第九話
ユークリア王国の小さな湖を、一艘の船が進んでいた。
船の全長はおよそ10メートル、小型のクルーザーほどの大きさである。
船首から船尾まで真っ白な船は、サトルたちがダナビウス国の大河を下った際に使った小舟のように、上部に構造物がないシンプルな作りだ。
奇妙なことに、純白の船は帆も櫂もないのに湖面を静かに進んでいた。
「なんだこれ便利すぎる……見た目さえ気にしなければ」
船首に近い看板の上で、タワーシールドを背負ったサトルが呟いた。
視線は進行方向ではなく船首像を見つめている。
船首像、船を象徴するフィギュアヘッドは「白い髑髏」だった。人間の。
「シファ、これは像だよな? 本物の頭蓋骨じゃないよな? サハギンは人間と共存してるんだもんな?」
「もちろんですわ、サトルさん。子をなす際に精を放ってもらいますけれど、わたしたちは精気を吸い取るわけではありませんもの」
不安げなサトルの問いに美声が応える。
振り返ったサトルが顔をしかめた。
声は美しいが、声を発した者の姿はおぞましい。
ぬらぬらと光る鱗は全身を覆い、頭頂部から後方へ伸びるヒレは装飾のようだ。
どこを見ているかもわからない黒い目玉。
尻尾の手前、下腹のあたりから二本の足が伸びて、歩くたびにビチャリと湿った音がする。
水かきのある手には、先端が三叉にわかれた槍のようなものを持っていた。
その姿は、二足歩行する魚のようだった。
人化を解いてサハギンの姿に戻ったシファである。
「ドクロを掲げた船で、作り出したのも操船してるのもおぞましい見た目の魚人……村で試さなくてよかった……」
サトルは天を見上げた。
青い空に白い雲が浮かんでいる。
人間と、モンスターではない豚人の苦境を救うため、サトルたちは豚鬼の縄張りに攻め込むことを決めた。
宿の主人と村長と豚人が『追放されしオーク勇者の娘』の決断に感涙した翌日。
村を出て獣道を行き、人里離れたところで、サトルはシファに特殊能力を使わせた。
仲間にする際にシファが言っていた「わたしは船を作り出せるのです」というアレである。
「これができるのは、わたしたちの中でも限られた者だけなのですよ?」
「だろうなあ。じゃなきゃ便利すぎてポルスカ共和国以外にも知れ渡るだろコレ。でもこの喫水の浅さじゃ外海はキツいかなあ」
シファのスキルは【変化の術】と【水魔法】だけだ。
船を作り出すのは種族の中でも上位者の特殊能力らしい。
ちなみに、人化した状態では船を作り出せないのだという。
名状しがたい姿の魚人が作り出す、髑髏を掲げた白い船。
サトルが「人里で試さなくてよかった」というのも当然だろう。
「プレジア……」
サトルの斜め後ろで、ソフィア姫がポツリと呟いた。
心配だけどでもいまは護衛騎士じゃないからと、声をかけないと決めている。
プレジアは、船首像の髑髏のすぐ後ろに立っていた。
マントと真っ赤な髪を風にはためかせ、腕を組んで悠然と前方を見据えている。
滑るように白い船が進む先、木々が並ぶ湖畔には粗末な筏が浮いていた。
「俺たちが来るのがもう少し遅かったら、豚鬼は本格的に湖を渡ったかもしれませんね」
「サトルさん、筏は壊した方がいいですよね? プレジアにお願いしますか?」
「そこそこ数はあります、両手剣では時間がかかるでしょう。だから……ベスタ!」
白い船の甲板上に芦毛の馬の姿はない。
サトルの呼びかけに応えて、進行方向の湖面が割れた。
角が生えたトカゲのような頭が水面から顔を覗かせて、ひょいっと船を振り返る。
ドラゴンに戻ったベスタである。
「呼びましたかサトル様、この水場にはたいしたモンスターがいないみたいですね、ふふん、アタシに恐れをなして近づけないからそのサハギンの『同格以下の水棲モンスターを従える』って能力もちっとも役に立たなくて」
「岸のあたりに筏が見えるな?」
「あっはい」
ポルスカ共和国で新たに仲間となったシファの能力を見て、ベスタは焦っていた。
ダナビウス国の大河を舟で下った時は頼られたのに、いまは自分よりシファの存在感の方が大きいと。
滑るように水面を進む白い船の動力は、ドラゴンに戻ったベスタの泳ぎだった。
「なぎ払え」
「……はいいいい! えへへ、アタシやっぱり役に立つんだ、サトル様の次に最強、ううん、水場ならサトル様より強いかもしれないってところを見せてやる! 喰らえーッ!!」
