第四話「幻想競演」
早川瑞希は階段を駆け下りていた。
清次郎を助けに行くためだ。午前中からずっと人目につかない所に隠れていた彼女だが、筒井清次郎を守るという仕事を放棄していたわけではない。いつ敵の襲撃があっても即応出来るよう、常に目を光らせていた。
そして数秒前、校内に潜入していた敵の一人が玩神を召喚し、特別教室棟の一階にいた清次郎に襲い掛かる場面を、三階の窓から目撃した。だからこそ今、すれ違う生徒達に奇異な目で見られるのも構わずに、全速力で現場に向かっている。
「まったく、もう……」
階段を駆け下りながら、思わず愚痴が零れた。二つの理由から零れた愚痴だった。
仮にも命を狙われている身だというのに、教室を離れて特別教室棟などという人気のない場所に行ってしまった清次郎に呆れたというのが一つ。
もう一つは、自分をここに送り出した遥に対する、何とも言い難い感情だ。
「それじゃセージ君の護衛はみーちゃんに任せるけど、学校ではそんなにべったりくっついてなくていいよ。むしろ、ちょっと離れた所から見守る感じにしてほしいかな、うん」
昨晩、清次郎を自宅に帰した後。清次郎の護衛役を買って出た瑞希に、遥はそんな指示を出した。
瑞希が「どうしてですか?」と尋ねると、遥は悪びれもせずに言った。
「みーちゃんがセージ君にくっついてたら、敵さんも襲ってきづらいでしょ? ……まあぶっちゃけるとね、椎名さん達が襲ってきてくれた方が都合いいのよ、あたし的には。だってあたし、あの人達が普段どこにいるのか知らないし、わざわざ探偵ごっこして捜し出すのもめんどくさいしさ。てなわけで、あの人達がセージ君って餌に釣られてほいほい出てきたところをボコって勝利、ってのがあたし的な理想の展開。あ……分かってると思うけど、セージ君には内緒ね、これ」
まさに、正気を疑うほど意味不明な指示だった。
清次郎が殺されてしまえば「負け」になる状況で、何故彼を危険に晒そうとするのか。誰にも守ってもらえない状況で彼が敵に襲われて、無事でいられるとでも思っているのか。そもそも本当に彼を守る気があるのか。
おかしな点を挙げればきりがない。
いや、今回の件は、最初から何もかもおかしかった。
約半年後に行われる神在祭の出場権を懸けて、朝宮遥と椎名親子が争う――それはいいとしても、何故そこに筒井清次郎が巻き込まれたのか。彼と万輪会との間にどのような関わりがあるというのか。
当然のように浮かんだその疑問を遥にぶつけても、はぐらかされるばかりで何も教えてもらえなかった。清次郎に尋ねてみても、自分は何も知らないという答えが返ってきただけだった。
だから、何も分からない。
何も分からないまま、昨日知り合ったばかりの少年の護衛役を務めている。
そんな、まるで濃霧の中を手探りで進んでいるような状況に、瑞希は微かな苛立ちと不安を覚え始めていた。清次郎を助けに向かっている今も、様々な疑念や憶測、雑念の類が頭から離れない。
しかしながら、そろそろ雑念を振り払わねばならない頃だということも弁えていた。もし清次郎が殺されて自分達の「負け」になってしまえば、神在祭への出場が困難になる。いや、不可能になるかもしれない。
それは困る。大いに困るのだ。今までやってきたことが無駄になってしまう。
だから今は雑念を頭の隅に追いやって、あの少年を全力で守るしかない。
そう自分に言い聞かせて集中力を高め、特別教室棟へと続く渡り廊下を駆け抜けようとした時――彼女は顔を強張らせて急停止した。
そこに、異常な存在がいたからだ。
体格は人のそれだが、人ではない。紛うことなき玩神だ。
濃い緑色の装甲――というより外骨格のようなものを纏っており、両肩には小さな突起がある。
口にあたる部位には鋏のような形をした大顎があり、その横からは一対の細長い触角らしき器官が伸びている。
そして眼球は、顔面から大きく迫り出した丸い複眼だった。
その姿に瑞希が抱いた第一印象は、虫。
二足歩行する人間大の甲虫が、目の前に立ちはだかっている。
「やっぱ見えてんか……そりゃそうだわな。朝宮さんが傍に置いてるくらいだしよ」
立ち止まって警戒心を露わにしている瑞希を注視して、虫のような姿の玩神はそんな独り言を洩らした。
若い男の声だった。
「……あなたは?」
「倉科ってもんだよ。朝宮さんから聞いてねえかい? 同期の中の落ちこぼれで、今は椎名さんとつるんで神在祭行きの切符を狙ってるアホがいるって」
その名なら、確かに聞いている。
倉科敦。かつて茅野清明に師事し、過酷な修行の末に玩神法を体得した、数少ない精鋭の一人。そして現在は、どういう経緯かは不明だが椎名親子と行動を共にしている男。
冷静で、頭が切れて、油断のならない男――朝宮遥は、倉科敦をそう評していた。
「今あんたの目の前にいるこれは、俺の玩神……一応、屑虫って名前をつけてる。ひでえネーミングセンスだってよく言われちまうんだがよ」
玩神の名などに関心のなかった瑞希は、その発言を聞き流し、半身になって臨戦態勢をとりつつ挑発的な言葉を投げた。
「……それで? 仲間を助けに行きたければ俺を倒してみせろとか、そういう感じのことを言いたくてそこに突っ立ってるんですか?」
「ま……ぶっちゃけるとそうなんだが……」
学校の敷地外にいる倉科本人は、空を仰いで嘆息した。それに合わせて、瑞希の目の前にいる屑虫も同じ姿勢をとる。
「やっぱ柄じゃねえよな、そういうノリは」
そして、正気を疑われるようなことを平然と言う。
「悪いんだけどよ、お嬢ちゃん。お仲間を助けに行くのは諦めて、しばらくその辺で大人しくしててくれねえか? そうしてくれりゃ俺も何もしねえからさ」
冗談を言っている風ではなかった。瑞希を小馬鹿にしている様子もなかった。彼はごく自然に、冗談でも皮肉でも挑発でも何でもなく、些細なことを頼むような気軽さでそう言ったのだ。
だからこそ、瑞希は反応に困った。
「……それは、おちょくっているつもりですか?」
「いや別に。割とマジで言ってんだけど」
自然体のまま、薄気味悪いほど抑揚のない声で、倉科は言う。
「女の子を殴るなんて気が進まねえし、何が何でもおたくを倒さなきゃいけねえってほどの理由もねえしよ。意味ねえ喧嘩で血を流さずに済むなら、それが一番いいって思うんだが……どうかね?」
妙な雰囲気の男だ――瑞希は内心でそう思った。
立場上は間違いなく敵対者なのに、敵対している感じがまるでしない。敵意や殺意、戦意といったものが欠片ほども感じ取れない。
これを冷静と表現するのは、少し違うだろう。淡白、あるいは無気力という表現の方がしっくりくる。
しかしながら、緩くて締まりがない男という印象でもない。その佇まいと落ち着いた低い声が、多少のことでは揺るがない硬質な気配を醸し出している。
軽薄でいながら重厚。
隙だらけのようでいて、付け入る隙がない。
そんな矛盾した雰囲気を、自然体のまま纏っている男だ。瑞希にとっては、これまで出会ったことのない人種だった。
「なるほど、言いたいことはよく分かりました。でも私はあの筒井さんを守るのが仕事なので、そこを通してもらわないと困ります。ていうより、邪魔するなら力ずくで通りますよ。そっちの意向とか関係なく」
「だよなぁ……そう言うと思ったけどよ……この状況で大人しくしてくれるわけねえか」
瑞希の鋭い目と、屑虫の複眼。両者の眼差しが、静かに交わる。
少しずつ、場の空気が張り詰めたものへと変わっていく。
「でもまあ、もう一度だけ言っとくわ。俺とやりあうのは止めといた方がいいぞ、お嬢ちゃん」
空気を読んでか、少しだけ声を真剣なものにして、倉科は瑞希に忠告する。
「俺は別に、自分がすげえ強えだなんてこれっぽっちも思ってねえけどよ……」
敵意も殺意も見せないまま、淡々と、事実だけを教えるように――
「それでも多分、おたくよりは強いぜ」
俺と戦えば、お前は死ぬ。
そんな意味の言葉を、さらりと吐いた。
「――そうですか」
静かにそう応じた時、既に瑞希は、人にあらざる者を背後に従えていた。
