 六をかけ

 橋の欄干 腰をかけ

 遥か向こうを 眺めれば

 十七、八の姉さんが

 花と線香 手にもって

 姉さん、姉さん どこへ行くの

 わたしは九州 鹿児島の

 西郷隆盛 むすめです

 明治十年 戦役に

 切腹なされた 父上の

 お墓詣りに 参ります

 お墓の前で 手をあわせ

 なむだぶつと となえます

 お墓の中から幽霊が

 ゆーらりゆらりと……


 幼い頃、母から教えてもらった童歌だった。


 かつては、失った家族を思いながらひとりで歌った歌だった。


 母の膝元で覚えた旋律を、寂しさに押し潰されそうな夜に何度も口ずさみ、もう会えない両親の面影を胸の中へ繋ぎ止めようとしていた。


 けれど、今は違う。


 隣には春真がいて、目の前には梅がいる。


 同じ旋律なのに、そこから運ばれてくるものは、もう悲しみだけではなかった。


 梅は楽しそうに身体を揺らしながら聞き入り、春真は何も言わず、その声を静かに受け止めている。


 歌い終えた詩は、梅の頭へそっと手を置いた。


「覚えておいてね」


「うん!」


「この歌はね、お母さんのお母さんから教えてもらった歌なの」


「おばあちゃん?」


「そう」


 梅は不思議そうに首を傾げた。


 詩はその小さな顔を見つめながら、微笑む。


「いつか梅も、この歌を誰かに教えてあげられるといいね」


「うん! 教える!」


 元気な返事に、詩は目を細めた。


 春真も、そんな二人の姿を黙って見つめている。


「きっと覚えるよ」


「そうですね」


 詩は春真へ顔を向け、穏やかに笑った。


 ――この時間が、ずっと続けばいい。


 それは願いと呼ぶほど大げさなものではなかった。


 家族がいて、花が咲いて、子どもの笑い声が聞こえる。


 明日になれば、また朝が来て、梅が目を覚まし、春真が帰ってきて、自分も二人を迎える。


 そんな当たり前の毎日が、これからも続いていく。


 詩は、それを疑わなかった。


 けれど、その頃からだった。


 遠くの空に、春の穏やかさとは異なる音が、少しずつ混じり始めたのは。


     ◇


 戦争は、いつの間にか遠い場所の出来事ではなくなっていた。


 町へ出れば、以前にはなかった傷跡が目につくようになった。焼け落ちた家の跡には黒ずんだ柱だけが残り、人の声で賑わっていた店先には閉ざされた戸が増えている。


 道端では食料が配られ、人々は小さな袋を抱えながら、以前のように立ち話をすることも少なくなった。


 空を見上げれば、見慣れない飛行機の姿を探すように誰かが目を細め、遠くから響いた音に、別の誰かが不安そうに顔を上げる。


 屋敷の中にも、その影は少しずつ入り込んできた。


 食卓に並ぶものが減り、使用人たちの会話も自然と小さくなった。


 これまでなら当たり前のように手に入っていたものが手に入りにくくなり、家の中に漂う空気からも、少しずつ余裕が失われていく。


 春真も以前より家を空けることが増えていた。


 家のことだけではない。


 町の人々を助けるため、物資の手配や避難場所の準備にも関わっていた。


 自分たちだけが安全であればいいとは、どうしても考えられないのだろう。


 ある夕暮れ、詩が縁側に座って梅の着物のほつれを繕っていると、庭から戻ってきた春真が、疲れた様子で腰を下ろした。


「お帰りなさい」


「ただいま」


 春真は笑った。


 けれど、その笑顔には、以前にはなかった疲れが滲んでいる。


 詩は針を布に通しながら、彼の顔をそっと見つめた。


「今日は、少し遅かったですね」


「うん。町のほうが少し騒がしくてね」


「何かあったんですか?」


 詩が尋ねると、春真はすぐには答えなかった。


 庭の向こうへ一度視線を向け、それから、少しだけ声を落とす。


「……空襲の警報があったんだ」


 詩の手が止まった。


「空襲……」


「ああ。でも、今日は大丈夫だったよ」


 春真は安心させるように笑った。


 けれど、その笑顔だけでは隠しきれない緊張が目の奥に残っている。


 詩はそれを見逃さなかった。


 もう、あの頃の少女ではない。


 世界が少しずつ変わっていくことも、怖いものが自分たちの暮らしへ近づいていることも、分かってしまう年齢になっていた。


「これからも……増えるんでしょうか」


 詩の声は小さかった。


 春真はしばらく黙ったあと、誤魔化すことなく答えた。


「分からない」


 その一言が、かえって胸に重く響いた。


「でも、できることはするよ。詩と梅を守るために」


 詩は針を置いた。


