第三話「罪科の記憶」
良い人間になろう。
幼い頃から、清次郎はそう思いながら日々を過ごしていた。
悪いこと。間違ったこと。人を傷つけること。人に迷惑をかけること。人に嫌な思いをさせること。
自分の意思というものを持った時から、そういうことが嫌いだった。だから、そういうことをしない人間になろうと思った。
別に、欠点のない完璧な人間になろうとしたわけではない。たとえ凡庸でも、欠点だらけでも、悪いことだけはしない人間になろうとしただけだ。たったそれだけのことがどれほど難しくて大変なのかは、幼いなりに分かっているつもりだった。
仲良くしようとしても、仲良くしてくれない相手がいる。
何もしていなくても、怒鳴られて責められて殴られることがある。
悪口を言われることもある。嫌な役目を無理矢理押し付けられることもある。不当に差別されることもある。
だから難しい。良い人間になるというのは、本当に、とてもとても難しい。それは充分分かっていた。分かっていたけれども、出来る限り頑張った。泣かないで、不満を言わないで、色々なことに耐え続けた。
それでどうにか、悪いことだけはしない子供でいられた。そういう自負があった。
自分は馬鹿かもしれない。臆病な上に運動音痴な弱虫かもしれない。能力の面でも人格の面でも、足りない所はそれこそ山のようにあるのかもしれない。
けれど、人として守らなければならないことはしっかりと守っている。悪いことや間違ったこと、人を傷つけることや嫌な思いをさせることは、何があっても絶対にしない。
それが、幼い頃の清次郎の自己認識であり、胸に抱いていた小さな誇りだった。
その自己認識が崩れたのは、いつだったか。
とんでもない大間違いだと気付いたのは、いつだったか。
考えるまでもない。五年前だ。
五年前の夏、子供会のキャンプに参加した時だ。
「楓ちゃん――楓ちゃん!」
背の高い檜が立ち並ぶ、薄暗い人工林の中。当時小学五年生だった清次郎は、生い茂る下草を踏み締めながら楓の姿を捜していた。
木々の間から差し込む日射しは、もう茜色になりつつある。あと一時間も経てば辺りは暗くなってしまうだろう。何とかそれまでに楓を見つけなければいけないと思い、清次郎は楓の名を呼び続けた。
嫌な予感が的中した形だった。キャンプ場に来る前から――正確には、地域の大人達が夏に子供達を近くのキャンプ場に連れていくと決めた時から、何かよくないことが起きるのではと思っていたのだ。
参加する子供の中に、地域で一番の問題児がいるのだから。
「楓ちゃん! いるなら返事してよ!」
大きな声で叫んでみても、返事はない。清次郎は苦渋の表情を浮かべつつ、林の奥へと続く斜面を登っていく。
楓がキャンプ場から姿を消したと知ったのは、三十分ほど前だ。清次郎はテントの設営を手伝っていたため現場を見ていないが、どうやらいなくなる直前、楓は年上の女の子と喧嘩をしたらしい。
キャンプ場の隅で一人寂しく本を読んでいた楓に、他の女の子達が一緒に遊ばないかと声をかけた。その行為自体は純粋な善意からくるものだったようだが、楓はその善意を無視という形ではねのけた。すると声をかけた女の子達の一人がその態度に腹を立て、楓に対して挑発的なことを言った。楓はそれを無視出来ずに言い返した。たちまち激しい口論になり、その内争いは口論の域を超え、ついには楓が相手の子に怪我をさせてしまう事態にまで発展した。
幸い怪我は軽いものだったが、怪我をさせたという事実がある以上、事はそう易々と収まらない。相手の子の親をはじめとする大人達は楓を責めた。子供達も楓に非難の視線を飛ばした。楓はそれに耐え切れず、皆が目を離した隙に姿を消したらしい。
騒ぎは余計に大きくなった。やむなく大人達が楓を捜索することになり、子供達はキャンプ場で待機――ということになったのだが、清次郎はその言いつけを破り、キャンプ場を囲む林の中に一人で分け入っていった。
楓のことが心配で、いてもたってもいられなかったからだ。それに、多分大人達では楓を見つけられないだろうという思いもあった。
知り合ってからまだ一年ほどだが、楓のことはよく知っている。だから、こういう時に彼女が行く場所も何となく分かる。
日比谷楓という女の子は、静かで、誰もいない場所が好きなのだ。
「楓ちゃん! 早く出て――」
そう言いかけたところで、気付いた。
目の前に広がる急斜面の上。髪の長い女の子が、檜の根元に背中を預ける格好で座っている。
間違いない。捜し求めていた、楓の姿だ。
「いたんだ……ここに……」
ほっとしてそう呟くと、楓は顔を上げた。
鋭く尖った黒い目。人に懐かない猫を思わせるその目が、突き刺すように清次郎を見つめ返す。
「……何だ、セージか」
その冷たい視線を受けて、清次郎は若干怯んだ。近寄ろうと踏み出しかけた足が止まり、顔も強張る。
それでもここで怖気づいてはいけないと思い、優しい笑顔を作って語りかける。
「ほ、ほら……戻ろうよ楓ちゃん、みんな捜してるよ」
「やだ」
返ってきたのは、短く、明確な拒絶。
「戻るなら、一人で戻って。あたしは戻らない」
「で、でも、もうすぐ暗くなるし……こんな所に一人でいたら、その……危ないよ」
そう言っても、楓は応じてくれない。もう話は終わったとばかりに顔を伏せ、自分の殻に閉じ篭っていた。
「楓ちゃん……」
「……戻りたくなったら、戻る。だから今はほっといて」
「でも……」
「いいから、一人で戻ってよ」
頑なに拒まれ、清次郎は困り果てた。
暗い顔で俯く楓に何と言えばいいのか分からない。今の彼女を連れて帰るのは同じ大きさの石像を持ち帰るより難しいのではないか、とさえ思えてしまう。
しかしそれでも、説得を諦めるわけにはいかなかった。ここは林の中で、街灯など一つもないから、夜になれば完全な暗闇に覆われてしまうのだ。そんな所に女の子を一人で残していくのは、どう考えても危険すぎる。それに楓が日没までに戻らなければ、キャンプ場の騒ぎも大きくなってしまうだろう。
どうにかしないといけない。
「……その、さ……ちゃんと話し合えば、分かってもらえるよ。喧嘩はよくないけど、楓ちゃんがひどいこと言われたのも事実なんだし、みんな楓ちゃんのこと心配してたし……それに、おばさんだって、もう怒ってないから戻ってきてって言ってたしさ……」
母親について言及すると、楓は何かに衝き動かされたかのように顔を上げた。
苦渋の表情を浮かべて、清次郎を睨む。そしてその口から、抑え切れない負の感情が言葉となって溢れ出す。
「……元々、こんなとこ来たくなかった。つまらないし、かったるいし、時間の無駄だし、何もいいことないからキャンプなんて嫌だった。でもお母さんが行け行けってうるさく言うから……嫌で嫌でたまらなかったけど仕方なく参加した。参加したよ、あたし……ちゃんと言われた通りにした……だから、別にいいじゃない。その後は、あたしの好きにさせてくれたって……」