燃えるような赤い髪をした美貌の女。肌は新雪のように白く、その身に草花で編み上げたような衣を纏っている。
倉科敦の屑虫に対抗すべく呼び出された存在。早川瑞希の玩神だ。
その白い手がゆっくりと前に突き出され、掌から光り輝く小さな球体を落とした。それは一直線に落下し、床に吸い込まれるようにして消える。
何だ――と倉科が心中で呟いた時、球体が落ちた場所に異変が生じた。
突然、咲いたのだ。麗しい、一輪の赤い花が。
そして瞬く間に、それが増殖する。
「――っ」
思わず目を疑うほどの怪現象だった。
花が咲く。花が咲く。花が咲く。最初に咲いた一輪を起点として、次々と、硬い床から細長い花茎が生え、その先端から赤い花弁を広げていく。爆発的増殖は床から壁へと広がり、ついには天井にまで達して、渡り廊下全体を花で覆うまでになった。
倉科の視界を埋め尽くす、花の大群。
虫の姿をした彼の玩神は、夢幻の花園に取り囲まれた。
それがどのような結果をもたらすのかは分からなかったものの、危険を感じて花園からの脱出を図る。しかし、不可解なことに動くことが出来なかった。
前進も、後退も、跳躍も出来ない。前後左右上下のいずれにも行けない。まるで地中に根を張ったかのように、足がその場に固定されてしまっている。動こうという意思はあるのに、動いてくれない。
そんな異常事態に戸惑う間もなく、夢幻の花園が牙を剥いた。幾本も、先端に花弁を付けた花茎が縄のように長く伸び、屑虫の五体に巻き付いていく。そしてその五体を強烈な力で締め上げ、身動きを完全に封じる。
いとも容易く術中に嵌った相手に、瑞希は冷たく言い放った。
「随分と、節穴な目をしてるんですね」
彼女の想像力が生んだ超越者。
赤き毒花を司り、不可侵の聖域を築き上げる女神。
その名を、徒花という。
強い恐怖を覚えた時。現実感が喪失するほどの衝撃を受けた時。人は、すぐには動けない。思考と筋肉の両方が、凍りついたように固まってしまう。
所謂、蛇に睨まれた蛙の状態だ。
今の清次郎と楓の状態が、まさにそれだった。
目の前にいる白骨の集合体に――その非現実的すぎる姿に圧倒され、声も出ない。ただ体を小刻みに震わせながら、怪物の巨躯を見上げるばかりだった。
そんな二人を無慈悲に見下ろし、骨の怪物は動く。八本ある腕の内の一本をゆっくりと上げ、人差し指を伸ばした。
その指先から糸のように細い赤色の光が放たれ、壁に突き刺さっていた杭状の物体に命中した。すると杭がひとりでに壁から抜け、手繰り寄せられるように怪物の手元に戻っていく。
そうやって回収した杭を、赤い光を放っていた腕が掴んだ。そして、刀剣類を操るように大きく振りかぶる。
その腕がそのまま振るわれれば、どうなるか。
その攻撃の軌道上にいるのが誰か。狙われているのが誰か。
それに気付いた時、清次郎の体はようやく動いた。
「楓!」
叫び、横から抱きつくような形で楓を押し倒す。その直後、彼ら二人の頭上を横薙ぎの一撃が走り抜けていった。
激しい擦過音と共に、部室の壁が削られる。クリーム色の壁に、横一文字の深い傷が刻まれた。
倒れたままその破壊の跡を見上げ、二人は背筋を寒くする。
「くくっ……」
怪物の頭部――肉も皮もない髑髏の口から、笑い声が洩れる。
「この状況で動けるか……いいぞ、なかなかいい」
深い闇を湛えた髑髏の眼窩が、伏した姿勢の清次郎を見下ろす。眼球などないが、それは明らかに清次郎を凝視していた。
「女を見捨てて逃げるような腰抜けならどうしようかと思ったが……見かけによらず肝が据わっているじゃないか、少年」
清次郎は戦慄した。
目の前の怪物は、自分のことを知っている。そして自分に――いや、自分達二人に危害を加えるため、この場に現れている。
ならば、つまり、この存在は――
「楓、立って!」
「え、あ……あ……」
「早く立って! 逃げるよ!」
未だ混乱している様子の楓を強引に助け起こし、清次郎は部室のドアを開ける。そしてそのまま、楓の手を引いて走った。
行き先も定めていない、がむしゃらで無計画な逃走だった。
長い廊下を脇目も振らずに駆け抜け、校舎の外に飛び出し、体育館の前を通って校門のある方に向かう。
幸か不幸か、他の生徒や教師とすれ違うことはなかった。
一度だけ後ろを振り返ると、骸骨の姿をした怪物は当然の如く追跡してきていた。
「セ、セージ……! あれ何……何なの!」
隣を走る楓が問いをぶつけてくるが、それに応じるような精神的余裕はない。走りながら考えをまとめるだけで精一杯だった。
あれが玩神だということは分かる。
あれを操っているのが例の椎名とかいう男だということも、流石に分かる。
だが、行動が不可解だ。
先程の、杭状の骨を振り抜いた一撃。あれは明らかに、自分ではなく楓を狙っていた。その後の発言も、まるで楓を標的にしているかのような口ぶりだった。
どういうことなのか。命を狙われているのは自分と朝宮遥だけではなかったのか。
深い理由などなく、騒がれると面倒だから殺してしまおうと思っただけなのか、それとも――
ともかく、その答えが分からない以上、楓を置いて逃げるわけにはいかない。
危険かもしれないが、楓を連れて逃げるしかない。
「くそっ……!」
最悪な状況に、苦い顔で悪態をついた時だった。
「――きゃあ!」
楓が悲鳴を上げて転倒する。何事かと思い立ち止まった清次郎は、転倒の理由を知って絶句した。
右足のふくらはぎに、一筋の傷が刻まれていたのだ。深々と肉を抉られたそこから血を流し、地面に血溜りを作っている。
鋭利な物に切り裂かれた――いや、射抜かれたような傷痕。
掠り傷とはとても言えない深手だった。
「つっ……! う、ううっ……!」
楓は顔を歪め、苦痛に喘いでいた。きつく閉じた目の端から大粒の涙が零れ落ち、頬を濡らしている。
どう見ても、立ち上がって走れるような状態ではない。
もうどこにも逃げられない。
「逃がすと思うか、なんて陳腐な台詞を言わせないでくれよ、少年。こちらに飛び道具があることを、わざわざ最初に教えてやったというのに」
骸骨を象る玩神が、蛇のように地を這いながら迫ってくる。
その左右と頭上の空中に浮かぶ、幾本もの白く細長い物体があった。
骨だ。最初に見た杭状の骨の縮小版。クロスボウの矢ほどの大きさに整形された、鋭い骨の矢だ。
たった今楓の足を射抜いたのがその内の一本なのだということを、清次郎は瞬時に理解する。そして、それが再び発射されようとしていることも。
「そら、逃げても無駄だと理解出来たなら、どうにかしてみせろ。どうにかせんと死ぬぞ、お前ら二人共」
空中に浮かぶ骨の矢が、その鏃を斜め下方に向ける。それは疑う余地がないほど明らかに、楓の背中を狙っていた。
「……野郎」
清次郎の中で何かが弾けた。歯軋りと共に両眼が血走り、顔筋が大きく歪んで凄絶な形相を作る。
許せなかったからだ。
楓を傷つけたことが。おそらくは一生消えない傷を、彼女の体に刻んだことが。今もまた、彼女を傷つけ、命を奪おうとしていることが。
八つ裂きにしても飽き足らないほど、許し難かった。
故にその後の行動は、頭で考えてのものではなかった。煮え滾る激情を源とした、衝動的な暴挙だった。
発射され、楓の背中めがけて飛来する三本の矢。その射線上に割って入り、拳を縦横に振るう。飛来する矢を全て叩き落すために。
不可能だろう。本物の弓から放たれる矢と同等以上の速度で迫る矢を――それも三本も素手で叩き落すなど、人間業ではない。並の動体視力や反射神経で可能な範疇を超えている。
しかし、この時の清次郎は、その不可能を可能にした。
一矢たりとも楓の身に触れさせることなく、また自身も傷つくことなく、全ての矢を叩き落したのだ。
「――っ!」
自分でしたことだが、それでも清次郎は驚かずにいられなかった。
足下に、白い破片が散らばっている。地面に落ちて砕け散った骨の矢だ。その有様を見れば、自分の腕が矢を叩き落したことは一目瞭然。とはいえ、信じ難い。そんな離れ業をやってのけたという実感が、全く湧かない。