そっけないサトルの命令を聞いて、喜色満面でベスタが正面に向き直った。
湖水をズゴッと吸い込んで、ドラゴンの喉袋をふくらませる。
一瞬の溜めののち、ブレスを吐き出した。
ベスタのドラゴンブレスを受けて、粗末な筏がバラバラに吹き飛んでいく。
水龍系のベスタが、ドラゴン形態で水中から放つブレスである。
ダンジョンや教会でもブレスを吐いたが、水中から放つのをサトルたちに見せたのは初めてのことだ。
水煙が収まった時には、筏どころか湖畔の木々さえ形をなくしていた。
倒れた木々は水流に折られたのか、ボロボロの破片となっている。
「…………よく自分を犠牲にしてブレスを防いだな、偉かったぞあの時の俺」
想像以上の威力にサトルはたらりと冷や汗を垂らす。
ベスタとの遭遇戦で、自分を犠牲にしてブレスを使わせなかったことを自画自賛している。
いまの威力と攻撃範囲では、当時レベル64だったサトルはともかく、ソフィア姫とプレジアを守りきれた自信がないのだろう。
「どうですかサトル様! 水場ならアタシこれぐらい余裕でだからあんなサハギンなんかよりアタシの方が役に立つんで捨てないでくださいお願いします、あっサトル様! オークが出てきましたよ、もう一発やりますか殺りましょうか?」
木々が倒れる大きな音が響いたからだろう。
残った木立の奥から湖畔へ、ぞろぞろと巨体が出てきた。
「この距離じゃ角がある豚鬼か、角なしの豚人か見えないな。ちょっと待ってろベスタ」
現れたオークたちはフードをかぶっていない。
モンスターである豚鬼か人間と交流のある豚人か、額の角の有無で見分けるのだと聞いていたサトルは目を凝らした。
まだ距離があってどちらがわからず、サトルはベスタの二度目のブレスを止めた。
どちらの物かわからない筏は破壊し尽くしたクセに。
「サトル、あれは豚鬼だ。ふごふごと騒がしいだけで、翻訳の指輪をつけていても意味が通じないだろう?」
「俺はしてないけどな。プレジア、なんだか賢くなってないか? 姫様ラブすぎるせいで護衛騎士の時の方が頭がまわってないんじゃないか?」
「だがブレスは必要ないぞベスタ! 私が! すべてのオークを斬り捨ててくれよう!」
「すべての豚鬼な。じゃないと父殺しになるぞ」
船首に立ったプレジアは、両手剣を抜いて両手で天にかざした。
陽光と青い光で魔剣〈オーク殺し〉がきらめく。
豚鬼の群れがどよめいた。
ブレスを止められたベスタは、おとなしく岸辺へと泳いで船を進めていく。
「できるだけ姿を隠すように」というサトルの言葉に従って、顔を沈めて豚鬼に見せない。
隠れられなくなるほど水深が浅くなってきたところで、サトルが口を開いた。
「姫様の護衛は俺が引き受けた。プレジア、こっちは心配しなくていい」
「プレジア……わたくしはプレジアの決意を、戦いを、見守ります。ケガをしたらすぐに言うのですよ。〈防御〉〈祝福〉」
「私の身にまとわりついてキラキラ輝くこの光……こ、これは、姫様の愛! 姫様の愛に包まれた私が負けるはずはない! 死ぬはずもない!」
「いや違うぞプレジア、ただの魔法だ。姫様の【回復魔法】は【神聖魔法】と同じ系統だから使える補助魔法だ。普通に死ぬから気をつけろ」
「くふ、くははッ、ふはははははッ! 姫様の愛を受けたこのプレジアが、姫様の剣として豚鬼を殲滅してくれるッ!」
白い船が接岸する前に、プレジアが船首から飛んだ。
オークに近づいたことで、大上段に構えた〈オーク殺し〉の青い光が輝きを増す。
「はあああああああッ!!」
両手剣を両手で振り下ろすと、岸辺にいたオークがずるりと両断される。
バシャっと水しぶきをあげて、プレジアは岸辺に着地した。
「なんか悪役か、調子に乗って殺られるキャラっぽいこと言って突っ込んだ。……いつでもフォローできるようにしておくか」
船上に残されたサトルが呟く。
ユーラシア王国の北東部。
モンスターである豚鬼の縄張りに、サトルたちは突入した。
相手は数百、一千に届くかもしれないという数の豚鬼が巣食うエリアに、わずか五人、いや、四人と一体で。
もっとも、あとを気にしなければ数の不利はサトルのスキルでどうにでもなるのだが。
サトルのスキル【分身術】の上限はいまだ不明である。




