【作品フォロー500人突破記念SS】カメレオン
俺は、鏡を見つめるのが好きだ。いや、正確には「鏡の中の自分」を眺める時間がたまらなく好きだと言ったほうが正しいかもしれない。
洗面台の鏡に映るのは、整った輪郭、意志の強さを感じさせる瞳、そして誰をも魅了する爽やかな笑顔。誰もが羨む「藤堂蓮」という少年。
完璧な優等生であり、サッカー部のエースであり、誰からも愛されるヒーロー。
しかし、その鏡に映っているのは、俺という魂が被っている何枚もの仮面の中の、一番外側にある「表皮」でしかない。
「よう、佐藤! お熱いねぇ」
屋上の扉を開けた瞬間、俺は完璧な演技を徹底した。視界の端には、相変わらず煮え切らない態度で、水瀬結衣と甘酸っぱい空気を漂わせている佐藤湊の姿がある。
バカだな、湊は。
本当に、どうしようもなく退屈で、純粋で、そして——脆い奴だ。
あんなに分かりやすい結衣の好意に気づきながら、いつまでも「幼馴染」という安全圏に留まろうとしている。
見ていてこっちがムズムズする。あんなに可愛い女を目の前にして、一歩を踏み出す勇気すら持てない。
むしろ、踏み出すことに必要性を感じていないのかもしれない。恐らくあいつにとって、今のこの「距離感」が、何よりも尊く、壊してはいけない聖域なのだから。
俺はわざとらしく声を弾ませ、湊の肩を力強く叩いた。指先から伝わる彼の骨格の感触。こいつは俺の偽善を、何の疑いもなく信じ切っている。
自分には手が届かない、あるいは触れるのが怖いと信じ込んでいるその宝物を、俺なら一秒で手に入れられるというのに。
こいつは、俺という「親友」が、その聖域を内側から食い荒らそうとしていることに、微塵も気づいていない。
「俺がお前の立場だったら、とっくにプロポーズしてるぜ」
冗談めかして言ってやる。すると、結衣が慌てて否定し、湊はバツが悪そうに視線を逸らす。
——ああ、最高だ。なんて滑稽な奴なんだ。
結衣だって、本当は分かっているんだよ。
湊みたいな、退屈で、ただ優しいだけの男と過ごす穏やかな日常よりも、この学園の頂点に立つ『ヒーロー』である俺の方が、遥かに刺激的で、ドラマチックな未来を見せてやれるってことを。
彼女は気づいている。俺が湊に投げかける言葉の裏側に、湊には決して理解できない「別の種類の関心」が宿っていることに。
彼女は俺に溺れかけている。いや、すでに俺の手の中に落ちているのだ。
湊の隣で、湊を立てながらも、チラチラと俺の顔を伺う結衣の瞳。あれが本音だ。彼女は退屈に耐えられなくなっている。
湊が与えるのは、安心感という名の停滞。俺が与えるのは、破滅という名の高揚感だ。どちらが女の心を震わせるかなんて、明白だろう?
俺は湊の背中を、親友という名の鎖で縛り付ける。こいつがどん底に落ちた時、一番に手を差し伸べるのが誰か。
そして、その手で誰よりも深く奈落へ突き落とすのが誰か。その光景を想像するだけで、アドレナリンが脳内に溢れ出してくる。
俺は、自分という人間の「空虚さ」を埋めるために、常に誰かを壊す舞台を必要としていた。湊は、そのための最高の玩具だった。
こいつのその「真面目さ」も、「善良さ」も、すべて俺の手のひらの上で転がされているとも知らずに、こいつは俺を信じきっている。
それがたまらなく愉快で、時々、本気で笑い出しそうになるのを必死に堪えていた。
「早く壊れないかな、湊」
俺が求めているのは、こいつの『正しさ』が泥にまみれる瞬間だ。どんなに崇高な理想を掲げても、どんなに結衣との幸せな未来を夢見ても、俺が「裏切り」という名の毒を一滴落とせば、こいつの美しい世界なんて一瞬で腐り落ちるんだから。
「じゃあな、部活があるから」
爽やかに手を振って、俺はその場を去る。
背中に二人の視線を感じる。きっと、今の去り際も完璧だったはずだ。誰も俺が、薄ら笑いを浮かべているなんて想像もつかない。
廊下を歩きながら、俺はわざと足を止めて、こいつらを遠目から観察した。湊が、結衣の手を引こうかどうしようかと迷って、結局何もできずにいる姿が見える。
……本当に、笑える。
俺は鏡に映った自分の顔をチェックする。じっさいは鏡なんてなくてもよかった。俺はすでに、自分という存在が「どう見えるか」を完璧に掌握しているから。
そこに映っているのは、誰もが信じて疑わない、完璧な「藤堂蓮」だ。
この学園で、俺に勝てる奴なんていない。
湊の友情も、結衣の愛情も、この学園の喝采も、すべて俺の所有物だ。たとえ、そのどれもが俺が演じている「仮面」に向けられたものだとしても、手に入れたもん勝ちだろう?
◇◆◇
俺の人生は、ずっと孤独な演劇だった。
幼い頃から、俺は「誰かに好かれる自分」を演じなければ、誰も俺を見てくれないことを知っていた。親も、教師も、友達も、俺が作り上げた『優等生』という仮面にしか興味がない。
本物の俺なんて、誰にも求められていない。だったら、一生仮面を被り続けて、最高の演技をし続ければいい。
湊は違った。あいつは、本当の自分で愛されたいと願っている。だからこそ、あいつは弱い。自分の弱さを隠す術を知らないから、他人の善意を盲信する。
——だから、俺が教えてやるんだ。
世界という舞台の、本当の冷酷さを。
俺は大きく息を吸い込み、再び仮面を深々と被り直す。
明日には、もっと面白いことになりそうだ。
湊のその脆いプライドが、俺の演劇でどれだけ無惨に引き裂かれるのか。
そう考えただけで、明日が明るい。
湊の結衣への想い。結衣の湊に対する甘え。
それらをゆっくりと、丁寧に、こねくり回して、最後にはぐしゃぐしゃにしてやる。
これが俺の人生だ。
今日の湊の顔も良かったが、もっと絶望に歪んだ顔が見てみたくなった。
俺の、最高傑作の舞台のために。
幕が上がるのを、俺は今か今かと待ち望んでいる。ヒーローの仮面の下で、醜く笑いながら。