戸惑いつつ右腕に目を向けて、気付いた。
自身の細い腕のすぐ傍に、もう一本腕がある。不気味な青黒い肌の右腕。分厚い筋肉に覆われた、自身の腕とは似ても似つかない屈強な腕だ。
そんな腕が――正確には、そんな腕の肘から先の部分だけが、自身の腕に寄り添うように浮かんでいる。
それがどこから生じた何なのかは、清次郎にも分からない。
だが、飛来する矢から自分達を守ってくれたのがその腕なのだということだけは、直感的に理解出来た。
「ほう……」
骸骨を象る玩神の口から、呟きが洩れる。
「腕……やはり、腕だけか……」
感心と落胆。相反する二つの感情が混在した呟きだった。
「現状では、それが限界といったところか。何の訓練も受けていない身で大したものだと褒めてやりたいところだが……それでは駄目だな、まだ足りん」
蜘蛛の脚を思わせる八本の腕。その全てが一斉に五指を広げ、全ての指先から赤い光線を放った。計四十もの光線はそれぞれ異なる軌跡を描き、清次郎の足下に散らばっていた骨の破片に命中する。
その後に生じたのは、部室で杭を回収した時と同様の現象だった。光線を受けた四十の破片がひとりでに浮き上がり、一つ残らず骸骨の元に帰還していく。
僅か数秒の出来事だった。僅か数秒で、骸骨の玩神は先程より大量の骨を自身の周囲に従える状態になっていた。
清次郎は驚愕しながらも、気付く。骸骨の指先から伸びる糸のような光線は、事実として糸と同じ役割を果たしているのだということに。
例えるなら、人形芝居の操り糸。人形遣いが糸で人形を操るように、あの骸骨は光の糸で骨を操っている。
従って、飛来する骨を叩き落とそうが砕こうが、ほとんど無意味。
光の糸を放つ四十の指が健在な限り、何度でも再利用されてしまう。
「小手調べでは刺激不足か? なら、少しばかり本気で行くぞ」
骸骨が獰猛に言い放ち、再び攻撃を仕掛けようとした時だった。
「はいはーい、いい感じにテンション上がってるとこ悪いんだけど、あなたの相手はこっちね」
場にそぐわない調子の声と共に、銀色の物体が飛来する。
それは、大きく分厚い刃物だった。柄も鍔もその他の装飾も一切ない、三日月のような曲刃だ。それが三枚、ブーメランのように高速で回転しながら曲線を描き、骸骨の玩神に三方向から襲い掛かった。
骸骨は攻撃を止めて後退し、刃の軌道上から逃れる。空を切るだけで終わった三枚の刃は物理法則から逸脱した動きで飛翔を続け、持ち主の手元に戻っていった。
指の間に挟む形で、戻ってきた刃を受け止める人物。
その場にいる全員の視線が、そこに集まる。
「百八ある超必殺技の一つ、遥さんカッター。地味だけどお手軽なんで割とお気に入り。でも下手すると自分の手切っちゃうんで、よい子は真似しちゃ駄目ね」
清次郎と楓の後方――校門のある方向から現れた朝宮遥は、指に挟んだ刃をひらひらと振りながら、そう言った。
そのまま彼女は、ゆったりとした足取りで二人の脇を通る。
「……って感じのノリでいこうと思ってたんだけど、やっぱやめとくわ。あんまりふざけてるとセージ君に怒られそうだし」
その目は、血を流す楓の右足を見つめていた。
「朝宮さん……」
「ごめんね、二人とも。お詫びは後でするから、ちょっと待ってて」
刃が蜃気楼のように消え去る。それと共に、遥の顔からも一切の表情が消える。透明な湖面を思わせる無表情で、彼女は骸骨の玩神の前に立つ。
彼女の背中に清次郎は言葉を投げかけようとしたが、その前に、対峙する二人の会話が始まった。
「やはり……近くに潜んでいたか、朝宮。そろそろ出てくる頃だと思ったぞ」
「そりゃ指咥えて見てるわけにいかないしね、出てくるしかないでしょ……ま、何はともあれお久しぶり、椎名さん。女の子に怪我させてドヤ顔してるあたり、相変わらず大人げなさ全開だね」
「お前も相変わらずだな、その減らず口は」
言葉を交わしながら、探り合うように視線を交わす二人。
奇妙な種類の沈黙が数秒続いた後、骸骨の口から失笑が洩れた。
「それにしても、ふふ……どういう因果なのだろうな、これは……まさかお前とこうして対峙する日が来るなど、茅野の下にいた頃は思いもしなかったぞ」
「因果も何も、椎名さんが茅野さんに無茶言うからこんなことになったんじゃない。巻き込まれたあたしとセージ君はいい迷惑。ちゃちゃっと終わらせてアーティストの仕事再開したいんで、ここらで選手交代させてもらうけど、いいよね?」
「ああ、別に構わんよ…………だが、一つだけ訊いておこうか」
骸骨は視線を、遥から清次郎へと移す。
「お前それで、後ろの奴らを守れているつもりか?」
上空から、黄褐色の影が飛来した。
凄まじい速度で迫るその存在を清次郎が認識した時は、もう遅かった。それは着地と同時に両手を伸ばし、清次郎と楓の体を抱え、地を蹴る。そして異常なまでの跳躍力で天高く舞い上がり、学校の敷地外に消えていく。
まさに、目にも留まらぬ早業だった。
抵抗はおろか悲鳴を上げる間もなく、清次郎と楓の二人はその場から連れ去られた。
「私の相手はお前で構わんよ。あの坊やは、うちの息子と遊んでいてもらうからな」
残された遥を愉快げに見下ろし、骸骨の玩神はそう言った。
体を抱え上げられた直後に強いられた空中移動。
それは、極めて凶悪な仕様のジェットコースターに乗せられたような体験だった。
全身にかかる重力が増幅する急上昇と、逆に重力が低下する急下降。日常生活ではまず味わうことのない急激な重力変化に耐え切れず、清次郎は意識を失った。
とはいえ、それも一瞬のこと。着地と同時に放り投げられて地面を転がった彼は、その衝撃により目を覚ました。
「くっ……うぅ……」
顔を歪めて呻きつつ、瞼を上げる。それから上体を起こして視線を左右に走らせ、自分が学校の外に連れ出されたことを思い知った。
目に映るのは、枯葉と枯枝の積もった焦げ茶色の地面。聳え立つ太い広葉樹。そして、立ち並ぶ木々の先にある、相海高校の校舎と思しき白い建物群。
ここは、林の中――相海高校の敷地から道路一本挟んだ先に広がる広葉樹林の中だ。
そう思った時、背後から男の声がした。
「殺せと言うなら、今ので終わっていたものを……まったく、面倒なことさせやがる」
振り返った清次郎は声の主の姿を見て、息を呑む。
黄褐色の甲冑を纏う人の体に鹿のような動物の頭を載せた、異形の戦士。
昨日の夕刻、住宅街で自分を襲ったあの玩神が、そこにいた。
「それもこれも、お前のせいだぞ、小僧。お前が昨日妙な真似をするから、余計な手間が増えた」
獣の口から人の言葉を発して、獣面の異形――椎名孝文が操る奔王という名の玩神は、清次郎を冷たく睨みつけた。
対する清次郎は思わず後じさりながらも、気付く。数メートル先で悠然と立つ敵手のすぐ後ろに、楓の姿があることに。
気を失っているのか、楓は地面の上で仰向けになったまま動く気配を見せない。
今すぐ駆け寄って安否を確かめ、傷の応急処置をしたいところだが、この状況ではそうすることも出来ない。
自分と楓の間にいるのは、自分の命を狙う敵なのだ。
「だが、まあいい……この奔王の試運転には丁度いい、とでも思っておこうか。面倒だが、少しだけ遊んでやるよ」
一歩前に踏み出し、戦意を露わにする奔王。
清次郎の中で、先日植え付けられていた恐怖心が急速に膨れ上がっていく。しかしそれを強引に抑え込み、彼は相手を睨み返した。
「何を……勝手な御託並べてんだよ」
この連中が自分の命を狙っていることなど、最早どうでもよかった。
今はそれ以上に、許し難いことがある。
「神在祭だか何だか知らないけど、そんなに俺を殺したいってんなら……ああいいさ、好きにしろよ。けど、どうして……どういうつもりで楓を巻き込んでんだよお前ら! その子は何の関係も――」
言い終える前に、奔王の姿が視界から消えた。
清次郎の脳がそのことを認識して驚愕の反応を示すより早く、左の脇腹に重い衝撃が突き刺さる。
瞬時に清次郎の左側面に移動した奔王が、軸足で地面を抉りながら放った回し蹴りだった。