彼女の声は微かに震えており、目の端には小さな雫が張り付いていた。
「本読んでちゃいけないの? あいつらに誘われたら、断っちゃいけないの……? きっぱり断ったのに、しつこく誘ってきて……無視したら勝手に怒り出して、喧嘩売ってきて……それであたしが悪いってことにされても、困るよ……」
楓が吐露するその心情を、清次郎は複雑な思いで聞いていた。
多分大人達は、彼女の言い分を聞き入れないだろう。他の子と上手く付き合えない方が悪い。申し出を断る方が悪い。怪我をさせた方が悪い。そういう論理の下に、彼女を厳しく叱りつけるのだろう。
それは間違いではないのだろうが、正しくもない。清次郎にはそう思えてしまった。
確かに楓のしたことは悪いことだ。けれど、だからといって楓だけが悪者にされるのは間違っている。相手の子の言動にも問題はあったと言える筈だ。善意で声をかけたのに無視されて苛立った気持ちは分からなくもないが、言葉の暴力を振るっていい理由にはならない。少なくとも自分なら、そんなことは絶対にしない。
日比谷楓は、少し特殊な子だ。彼女は人付き合いというものを煩わしいと感じる種類の人間で、他人と長時間一緒にいることを嫌う。だから基本的に一人でいたがり、他人が近寄ってくると露骨に嫌そうな顔をしてしまう。一言で言うと、人間嫌いなのだ。
それでも、全くとりつく島がないわけでもない。適度な距離感を保ったまま話しかければ、彼女は嫌がることなく応じてくれたりもする。踏み込み過ぎないように気をつけて接していけば、そのうち自然と心を開いてくれる。自分はそれが出来たから、彼女と友達になれた。
しかしながら、その「適度な距離感」を弁えてくれる人間はそう多くない。大抵の者は彼女の性分など気にすることなく、無遠慮に距離を詰めようとしてくる。彼女はそれを嫌がるから、無視かもしくは辛辣な言葉を使ってその相手を追い払おうとする。そして当然のように、その相手と喧嘩になってしまう。学校でもそれ以外の場所でも、彼女はそんなことを繰り返していた。
だから、自分だけなのかもしれない。楓を理解して、楓と上手く付き合える人間は。
いや――
もしかしたら、それはただの錯覚で――
「……あたしは、静かな所が好き」
楓は言った。世界の全てに憎悪をぶつけるように。
「騒がしい所は嫌い。人が大勢いる所は嫌い。お喋りで馴れ馴れしい奴は嫌い。お節介な奴は嫌い。優しそうな顔して近寄ってくるくせに、相手にされなかっただけで勝手に怒り出すような奴らは、本当に大っ嫌い」
それは嘘偽りない彼女の本音。ずっと心の内側に溜め込んでいた思い。
日比谷楓は本が好きで、静かな場所が好きで、自分以外の人間が嫌いだ。彼女が興味を抱くのは、本の中に存在する架空の世界と架空の人物だけ。現実の世界と現実の人間には何の興味もないどころか、ある種の憎しみさえ抱いている。清次郎はそのことをよく知っている。
だから分かる。分かってしまう。彼女が言いたいこと――心から望んでいることが。
彼女はきっと、誰もいない世界に行きたいのだろう。
誰もいない静かな場所で本を読み、いつまでも空想に耽っていたい。それだけが望みで、それだけが彼女の幸福。
それは決して叶わない望みだと知りながら、現実に反抗し続けている。
「楓ちゃんは……あそこにいるみんなのことが嫌いなの?」
「……嫌いだよ。死ねばいいのに、って思う」
答えは、すぐに返ってきた。その冷たすぎる言葉に心を痛めた清次郎は、続けて問う。
「じゃあさ……」
誰も彼もが嫌いだと言うのなら――
誰にも近寄ってほしくないと思っているのなら――
この自分もまた、例外ではないのだろうか。
友達になれたと思ったのは勘違いで、心が通じ合えていると思ったのは錯覚で、本当は自分も、彼女に不快な思いをさせているだけの存在に過ぎないのだろうか。
その答えが、知りたくなってしまった。
「僕も……僕のことも、死ねばいいって思う……?」
半ば衝動的に放たれたその問いを受けて、楓は一瞬、ひどく驚いた顔をした。
そして、それから十秒近く経った後、彼女は清次郎から目を逸らし、小さな声で答えを返した。
その答えこそ、筒井清次郎が長きに渡り被っていた仮面に罅を入れ、粉砕し、真実の貌を暴く――決定的な一打となった。
六月二十日の早朝、清次郎は自宅の洗面所で顔を洗っていた。いや、洗うというより、蛇口から出る冷水を顔面に叩きつけていた。眠れなかったせいで疲れた頭を強引に覚醒させ、自分に喝を入れるために。
昨晩はろくに眠れなかった。不安、恐怖、そして様々なものに対する不信感――折り重なって渦を巻く負の想念が、眠りを執拗に阻害した。心は疲弊しているのに休めないという最悪の状態だった。明け方近くになってようやく意識が途切れたものの、そんな短い睡眠で回復するほど心身は都合良く出来ていない。横にならずにテレビでも見ていた方がましだったかもしれないとさえ思ってしまった。
深い溜息をついてから蛇口を閉め、顔を上げる。濡れそぼった自分の顔が、洗面台の鏡に映っていた。
よく童顔と言われる顔だが、今は溜め込んだストレスのせいでやつれており、いくらか年をとったようにも見える。こんな顔のまま登校したらまた楓に心配されてしまうなと思い、清次郎はタオルで顔を拭きながら自分自身を叱咤した。
「……しっかりしろよ、この馬鹿」
昨日あれだけ心配させておいて今日もまた同じことを繰り返してしまったら、もう自分は救いようのない大馬鹿だ。それでは小学生の頃と何も変わらない。進歩がないにも程がある。
一昨日はただ風邪をひいていただけ。別に死のうとなんてしていない。そんな真似は絶対にしない。昨日、楓の前でそう言った。だから今日は、少なくとも彼女の前では、普段と何も変わらないように振舞わなければならない。それが自分の務めというものだ。
楓には――いや、誰にも迷惑をかけずに、自分が今巻き込まれているこの訳の分からない事態を乗り切る。眠れない夜を過ごしながら、そう決めたのだ。
敵の狙いは自分か朝宮遥の殺害。ならば、自分が死ねば丸く収まるのではないか。夜中に、そんなことを考えたりもした。
下手に抵抗せずさっさと殺されるか、あるいは自ら命を断てば、茅野清明が企画した悪質なゲームは終わる。そうなれば朝宮遥は殺されない。自分の周りにいる者達がこの件に巻き込まれることもない。
元々、一昨日の夜に死ぬつもりだったのだ。遥に自殺を阻止され、妙な約束をさせられたから、今こうして生きているだけだ。死にたくないし死ぬのは怖いが、死ななければいけないという思いは今も強く抱いている。
死んでしまえば何も出来ない。だから、もう――五年前のあの日のような過ちを犯すこともない。