「私も、一緒に何かします」


「詩は梅のそばにいて」


「でも……」


「それが一番大切だから」


 春真の声は穏やかだった。けれど、その目にはいつになく強い意志が宿っている。


「僕は外でできることをする。詩は梅を守って。二人が無事なら、それでいい」


 詩はすぐには答えられなかった。


 ただ、目の前にいる春真を見つめる。


 守る。


 その言葉が、以前よりずっと重く聞こえた。


 戦争というものが身近になればなるほど、誰かを守るということが、ただ強く願うだけでは叶わないものだということを思い知らされる。


 それでも、詩は最後には小さく頷いた。


「……はい」


 春真はそんな詩の手を取り、包み込むように握った。


「怖い?」


 詩は少し迷った。


 大丈夫だと笑うこともできた。


 けれど、今はもう、強がる必要はないような気がした。


「……はい」


 素直に答えると、春真は少しだけ笑った。


「僕もだよ」


 詩は驚いて顔を上げる。


「坊ちゃんも?」


「うん」


 春真は苦笑しながら、握った手にわずかに力を込めた。


「怖くない人なんて、いないと思う」


 そして、詩の目をまっすぐ見つめながら、静かに続けた。


「だから、怖いままでいい。一人で抱えなくていいから」


 その言葉を聞いた瞬間、詩の胸の奥が静かに熱を持った。


 ――怖いままでいい。


 その言葉を、詩は知っていた。


 花街から出ることを怖れていたあの日、春真が自分にくれた言葉だった。


 怖いままでいい。


 だから、一緒に帰ろう。


 あのときも、春真は詩の恐怖を否定しなかった。怖くなくなるまで待つのでも、無理に忘れさせるのでもなく、怖いままの詩の手を取って、一緒に歩いてくれた。


 今も同じだった。


 どれほど世界が変わってしまっても、この人は自分の隣にいる。


 詩は、そう信じた。


 それだけで、張り詰めていた胸の奥が、ほんの少しだけ緩んだ。


     ◇


 それから戦争は、さらに激しくなっていった。


 夜になると遠くで爆発音が聞こえる日が増え、空が赤く染まる夜も珍しくなくなった。


 警報が鳴れば屋敷の者たちは灯りを消し、声を潜めて身を低くする。


 何かが起こるたび、詩は無意識に梅を抱き寄せるようになっていた。


 梅はまだ幼かった。


 大人たちの緊張は感じ取れても、それが何を意味するのかまでは分からない。


 ただ、大きな音がすれば怖がり、詩の着物を小さな手でぎゅっと握る。


 ある夜も、遠くで響いた爆発音に梅が泣き出した。


「大丈夫よ」


 詩は娘を胸に抱き、何度もその背中を撫でた。


「大丈夫だからね。怖くないよ」


 そう言い聞かせながら、詩自身の手も震えている。


 その震えを感じ取ったのか、春真が隣へ座り、二人を包むように肩を寄せた。


「大丈夫」


「……はい」


「梅もいる。詩もいる。僕もいる」


 その言葉を聞いて、詩はそっと目を閉じた。


 昔、両親を失った夜には、誰もいなかった。


 暗闇の中で、ただ母から教わった歌だけを思い出していた。


 けれど、今は違う。


 腕の中には娘がいる。


 隣には春真がいる。


 怖くても、三人でいる。


 だから詩は、梅を抱きしめたまま、小さな声で歌い始めた。


「一かけ 二かけて 三かけて……」


 梅はまだ泣いていた。


 それでも詩は歌を止めなかった。


 「四かけて 五かけて 六をかけ……」


 母から受け取った歌を、今度は自分が娘へ渡すように、一節ずつ、ゆっくりと歌い続ける。


 震える声は暗い部屋の中へ静かに流れ、外から響く不穏な音さえ、その間だけは遠くへ押しやるようだった。


 やがて梅の泣き声が少しずつ小さくなり、詩の胸に押しつけられていた小さな身体から力が抜けていく。


 詩は娘の背中を一定のリズムで撫でながら、最後の節まで歌い切った。


 歌が終わる頃には、梅は詩の胸の中で静かな寝息を立てていた。


 春真は眠った娘の顔を見つめ、それから詩へ視線を戻した。


「……その歌、本当に強いね」


 詩は、眠る梅を起こさないように声を落として笑った。


「母から教わったんです」


「うん」


「だから、きっと梅も大丈夫です」


 春真は小さく頷き、梅の頭へそっと手を置いた。


「そうだね。きっと大丈夫だ」


 その夜、三人は肩を寄せ合ったまま、夜が明けるのを待った。


 窓の外では風が木々を揺らし、遠くでは戦争の音が途切れず続いている。それでも、その小さな部屋の中だけは、三人の呼吸と梅の寝息が重なり、かろうじて穏やかな時間が残されていた。