人間が繰り出す蹴りとは比較にならない威力の一撃だ。清次郎の柔な体ではひとたまりもない。自動車に撥ねられたように飛ばされ、そのまま木の幹に激突した。
「ああそうだな、その女は関係ないな。そいつにとってはいい迷惑だろうし、お前が憤るのも当然だろうさ。だがな小僧、この状況でそんなことをのたまって、相手が大人しく引き下がってくれるとでも思ってるのか?」
這いつくばって悶え苦しむ清次郎を見下ろし、奔王は苛立たしげに言い放つ。
「まだ状況が呑み込めていないなら、はっきり言ってやる。俺はお前と下らない口喧嘩をしに来たんじゃない。神在祭とやらに出るため、お前の命を取りに来たんだ」
楓を巻き込んだのは父親の意向であり、彼の本意ではないが、こうなったからには容赦などしない。
父親に指示された通り、徹底的な暴力を以って清次郎をいたぶり抜く。楓という少女の命を、脅しの材料として扱いながら。
「とはいえ、だ……ただ殺すのでは芸がないから少しくらい悪足掻きさせてやれと、うちの親父殿が仰せだからな……」
奔王は掌を上に向けた形で右手を突き出し、手招きするように指を二、三度曲げた。
「来いよ小僧、勝負してやる。サシの勝負だ。この場を切り抜けたければ、その拳で俺を倒してみせろ」
その言葉を受けて、清次郎は思い出す。
骸骨の玩神の攻撃から楓を庇った際、突如出現した青黒い腕。それが、自身の右腕に寄り添う形で今も存在していることを。
その正体は分からない。本当に自分のものかどうかも疑わしい。しかもどうしてか、見れば見るほど、おぞましい汚物に触れているような嫌悪感と不快感を覚えてしまう。
正直、恐ろしい。本能が警鐘を鳴らしている。
これは良くないものだと。自分の身に災いをもたらす類の存在だと。
理屈ではなく本能の域で、そう感じ取れる。
だが――確かにこの腕を使えば、眼前の敵を打倒することも可能かもしれない。そんな思いが、清次郎の中で微かに芽生えた。それは希望という名の、抗い難い誘惑だった。
「嫌だと言って逃げ出すなら、俺が腹いせに何をするか……それは言わずとも分かるだろう?」
未だ気を失ったままの楓を一瞥し、奔王は清次郎を挑発する。その言葉の意味が分からないほど清次郎も馬鹿ではない。
「……上等だ」
険しい顔で応じ、痛みを堪えて立ち上がる。
そして身構えながら、密かに右腕に寄り添う青黒い腕の具合を確かめた。
指を広げろと念じて指を広げる。拳を作れと念じて拳を作る。視線を敵に向けたままでも、自分の思い通りに動いているのが分かった。
何の問題もない。感覚的には腕が一本増えたようなものだ。生身の腕を動かすのと同じ要領で、この青黒い腕は動く。
だから、後は戦うだけ。この醜悪な拳で、あの獣の顔をした玩神を打ち倒すだけだ。
あの玩神を倒すことが出来れば、楓を救える。
そう思うことで自分自身を奮い立たせ、清次郎は敢然と奔王に向かっていった。
相手の鳩尾めがけて、真っ直ぐに拳を撃ち放つ――そう意識して踏み込んだ瞬間、生身の拳より先に青黒い拳が伸びる。
弾丸の如く鋭い突き。清次郎の肉体の性能では絶対に出せない速度の正拳突きが、奔王の鳩尾めがけて飛んでいく。
だが、それは無人の空間を突くだけで終わった。奔王は左方向に跳び、いとも容易く清次郎の攻撃を回避する。逃げるように移動するその身を目で追いながら清次郎は果敢に走り寄り、再び拳を放つ。
それも、当然のようにかわされた。青黒い拳は奔王の身に触れることなく、その背後に立っていた木の幹を空しく打つ。
太い木が大きく揺れた。巨大な鉄槌の一撃を受けたかのように幹が陥没し、木屑が舞い散る。
のみならず、陥没した箇所に異様な黒い染みが生じた。それは僅か数秒で幹の裏側に達するほど広がり、幹の内部をも蝕んでいく。
ブナの木は自重を支えることも出来なくなり、みしみしと音を立てながら倒壊した。
「ふん……やはり、猛毒か病原菌のようなものを使うらしいな。触れられれば厄介、か」
倒れた木を見やってそう分析した奔王は、清次郎の青黒い拳に視線を移してから、挑発するように言葉を足す。
「触れさせんがな」
清次郎は歯噛みした。今の短い攻防だけで、彼我の間にある絶望的な差を思い知ったからだ。
しかしそれでも、諦めるわけにはいかない。今自分が目の前にいる敵を倒さなければ、楓の命が危ういのだ。何としてでも、どんな手を使ってでも、勝たねばならない。
まぐれでも何でもいいから、この拳が当たってくれ――そう祈りながら、無謀を承知で再び向かっていった。
闘志を滾らせて強く念じ、青黒い拳を前方に突き出す。
豪雨の如き高速の乱打。常人の目には腕が分裂したように見えるに違いない突きの嵐を繰り出して、奔王に襲い掛かる。
椎名孝文が操る奔王は、それを涼しい顔のままかわしていった。一発たりとも食らわないどころか、掠らせもしない。清次郎の乱打以上の速さで動き続け、全ての攻撃を完璧にかわし続ける。
洗練された無駄のない動きをしているわけではない。むしろ洗練などとは真逆。その身のこなしは技術の欠片もない粗雑なもので、がむしゃらに攻めている清次郎のそれと大差ない。
にもかかわらず攻撃が悉く外れるのは、単純に速いからだ。
足捌きが、身を引く動きが、挙動の全てが、武道や格闘技の心得を必要としないほど速過ぎる。
驚異的な速さを生む運動能力。玩神という括りの中でも間違いなく上位に属するその運動能力こそ、椎名孝文の奔王が誇る最大の強みだった。
「鈍いんだよ、間抜け」
拳の嵐を潜り抜けて清次郎の懐に入った奔王は、無防備な腹を蹴り上げる。
「がっ――」
肺から大きく息を吐き出し、清次郎の体は宙に浮く。そしてそのまま、背中から地面に落ちた。
「この奔王はレイヨウの神格化……敏捷性に長けた近接戦闘型の玩神だ。今は遠隔操作で多少性能を落としているが、お前の鈍い拳をかわすだけならそれでも充分だな」
レイヨウとは、ガゼル、インパラ、ヌーなどに代表されるウシ科の動物の総称だ。
椎名孝文が自らの玩神を作り上げる際にイメージの元としたのは、その中の一種――北米大陸に生息するプロングホーンという種だった。
別名エダツノレイヨウ。鹿に似た姿をしており、その名の通り二股に枝分かれした角を持つ。
その最たる特徴は、驚異的なまでに発達した脚力。時速七十キロ以上の速度で長距離を走ることが出来るとされ、短距離を走る際の最高速度は時速九十キロにも達する。
これは最速の獣として知られるチーターに次ぐ速さであり、草食動物の中では紛れもなく最速。しかも持久力の面ではチーターを大きく上回る。
地上で最も優れた脚を持つ生物、と言っても過言ではないだろう。
「俺と対等に渡り合いたければ、これと釣り合うものを捻り出してみせろよ小僧。でなくば百年かけても俺を捉えられんぞ」
大の字になったまま動かない清次郎を見下ろし、吐き捨てるように言う。
それは事前に父親から言えと命じられていた、文字通りの意味での「台詞」だった。
彼は清次郎を殺せない。傷つけるだけなら構わないが、致命傷を与えるのは避けろと命じられてしまっている。
故に、ここに連れて来る際も、蹴り飛ばす際も、うっかり殺してしまわないよう細心の注意を払った。今もまた、倒れているところを踏みつければ殺せるにもかかわらず、あえて何もせずにいる。
止むを得ないことだと納得してはいるものの、実に面倒で、ストレスの溜まる作業だった。本当ならすぐに殺せる相手を殺すことが許されず、殺さないように気をつけながら戦うことを強いられているのだから、自然と苛立ちが募ってしまう。
そうした理由から密かに舌打ちしていると、不意に、清次郎が倒れたまま口を開いた。
「……露骨なんだよ」
怒りと、呆れが混じった呟き。
奔王に向ける、塵を見るような目。
「何だか知らないけど……俺に死なれたら困る事情があるんだろ……? お前らの言動見てれば、どんな馬鹿だってそのくらい気付く……いちいち露骨すぎるんだよ、お前らは」
荒い息をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。そして、眉間に皺を寄せて言い放つ。
