息子と母親を救え 1
俺には、誰にも理解されない奇妙な癖があった。
警察署の留置所。
鉄格子の向こうには、数時間前に強盗容疑で逮捕された男が壁にもたれかかって座っている。頬には抵抗した際についた殴打の跡が赤黒く残り、荒い息を吐きながら俺を睨みつけていた。
俺は扉を開け鉄格子の中に入り、そのまま黙って男の左腕をつかむ。
男も抵抗はしない。ただ、不機嫌そうに腕を差し出した。
入れ墨用の細い針が男の肌に触れ、小さな音を立てる。俺は慣れた手つきで、左腕に二文字のイニシャルを刻んでいく。
「……なんの意味があるんだよ」
男が低い声で尋ねた。
俺は手を止めることなく答える。
「あなたを捕まえた刑事が僕だと、あとで見ても分かるようにです」
男は眉をひそめる。
「いつもこうして印をつけてるんですよ」
数秒の沈黙。
やがて男は呆れたように笑った。
「気持ち悪い……。ここを出たら、すぐ消してやる」
「どうぞ、ご自由に」
俺は最後の線を引き終え、小さく息を吐いた。
インクを拭き取り、自分のイニシャルを見つめる。
S.S――これでいい。
逃げようが、罪を重ねようが、この印だけは<俺が捕まえた>という証になる。
そんなことを理解してくれる人間は、一人もいない。
だから誰にも話したことはない。
同僚からは「変人」、上司からは「仕事はできるが癖が強い」と陰で笑われる。
それでも構わなかった。
俺は犯人を忘れない。
だから、犯人にも俺を忘れてほしくない。
それだけだった。
留置所を出ると、廊下の向こうから聞き慣れた声が飛んできた。
「おい、斎藤」
振り向くと、捜査一課の刑事、田口が缶コーヒーを片手に立っていた。無精ひげの似合う男で、どこか投げやりな雰囲気を漂わせている。
「中村さんから話、聞いてるか?」
「いいえ」
「母親を人質に立てこもってる犯人の現場に、一緒に向かえだとさ」
俺は思わず眉をひそめた。
「……なぜ?」
「お前は話術に長けてるから、だろ」
田口は肩をすくめる。
「犯人を説得しろってことですか?」
「ああ。そういうことだ」
交渉役。
俺が最も嫌いで、最も得意とする仕事だった。
犯人の心理を読み、言葉だけで追い詰める。
相手がナイフを持っていようが拳銃を持っていようが関係ない。最後に人を動かすのは、案外、言葉だったりする。
俺たちはパトカーに乗り込み、現場へ向かった。
サイレンは鳴らさない。
車内にはエンジン音だけが響いていた。
十分ほど走ったところで、俺は窓の外を見て口を開く。
「少し寄ってください」
「……は?」
「そこの公園です」
田口は怪訝そうな顔をした。
「おいおい、今から現場に向かうっていうのに何をする気だ?」
「二分で終わります」
「だから何をするんだって聞いてるんだ」
俺は答えず、公園の入口を見つめた。
田口は深いため息をつく。
「……一体なにを考えてるんだ、まったく…」
呆れたようにぼやきながらも、ハンドルを切って公園の駐車場へ車を滑り込ませた。