 それが、三人に残された最後の穏やかな夜になることを、このときの詩はまだ知らなかった。


     ◇


 そして、あの日が来た。


 朝から空は薄く曇っていた。


 春の風が庭を渡り、白い梅の花びらを静かに舞い上げている。


 詩は朝餉を終えると、町へ出る支度をしていた。食料が少なくなっており、屋敷の中にもいくつか必要なものがあったため、その日は詩が一人で町へ出ることになっていた。


 玄関先で靴を整えていると、春真が見送りに出てきた。


「気をつけて」


「はい」


「できるだけ早く帰ってきて」


 いつもの言葉だった。


 けれど、その日はなぜか、その一言が妙に胸へ残った。


 詩は振り返って春真の顔を見る。


「分かっています。梅にも、そう言っておいてください」


「分かった」


 そのとき、奥から小さな足音が聞こえた。


「お母さん!」


 梅が駆けてくる。


 詩はすぐにしゃがみ込み、娘を抱きしめた。小さな身体から伝わる温もりに頬を寄せながら、いつものように笑う。


「すぐ帰ってくるからね」


「うん!」


「いい子にして待っていてね」


「うん!」


 梅は嬉しそうに頷いた。


 春真がその姿を見ながら、穏やかに笑う。


「僕もいるから大丈夫だよ」


「お父さんと待ってる!」


「そうか」


 詩は二人を交互に見つめた。


 春真。


 梅。


 自分がようやく手に入れた、大切な家族。


 それが当たり前のように、そこにいる。


 だからこそ、何も疑わなかった。


 何かが変わるなどとは、考えもしなかった。


「行ってきます」


「いってらっしゃい」


 春真の声が返る。


「いってらっしゃい、お母さん!」


 梅の声が重なる。


 詩は玄関を出てから一度だけ振り返り、二人に笑って手を振った。


「行ってきます」


 そして、一人で屋敷を出た。


 それが最後の別れになるなどとは、夢にも思わなかった。


     ◇


 町へ着いた頃には、空は朝よりもずっと重たく曇っていた。


 店先に並ぶ品物は少なく、人々の顔にも余裕がない。詩は必要なものをできるだけ手早く買い集め、荷物を抱え直した。


 早く帰ろう。


 今日は、なぜかそんな気持ちが強かった。


 春真と梅が待っている。


 帰れば、きっといつものように梅が駆けてきて、春真が笑う。


 その光景を思い浮かべながら、詩は帰路についた。


 その途中だった。


 遠くから、低く唸るような音が聞こえてきた。


 最初は風の音かと思った。


 けれど、その音は次第に大きくなり、空気そのものを震わせるような響きへ変わっていった。


 ゴォォォォォ……。


 詩は足を止め、空を見上げた。


 雲の向こうに、いくつもの黒い影が浮かんでいる。


「……え?」


 次の瞬間、警報が鳴り響いた。


 人々が一斉に走り出す。誰かが叫び、誰かが子どもの手を引き、店の戸が慌ただしく閉められていく。


 詩もようやく、その音の意味を理解した。


「空襲……?」


 胸の奥が、一気に冷たくなる。


 その瞬間、頭に浮かんだのは春真だった。


 そして、梅。


「……梅」


 唇から名前がこぼれる。


「春真さん……」


 詩は荷物を抱え直し、走り出した。


 屋敷へ帰らなければならない。


 ただ、それだけしか考えられなかった。


 遠くで爆発音が響き、地面が揺れる。人々の叫び声が重なり、空には黒い煙がいくつも立ち上っていく。


 詩は何度も転びそうになりながら、それでも走った。


「待ってて……」


 息が苦しい。


 胸が痛い。


 けれど、足を止めることなどできなかった。


「梅……!」


 もう一度、娘の名前を呼ぶ。


「お母さん、今帰るから……!」


 もちろん返事はない。


 それでも、呼ばずにはいられなかった。


 やがて詩の視界の先で、遠くの空が赤く染まった。


 轟音が地面を揺らす。


 その方向を見た瞬間、詩の足が止まった。


 ――屋敷のある方角だった。


「……え?」


 次の瞬間、黒い煙が空高く立ち上った。


「……いや」


 詩の顔から血の気が引いていく。


「嘘……」


 手にしていた荷物が、力を失った指から滑り落ちた。


「……そんな……」


 考えるより先に、詩は走っていた。


 転んでも起き上がる。膝が痛んでも、足がもつれても立ち止まらない。煙が見える。炎が見える。そのたびに胸の奥が締めつけられ、呼吸が浅くなる。


「梅……!」


「春真さん……!」


「お願い……!」


 返事はない。


 それでも何度も呼び続けた。


「お願いだから……!」


 やがて、見慣れた道が見えてくる。


 けれど、その先に広がっていた光景は、詩が知っている屋敷の姿ではなかった。


     ◇


 屋敷は、崩れていた。


 屋根は落ち、柱は折れ、壁は大きく崩れ落ちている。庭は黒く焼け焦げ、あれほど白い花を咲かせていた梅の木にも炎が及んでいた。


 風が吹くたび、焼けた枝から灰が舞う。