「やるならもっとさりげなくやれよ……下手糞」
ただがむしゃらに攻めていたわけではない。彼我の間にある絶望的な差を覆す方法を、戦いながら考えていた。あの骸骨の玩神と今目の前にいる獣の玩神の発言と行動を思い返して、付け入る隙を懸命に探していたのだ。
そして、蹴り飛ばされて倒れている間に、起死回生の策を練り上げた。
一か八かの危険な賭けになるが、それしか手はないと判断し、覚悟を決めた。
だから今、再び立ち上がる。勝利を掴むために。
「……だから何だ? そんなことをいくらのたまったところで現状は……」
「だからも糞もねえんだよ。下手な芝居のせいで自分の首締めてるってことに気付かねえのか、間抜け」
口調を一変させ、言い放つ。血走った目で相手を睨む。
その声音と眼光に宿る迫力――煮え滾る溶岩のような殺気に、奔王を操る孝文は一瞬気圧された。
彼は今まで見抜くことが出来ていなかった。
筒井清次郎の危険性を。
その人格の根底にある悪辣さを。
「このままじゃ百年かけてもお前を捉えられない? ああそうかよ、だったら……こうするまでだ」
青黒い拳が奔り、近くに立っていた木を叩いた。
先程と同様、叩かれた箇所に黒い染みが生じる。そしてその染みが拡大し、幹の内部を蝕んでいく。
さらに清次郎は、同じことを他の木に対しても行った。都合三本、自らの周囲に立っていた木を攻撃し、その病魔のような力で崩壊へと導く。
攻撃を受けた三本の木が、音を立てて傾き始めた。あと僅かな時間で、確実に倒れる。
「お前、何を……」
その行為の意図が読めず、孝文は唖然となった。
わざわざ周りの木を殴って何がしたいのか、何を狙っているのか、まるで読めない。
倒木を攻撃に利用する気だろうか。いや、こちらの速さは向こうも充分過ぎるほど思い知った筈だ。倒木など当たるわけがないことくらい、どんな馬鹿でも分かるだろう。
そもそもあの木々、あのままでは奴に向かって倒れていきそうな――
「――っ! まさか……」
太い木が自分に向かって倒れてこようとしているのに、一歩も動かない清次郎。
そのあまりの不自然さが、孝文に狙いを気付かせた。
「俺に死なれたら困るんだろ? 容赦なく痛めつけるふりして、実は死なせないように気をつけてたんだろ? だったら、ここで何もしないわけにいかないよな?」
狼狽する相手を見据えて、清次郎は言い放つ。
「このままここに突っ立ってたら、俺は勝手に死ぬぞ。ここに倒れてくる木に押し潰されて」
冷酷に。そして、悪辣に。
「ほら……どうすんだよ、間抜け」
黒き病魔に芯まで蝕まれ、自重に耐えられなくなった幹が折れる。三本の樹木が、巨大な凶器と化して清次郎に襲いかかる。
その光景を目にして、孝文は叫んだ。
「て、てめえ――!」
怒りを露わにしながら一直線に駆けていく。清次郎を倒木から救うために。
罠と知りつつも、彼はそうせざるをえないのだった。
清次郎が狙った通りの展開だ。彼は倒木など目もくれず、急接近してくる奔王を凝視した。
奔王という玩神の動きは非常に速く、普通に殴りかかっても拳を当てられない。ならばどうするか――簡単だ。拳を確実に当てられる状況を作ればいい。
相手がこちらに致命傷を与えることを避けているのは、これまでの言動からして明らかだ。何故かは知らないが、おそらくこちらに生きていてもらわねばならない事情でもあるのだろう。
その弱みを見抜いたからこそ、清次郎は自殺紛いの奇策を打った。
相手がこちらを死なせたくないと思っているなら、遠慮なくそこにつけこむまで。こちらが死んでしまいそうな状況を作れば、相手は必ず助けようとしてくる。
こちらが拳を叩き込もうと待ち構えているところに、自分から突っ込んできてくれるのだ。
野球で例えるなら、次に来る球がど真ん中への直球と分かっているようなもの。いかに速くとも、打ち返すことは不可能ではない。
「――うらあっ!」
満を持して放った拳は、これまでにない冴えを見せた。
高速で接近してきた奔王の胸部を、閃光のように伸びた拳が強かに打つ。
「――がっ!」
苦悶の声が、奔王の口から迸る。拳から感染した黒い病が、その身を無慈悲に蹂躙していく。
一方清次郎は、殴りつけた際の反動を生かして真後ろに飛んでいた。
それにより、落ちてくる木々から間一髪で逃れることに成功。数メートルだけ低空飛行した後、背中から地に落ちる。高速で突進してくる物体と正面衝突したからこそ――そして、自身が軽量だからこそ可能な荒業だった。
彼の着地とほぼ同時に、轟音が鳴り響く。折れた木々が地面に倒れ伏した音だ。衝撃で地面が僅かに揺れ、林の中に潜んでいた小鳥達が一斉に飛び立った。
「ハッ……ハァッ……ハァッ……!」
息を乱しながら起き上がる清次郎。その視線の先で、たった今病魔の拳を受けた奔王が激しく悶え苦しんでいた。
「がっ……おお……ああっ……!」
どす黒く変色した胸を掻き毟りながら、天を仰ぐような姿勢で呻き声を上げている。打撃による損傷はさほどでもないようだが、その苦しみ様を見れば感染した病魔に体内を蝕まれていることは明らかだ。
間違いない。効いている。自分が叩き込んだ一撃は、あの玩神に致命的な損傷を与えている。
そう思い、勝利を確信しかけた時――悶え苦しむ奔王の向こう側から戸惑いを含んだ声が飛んできた。
「セ、セージ……」
楓だ。いつの間にか目を覚ましていた彼女は、まだ状況を理解しきれていない面持ちで、清次郎と奔王を交互に見やっていた。
右足に負った深手のせいで立ち上がれずにいるが、命に別状はないようだ。そのことに安堵しつつ、清次郎は硬い面持ちのまま呼びかけに応じた。
「楓……変なことに巻き込んでごめん。今手当てして、病院に連れていくよ」
「え……あ……」
「ちょっと待ってて。今そいつに止めを……」
そう言いかけた時だった。
「がおああああああああああッ!」
病魔を振り払おうとするかのように、奔王が苛烈な咆哮を上げる。それに伴い全身から放出された怒りの熱気を肌で感じて、清次郎は悟った。
まだ決着がついていないことを。
「糞……この、糞ったれがぁっ……! 舐めた真似してくれやがって、ガキが……!」
黒く染まった胸部から肉片を零しながら猛る奔王。満身創痍と言っていい姿だが、その足は未だ地面を力強く踏み締めていた。
清次郎の作戦は確かに功を奏していたが、僅かながら誤算もあった。
感染した生物の細胞を壊死させる凶悪な病魔――それに対する抵抗力が、相手の身に具わっていたことだ。
その抵抗力は、玩神法の使い手の間で法力耐性と呼ばれているもの。全ての玩神が程度の差こそあれ有している、同種の存在の力に対する防衛機能だ。
例えば、玩神の力で炎が生じたとしよう。通常の物体がその炎に触れた場合、燃焼や融解等の条理に従った化学変化を起こすが、玩神の場合は違う。燃焼も融解もしないか、したとしてもその程度が弱い。
これは勿論炎に限った話ではなく、冷気や電気、重力や磁力についても同様である。つまり、玩神には玩神を発生源とする力が効きにくいのだ。
法力耐性は個体差が大きく、中には気休め程度の耐性しか持たない玩神もいるが、椎名孝文の奔王は比較的高い耐性を持つ玩神であった。
流石に病魔を無効化することは出来なかったものの、その高い法力耐性で体内の重要器官を保護している。まだ戦闘不能には至っていない。
「殺すな、だと? ふざけた指示しやがって、親父の野郎……! もう知ったことかよ、殺してやる……! そんなに死にたいなら今すぐぶち殺してやるよ、クソガキが!」
無抵抗な案山子も同然と見なしていた相手から手痛い反撃を受けたことで、孝文は激怒していた。元々胸中で燻っていた父親の方針に対する不満も合わさり、その怒りは最早抑えこみようのない域まで膨れ上がっていた。
殺意を――演技ではない本物の殺意を、清次郎に向ける。
今後のことなど頭の中から追い出して、彼は自らの玩神に命じた。目の前の小僧を蹴り殺せ、と。
「ガアアアアアアアアアッ!」