だから死のう。今すぐ死のう。死んで、何もかも終わらせよう。
布団にくるまりながらそんな思いに駆られた後、すぐにその考えを否定した。
今ここで死ぬのは、無謀で、無責任だ。自分が死んだところで万事解決するとは限らない。敵は取り決めを守らずに遥を殺そうとするかもしれないし、そのせいで無関係な者にまで被害が及ぶかもしれない。
今はまだ死んではいけない。この事態が無事に収束し、自分の周りから危険が取り除かれるのを確認するまでは、生きていないといけない。
自殺するかどうかを決めるのは、その後だ。全てが片付いた後でまたじっくり考えればいい。
そう結論付けたからこそ、こうして朝を迎えて、学校に行く準備をしている。だからそろそろ、暗い顔は引っ込めなければならない。今日は誰にも心配をかけずに、表面上は何事もない一日を過ごすと決めたのだ。
深呼吸して気持ちを落ち着かせた後、手早く身支度を整えて、清次郎は家を出た。
そこで、いきなり予想外の事に出くわした。アパートの手前の駐車場に、制服姿の少女がいたのだ。
「おはようございます」
清次郎と目が合うと、少女は澄ました顔で一礼した。
「あ…………お、おはよう……ございます……」
つられて挨拶を返してしまった清次郎は、唖然とした顔で立ち尽くし、制服姿の少女を見つめた。
初対面ではないが、知り合いというほどの仲でもない相手。昨日遥の部屋にいた、あの白いセーラー服の少女だった。
「えっと……昨日の……」
「早川瑞希です。今日はあなたを護衛しに来ました」
「ご、護衛……?」
「別に何かの比喩とかじゃないですよ。今日は一日中あなたのすぐ傍にいて、あなたの命を狙う人達からあなたを守るって意味です。本当は遥さんの仕事なんですけど、あの人一人に任せておくのも不安なので私も手伝うことにしました。誰かを守るってことなら私の方が適役だと思いますし……」
そう言ってから、瑞希は着ている制服の襟元を指先で軽く摘んだ。
「これ着て生徒のふりすれば、堂々と学校の中にも入れますしね」
彼女が今着ているのは、昨日のセーラー服ではない。
上は校章入りの白いブラウス。下は灰色のスカート。清次郎が通う相海高校の女子用制服だ。
「ちょっとサイズが大きめなんですけど、そんなに不自然でもないでしょう?」
同意を求められても困る、というのが清次郎の心境だった。この瑞希という少女が護衛につくなどという話は全く聞いていなかったので、大分戸惑っていたのだ。
「あー……えーと…………早川さんは、うちの生徒じゃないんですよね?」
「はい」
「……その制服は?」
「遥さんから貰いました。あの人は、自分が着るつもりでこれを調達したみたいですけど」
その発言を聞いて、ますます清次郎は微妙な面持ちになった。
遥がこんなものまで用意していたのも驚きだが、これを遥自身が着るつもりだったというのはさらに驚きだ。
遥の年齢は知らないし、女子大生と言われても頷けるような容姿の持ち主ではあるのだが、流石に女子高生のふりをするのは無理があると思う。
もし彼女がこれを着て目の前に現れていたら、鏡を見て考え直すように勧めたかもしれない。
「そんなグロ画像に片足突っ込んでるようなのをお見せするのもどうかと思いましたので、私が代わりを務めることにしました。異論はありませんね?」
「ま、まあ……ないです、けど……」
「じゃあ行きましょう」
清次郎が気圧され気味に頷くと、瑞希は踵を返して歩き出す。清次郎は慌ててその後を追い、歩きながら横に並んだ。
どうにも妙なことになった――と、瑞希の横顔を盗み見ながら思う。
自分を護衛してくれる同年代の女の子と肩を並べて学校に行く。普通に生活していたら絶対にありえないシチュエーションだ。昨日の今頃は、まさか明日の自分がこんなことになっているとは夢にも思っていなかった。
「えっと、その……自分でこう言うとすごく情けなくなるから、あれなんですけど……早川さんはこのまま一緒に学校行って、俺を護衛してくれるつもりなんですよね……?」
「さっきそう言いましたよ」
「登下校の時はまあ、それ着てればいいとして……授業中とかはどうするつもりなんですか?」
「適当な所に隠れてます」
「適当な所って……」
「その気なって探せば、身を隠す所なんていくらでもあります。米軍基地とかに忍び込むわけじゃないんですから」
何でもないことのように言い切った後、瑞希は澄ました顔のまま付け加えるように言った。
「あと筒井さん、私相手に畏まらなくて結構ですよ。私、あなたより年下ですから」
「そ、そうなんだ……中学の……三年生?」
「はい」
多分そうだろうと思ってはいたが、やはり年下だったらしい。
つまり、自分は年下の女の子に守られる立場というわけだ。いよいよもって情けなくなってくる。
「こんな状況であれなんだけど……自分の学校はいいの?」
「義務教育ですから。無断欠席くらいどうってことありません」
「……まあ、いいっていうなら、いいけど……連絡はしておいた方がいいと思うよ」
二人の足は住宅地を抜け、人通りの多い線路沿いの道に入る。勤め先や学校に向かう老若男女の流れに加わって、朝日に照らされた街の中を進んでいく。
そして赤信号の前で立ち止まった時、瑞希がぽつりと呟いた。
「……本当、変」
「え?」
「いえ……筒井さんは変わった人だな、と思っただけです」
信号が青に変わる。静かな足取りで横断歩道を渡りながら、彼女は続けた。
「正直、もっと取り乱すと思ったんですよ。自分が命を狙われてると知って平然としていられる人なんて、普通いませんから。もっと、こう……落ち着きなくそわそわしてたり、色々とこっちに文句を言ってきたり、家に引きこもって出てこなくなったりとか、そんな風になると思ってました」
「……こう見えても結構取り乱してるよ。昨日はろくに眠れなかったし、今日は学校行くのが嫌で仕方なかった」
「そうでしょうけど、それが表に出てないだけでも普通じゃないと思うんです」
珍獣を観察するような目が、清次郎に向けられる。
「昨日遥さんが話したことを信じてないわけじゃないですよね? 危機感が足りないから平然としてるって風には見えません。あなたは遥さんが言ったことを……少なくとも自分が危険な状況に置かれているということについては、少しも疑っていないし、その危険さも充分理解している。理解した上で、今のこの異常な状況を割とすんなり受け入れている。その図太さというか順応性というか適応力というか……とにかくそういう部分が、私の目には少し奇異に映るんですけれど」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。瑞希の視線に若干たじろぎつつも、清次郎はその言葉を素直に受け入れた。