 ついさっきまで春の光を受けていたはずの庭が、まるで別の場所になっていた。


 詩は、その場に立ち尽くした。


 声が出ない。


 目の前にあるものを、頭が理解することを拒んでいる。


「……ここ……?」


 ここは、自分たちが暮らしていた場所だった。


 春真と暮らした家。


 梅が小さな足で走り回った庭。


 三人で童歌を歌った梅の木。


 昨日まで、確かにそこにあったもの。


「……春真さん?」


 返事はない。


「梅……?」


 もちろん、返事もない。


 それでも詩は、二人の名前を呼びながら瓦礫へ近づいた。


「帰ってきたよ……」


 一歩、足を進める。


「お母さん、帰ってきたよ……」


 声が震える。


 返事はない。


 詩は瓦礫の前に膝をつき、素手で崩れた木材や石を掻き分け始めた。


 まだ熱が残っている。


 指先が焼ける。


 尖った木片が皮膚を裂き、爪が割れる。


 それでも、手を止めることができなかった。


「どこ……?」


 涙が溢れる。


「どこにいるの……?」


 瓦礫を一つ退かし、また一つ退かす。


「梅……!」


 声が震える。


「返事して……!」


 何も聞こえない。


「お母さん、ここにいるよ……!」


 そのときだった。


 瓦礫の奥に、小さな赤い布が見えた。


 詩の手が止まった。


 それは、梅がよく着ていた着物の一部だった。


「……梅?」


 震える手で布を掴む。


 その下から、小さな身体が現れた。


 詩は息を呑んだ。


「……梅……」


 抱き上げた身体は、あまりにも軽かった。


 いつもなら抱きしめれば、小さな手が詩の着物を掴み、頬を寄せてくる。けれど今は、何もない。


「ねえ……」


 詩は娘の頬に触れた。


「起きて……?」


 返事はない。


「梅……」


 もう一度呼ぶ。


「お母さん、帰ってきたよ……」


 それでも、梅は目を開けなかった。


 詩は娘の身体を抱きしめた。


「お願い……」


 声が崩れる。


「起きて……」


 その小さな身体を胸に抱いたまま、詩は周囲を見回した。


 春真の姿が見えない。


「……春真さんは?」


 震える声で呟きながら、瓦礫の向こうへ目を向ける。


 そして、その先に人影を見つけた。


「……春真さん?」


 詩は梅を抱いたまま、震える足で近づいた。


 瓦礫の下に、春真が倒れていた。


 その身体は、梅が見つかった場所を庇うように横たわっている。


 詩には、その姿が、最後まで娘を守ろうとしていたように見えた。


 それだけで、胸の奥が押し潰される。


「……春真さん」


 膝から力が抜け、詩はその場に座り込んだ。


 震える手を伸ばし、頬に触れる。


 冷たい。


「……起きて」


 返事はない。


「私、帰ってきたよ……」


 目は開かない。


「春真さん……」


 肩を揺らしても、頬に触れても、何度名前を呼んでも、春真はもう動かなかった。


 詩は梅を抱いたまま、二人の間に崩れ落ちた。


「……嫌」


 ようやく声が出た。


「嫌……」


 梅を胸に抱きしめる。


「梅……」


 そして春真を見る。


「春真さん……」


 二人の名前を交互に呼ぶ。


 けれど、どちらからも返事はない。


「……どうして?」


 涙が頬を濡らした。


「どうして……」


 朝まで笑っていた。


 ほんの少し前まで、確かに二人はそこにいた。


 自分は「行ってきます」と言った。


 二人は「いってらっしゃい」と返してくれた。


 それなのに。


「私、すぐ帰るって……」


 声が震える。


「すぐ帰るって言ったでしょう……?」


 梅の頬へ自分の頬を寄せる。


「お母さん、帰ってきたよ……」


 春真の手を握る。


「春真さんも、待ってるって……」


 返事はない。


 詩は何度も首を横に振った。


「違う……」


 自分に言い聞かせるように、何度も呟く。


「こんなの、違う……」


 昨日まであったものが。


 朝まで笑っていた二人が。


 どうして、こんなにも突然いなくなるのか。


 頭では理解しなければならないと分かっていても、心がそれを拒んでいた。


「ねえ……」


 詩は春真の手を両手で包み込んだ。


「来年も、梅の花を見るって言ったでしょう……?」


 答えはない。


「梅が大きくなるところ、一緒に見るって……」


 答えはない。


「私と梅を守るって……言ったでしょう……?」


 声が震え、涙が次々とこぼれる。


「怖いままでいいって……」


 あの日の言葉が、あまりにも鮮明に蘇った。


「一人で抱えなくていいって……」


 詩は春真の手を握りしめた。


「なのに……」


 喉が震える。


「なのに、どうして私を一人にするの……?」


 その問いに答える声は、もうなかった。


 詩の腕の中には、冷たくなった娘がいる。


 そのすぐそばには、もう二度と目を開けることのない春真がいる。


 それでも詩は、二人を離せなかった。