再度の咆哮と同時に倒木を跳び越え、清次郎に襲い掛かろうとする奔王。
清次郎はとっさに身構えたが、打つ手なしという状況だった。怒り狂った相手に先程と同じ手が通じないことは明白であり、まともな殴り合いで勝ち目があるとは到底思えない。新たな策を練るような時間的余裕もない。
最早どうにもならないかと思われた、その時――
「転法輪」
戦場に響く、凛とした声。
「泡影曼珠沙華」
林を二分するかの如く、身構える清次郎と襲い掛かろうとする奔王の間の地面に線が引かれた。突如一列に並ぶ形で生えた無数の花による、赤い線だ。
「ぬっ――」
その線の一歩手前で、奔王が急停止する。
異常な現象に驚いて足を止めたのではない。足が、彼の意思を無視して勝手に止まってしまったのだ。
進もうとしても、進めない。目の前の赤い線を――小さな赤い花が一列に並んでいるだけのものを踏み越えられない。その先にいる清次郎を殺しに行けない。
何だこれは。どういう事だ。
そんな疑問を抱きつつ、数秒前声がした方向に視線を飛ばす。清次郎と楓も同じ方向を見る。
そこにいたのは、制服を着た小柄な少女。
「すみませんね、筒井さん。変なのに絡まれたせいで遅れました」
燃えるような赤い髪の玩神を従えて、早川瑞希は戦場に現れた。
玩神とは想像の産物。
玩神法とは神の姿と神の力を想像し、神を創造する術。
従って、玩神法の使い手に求められる能力の内で最重要なものは、想像力。豊かな感性を駆使し、現実世界に存在しない事象を明確に思い描く能力が必要不可欠。想像力の欠如した者に玩神法は体得出来ない。
椎名幸久は茅野清明に師事していた頃、そう教わった。
そして、そのすぐ後に痛感してしまったのだ。自分は玩神法と出会うのが――玩神法の修行を始めるのが、あまりに遅すぎたことを。
人間は加齢と共に衰える。肌は艶を失い、筋肉は減少し、骨は脆くなり、記憶力や計算力も低下していく。想像力とて例外ではない。想像が脳の働きの一部である以上、脳の衰えと無関係ではいられないのだ。
修行を始めた時五十歳を過ぎていた彼は、若い頃持っていた豊かな感性を既に失っていた。
老いて衰えた脳では、神の姿を思い描けない。神の力を顕現出来ない。
不足していたのだ。玩神を生み出すために必要な想像力が。
そのため彼は劣等生の烙印を押され、茅野清明に見限られた。破門を言い渡され、玩神法で超常の力を得る夢は脆くも潰えた――その時は、彼自身そう思った。
だが、そんな絶望の淵から、彼は執念で這い上がる。
想像力の不足を補う術を見出し、六年もの歳月をかけて、ついに手にしたのだ。
自分だけの神を。
神の力を。
それを今、朝宮遥の命を奪うために行使している。
「どうした朝宮、威勢よく出てきた割に消極的だな」
そんな言葉を投げかけながら、幸久は自らの玩神――殯と名付けた骸骨の玩神を操り、鋭利な骨の矢を連射する。遥はアスファルトの上を滑るように駆け抜け、飛来する矢をかわしていく。
体育館の脇で交戦を始めた二人は、玩神法による攻防を繰り広げながら移動していた。現在は、教職員の車が並ぶ人気のない駐車場を戦いの舞台にしている。
「あの小僧を助けに行きたくないのか? ちんたらやっていると手遅れになるぞ」
大小様々な骨が一箇所に集まる。密集して、接合して、新たな形を成す。それは無数の棘を持つ巨大な棒状の鈍器と化して、殯の手の内に収まった。
椎名幸久の玩神、殯は「骨」を神格化した存在。指先から放つ光の糸で骨を操り、形状や密度まで変化させる能力を具えている。
外科医であった幸久は、人体の骨格に関する正確な知識と、その知識を以って患者の負傷を治療した経験を豊富に持っていた。それ故に、自らの玩神を骨の玩神にしたのだ。
想像という脳の働きは、感性のみを原動力にしているわけではない。その人間がそれまでの人生で培った知識や経験も重要な役割を果たしている。そして、言うまでもないことであるが、長く生きれば生きるほど知識や経験は増加していく。
長年に渡る勉学で頭の中に詰め込んだ知識。
数え切れないほどの患者と関わることで得た経験。
その二つこそ、十代や二十代の若僧が持ち得ないものであり、高齢者ならではの利点と言うべきもの。その二つを十全に活かしきれば、瑞々しい脳を持つ若僧共との差を縮められる。いや、覆せる。
そんな発想を元に生み出されたのが、殯という玩神だった。
「手遅れ? ならないよ」
怯むことなく言い返し、遥は自らの力を行使。青い蒸気のような奔流が、彼女の足下から噴き上がった。
それによって視界を遮られ、骨の棍棒を振り抜こうとしていた殯は一瞬止まる。その一瞬の間に遥は後退し、相手との距離をとることに成功。そのまますかさず反撃に移る。
「セージ君は強いもの」
掌の上で、青い奔流が渦を巻く。
「それは、あたしが一番よく知ってる」
右手を突き出す動作と共に、青い渦が掌から放たれた。回転する破城槌のようなその一撃は、殯の胸部めがけて一直線に突き進む。
それに対し、殯を操る幸久は回避ではなく防御を選択した。手の内にあった骨の棍棒を高速で分解し、巨大な盾へと組み替える。
何十本もの骨が格子状に重なった、檻のような盾だ。それは青い渦を正面から受け止め、無傷のまま耐え抜いた。
あえなく防がれた青い渦は、散り散りになって消えていく。
「そうかそうか……大した信頼だ。お前がそこまで言うなら、さぞかし優秀な素材なのだろうな、あれは」
含みのある言い方をして、幸久は口の端を吊り上げる。
それから彼は骨の盾に目を向け、その表面に罅一つ入っていないことを確認した。
「それにしても……試しに受け止めてみたが、見た目に反して随分と軽いのだな、お前の攻撃は。まるで羽毛のようだったぞ」
顔を上げ、細めた目で遥の目を覗き込む。
「いや……そもそも、重さなどないのか」
「……だったら、何? 何が言いたいわけ?」
表情を消した顔のまま、硬い声を放つ遥。
彼女のそんな反応を見て、幸久が戦闘開始前から抱いていた疑念は、確信へと変わった。
「くく……くふふふふ……」
そう――彼が今とった行動は、防御というより最終確認。自らの立てた仮説が間違いでないことを確かめるため、盾を作って受け止めただけの話。
こうして対峙する前から、朝宮遥の玩神が如何なるものかは予想出来ていた。朝宮遥という女の経歴、人柄、評判、そしてこれまでの言動を総合して考えれば、答えは明白だったのだ。
「茅野はお前を詐欺師と評したそうだが……まさにその通りだな、朝宮遥。お前はちゃちなハッタリしか能のない、つまらん詐欺師だよ」
侮蔑を露わにし、塵を見る目で言い放つ。
遥は眉一つ動かさずに固まったまま、何も言い返さなかった。たった今幸久の口から放たれた言葉は、彼女の自己認識と見事に合致していたからだ。
朝宮遥は自他共に認める嘘吐きであり、生来の詐欺師。ハッタリしか能がないと指摘されれば、確かにその通りと認めるしかない。
もっとも――彼女の「嘘」を完璧に見破れる者など、そう多くはないのだが。
「さて……」
幸久は、校舎の方を一瞥した。
「このまま決着をつけたいところだが、一旦引き揚げるとしようか。向こうが騒がしくなってきたことだしな」
玩神法の心得のない者に玩神は目視出来ない。しかし幸久が武器として利用し、地面や校舎の壁に突き刺した骨は別だ。清次郎達を襲った際、文芸部の部室を派手に壊してもいる。
それらを生徒か教師が発見し、騒ぎ始めたのだろう。校舎の方から彼らのいる駐車場まで慌ただしい気配が伝わってきていた。
「いいの? 先延ばしにしちゃって。さっきの言葉を返すようだけど、ちんたらやってると時間切れになるよ。椎名さん」
「心配はいらんよ。期日までには……いや、明日の内には全て終わらせるさ」
骨の盾が分解され、大量の骨片となって宙に浮く。幸久は殯の指先から伸びる糸でそれらを操り、高速で円運動させた。
触れるものを切り裂く白い竜巻が発生し、遥の視界と前進を遮る。
「そうなるように仕向けろと、うちの奴らには指示してある」
