5
番との縁を無事に解消したアテナは、五年を待たずしてガート国へと帰路についていた。
その道中、彼女の心は時折、痛みを感じていた。
あれ以来会っていないイアンの顔を思い出すことはない。
それなのに、なぜか寂しくて、悲しい。
胸の奥がじくじくと鈍い痛みを訴え、何もする気になれないほど気持ちが沈むこともあった。
(なんだか失恋の痛みに似ているわ……)
けれど、これが番を失ったことによるものだと思えば、症状は軽いのだろう。
兄のように食事も喉を通らなくなったわけではない。
父のように、亡くした番の面影を娘に重ねることもない。
もしかしたら、これが番との縁を断ち切った後に残る後遺症なのかもしれない。
けれど、アテナには分かっていた。
この痛みは、きっと時間とともに消えていく。
それにアテナには、ノワールがいる。
いつも傍にいて、支えてくれる、信頼できる相手。
彼がいてくれるからこそ、胸の痛みにも耐えていられた。
そうして長い旅を終え、アテナはようやく故郷へと戻ってきた。
「お父様、ただいま戻りました」
アテナの帰還を知っても出迎えにも来ず、部屋に籠もっていた父レオに、アテナは笑顔を向けた。
けれどレオは、あからさまに不服そうな顔をする。
なぜ五年を待たずに帰ってきた。
なぜ番を連れて帰ってこなかった。
そんな不満が、言葉にされる前から伝わってくる。
変わらない父の姿が、今のアテナには愚かで、どこか滑稽に見えた。
幼い頃のアテナにとって、父は絶対的な存在だった。
獅子獣人である父は身体能力も高く、幼いアテナが敵う相手ではなかった。
だから、声を掛けることさえ怖かった。
姉への態度も。
兄への過剰な期待も。
父に対して思うことがいくつあっても、見て見ぬふりをして自分の心を守るしかなかった。
けれど今は違う。
番である母を亡くし、溺愛していた姉を亡くし、大切な後継者だった兄まで失った父は、以前のような強さをすっかり失っていた。
今の父なら、獣人として正面からぶつかったとしても負ける気がしない。
それだけではない。
父のこれまでの行いを全て知った今、貴族が集う王城の中でも、この国を統べる者としても、アテナは父に負けるつもりなどなかった。
「お父様、お話があります」
アテナは真っ直ぐ父を見つめた。
余裕ある笑顔まで浮かべている自分を褒めたいぐらいだ。
「私、番との縁を解消してまいりましたの」
「なっ……!?」
レオの顔が驚愕に染まる。
その顔があまりにも間抜けに見えて……
なんでこんな男が怖かったのだろうと、本気で笑いそうになった。
「お父様、女王になる私に必要なのは、番ではありません。このガート国をよく知り、私の考えを理解し、共に国を守るために戦ってくれる。そんな相手こそ、私の伴侶には必要なのです」
そう言って、アテナは隣に立つノワールへ微笑みかける。
幼い頃からずっと、自分を支えてくれた人。
番と出会い、心がざわついて、王位さえどうでもよくなったあの瞬間にも、アテナを現実へと繋ぎ止めてくれた人。それがノワールだ。
ノワールがいてくれたから、アテナは自分自身を見失わずに済んだ。
ノワールがいてくれたから、父の行いにも耐えることができた。
彼以外の存在など考えられない。
そのことは、番探しの旅へ出る前から気付いていたことだった。
「おまえは……!」
レオが怒りに顔を歪める。
けれど弱った父には以前の迫力はない。
「おまえは、なんて馬鹿なことをしたんだ! アテナっ!」
唾を飛ばしながら、アテナへ詰め寄る父は、弱者の遠吠えそのもの。
獣人族の王がこれほど威厳がないなど、とてもじゃないが他国には見せられない。
「番は、番はなっ! 神が決めた運命の相手なのだぞ! それを解消するなど、あってはならないことだ! 今すぐ番に謝り、ここへ連れて来い! 武力を使っても構わん! 大金を使っても構わん! ガート国に勝てる国などないんだ! 獣人にとって運命の番は唯一無二の存在なのだから! 絶対に手放すな!」
本人は説得力のある言葉を吐いているつもりなのだろう。
けれど、アテナにはただの独裁者の戯言にしか聞こえなかった。
他国との交易を断ってでも番を手に入れろなど、国王として最も選んではならない道だ。
自分の幸せより、国民の幸せを考える。
弱い者を守り、国を導く。
それこそが、この国を統べる王に必要なものだ。
そんな当たり前のことを理解できない父は、もうとっくに国王失格だった。
「お父様は……やはり番との縁を解消できる方法をご存じだったのですね……」
アテナは静かに問いかけた。
ずっと前からそうではないかと思っていた。
けれど今の父の言葉で、確信した。
父は知っていたのだ。
それなのに、婚約者がいた母を娶った。
番と出会って苦しむ兄に、手を差し伸べなかった。
そして、人族の血が濃い姉には、自分の感情を押し付け続けた。
その結果、母を殺し、兄を追い込み、姉の心を壊した。
(こんな男が獣人族の国王だなんて!)