そもそも、自覚がまるでなかったわけではないのだ。薄々おかしいとは思っていた。
荒唐無稽な話を大して疑いもせずに信じて、それに順応し、強い危機感を覚えてはいても表面上は普段通りの生活を続けていられる――自分自身の心の有り様が。
「そうだね……自分でも、少し変だと思う」
頷いて、視線を足下に落とす。
「俺は朝宮さんの言ったことを全面的に信じてるけど、普通の人はそう簡単に信じたりしないのかもしれない。確かに異常な体験はしたけど……流石に非現実的すぎるし、まだ敵の……椎名とかいう人をこの目で見たわけでもないしね。騙されてるんじゃないかとか、全部何かのトリックじゃないかとか、そういう風に考えるのが自然なのかもしれない。でも俺は、不思議とそういう気にはあまりならないんだ。昨日朝宮さんが見せてくれた……玩神法って力は実在すると思ってるし、それを使う人達に自分が狙われてるってのも本当だと思ってる。それで、もしかしたら自分は今日死ぬんじゃないかとも、本気で思ってたりする」
昨夜からずっと溜め込んでいた思いを、言葉にして吐き出す。自分でも少し意外に思うくらい、口はすらすらと動いた。
「なのに、どうしてかな……自分で言うのも何だけど、死ぬかもしれないと本気で思ってる割には普通にしていられるんだ。もちろん死ぬのは嫌だし、怖いけど……今一番気になってるのはそこじゃなくて……むしろ、自分の身がどうこうって以外のことの方が、眠れないくらい気になってるというか……」
そこから先は、上手く言葉にならなかった。自分でもまだ正体が掴めていない感情だからだ。
「……こんなこと言っても意味分からないよね。ごめん、変なこと言って」
自分の心は自分しか覗けない。自分に分からないなら他人に分かる筈もなく、話したところで意味などない。そう思い、口を閉じることにした。
無言で歩を進める内、道行く者が同じ学校に通う少年少女だけになっていく。楽しそうな笑い声や他愛のない会話の数々が、前後から聞こえてくる。今の清次郎にはそれらが、テレビやラジオから聞こえてくる声のような――どこか遠い所にいる者達の声に感じられてならなかった。
周りが遠い。日常の光景が遠い。自分だけが世界から隔離され、条理の通じない異空間に放り込まれているような気がしてしまう。それが、不安定な精神状態からくる大げさな思い込みだとはどうしても思えない。
今置かれている状況が異常だから、周囲との隔たりを感じる。もちろんそれはあるだろう。だがそれだけではなく、いやそれ以上に、自分という人間は何か根本的なところで他人と違っていると感じるのだ。何かがおかしい。まともではない。心が、人として正しい形をしていない。
そう思った直後――何を今更、と自嘲してしまった。
筒井清次郎は異常者だ。性根の捻じ曲がった屑だ。そんなことは、五年前から分かっていたではないか。
「……本当に、何も知らないんですか?」
学校に続く坂道の手前で、瑞希が問いかけてきた。
「昨日遥さんに説明されるまで、本当に何も知らなかったんですか?」
静かだが、僅かに険のある声。そしてその視線は、仇敵を睨み付けるように殺伐としていた。
「万輪会や、玩神法のことを」
目を細めて、語気を強める。
「茅野清明のことを」
その名を聞いて、清次郎の表情は自然と硬くなった。
昨日抱いた奇妙な既知感と異常な関心は、一夜明けた今も拭えていない。それどころか、より強さを増してさえいる。
しかしながら、その人物について自分の口から言えることは、今のところ一つもない。
「……どうして疑うのか分からないけど、俺は何も知らないよ。本当に」
無難な返答をしてから、一応言っておくべきかと思い、言葉を続けた。
「万輪会っていう団体については、昨日ネットで少しだけ調べてみたけどさ」
今の時代、インターネットで検索をかければ大抵の情報は手に入る。昨晩の夕食後から就寝までの間に、清次郎は万輪会について可能な限り調べてみた。
正式名称、宗教法人万輪会。
法人格を取得した宗教団体で、本部所在地は島根県出雲市。
設立は昭和三十二年。創始者は、イギリス出身ながら日本に帰化した石神八雲という民俗学者。
元々は「出雲神座の会」という名称の団体だったが、平成七年に「万輪会」と改称。それに伴い中国や台湾にも支部を置き、積極的に海外進出しながら規模を拡大していった。
現在の公称信者数は約二十万人。ただし宗教団体の公称信者数というのは大分水増しされるのが通例らしく、実数はその半分程度と思われる。それでも新興宗教の中では大規模な方であり、比較的知名度も高い。
その教義は仏教と神道を混合させたようなもので、信徒達は天地万物に宿る神々を崇め奉る一方、精神の健全化を目指した修行に励んでいるという。
分かったのは、その程度のことだけだった。
「教団の規模とか沿革とか教義とか、あとは世間での評判とかは、いろんなサイトを見て大体分かったよ。でも……まあ当然だろうけど、玩神法のことはどこにも書かれてなかった。茅野って人についても、三代目の教主で、教団を大きく改革した人ってことくらいしか分からなかった」
視線を横に動かし、瑞希の顔を見つめる。
「だから、早川さん……質問を返すようで悪いんだけど、よかったら詳しく教えてほしいんだ。玩神法や、茅野って人について」
「茅野のことは、私も詳しくは知りませんよ。直接会ったこともありませんし」
「でも……玩神法のことなら、少なくとも俺よりは詳しいでしょ? 昨日、朝宮さんの弟子だって言ってたし……」
遥が瑞希を自分の弟子と言った時は首を傾げたが、今ならその意味が分かる。
あれは、瑞希に玩神法を教えているという意味だろう。
そうでなければ弟子などという表現を使うわけがないし、そうでなければ瑞希のような少女に自分の護衛役を任せるわけがない。
「……ええ、まあ、そうですね。私も一応……」
「おーい、セージ!」
瑞希の言葉を遮ったのは、後方から飛んできた声だった。振り向くと、小走りで坂道を上ってくる茶髪の少年がいた。
榊恭也だ。今日もその手に大きな紙袋を携えていた彼は、清次郎の元までやってくると、昨日の朝と同じような調子で熱弁を振るい始めた。
「なあおい、見てくれよ。昨日に続いて今日もすげえの持ってきちまったんだよ俺。え、昨日のは別にすごくなかったって? まあ確かに、俺みたいなクソゲーハンターならともかく、お前らにはまだ早すぎたかもしれねーな、あれは。何つーかこう、ゲームとしてちょっとガチすぎて取っ付き辛いとこがあんだよな、コリドールは。分かるぜ、分かる。興味はあっても最初の一歩がなかなか踏み出せねーんだよな、うん。お前らの気持ちはよく分かった。だから今日はその点も加味して、更にすげえのを持ってきたんだ。こいつはすげえぞ……見た目と名前のインパクト、斬新なゲーム性、俺達日本人の心を掴んで離さない圧倒的な馴染み易さ、全てにおいて完璧だッ!」