 離してしまえば、本当に二人がいなくなってしまうような気がした。


「お願い……」


 声が震える。


「返して……」


 詩は空を見上げた。


「私の家族を返して……」


 誰に向かって叫んでいるのか、自分でも分からない。


 神なのか。


 戦争なのか。


 運命なのか。


 それとも、この理不尽な世界そのものなのか。


「お願いだから……」


 嗚咽が声を塞いでいく。


「私の大切なものを……もう、奪わないで……」


 けれど、空は何も答えなかった。


 ただ黒い煙だけが、崩れた屋敷からゆっくりと空へ昇っていった。


 その煙を見上げながら、詩は初めて知った。


 人は、本当に心臓をえぐられるような痛みを感じることがあるのだと。


 胸の奥が空っぽになるのではない。


 そこにあったものを根こそぎ引き抜かれ、その跡に、二度と埋まることのない巨大な穴を残されたようだった。


 息を吸うだけで苦しい。


 声を出すだけで胸が裂ける。


 目を開けて世界を見ていることさえ、痛かった。


「……春真さん……」


 詩は泣きながら、その名前を何度も呼んだ。


「……梅……」


 娘の名前も、何度も呼んだ。


 けれど。


 二人は、もう答えてくれなかった。


     ◇


 それからのことを、詩はよく覚えていなかった。


 春真がいない。


 梅がいない。


 その事実だけが、何度も何度も胸の中へ突き刺さってくる。


 誰かが詩を瓦礫の中から引き離し、傷ついた手を手当てしてくれた。誰かが食事を用意し、誰かが眠るように言った。


 けれど、何を言われても詩には届かなかった。


 目の前にいる人が何を話しているのかも、何を心配しているのかも、うまく理解できない。ただ、胸の中に開いた穴だけが、何もかもを吸い込んでいく。


 朝になっても、春真は帰ってこない。


 夜になっても、梅の声は聞こえない。


 庭へ出ても、二人の姿はどこにもない。


 梅の木を見れば、そこには焼け焦げた枝が残っている。


 詩は何度も、その木の下へ座った。


 何時間も。


 何日も。


 気づけば、何もせずに一日が終わっていることもあった。


「……梅」


 名前を呼ぶ。


 風が吹く。


「……春真さん」


 返事はない。


 それでも詩は、何度も呼んだ。


「坊ちゃん……」


 その呼び方だけは、昔と変わらなかった。


 幼い頃、梅の木の下でそう呼んだ。


 花街から自分を迎えに来てくれたときも、詩はそう呼んだ。


 だから、今も口からこぼれる。


 けれど、もう返事をしてくれる人はいなかった。


 詩は、あの日のことを何度も思い返した。


 どうして自分は外へ出たのだろう。


 なぜ、あの日、一人で町へ行ったのだろう。


 なぜ梅を連れて行かなかったのだろう。


 なぜ、もっと早く帰らなかったのだろう。


 考えても、答えは出ない。


 それでも心は、同じところへ何度も戻ってしまう。


 ――自分がいなかったから。


 自分が二人のそばにいなかったから。


 もし自分がいたら。


 もし梅を連れていたら。


 もし、あの日、町へ行かなければ。


 もし。


 もし。


 もし。


 その言葉を何度繰り返しても、時間は一秒たりとも戻らない。


 それでも詩は、考えることをやめられなかった。


 自分を責めれば責めるほど、二人を失った理由が自分の中にあるような気がしてしまう。


 けれど、どれほど自分を責めても、春真は帰ってこない。


 梅も帰ってこない。


 変わらない現実だけが、冷たい形を持ったまま、詩の前に残されていた。


     ◇


 季節が変わった。


 春が終わり、夏が来ても、詩はほとんど笑わなかった。


 食事は少しずつ細くなり、夜になっても眠れない。身体も次第に弱り、少し歩いただけで息が切れるようになった。


 けれど、身体の痛みより苦しかったのは、目を閉じるたびに蘇る二人の姿だった。


 梅の笑顔。


 春真の声。


 庭を走る小さな足音。


「お母さん!」


「ただいま」


「おかえりなさい」


 記憶の中では、二人はいつまでも生きている。


 だからこそ、目を開けた瞬間に訪れる静けさが、何よりも残酷だった。


 朝、目を覚ます。


 無意識に隣へ目を向ける。


「……梅」


 もちろん、誰もいない。


 夜、眠れずに天井を見つめる。


「……春真さん」


 返事はない。


 時折、廊下から足音が聞こえると、詩は反射的に顔を上げた。


「……春真さん?」


 けれど、そこに現れるのは別の誰かだった。


 庭から子どもの笑い声が聞こえた気がして、慌てて障子を開けることもあった。


「梅……?」


 そこには誰もいない。


 風に揺れる木の葉があるだけだった。


 そのたびに、詩は現実へ引き戻された。


 やがて病床から起き上がることさえ難しくなっていった。


 年月が過ぎても、詩の心はあの日から動かなかった。


 戦争が終わっても。


 町が少しずつ元の姿を取り戻しても。


 人々が新しい生活を始めても。