スムズ国へ赴いた時に向けられた、あの突き刺さるような視線を思い出す。
自国の姫が嫁いだ先の国へ向けるものとは思えない、冷たい視線だった。
当然だ。
今のガート国は、父の行いによって他国から恐れられている。
『あの国は、番のためなら何でもする』
そんな印象を他国に植え付けてしまったのだから、どんなことをしても改革は必要だった。
アテナは一歩、父へ近づいた。
「私は、この国の王太子として……貴方の退位を望みます」
「なっ……!」
アテナがはっきりと告げれば、レオの顔が青ざめる。
けれど、アテナにはもう何も怖くなかった。
この国を継ぐ者は自分しかいない。
そしてこの国を変える者は、自分でありたかった。
きっと父のこれまでの行いを公にすれば、獣人族の女性たちはアテナの味方になるだろう。
そしてノワールの実家である黒豹族。
兄の元妻である前王太子妃の実家、虎族。
そして姉の婚約者だった雪豹族。
彼らもまた、アテナの味方になる。
なぜなら、番探しの旅へ出る前に、すでに根回しは済ませてあるからだ。
詳しい事情を全て話さずとも、高位貴族たちはすでに父の行いを掴んでいる。
ならば、その旗頭にアテナが立てばいい。
勢力でも、武力でも、もう父に負けることはない。
自分の人生は、自分で選ぶ。
あの日、そう誓ったのだから……
その誓いを、今度こそ違えるつもりはなかった。
「そんなこと、許されるはずがない!!」
追い詰められたレオが、獣そのものの姿へと変わる。
そして何の躊躇も見せず、アテナへ襲いかかった。
だが、その前にノワールが立ちはだかる。
一瞬だった。
ノワールの腕がレオの攻撃を受け流し、その身体を床へと叩き伏せる。
レオにはもう、ノワールに敵う力すら残っていなかった。
当然だ。
次期女王の夫となるべきノワールは、毎日の鍛錬を欠かさず、自らを律し続けてきた。
一方のレオは、母という番を見つけてからというもの、何もかも番を優先した。
執務よりも母との時間。
鍛錬よりも母との時間。
そして、それが許されることに甘え続けた。
かつて獣人族の王を名乗った男は、今や床に倒れ、強者にひれ伏すだけの獣へと成り下がっていた。
「レオ・ガート、貴方を幽閉します!」
アテナは倒れた父を見下ろした。
アテナはとっくに女王の風貌を手に入れていて、レオはその迫力に驚くしかない。
「そして、これからは私がこの国を守ります!」
その言葉が父に届いたのかは分からない。
項垂れたまま騎士たちに引きずられていく父は、もう何も理解していないようだった。
リーナ、リーナと母の名だけを呼び続ける父は、幼い子供のようで、哀れになるほどの姿だ。
「ノワール……ありがとう」
父が連れていかれるのを見届け、アテナは隣に立つ彼を見上げる。
自然と笑顔になっているのは仕方がない。
何故ならノワールはいつだってアテナの期待を裏切らないのだから。
「さあ、これからが本当の正念場ね。ノワール、どうか、これからも私の隣にいてね」
「ああ、もちろんだ。俺はアテナの覚悟をずっと見てきた。俺にできることは、アテナを支え、守ることだけだ。どんなことがあっても、俺はアテナの傍を離れない、約束だ」
「……ええ、ありがとう。貴方の言葉は信じられるわ」
アテナは微笑んだ。
心の底から安堵の笑みを浮かべられたのは、もしかしたら生まれて初めてのことかもしれなかった。
それからの二人の行動は早かった。
国王退位の理由を明確に国民へ伝え、番至上主義を掲げる古い考えの者たちには役職を退いてもらった。
そして、新しい風を国政へ取り入れていった。
番を望まない者には抑制薬を用意する。
望まぬ番と出会ってしまった者には、番との縁を解消するという選択肢を与える。
もちろん、運命の番との出会いが全て悪いわけではない。
番と出会い、幸せな結婚を望む者たちには、その幸せを応援した。
大切なのは、誰かに押し付けられることではない。
自分自身で、己の幸せを選ぶ。
それだった。
そして、他国に対して武力をちらつかせ、圧力をかけるような外交も改めた。
友好的な交易を心がけ、互いに支え合い、ともに歩める国を少しずつ増やしていった。
それは、アテナ一人の力では成し遂げられなかった。
アテナの隣には必ずノワールがいた。
そして周りには味方になってくれた貴族たちがいた。
その上、アテナの改革を受け入れ、支えてくれた国民たちがいた。
多くの人の力があったからこそ、ガート国は少しずつ変わっていけたのだ。
それから、幾年もの月日が流れた。
アテナは女王として国を守り続け、ノワールはその隣で彼女を支え続けた。