竜巻が消えた時、椎名幸久と殯の姿はそこになかった。
枝も葉もない茎の先に咲く花。細工物のように精緻な形をした六枚の花弁。燃え盛る炎を思わせる、鮮烈な赤の色彩。
突如、驚異の早さで地面から生えたそれが何の花かくらいは、清次郎にも分かった。
彼岸花だ。
九月の中頃――彼岸の時期に開花することで知られる多年草。死人花、地獄花、幽霊花等の不吉な異名を数多く持つ有毒植物である。
「……何だか私が来る前に色々あったみたいで、聞きたいことが山ほど出てくる状況なんですけど……まあいいです。とりあえず置いておきましょう。脅威を排除してからでないと、ゆっくり話も出来ませんし」
清次郎の腕と、倒木と、負傷している楓を順に見やってから、瑞希はそう言った。
彼女の背後に佇む徒花という名の玩神は、主とよく似た形の鋭い目を奔王に向けている。その姿は椎名親子の玩神よりずっと人間的で、瑞々しい。しかしながら、ただそこにいるだけで人をひれ伏させるような超然たる気配も併せ持っていた。
「お前は……そうか、あれか……茅野が言っていた、朝宮の弟子とかいう奴か……」
奔王の目を通して瑞希を観察しつつ、孝文は呟く。
朝宮遥に弟子がいることは、彼も知っていた。父親と共に万輪会の本部を訪ねた際、茅野清明の口から聞かされていたからだ。今朝登校する清次郎を密かに監視していた倉科も、妙な少女が清次郎と一緒にいると報告していた。
とはいえ、ここでこうして邪魔立てされるのは想定外だった。
今目の前にいる朝宮の弟子らしき少女は、倉科の屑虫が排除してくれる筈だったのだから。
「倉科は……お前のところに行った奴はどうした?」
「本人はどこにいるのか知りませんけど、玩神の方なら邪魔だったんで拘束しておきました。今頃は脱出しようと必死にもがいてるんじゃないかと思いますよ」
「くそっ……あの役立たずが」
味方の不甲斐なさに悪態をつく孝文。
そんな彼を冷ややかに見据えて、瑞希は言った。
「人のこと言えるんですか?」
背後に佇む徒花が、右手を胸の高さに上げる。
「もう既に、私の術中に嵌っているのに」
清次郎と奔王の間に境界線を引く、数多の彼岸花。一見したところ何の変哲もない彼岸花だったそれらが、一瞬にして変容した。茎の部分が急激に伸長して触手のようにうねり、奔王の五体に絡み付こうと襲い掛かる。
孝文は咄嗟に奔王を後退させたが、後方からも茎の触手が伸びてきた。いつの間にか、後方の地面にも彼岸花が群生していたのだ。
後ろに注意を払っていなかった孝文の奔王は、それを避けられない。
「くっ……うぐおおお!」
全身の至る所に茎が絡み付き、身動きを封じる。その外見からは想像もつかないほど強い力で、茎は奔王を締め上げた。
「捕縛完了。あっけないですね」
「ほざけ、ガキが……! こんな……こんなもの……!」
瑞希の冷めた声に怒声を返し、孝文は奔王の四肢に力を込める。
不覚を取ったのは確かだが、ただ縛られただけなら何ほどのこともない。奔王の筋力をもってすれば、たとえ鉄の鎖で雁字搦めにされたとしても容易に抜け出せる。
そう思い、絡み付いた彼岸花を引き千切ろうとする孝文だったが――
「無駄ですよ」
その行為を、瑞希は無駄と断じた。
「私が作る彼岸花は引き千切れない。誰にも、絶対に」
彼女の言う通りだった。
五秒経っても、十秒経っても、孝文の奔王は拘束から抜け出せない。鉄の鎖さえものともしない怪物が、ただの植物相手に苦戦していた。
孝文は内心で驚愕の叫びを上げ、その数秒後に気付く。
絡み付いた彼岸花を引き千切れないのは、それが常軌を逸して強靭だからではない。奔王の四肢に力が入っていないからだ。
その植物を引き千切れ。力ずくで脱出しろ。そう命じた筈なのに、奔王がその命に従わない。手にも足にも力が入らない。それ故に、本来なら容易に引き千切れる筈のものを引き千切れずにいるのだ。
「そうなった時点であなたの負けなんですよ。今のあなたを縛ってるそれは、筋力とか気合じゃどうにもならない仕様になってますから」
不変の真理を説くように、瑞希は言う。
彼岸花の「結界」を作り出して相手の足を止め、然る後、「縛鎖」と化した彼岸花で縛り、身動きを封じる。その一連の流れこそ、彼女の玩神、徒花が誇る必勝戦法だった。
相手にしてみれば、縛られた時点で「詰み」である。
どれほどの剛力を持っていようとも、徒花の力の前では無意味。自慢の剛力を発揮することさえ出来なくなり、脱出不可能な状態に陥ってしまう。
今の奔王が、まさにその状態だった。
「じゃ、そういうわけで……筒井さん、ぼけっとしてないでその鹿みたいなのに止めを刺して下さい」
「え、あ……」
突然止めを刺せなどと言われ、清次郎は若干戸惑いを見せる。そんな彼の様子に呆れつつ、瑞希は視線を落とした。
「その拳をあれに叩き込んで下さいって言ってるんです。今なら簡単でしょう?」
奔王は完全に身動きを封じられており、防御も回避も反撃も出来ない状態だ。確かに今なら、好きなだけ拳を叩き込める。安全かつ確実に仕留めることが出来る。
そう理解した清次郎は、頷きを返して前へと踏み出した。
気になることや聞き出したいことは山ほどあるが、とりあえずは後回しだ。目の前の敵を始末して、楓を病院に連れて行く――今はそれが最優先。楓の命を救うことに比べれば、他のことなど些事と言っても構わない。
万が一の反撃を危惧して慎重な足取りをしながらも、清次郎は奔王に歩み寄っていく。病魔の拳を容赦なく叩き込むために。
「クソッ……! このクソガキ共がぁ! 俺が、お前らなんぞに……!」
自らの玩神を破壊される恐怖に駆られ、孝文は罵声を上げる。今の彼に出来ることはそれくらいしかなかった。
無論、清次郎に攻撃を止めるつもりはない。
容赦なく、必殺の拳を叩き込もうとしたその時――
「あーあ……やっぱこうなっちまってっか……隙見せすぎだぜ、椎名さん」
溜息混じりの声と共に巨大な塊が飛来し、奔王の体に直撃した。
清次郎が、楓が、瑞希が、奔王を操る孝文が――その場にいた全員が瞠目して、絶句する。
巨大な塊に見えたものの正体は、矮小な生物の群れだった。
体長一センチ前後の、微かな光沢を帯びた黒い生物。よく見れば虫のような形をしているそれが何百匹――いや何千匹も一斉に現れ、奔王の全身に付着していったのだ。
予想外な上に不可解で、寒気を覚えるほどおぞましいその光景を目にし、清次郎は攻撃を止めて後退する。
それと同時に、今しがた聞こえた声の主を探した。
「あんたは馬鹿じゃねえんだが、色んな意味で視野が狭いのが欠点だな。そこんとこ自覚した方がいいぜ。偉そうな物言いで悪いんだがよ」
怪我のせいで動けない楓のすぐ後ろに、一体の怪物がいた。
深緑の外骨格を纏い、二本の足で立つ、人間大の甲虫。それが何者なのかを、瑞希と孝文の二人は知っていた。
倉科敦の玩神、屑虫。
徒花の力によって身動きを封じられた筈の玩神が、何事もなかったかのように平然と現れたのだ。
「あなた……どうして……」
動揺を隠しきれない面持ちで、瑞希が疑問を口にする。倉科の屑虫は、虫に包まれた奔王を指差しながらそれに応じた。
「どうしてここにいんのかって? そりゃ自力で脱出したからだよ。そんな風に、絡み付いたもんを喰い千切ってさ」
指差す先では、奔王を縛る彼岸花が寸断されていた。
虫の仕業だ。奔王の体に付着した甲虫の大群が、その鋏のような大顎を使い、彼岸花の茎を喰い千切ったのだ。
「お嬢ちゃんの玩神、なかなか面白い能力だが……残念だったな、俺の屑虫とはちっとばかし相性が悪いらしい」
瑞希は歯噛みして、屑虫を睨んだ。
徒花の力による拘束を破られるなど初めての体験だ。そんな真似は誰にも出来ないとばかり思っていた。
悔しいが、屑虫という玩神の力を侮っていたと認めるしかない。
「馬鹿が……何偉そうにしてやがる。まさかお前、これで俺に貸しを作った気でいるんじゃないだろうな?」
自由を取り戻した孝文の奔王は、後退して瑞希と距離を取ってから、苛立たしげにそう言った。