 世界だけが先へ進み、詩だけが取り残されているようだった。


 春が巡れば花が咲き、夏になれば蝉が鳴き、秋になれば風が冷たくなり、冬になれば雪が降る。


 季節は何も知らないまま、当たり前のように巡っていく。


 けれど、詩の中では、あの日だけが何度も繰り返されていた。


     ◇


 何年が過ぎたのか。


 詩には、もう分からなくなっていた。


 髪には白いものが増え、顔には深い皺が刻まれた。


 かつて梅の木の下を走っていた少女の面影は、もうどこにも残っていない。


 それでも、梅の木だけは生き続けた。


 焼け焦げた枝の間から新しい芽を伸ばし、やがてまた花を咲かせる。


 春が来るたび、詩はその木を見に行った。


 身体が動かない年には、窓から眺めた。


 白い花が咲く。


 風に揺れる。


 そして散る。


 また翌年、花が咲く。


 その繰り返しだった。


 けれど、詩にとって春は、もう幸せな季節ではなかった。


 梅の花が咲くたびに、あの日が蘇る。


 春真が笑っていた。


 梅が走っていた。


 三人で歌を聞いていた。


 そして――全部、失った。


 それでも詩は、毎年その木の下へ向かった。


 ある年の春。


 身体を引きずるようにして、詩は梅の木の下まで歩いていった。


 風が吹き、白い花びらが肩へ落ちる。


 詩は木の根元へゆっくりと腰を下ろした。


「……お母さん」


 返事はない。


「……私、疲れたよ」


 風が枝を揺らす。


 花びらが一枚、詩の肩へ落ちた。


「ずっと……頑張ったよ」


 声が震える。


「春真さんも……梅も……忘れたくなかった」


 涙が頬を伝った。


「忘れたら……二人が、本当にいなくなってしまう気がして……」


 だから、生きた。


 苦しくても。


 病に身体を蝕まれても。


 何度倒れても。


 二人を覚えているためだけに、生きてきた。


 自分が二人を忘れなければ、どこかで二人が生き続けられるような気がしていた。


 だから、忘れなかった。


 梅の笑顔も。


 春真の声も。


 小さな手の温もりも。


 「ただいま」と帰ってきた声も。


 それらを一つも失くさないように、詩はずっと胸の奥へ抱えて生きてきた。


「でも……もう……」


 詩は目を閉じた。


「もう、疲れた……」


 それ以上の言葉は出てこなかった。


 ただ、風の音を聞いていた。


 遠くで鳥が鳴いている。


 昔なら、そこに春真の声が重なっていた。


 梅の笑い声もあった。


 母から受け継いだ童歌もあった。


 けれど今は、何もない。


 長い沈黙のあと、詩はゆっくりと立ち上がった。


 そして、一度だけ梅の木を振り返る。


「……さようなら」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 両親なのか。


 春真なのか。


 梅なのか。


 それとも、これまで必死に生きてきた自分自身なのか。


 詩は梅の木を背にして、歩き始めた。


     ◇


 海へ向かう道は、昔よりずっと長く感じられた。


 身体が弱っているせいだけではなかった。


 一歩進むたび、これまで背負ってきた年月そのものが身体へ重くのしかかってくるようだった。


 それでも詩は歩いた。


 何かを探しているわけではない。


 誰かを待っているわけでもない。


 ただ、もう疲れていた。


 生きることに。


 待つことに。


 失った人を思い続けることに。


 やがて海が見えてきた。


 崖の先から見下ろす海は、どこまでも広く、青かった。


 眼下では波が岩へぶつかり、白い泡となって砕けている。風に乗った細かな水滴が頬へ触れ、その冷たさだけが、今も自分がこの世界にいることを教えてくれる。


 詩は崖の端へ立った。


 足元を見下ろす。


 怖くはなかった。


 不思議なほど、何も感じなかった。


 ただ、これ以上歩かなくてもいい場所が、そこにあるように思えた。


「……ごめんね」


 誰もいない空へ、詩は小さく呟いた。


「春真さん……」


 名前を呼ぶ。


「梅……」


 声が震える。


「もう少しだけ……一緒にいたかった」


 涙が頬を伝った。


「もう一度だけ……あなたたちと、話したかった」


 詩は目を閉じた。


 その瞬間だった。


「ホーホケキョ」


 風の向こうから、鶯の声が聞こえた。


 詩の身体が、ぴくりと止まった。


 閉じていた瞼がゆっくりと開く。


「……鶯?」


 顔を上げる。


 崖の近くに立つ木の枝に、一羽の鶯がとまっていた。


 春の光を受けながら、逃げることもなく、ただ静かに詩を見つめている。


 その瞳を見た瞬間、詩の胸の奥で、何かが小さく震えた。


 懐かしい。


 どこかで。


 ずっと昔から。


 けれど、それが何なのか思い出せない。


「……あなた……」


 詩は、無意識に一歩だけ鶯へ近づいた。


 鶯は逃げなかった。


 ただ静かに首を傾け、詩を見つめている。