今日も彼は楽しそうだった。実に楽しそうだった。
いいなぁ、悩みがなさそうで――と清次郎が羨んでしまうほどに楽しそうだった。
長々ともったいぶった喋りをしているが、要はまた懲りずに何か持ってきたということだろう。是が非でも文芸部の面々と一緒に変なゲームをしたいらしい。
その無駄な熱意と、ひたすら「すげえ」を連発する絶望的な語彙の乏しさには、呆れを通り越して感服してしまいそうだ。見習いたいとはこれっぽっちも思えないが。
「まあ百聞は一見にしかずだ、とにかく見ろ! これが今密かなブームを巻き起こしてたりする、忍者と侍とワビサビとハラキリの国、日本が生んだ新兵器! その名も枯山……」
紙袋の中身を勢いよく取り出そうとした恭也は、そこで急停止した。笑みを消し、代わりに敵陣の真っ只中に取り残された雑兵のような表情を浮かべて、清次郎と瑞希の顔を交互に見やる。明らかに困惑している様子だった。
清次郎は、自分が他人の心情を読み取る能力に長けているなどとは露ほども思っていない。しかしながらこの時ばかりは例外的に、榊恭也の考えていることがコンマ一秒もかからずに読み取れた。
きっと彼は、脳内でこんな声を発しているのだろう。
「あれ? 何かセージの隣に知らねえ女子がいんぞ。うちの制服着てるけど、見覚えねえな……誰だ? セージのクラスにはいなかったよな、こんな子…………つーかこいつら、この位置関係からして、二人で一緒に登校してきたのか……? え……いや待て。ちょっと待て。それってつまり……」
まずい。非常にまずい。
この男は変な方面にだけ妄想力がたくましい上に、その妄想を吹聴せずにいられないという困った奴なのだ。このまま放置しておくのは危険すぎる。今のうちにどうにかしないといけない。
「あー……恭也、この人は早川さんっていって……ええと、その……」
自分達の関係や一緒にいる理由等を説明しようとしたが、無理だった。まさか「今自分は命を狙われている身なので、この子に守ってもらっています」などと言うわけにもいかない。かといって、もっともらしい嘘も咄嗟には思いつかない。
仕方なく、縋るような目を瑞希に向けた。自分の口では上手く説明出来ないから何とかしてくれ、という意図を込めて。
すると瑞希は面倒事を嫌がる顔を一瞬見せて、溜息混じりに言い放った。
「私は、この人の護衛です」
清次郎と恭也が、液体窒素を浴びせられたように凍りつく。瑞希の放った言葉は、二人の脳細胞の働きを数秒間に渡って停止させた。
「なのでお気になさらず。いないものと考えてくれて結構です」
「お、おう……」
恭也は頷きつつも、更に困惑を深めた様子だった。
当然だ。ここで「護衛なら仕方ないな」などと言って納得するような奴は、おそらく地球上に存在しない。
「は、早川さん、ちょっと……!」
小声で抗議する清次郎。
「さっきのアイコンタクトは“お前が何か言えよ”って意味かと思ったのですが、違いましたか?」
「い、いや、そうなんだけどさ……もっとほら、他に言いようは……」
「別にいいじゃないですか。これから毎日あなたと一緒に登校するわけでもないのだし」
「……そりゃ、早川さんにとっては二度と顔合わせない相手だからどう思われようと構わないのかもしれないけど……俺の立場としては、友達に変な誤解……いや誤解でもないけど……とにかく変な風に思われたら色々困るわけで、もう少しその辺に配慮した発言をしてもらえると……」
「護衛は引き受けましたが、それ以外のことまで引き受けた覚えはありません。もっとはっきり言いましょうか? そんな細かいことまで面倒見きれません。自力で何とかして下さい」
そう思うのなら下手に口を開かずにいてほしかった。瑞希の発言のせいで、事態は混迷の度合いを一層深めている。こちらを見つめてくる恭也の視線が、凄まじく痛い。
しかも、事はそれだけで終わらなかった。
「あ、つっちーと榊だー。おはよー」
明るい声と共に、白人めいた容姿の少女がやってくる。芹沢真奈美だ。
彼女は清次郎達の近くに来てから瑞希の存在に気付くと、先の恭也と同様の反応を見せた。その後の展開までほぼ同じだった。
「私は、この人の護衛です」
「へ……? ご、ごえい……?」
さらりと言い放つ瑞希。目を点にする真奈美。理解が追いついていない様子で間抜け面を晒し続ける恭也。そんな、最早収拾のつけようのない事態の中で、清次郎は現実逃避しながら嘆いた。
どうして、いつも一緒に登校しているわけでもないのに――いやむしろ、一緒でない時の方がずっと多いのに、何故こういう時に限って自分の友人達は自分の元にわらわらと集まってくるのだろう、と。
割と本気で泣きたくなった。
朝のホームルームが始まる二十分ほど前。
いつもより若干早めに登校した楓は、上履きに履き替えるため昇降口で自分の下駄箱を開け、その姿勢のまま硬直した。
下駄箱の中に、上履き以外のものが入っていたのだ。
小さな白い洋封筒。それも、赤いハートのシールで封がされているという、死ぬほどいかがわしい代物だ。
自分の上履きの上に鎮座していたその異物を目にした瞬間、楓は完全な思考停止状態に陥り、次いで、驚きと戸惑いと呆れと苦笑いが複雑に入り混じったような、何とも微妙な表情を浮かべてしまった。
一旦目を閉じ、深呼吸し、再び目を開ける。封筒は変わらずそこにあった。見間違いや錯覚の類ではないようだ。
これはつまり、あれなのだろうか。
恋煩いをした者が、想いを相手に伝えるために書き綴るという、あの――
しかしそんなもの、漫画の中でしか見たことがない。まさか実際にやる奴がいるとは思わなかった。いや、そういう古風な輩も世の中にはいるのかもしれないが――まさかこの自分に対してこんな真似をしてくる奴がいるとは思わなかった。いったいどこの馬鹿が何を血迷ったのだろう。理解に苦しむ。
別に胸が高鳴ったりはしなかったが、正直困った。朝っぱらからこんな事態に直面するとは夢にも思っていなかったので、どう対処していいものか分からない。
ともあれ、いつまでも下駄箱の前で固まっていれば周りから不審に思われる。まだホームルームまで時間はあることだし、人目につかない場所に移動しよう。それから封筒の中身を確認してみよう。そう思い、楓は封筒を鞄の中に入れてから上履きに履き替え、早足で廊下を進んだ。
そして、歩きながら疑念を抱いた。これは本当にあれなのだろうか、と。
何しろ、他人に好かれるような真似をした覚えは全くない。誰かにいいところを見せたとか、誰かに優しくしたとか、誰かと仲良くお喋りしたとか、そういうことは本当に一切ないのだ。
文芸部の面々以外に親しい友人はいないし、そもそも自分は人付き合いというものをほとんどしていない。クラスメイトと会話したことも片手で数えるほどしかないくらいだ。従って、自分に好意を抱くような奴に心当たりはない。