役目を終えた甲虫の群れは既に一匹残らず地に落ち、死に絶えている。
「いや、だって……ちゃんと助けたじゃんよ俺……恩着せる気なんかねえけど、ちょっとくらい感謝してくれてもよくねえ?」
「ふざけるな馬鹿野郎。そもそもそこのガキはお前の担当で、お前が取り逃がしやがったからこんな面倒なことになってたんだろうが」
「ま……そう言われちまうと、そうなんだけどよ」
叩き付けられる罵声も意に介さない様子で、飄々と肩を竦める屑虫。
そんな、奔王を操る孝文とは対照的なほど落ち着いた男を――正確には、その男の玩神を、清次郎は張り詰めた面持ちで見据えていた。
敵が一人増えたことによる脅威の増大は、当然感じている。瑞希の玩神の力を容易く破ったことからも、あの虫のような姿の玩神が一筋縄では行かない相手であることは窺い知れる。
だが、清次郎の顔を張り詰めたものにしている最大の要因は、そうした理屈ではなかった。もっと不明瞭で、正体の掴めない、本能の域で感じる脅威――いや、忌避感だ。
あの玩神の姿形が、あの口から発せられる淡々とした声が、身に纏っている雰囲気が、つまり全ての要素が、吐き気を催すほど気持ち悪い。何故か知らないが、虫唾が走る。自分達の敵対関係を抜きにしても、今すぐ目の前から消し去りたいという衝動に駆られてしまう。
それと同時に、あの玩神に勝つことが極めて困難であることも分かるのだ。
思考も、手の内も、一切読めない不気味さ。単純な強さや威圧感とは少し違う、何を隠し持っているか分からないという種類の恐ろしさ。あの玩神からは、そうした気配を感じる。不用意に攻めかかれば返り討ちに遭うということが、嫌でも分かってしまう。
しかも厄介なことに、その気になればいつでも楓を殺せる位置にあの玩神は立っている。だからこそ、今は動くに動けず、その挙動を注視するしかない状況なのだ。
「とにかく、だ。今日のとこはこの辺にしとこうぜ、椎名さん。親父さんももう引き揚げちまったみたいだしよ」
清次郎の視線の先では、倉科と孝文の会話が続いていた。
「馬鹿言え、このまま引き下がれるわけが――」
「このままここでやりあってたら、朝宮さんも来るぜ。そしたら流石に形勢不利ってやつだろう?」
退却を拒もうとする孝文に、この場で戦い続けることの危険さを倉科は説く。それに反論したそうな素振りを見せる孝文だったが、結局は口を噤んだ。
その沈黙を承服と受け取って、倉科は屑虫の目を清次郎と瑞希に向ける。
「つーわけでよ、お二人さん。俺らはもう引き揚げさせてもらうが、構わねえよな?」
「……お好きにどうぞ」
答えたのは瑞希だ。彼女も清次郎と同様、倉科という男の不気味さを感じて、普段より慎重になっていた。
「そうかい、それじゃあ……」
言いながら、腰を屈める屑虫。
「帰る前に、ちょいと悪さしていくわ」
二本の太い腕が、少女の細い体に触れる。
何を思ったのか、倉科が操る屑虫は、自らの足下に横たわっていた楓を抱え上げていた。
「な――え、ちょっと……!」
突然のことに驚き、激しく抵抗しようとする楓。そんな彼女の細い体を、屑虫の両腕がきつく締め上げた。
大きく開いた口から、苦しげな喘ぎ声が洩れる。
「あっ……ぐうっ……」
「悪いな……ほんの数秒でいいから、大人しくしててくれ」
その蛮行と呼ぶべき行いは、鎮まりかけていた清次郎の血を再び沸騰させた。慎重さや警戒心など一瞬でかなぐり捨てて、彼は屑虫に走り寄っていく。
楓が痛めつけられる様を見て平静を保つことなど、出来るわけがなかった。
「てめえ――!」
怒号を上げ、拳を振りかぶったその瞬間。
あまりにも異常すぎる光景を目にして、清次郎は自失した。
屑虫の両肩にある突起――その先端部の穴から、夥しい数の虫が湧き出ていたのだ。先程奔王を縛る彼岸花を喰い尽くした甲虫と同じものだ。それらは六本の脚をかさかさと動かして楓の顔に這い寄り、彼女の口の中に雪崩れ込んでいた。
自失から立ち直った清次郎が、言葉にならない叫びを上げようとする。それを制するかのように、屑虫は楓の体を清次郎に向かって放り投げた。
清次郎は反射的に楓を抱き止め、体勢を崩す。体を重ねる形で、二人は枯葉の積もる土の上に倒れた。
「げほっ……! ごほっ……ごほっ……!」
両手を胸に当てて苦しそうに咳き込む楓。その様子を見て戦慄を覚えた清次郎は、血走った目を屑虫に向けた。
「何を……何をした、お前……」
「見ての通りさ。虫を入り込ませたんだよ、その子の体内に」
悪びれもせず、屑虫は淡々と答える。
「隠しておくほど大した能力でもねえから、言っちまうが……俺の玩神は虫だ。ちっこいゴミみてえな虫を大量に生んで、ここからばら撒くように出来てる」
左手の親指で、肩の突起を指し示す。
「ばら撒かれた虫共は、俺が喰えと命じたものに這い寄っていき、噛り付いて、喰い尽くす。本当にただそれだけしかしねえ能無し共さ。こうして説明すんのが恥ずかしくなるくらいしょぼい能力だよ」
そこまで言ったところで、楓に視線を移す。体内に虫を入れられた少女は、苦しげに喘ぎ続けていた。
「だが、まあ……そんなしょぼい能力でも、色々と使いようはある」
楓の苦しみ様に心を痛めた様子はなく、かといって嗜虐的な面を覗かせることもなく、あくまで淡々と、倉科敦は言葉を続ける。
「今その子の中に入れた虫共には、こう命じた。明後日の午前零時を迎えた瞬間、その子のハラワタを喰い破れ――ってな。まあ要するに、時限爆弾を仕掛けたようなもんだと思ってくれりゃあいい」
清次郎と瑞希が、息を呑む。
苦しげに喘いでいた楓も、顔面を蒼白にした。
「その爆弾を解除する方法は二つだけ。俺の息の根を止めるか、この屑虫を完全に破壊するかの、どちらかだ」
その発言を聞いた直後、清次郎は動いた。
弾け飛ぶような勢いで屑虫に詰め寄り、拳を突き出す。屑虫はそれを紙一重でかわし、そのまま跳躍。数メートル上の木の枝に飛び乗った。
拳が届かない所に退避した相手を、清次郎は険しい顔で見上げる。
「……そうかよ、よく分かった」
眉間に皺を寄せ、殺意を言葉にして叩き付ける。
「要は、殺してほしいんだろ? 望み通りにしてやるから下りてこいよ、虫野郎」
本人は気付いていなかったが、この時彼の背後で瞬間的な怪奇現象が発生していた。
陽炎のように揺らめく景色。その揺らめきが形作る、人の輪郭。揺らめきの奥から滲み出る、不穏で陰惨な気配。
刹那の間、何もない筈の空間に現出した、怪異な人影。
それを、倉科の目は見逃さなかった。
「慌てんなって。さっきも言ったように、ここでこれ以上やる気はねえよ。続きは、明日だ」
叩き付けられる殺意を受け流して、言う。
「知ってるかもしれねえが、ここの北隣の市の高台に怒田運動公園っていう公園がある。野球場やテニスコートなんかもある結構でかい公園さ。明日の午後七時、そこに来なよ」
日時と場所の指定。それは即ち、決闘の申し込み。
「そこで正々堂々勝負して、ケリつけようって話さ。もちろん朝宮さんやそっちの子と一緒に来てくれて構わねえよ。こっちは三人いることだしな。そっちも三人なら、三対三で丁度よくなる」
口を固く引き結んだ清次郎は、その要求に対する返答をしなかった。しかし彼に拒絶の意思がないことは――拒絶したくても出来ない立場を弁えていることは、その顔に浮かぶ苦渋の表情からして明白だった。
彼にとって、楓という少女の命は他の誰の命より重い。
楓を救うためならば、どんな要求だろうと受け入れるしかなかった。
「この提案に文句がねえなら、もう帰るぜ。俺のしたことにムカついてんのはよく分かるが、怒りに身を任せちゃいけねえよ。頭冷やしてじっくり作戦でも練っときな」
他人事のように言って、屑虫は清次郎と楓を見下ろす。
一片の情も持たない、空虚な虫の目で。
「でなけりゃ、死ぬぜ。あんたも、その子も」
そんな捨て台詞を残して、屑虫は枝から枝に飛び移っていく。奔王もそれに続く形で、林の奥へと消える。
二体が退くのを見届けながら、清次郎は拳を握り締めた。
固く、固く、皮膚に爪が食い込んで、血が滴るまで。