 その姿を見ているうちに、胸の奥へ押し込めていた遠い記憶が、眠りの中からゆっくりと浮かび上がってきた。


 白い花。


 幼い手。


 小さな鞠。


 母の手。


 童歌。


 そして――。


 梅の木の下で、泣いていた自分の隣に座ってくれた少年。


 詩の唇が震えた。


「……坊ちゃん……?」


 鶯は答えない。


 ただ静かに、詩を見つめている。


 その姿を見ているだけなのに、詩の目から涙がこぼれた。


 怖かった。


 悲しかった。


 寂しかった。


 けれど今だけは、不思議なほど胸の奥が静かだった。


 なぜなのかは分からない。


 ただ、この声を聞いていると、長い年月の中で固く閉じていた何かが、少しずつほどけていく。


 そして、もう一度。


「ホーホケキョ」


 鶯が鳴いた。


 その声は、まるで遠い昔から、詩を呼び続けていた声のように聞こえた。


 詩は崖の端から、ゆっくりと一歩下がった。


 涙で滲んだ視界の向こうで、鶯の姿が揺れている。


 その瞬間だった。


 胸の奥に、かすかな旋律が蘇った。


「……一かけ 二かけて……」


 自分でも気づかないほど小さな声だった。


「……三かけて……」


 旋律が続いていく。


 その歌は、遠い昔、母の膝元で聞いたものだった。


 梅の木の下で、ひとりだった自分を支えてくれたものだった。


 そして、長い年月の中で何度も口ずさみながら、失った人たちの記憶とともに胸の奥へしまい込んできた歌だった。


 詩は目を閉じた。


 すると、記憶の奥から母の手の温もりが蘇った。


 小さな自分の髪を撫でる手。


 穏やかな声。


 夕暮れの部屋。


 そして、母が教えてくれた歌。


 その記憶の上に、梅の木の下で聞いた少年の声が重なっていく。


 ――その歌を、僕にも教えてくれないか。


 詩は胸の奥で、その声を聞いたような気がした。


 けれど、まだ思い出せない。


 ただ、懐かしかった。


 だから詩は、ゆっくりと歌った。


 一かけ 二かけて 三かけて

 四かけて 五かけて 橋をかけ

 橋のらんかん 腰をかけ

 はるか向こうを 眺むれば

 十七、八の姉さんが

 花と線香 手にもって

 姉さん、姉さん どこへ行く

 わたしは九州 鹿児島の

 西郷隆盛 むすめです

 明治十年 戦役に

 切腹なされた 父上の

 お墓詣りに 参ります

 お墓の前で 手をあわせ

 なむだぶつと となえます

 お墓の中から幽霊が

 ゆーらりゆらりと……


 声は震えていた。


 それでも、止めなかった。


 母から受け取った歌を、途中で途切れさせることなく、最後まで歌い切る。


 幼い頃には、母の記憶を抱くために。


 梅を抱いた頃には、娘へ受け渡すために。


 そして今は――失った二人を、自分の胸の中へもう一度抱きしめるために。


 歌いながら、詩の中に積もっていた年月が、少しずつほどけていく。


 あの日、梅の木の下でひとり泣いていた自分。


 その隣に座ってくれた少年。


 自分の歌を聞いてくれたこと。


 何度でも、と言ってくれたこと。


 花街から出ることを怖れていた自分の手を取ってくれたこと。


 梅が生まれた朝、誰よりも嬉しそうにその小さな手を見つめていたこと。


 庭で笑っていた三人の時間。


 童歌を歌いながら、家族で梅の花を眺めた春。


 そのすべてが、歌の旋律に導かれるように、胸の奥から静かに浮かび上がってくる。


 詩は最後まで歌った。


 歌が終わる。


 風だけが残った。


 しばらくの間、詩は目を閉じたまま動かなかった。


 頬を伝う涙は止まらない。


 けれど、その涙は先ほどまでの絶望だけではなかった。


 悲しみの中に、温かさが混じっている。


 失った痛みの奥に、確かに存在していた幸せの記憶が戻ってきている。


 歌の向こう側から、何かが帰ってきたような気がした。


 白い梅の花。


 小さな鞠。


 母の手。


 父の声。


 少年の笑顔。


 そして――自分が失った、かけがえのない家族。


 詩はゆっくりと目を開いた。


 鶯が、まだ枝の上からこちらを見つめている。


「……坊ちゃん」


 もう一度、その名前を口にした。


 なぜ、その名を呼んだのか。


 自分でも分からなかった。


 ただ、その声を聞いていると、胸の奥に閉じ込めていた遠い記憶が、眠りから目を覚ますように少しずつ動き始めている。


 梅の木の下で、泣いていた自分。


 その隣に座ってくれた少年。


 自分の歌を聞きたいと言ってくれたこと。


 何度でも弾くと言ってくれたこと。


 怖いままでいいと言ってくれたこと。


 そして長い年月の果てに、花街にいた自分を迎えに来てくれたこと。


 記憶の一つひとつが、胸の奥へ静かに戻ってくる。


 詩は胸に手を当てた。


「……春真さん」


 その名前を口にした瞬間、胸が痛んだ。


 失った痛みは消えない。


 忘れられるはずもない。


 けれど、それと同時に、温かな記憶も蘇ってきた。