逆に、嫌われたり恨まれたりするような真似をした覚えなら、割と沢山ある。小学生の頃に蹴っ飛ばして泣かせた奴とかの顔ならいくらでも思いつく。その中には、この相海高校に進学してきた者も何人かいる。
だからこれは、もしかして性質の悪い悪戯なのではないだろうか。自分に恨みを持つ輩が、自分をからかって笑い者にするために仕組んだ罠なのではないだろうか。どちらかといえばそちらの方がありそうだ。一応警戒しておかないといけない。
けれども悪戯なら、それはそれである意味助かる。むしろ自分などに好意を抱いた物好きがいた場合の方が本気で困る。流石に無視するわけにはいかないし、邪険に扱うわけにもいかない。対処法を考えるだけで一苦労だ。面倒臭い。
そんなことを考えている内に、彼女の足は階段の踊り場に行き着いた。美術室や化学実験室等が並ぶ特別教室棟の一階と二階の間で、この時間帯なら基本的に人通りのない場所だ。
ここでいいだろうと判断し、鞄から封筒を取り出す。ハートの形をしたシールを破り、中に収められていた便箋を抜き取って広げる。
誰が何のつもりで書いたにせよ、自分にとっては甚だ迷惑な代物であることに変わりない。気を張っても疲れるだけだし、適当に斜め読みしておけばいいだろう。
そうした考えは、文面を見た瞬間に霧散して――彼女は大きく目を見開いたまま、数分間に渡って凍りついた。
その日の四時限目、英語の授業中。
椅子に座り、教師が黒板に書き記す英文を自分のノートに写しながら、清次郎は苛立ちを募らせていた。
あの早川瑞希という自称護衛のせいで、朝から大変な苦労をさせられたからだ。
いくら何でもいきなり「護衛です」はないだろう、とつくづく思う。確かに自分達の関係を上手く説明するのは難しいだろうが、それにしてもあれは酷すぎる。あの後、恭也と真奈美に詳しい説明を求められて死ぬほど困った。もうどうしようもなかったので、彼らが投げかけてくる言葉を全て無視して教室に逃げ込むしかなかった。何で自分がこんな目に、と自らの境遇を呪った。
しかも瑞希の方はと言えば、学校に到着するとすぐさま校舎の奥に消えてしまい、それきり姿を見せないという始末だ。おかげで文句を言う暇もなかった。
溜息が洩れる。
どことなく利発そうな印象を抱いていたが、大間違いだった。あれは正真正銘の大馬鹿だ。手に負えない。
自分を護衛してくれる気があるのかどうかも、正直かなり疑わしい。目の前で自分が襲われていても涼しい顔で見ているだけなのではないだろうか。今朝の言動を見る限りでは、そういうこともありそうで怖い。
そんな不安を覚えてもう一度溜息をついた時、授業終了のチャイムが鳴った。教師が教室から去り、四十分間の昼休みが訪れる。
この機に瑞希の姿を捜しに行こうかと思った清次郎だが、無駄だと思い直して止めた。どこにいるのか知らないし、顔を合わせたところで有意義な会話が出来るとは到底思えない。それに今は、なるべく人の多い場所にいた方が安全だろう。
大人しく自分の席で昼食を摂ることにする。しかし鞄から弁当箱を取り出したところで、真横から聞き慣れた声が飛んできた。
「セージ」
視線を向けた先にいたのは、楓だ。彼女はその手に、赤い手ぬぐいで包まれた弁当箱を携えていた。
「……部室行こ」
「え?」
「だから、部室。文芸部の」
突然そう言われて、清次郎は大分面食らった。
部室で一緒に弁当を食べようという意味なのは分かる。分かるのだが、楓の口からそのような発言が出たのは初めてだ。
「あ、ああ……うん……」
曖昧に頷くと、楓は自分についてこいとばかりにすたすたと歩き出す。清次郎は戸惑いつつも、その後を追った。
教室を出た二人は職員室で鍵を借りてから文芸部の部室に向かう。その間、楓は一切口を利かなかった。どことなく張り詰めた雰囲気があったので、清次郎の方から話しかけることも出来なかった。
女王に付き従う衛兵のように楓の後ろを歩きながら、清次郎は頭の中で疑問符を浮かべる。いったいどういう風の吹き回しなのだろう、と。
日比谷楓は孤独を好む。いつでもどこでも独りになりたがる。食事の時とて例外ではないらしく、いつも他人を寄せつけない空気を纏いながら独りで弁当を食べている。小中学校の給食時等を除いて清次郎は楓と一緒に食事をしたことがないし、他の誰かと一緒に食事をしているところを見たこともない。
だからこそ、この状況が不可解でならない。いったい何を思って彼女は自分を連れ出したのか、非常に気になる。
昼休みに弁当を持って移動しているのだから、移動した先で食事をしようということでいい筈だ。普通はそうなる。しかし日比谷楓の行動を、その「普通」に当て嵌めていいのだろうか。何か裏があるように思えてならない。いや、絶対ある。あるのだろうが――それが何なのかさっぱり分からない。
分からないまま、部室に着いてしまった。
スライド式のドアを開けて中に入った楓は、壁に立てかけてあったパイプ椅子を広げて腰を下ろす。そこから何か大事な話でも始まるのかと思って清次郎は身構えたが、何も始まらなかった。楓は自分の弁当箱を開けて黙々と食べ始めただけだった。
「……」
突っ立っていても仕方がないので、清次郎もパイプ椅子に座って自分の弁当箱の蓋を開ける。そして楓の様子を窺いながら、白米と鮭の切り身を口に運ぶ。
沈黙が続いた。
やたらと不自然な上にどこか不穏で、異様に長く感じる沈黙の時間だった。
清次郎がそれに耐え切れなくなり、いい加減何か話そうと思って口を開きかけた時、機先を制するように楓が言った。
「セージってさ、犬派? 猫派?」
清次郎は、一瞬だけ放心した。
「えっと、犬と猫のどっちの方が好きかってこと……だよね?」
「うん」
楓は首を縦に振る。
何故いきなりそんなことを尋ねてくるのだろうと訝みつつも、清次郎は返答した。
「んー……どっちも可愛いと思うけど、強いて言うなら……犬、かな」
「……何で?」
殺意がこもっていそうな目で睨まれた。どうやら彼女のお気に召す返答ではなかったらしい。
「あ、いや、飼ったことないから全然詳しくないんだけど……犬って人懐こいから、飼い主をすごく慕ってくれそうなイメージあるし……それにほら、頭良いから人間のことをよく理解してくれそうだなって……」
「それは犬に幻想抱きすぎ。あいつらって餌くれる人に尻尾振ってるだけの単細胞だよ。ちゃんと躾けないと吠えたり噛んだりで大変だしさ。あと常に口開けてハッハッやってるから、見た目の時点で既に馬鹿っぽい」
この子は犬に何か恨みでもあるのだろうか。清次郎でなくてもそう思ってしまいそうな物言いだった。強烈で濃密な嫌悪の念が言葉と顔の両面に表れている。
「……犬、嫌いなの?」