番というものを知らないわけではない。
番に出会い、幸せそうに寄り添う者たちを目にすることもある。
そんな時、アテナは思う。
自分も、もしかしたら違う人生を歩めたのかもしれない、と。
けれど、後悔はなかった。
運命の番であったイアンの顔を思い出すことも、もうない。
かつて胸を締め付けていた痛みも、いつの間にか消えていた。
番を失った痛みも。
運命に逆らうことへの恐怖も。
長い年月の中で、すべて過去になっていた。
「アテナ、そろそろ休もう」
執務室の扉から、ノワールが顔を覗かせる。
少し皺が増え、黒く艶のあった自慢の体毛には白いものが見え始めているけれど、そこが素敵だと思うのだから、愛とは面白い。
「あら、もうそんな時間?」
「ああ。君は今日も働きすぎだ、もっと休まないと」
「ふふ……女王ですもの。これくらい当然でしょう?」
「女王だからこそ、身体を大切にしてもらわないとだな。あとは……俺の為にもだ」
「まあ!」
アテナは楽し気に笑い、ノワールに差し出された手を迷うことなく取った。
温かな手だった。
少し荒れている、働く者の手だ。
それに剣だこもある。
アテナをいつだって守ろうと努力してくれる、安心できる手でもあった。
きっと昔の自分なら、この手が運命の相手のものなのかもと考えていたかもしれない。
けれど、今は違う。
この人の手を取りたい。
この人の隣にいたい。
この感情は誰かに決められたものではない。
神でも、番でも、運命でもない。
アテナ自身が選んだものだった。
「ノワール」
「ん?」
「私、この人生を、貴方を選んで良かったわ……」
アテナがそう言って頬に口づけを落とせば、ノワールは少しだけ目を細め、それから優しく笑った。
「……俺もだ、アテナ……」
アテナはその手を、ぎゅっと握り返した。
番だから愛するのではない。
運命だから共に生きるのでもない。
自分が、この人を愛したいと思ったから。
この人と生きたいと願ったから。
アテナは女王として国を変え、そして一人の女性として、自分の幸せを自分で選んだ。
運命に与えられた人生ではなく。
誰かに決められた未来でもない。
自分自身の手で選び取った、たった一つの人生。
その隣には、愛する人がいる。
アテナはノワールに寄りかかり、幸せそうに笑った。
『さようなら、私の番様……私はもう、貴方を愛さない』
私は私の選んだ人を愛し、私の選んだ人生を生きていく。
それが、試練を乗り越え、アテナが自ら選び取った運命だった。
こんばんは、夢子です。
ここまでこの作品をお読みいただき、本当にありがとうございました。
アテナの物語は、ちょっと気持ちが重くなるようなお話を書きたいな~と思い、書き始めた作品です。
普段、のほほんとしたお話が好きな私にしては珍しく、最初から最後までずっと辛いお話だったのではないかと思います。(←頑張った?)
アテナは強く、前向きで、頑張り屋な女性です。
そしてノワールは、優しくて辛抱強い男性です。w
私の主人公たちは、できるだけそんな子たちであればいいなと思いながら、いつも書いています。
その中でも、歴代の主人公たちの中で一番頑張ってくれたのは、アテナだったかな?と思っています。
これでアテナのお話は終わりとなりますが、ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
そして残念なことに、これで私がズル休み中に書き溜めていたお話も、すべて終わりになります。w
ただ、短編が一つだけ残っています。
そちらはアテナのお話を書き終えた後、気分転換に書いたものです。
明日にでも投稿したいと思っておりますので、そちらも読んでいただけると嬉しいです。
このお話を、そして夢子のこれまでの作品を応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。
ブクマ、いいね、評価などで応援してくださった皆様には、感謝しかありません。
また、いろいろな作品で感想をくださった方、そして誤字脱字を報告してくださる方。
皆様がご自身の大切な時間を割いて、夢子のために時間を使ってくださったこと、本当に感謝しております。
そして……欲を言えば、今後も引き続き応援していただけると有難いです。w
では皆様、次回作でもまたお会いできることを楽しみにしております。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
2026/09/01 夢子