 庭を走る梅。


 小さな手。


 春真の笑顔。


「お母さん!」


「ただいま」


「おかえりなさい」


 その声が、まるで遠い日の風景から聞こえてくるようだった。


 そして――梅の木の下で、三人で聞いた童歌。


 詩は目を閉じた。


 もう一度、あの梅の木を思い浮かべる。


 かつて、あの場所は失った家族を思って泣く場所だった。


 けれど、それだけではなかった。


 自分が生きることを覚えた場所。


 誰かと出会うことを知った場所。


 誰かを大切に思うことを知った場所。


 そして、家族を作ることを知った場所。


 あの木の下で、自分は一度、人生を失った。


 けれど同じ場所で、もう一度、生きることを覚えたのだ。


 だからこそ、梅の木はただの記憶の場所ではない。


 失ったものと、与えられたもの。


 悲しみと幸せ。


 過去と現在。


 そのすべてが静かにつながる場所だった。


 詩は海を振り返った。


 波は変わらず、崖の下で砕けている。


 けれど、もう先ほどのように、そこへ身を投げ出そうとは思わなかった。


 失った二人が帰ってくるわけではない。


 春真が再び笑ってくれるわけでもない。


 梅の小さな手を、もう一度握れるわけでもない。


 それでも――。


 詩の中には、二人と過ごした時間が残っている。


 誰にも奪うことのできない記憶として。


 そして、その記憶を抱えて生きてきた自分自身も、まだここにいる。


 鶯が鳴いた。


「ホーホケキョ」


 詩はその声を聞きながら、静かに涙を拭った。


「……もう少しだけ」


 震える声で呟く。


「もう少しだけ……一緒にいて」


 それが誰に向けた言葉なのか、詩自身にも分からなかった。


 春真なのか。


 梅なのか。


 それとも、自分の中に残っている過去そのものなのか。


 鶯は飛び立たなかった。


 ただ枝の上から、じっと詩を見つめ続けている。


 まるで、ずっと待っていたかのように。


 詩は一歩、海から離れた。


 もう一歩。


 足元の砂利が小さく音を立てる。


 その音を聞きながら、詩は自分が生きる側へ戻ってきたことを、ようやく実感した。


 そして、もう一度だけ振り返る。


 白い波。


 青い空。


 春の風。


 そして、枝の上に佇む小さな鶯。


 その姿を見つめていると、胸の奥に不思議な感覚が広がっていった。


 まだ、すべてを思い出したわけではない。


 けれど、きっと自分は知っている。


 この声を。


 この場所を。


 この歌を。


 そして――自分が、どこへ帰るべきなのかを。


 春の風が、静かに吹き抜けた。


 どこからか運ばれてきた白い梅の花びらが一枚、詩の肩へ落ちる。


 詩はそれをそっと指先で拾った。


 掌の上に乗せた小さな花びらを見つめながら、胸の中で静かに呟く。


 ――お母さん。


 ――私、まだ生きてるよ。


 返事はなかった。


 けれど、もう、その沈黙は昔ほど冷たくなかった。


 詩は鶯を見つめた。


 その姿が、なぜか懐かしくて。


 なぜか温かくて。


 まるで、ずっと昔から自分の帰りを待っていた誰かのように思えた。


 そして、ふと気づく。


 自分は今まで、帰る場所を失ったと思っていた。


 けれど、本当は違ったのかもしれない。


 帰る場所は、どこか遠くにあるものではない。


 母から受け取った歌の中にも。


 梅の花の記憶の中にも。


 春真と過ごした日々の中にも。


 梅の小さな笑い声の中にも。


 そして、自分自身の胸の中にも。


 ずっと残っていたのかもしれない。


 詩は、もう一度だけ鶯を見た。


「……ありがとう」


 小さな声だった。


 鶯は答えない。


 ただ、静かに詩を見つめている。


 その姿を見ていると、詩の胸にほんの少しだけ、温かなものが灯った。


 悲しみが消えたわけではない。


 傷が癒えたわけでもない。


 それでも、もう一度だけ歩いてみようと思えた。


 失ったものを忘れるためではなく。


 失ったものを胸に抱えたまま、それでも自分の人生を最後まで歩くために。


 その日。


 長い間、止まっていた詩の時間が、再び動き始めた。


 それは、失ったものを取り戻すための旅ではなかった。


 失ったものを胸に抱いたまま、自分自身の人生へもう一度帰っていくための――最後の旅の始まりだった。


 その先に、何が待っているのか。


 あの鶯が、なぜ自分を見つめていたのか。


 そして、自分が忘れてしまった記憶のすべてが何だったのか。


 詩は、まだ知らなかった。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。


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最後まで、詩の旅を見届けていただけたら嬉しいです。


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