「嫌いだよ。だから今、すごく困ってる」
ジュースの入った紙パックにストローを挿して一口啜った後、楓は続けた。
「うちのお母さんがちょっと前から犬飼いたがっててさ、シーズーがいいとかやっぱりプードルにしようとか、血迷ったことぬかしてたんだけど……最近知り合いの家で子犬が産まれたみたいで、それを引き取ろうとか本気で考えちゃってるの。もう最悪だよ」
楓の母親なら、清次郎も何度か会ったことがある。娘と顔はそっくりだが性格は正反対で、確かにシーズーやプードルを飼いたいと言い出しそうな人物だった。そして、小動物を可愛がるけれども世話は人任せにしそうな人物でもあった。
「お母さん飽きっぽいから、犬なんて飼ってもどうせすぐ世話しなくなるし。それできっと僕に言ってくるんだよ、犬の散歩お願いね――とかさ。何が悲しくて小動物連れてその辺歩き回らなきゃいけないわけ? ほんと考えるだけで憂鬱になってくるんだけど」
「はは……そうだよね、犬は散歩とかさせなきゃいけないから大変だよね。吠えるとうるさいし」
「ほんとだよ。どうせ飼うなら猫にしてくれればいいのに」
「猫はセーフなの? 楓的に」
「別に猫飼いたいわけじゃないけど、猫ならまだ許せる。犬は最悪。許せない」
犬は大嫌いだが、猫はそうでもないらしい。猫に対して寛大なのは、自分と通じ合うものを感じていたりするからだろうか。
そんな分析をしてしまう清次郎だった。
「……何か、すごく失礼なこと考えてない?」
「い、いやその……ほら、楓には犬より猫の方が似合いそうだなって……」
「ふーん……」
楓の目が半月状になる。
「目つき悪くて態度悪くて自分勝手で団体行動出来ないとこが猫っぽいなぁこいつ、とか考えてるんでしょ? どうせ」
「うっ……」
あっさりと思考を見透かされ、清次郎は顔を青くした。
いつも痛感していることだが、やはり楓は鋭い。人間嫌いな割に他人をよく見ている。
「否定しないし。前から思ってたけど、セージって実は僕のこと結構馬鹿にしてるよね」
「いや、そんなことは……」
そこまでいくと、流石に言いがかりだ。
楓を馬鹿にしてなどいないし、見下してもいない。嫌っているわけでもない。その手の悪感情はこれっぽっちも抱いていないつもりだ。
色々と個性的で、少し気難しい子だとは思っているけれども。
「まあ、その……確かに楓はちょっと内向的っていうか、孤独癖あるけど……それでも俺や先輩とは普通に接してくれるし、昔に比べると大分丸くなったなぁって思うし……」
「うわ、露骨に言葉選んでる。しかも遠回しに昔はひどい奴だったって言ってる」
「う……あう……」
参った。楓を悪く言うつもりはなかったのだが、話がそういう方面に向かってしまっている。早急に軌道修正しないといけない。
そう思って話題を犬猫関連に戻そうとした時、楓の口から小さな溜息が洩れた。
「……自覚はしてるけどさ」
窓の外の景色に目を向けて、独り言のように呟く。その横顔からは、普段とは明らかに違う雰囲気が感じ取れた。
「……ごめん」
「え……」
「あの頃は、よく他の子と喧嘩したりして……セージにも迷惑かけてたよね。だから、その…………少しは反省してる」
清次郎は、寒気を覚えた。
同時に、今すぐこの場から立ち去りたいという衝動に駆られた。
楓の意図を――彼女が何を思って自分をこんな場所に連れ込み、こんな話をし始めたのかを、察してしまったからだ。
「五年前の、あの時も……勝手にいなくなって、心配かけたよね。セージ連れ戻しにきてくれたのに、駄々こねて、困らせて……本当、ごめん。あれは僕が悪かったって思ってる」
心が、軋む。
固く閉ざされていた記憶の扉が、徐々にこじ開けられていく。
「だから、さ……」
俯きながら、楓は言った。清次郎の心を、これ以上ないほど揺さぶる言葉を。
「もうやめようよセージ……あの時のこと、引きずるのは」
椎名幸久という男は、特殊な技能を――いや、異能を有している。
自らの顔を変える業が、それだ。端的に言えば変装術なのだが、彼のそれは変装というより変身に近い。
かつらを被るわけでも特殊メイクを施すわけでもなく、骨格を変えるのだ。頭蓋骨の一部を意のままに変形させ、顔の作りを大きく変えることが出来る。玩神法の力と医学の知識の二つを要する高度な業であり、他の誰にも真似出来ない荒業である。
彼はその異能を利用し、相海高校の校舎内に侵入した。自分と同年代の男性教諭に化けて、正面玄関から堂々と入り込んだのだ。
そして今、中庭に面した廊下の窓際に立ち、携帯電話を耳に当てている。通話の相手は、息子の孝文だった。
「ふむ……何か小細工しようかと思ったが、その必要もなかったようだな。お誂え向きの展開になってきたぞ、孝文。向こうが勝手に二人きりになってくれた」
その目は既に、向かいの棟の一室にいる二人――筒井清次郎と日比谷楓の姿を捉えている。
昨晩の内に練った計画を実行に移すため、彼は二人の現在位置を口頭で孝文に伝えた。
「では予定通り、これから仕掛ける。私がいいと言ったらお前も出ろ」
『本当にやるのか、そこで……』
「どうした、今更何を怖気づいてる? 不安なことでもあるのか?」
『そういうわけじゃないが……』
口ごもった孝文は、言葉を選びながら続けた。
『親父のやろうとしていることは充分理解しているつもりだし、必要なことだと納得もしている……だが、その……あれだ……もっと他にやりようはあるんじゃないか? こんな、無関係な奴まで巻き込む方法を取らずとも……』
「確かに他の方法もあるだろうな。だが別に、この方法でも問題あるまい? 残念ながら少しばかり被害は出てしまうが、他のどの方法よりも効果的だろうし、何より手っ取り早い。上手くいけば今日中に片が付く」
客をもてなすわけではないのだから、気を使う必要など全くない。相手の事情や周囲に及ぶ被害など考慮に値しない。
そんな極めて自己中心的な発想により、彼は非常に単純かつ手っ取り早い方法で自身の目的を達成することにした。
「それに、だ。茅野からは色々と条件を課せられたが、無関係な奴を巻き込むなというのはその中にない。玩神を使って事を済ませば警察沙汰になる心配もない。何の問題がある?」
『問題はないかもしれんが……仮にも医者とは思えん台詞だな……』
「元医者だ。今は何者でもない。いや、分類するなら犯罪者にあたるのかもな」
臆面もなくそう言ってから、幸久は声に恫喝の響きを込める。
「そしてそれは、お前も同じだ。私についていくと決めたのだろう? 力を得るためなら何でもするつもりなのだろう? なら、この期に及んで面倒臭いことをぐだぐだとぬかすなよ。早くこの下らん会話を終わらせないと、せっかくの好機を逃してしまうだろうが」
『……分かったよ。悪かった。大人しく言う通りにすればいいんだろ?』
「そうだ。お前は私の指示通り、あの子供らを適度に苛めてやればいい。適度に、だ。分かるな? 殺してしまっては元も子もないぞ」
『ああ、分かってる』
孝文が頷くと、幸久は携帯電話を耳から離して鼻を鳴らした。
我が子ながら面倒な奴だ、と内心で毒づく。
ただでさえ障害持ちで世話が焼けるというのに、近頃は口だけ一丁前になってきたから困り物だ。玩神法を身に付けた今、自分は父と対等だとでも思っているのだろうか。一人では何も出来ない分際で。
「ふん……」
しかし、まあ、仕方がないか――と自らに言い聞かせ、苛立ちを鎮める。
不出来で手のかかる息子だが、それでも自分にとっては貴重な手駒だ。替えがきかない以上、上手く運用するしかない。
それに、玩神法の使い手として見るなら、孝文は決して悪くないのだ。
幸久が試行錯誤の末に玩神法を会得したのが一年半前。彼はその後、自らの手駒とするため孝文に玩神法を教え始めた。そして孝文は僅か数ヶ月で玩神の具現化に成功し、一年経つ頃には玩神を自在に操る術を身に付けていた。才能があったのだろう。その覚えの早さには幸久も舌を巻いた。
もう一人の手駒――今は孝文と行動を共にしている倉科という男も、あれはあれで悪くない。あの男の玩神はなかなかに有用な代物だ。どれほどの実力者でも無視出来ないほど厄介な力を具えている。実際、茅野清明や朝宮遥もあの男には一目置いているらしい。
数こそ二人と少ないものの、椎名幸久が現在有している手駒はそれなりに優秀だ。しかし彼は、それでもまだ不十分と考えていた。
孝文は玩神法を身に付けて日が浅く、様々な面で経験が足りていない。
倉科の力は有用だが、それは誰かと組ませてこそ生きる類の力で、単独ではそこまで強くない。
朝宮遥を殺すだけなら現在の戦力でも足りるだろうが、その先のことまで考えれば万全とは言えないのが正直な所だ。とはいえ、これ以上手駒を増やすあてはない。自分自身が今以上に強くなれるという保証もない。
だから彼は、筒井清次郎に目をつけた。
向かいの棟の一室。髪の長い少女と一緒にいる小柄な少年を、淀んだ目で凝視する。
「見込み違いでないことを祈ろうか。落胆させんでくれよ」
歪な笑みを浮かべて呟いた後、静かに瞑目。
眼球から入ってくる情報を断つことで、集中力を高める。そして年老いた脳細胞を限界まで酷使し、想像する。
自らが信仰する絶対的存在を。
その怪異なる姿を。
その絶大なる力を。
外見だけでなく内部の構造、果ては質量や構成物質に至るまで、全てを脳内で明確に思い描く。
神を――架空の超越者を、現実世界に招き入れるために。
「転法輪」
想像の完了と同時に、目を開く。異形の神を背後に従え、力ある言葉を放つ。
「屍骸演戯舎利傀儡」
傷口に触れられたような気分だった。
ずっと隠しておきたかった傷に、誰にも決して見せたくなかった古傷に、幼馴染の少女の手が触れている。
痛まないように、優しく――けれどその優しさが、今はこの上なく残酷だった。
「気にしてるんでしょ……? 五年前の、あのこと……」
五年前の夏。
夕刻の薄暗い林の中。
幼い清次郎は、愚かしい過ちを犯した。
「知ってたよ……ずっと前から知ってた。あの時のことが頭から離れないから、セージは、ずっと苦しんでるんだってこと……」
「違う……」
違わない。
あの時のことが原因で、自分を信じられなくなった。自分が大嫌いになった。
今もそうだ。死にたくないのに、生きていたいのに、自分自身を殺したくてたまらない。
「あのことなら、僕はもう全然気にしてない。忘れろって言うなら忘れる。だから――」
「うるせえよ馬鹿が! 違うっつってんだろうがッ!」
怒号。黒い感情を露わにした、獰猛で醜悪な叫び。
獣じみた形相で、清次郎はそんな叫びを放っていた。
「あっ……」
我に返る。衝動的にとんでもない暴言を吐いてしまったことに気付いて、血の気が引いた。
目の前に、楓の怯えた顔がある。
突然の剣幕に驚いたのだろう。喉元に刃物を突き付けられたような顔で固まってしまっている。
彼女の怯えた顔を見るのは、これで二度目。五年前の、あの日以来だ。
「――ご、ごめんっ! その……つい……」
慌てて謝罪する。後悔と自責の念で胸が張り裂けそうだった。
「ど、怒鳴るつもりなんて、なかったんだ……でも、つい……ご、ごめん! 本当にごめん!」
何を逆上しているのか、自分は。
楓は何も悪くないのに。悪いのは、罪深いのは、責められるべきなのは、この自分なのに。
「セージ……」
僅かに落ち着きを取り戻した楓が、悲しげな顔でこちらを見つめてくる。その視線が、下手な罵倒よりずっと痛い。
とても目を合わせていられなかった。逃げるように俯いて、唇を噛みながら、心の中で運命を呪った。
どうして自分は、楓と出会ってしまったのだろう。
出会わなければよかった。その方が何百倍も幸せだった。
この優しい少女がいなければ――自分は、自分が屑であることを知らずに済んだのに。
「本当……ごめん……」
「い、いいよ……ちょっとびっくりしたけど、別に気にしないから……」
そんな言葉を交わした時だった。
部室の窓ガラスを突き破り、細長い何かが飛来する。それは清次郎の楓の間を瞬時に通り過ぎ、部室の壁に激突した。
ガラスの破砕音と、壁に何かが突き刺さる音。二種類の音が、同時に二人の耳に届く。
「えっ……」
「なっ……」
二人の口から驚愕の声が洩れる。そして二人の視線が、壁に突き刺さった物体に注がれる。
それは、白い杭状の物体だった。
長箒の柄ほどもある、鋭い杭だ。しかし金属ではない。木材とも違う。その材質は、どこからどう見ても――
「骨……?」
非現実的なほど長い上に、整形されているが、骨に見える。生物の肉体を支える骨格の一部に。
「な、何これ……何……?」
楓がひどく狼狽した様子で呟く。清次郎も心境は同じだった。
何の前触れもなく飛来した謎の物体。これがどこからどういう理由で放たれた何なのかが、全く理解出来ない。
しかも、異変はそれだけで終わらなかった。穴の空いた窓をさらに砕き、無数の破片を床に落としながら、巨大な何かが部室の中に入り込む。
身の毛がよだつほど禍々しい気配と共に、怪異なるものが姿を現す。
「な――っ!」
その姿を目の当たりにして、清次郎と楓は愕然となった。
それは純白の巨躯。皮膚も筋肉も体毛も体液もなく、ただ白く硬質な物体のみで構成された存在。
一言で表すなら、白骨死体。即ち骸骨だ。
ただし身の丈は三メートルに迫り、腕の数は八本。下半身に脚はなく、異様に太い脊柱が大蛇の尾のように伸びている。
人と蜘蛛と蛇が混ざり合った生物が存在し、それが死後に放置されたなら、このような姿に成り果てるのだろうか。
見る者にそんな思いを引き起こさせる怪物が、地の底から這い出るように現れた。




