第二話「玩神法」
その喫茶店は、駅前の商店街に面したビルの一階に設けられていた。
全国展開しているチェーン店だけあり、店内は広い。やや暗めの照明とスピーカーから流れるピアノ曲によって落ち着いた雰囲気が作られた店だ。
ガラスで仕切られた喫煙スペースの奥。小さな丸テーブルを挟む形で、二人の若い男が向かい合っていた。
一人は浅黒い肌をした男。胸板の厚い筋肉質な男だが、背はそれほど高くない。髪は短く刈り込んでいて、無地の黒いシャツに砂色のジーンズという地味な装いをしていた。
もう一人は、二十歳前後の痩せた男。さほど特徴の無い顔立ちをしているにもかかわらず、非常に目立つ男だった。
何故なら、両足に障害を負っている。立って歩くことが出来ないため、車椅子に乗って生活せざるをえない身なのだ。今もテーブルの前にあった椅子を脇にどかし、車椅子に乗ったまま浅黒い男と向かい合っている。
彼ら二人の間に会話は無い。車椅子の男は何をするでもなく退屈そうに寛いでおり、浅黒い男は近くの書店で買った週刊誌を黙々と読み続けている。そんな状態がもう一時間以上も続いていた。
元々彼らは親密な仲ではなく、親密になろうともしていない。ある事情により行動を共にする必要があり、時間が来るまでこの辺りの何処かで待機していなければならなかったから、この店に入って時間を潰しているだけの話だ。よって全く馴れ合わないまま、各々の世界に没入し続けていた。
しかし、その沈黙が破られる。車椅子の男はテーブルの上のトレイに置かれていたコップを手に取り、中のアイスティーを飲み干した後、浅黒い男の名を呼んだ。
「倉科」
倉科と呼ばれた男は顔を上げない。週刊誌を読むのに没頭していて、声が聞こえなかったようだ。
車椅子の男は、もう一度名を呼んだ。
「おい、倉科」
「ん、ああ……何?」
二度呼びかけられてようやく気付いた倉科は、週刊誌の誌面から目を離し、気だるそうな声を出しながら顔を上げた。
そんな彼に、車椅子の男は険しい目を向ける。
「例のガキのお守りをしているっていう……何ていうんだったか? その女は」
「朝宮だよ。それなら、朝宮遥って人」
「そう、そいつだ。その朝宮って女と、お前は面識があるのか?」
「……まあ、五年くらい前まで同じとこで修行してたからな。別に仲良かったわけでもねえけど、喋ったことくらいならあるぜ。それが?」
何故そんなことを聞くのかという風に、倉科は車椅子の男を見返す。
車椅子の男は、険しい眼差しで言った。
「一応、聞いておこうと思ってな。親父やお前がやたらと警戒している朝宮って女は、どんな奴かってことを」
「なるほど……けど、それなら親父さんに聞いた方がいいんじゃないのかい? 朝宮さんとの付き合いはあの人の方が長いんだしよ」
「この手の話をすると目に見えて不機嫌になるんだよ、親父は。それに、あれだ……親父の話は本人の主観が入りすぎている。参考にならん」
「ははっ、確かに。何でも自分の都合のいいように考えたがるからなぁ、あの人は」
トレイの上のマグカップを手に取り、とっくに冷めていたコーヒーを啜りながら、倉科は笑った。
「いいからさっさと話せ。朝宮とはどんな奴だ?」
「へいへい、朝宮さんね…………どんな人かって言われると……まあ何つーか、あれだな。一言で言うなら、すげえ人。雲の上の存在っつーのかね? とにかくそういうもんだったよ、俺にとってはな」
マグカップをトレイの上に戻して、倉科は続ける。
「茅野先生の手ほどきを受けた奴は、それこそ腐るほどいたんだぜ。正確な数は知らねえけど、多分千人は超えてただろうな。その千人ちょっとにしたって、いろんな審査を潜り抜けた……まあ言っちまえば精鋭揃いだったんだけどよ、本格的な修行が始まるとこれがばったばったと抜けてった。血塗れになるまでボコられたり、山篭りしたり、断食みたいな真似させられたり、とにかくいろんな方法で振るいにかけられて、死んだり逃げたり再起不能になったりでどんどん脱落してったのさ。で、最終的に残ったのはたった五人。最初は腐るほどいたってのに、茅野先生が認めるレベルに達して無事に卒業出来たのは五人だけだった」
「……お前も一応、最後まで残ったクチだと聞くが」
「残ったっちゃあ残ったけど、本当にただ残っただけの落ちこぼれだよ、俺は。茅野先生に認めてもらえるようなレベルには全然なれなかった。だからその五人の中には数えられてねえ」
それは一種の挫折であり、屈辱を覚えていてもおかしくない話だったが、本人は苦い顔も悔しそうな顔も見せなかった。
それどころか、薄い笑みさえ浮かべている。
「話を戻すと、だ。その五人はみんなすげえ人っつーか、いろんな意味で常軌を逸した人達なんだけどよ……その中でも一番すげえって評価されて、一番重要な役を与えられたのがあの人、朝宮遥。まあ簡単に言っちまえば、茅野先生の一番弟子ってとこか」
口許は笑っていたが、その目は真剣だった。
「実際、俺も五人の中じゃあの人が一番だと思ってる。さらに言うなら、うちで茅野先生の次に強えのはあの人だよ。俺の見立てではな」
話を聞き終えた後、車椅子の男はアイスティーを一口飲んだ。
「ふん、なるほどな……」
コップをトレイの上に戻して、言う。
「要するに、途中で破門されたうちの親父や、落ちこぼれのお前とは格が違うってことか」
「ま、そうなるな。残念ながら」
あっさりと認めつつ、僅かに目を細めて、倉科は車椅子の男を見返す。
「つっても、まあ……今更そんなこと言われたって、引く気はねえんだろ?」
「当たり前だ」
車椅子の男は、死地に赴く兵士のような、決然とした眼差しで応じた。
「今回の件……言い出したのは親父だが、俺も嫌々付き従っているわけじゃない。力を欲しているのは俺も同じだ。今よりさらに強い力が欲しい」
彼には力がある。
不自由な足という重い障害を補って余りあるだけの、特別な力がある。
身も心もそれに強く依存し、病的なほど執着しているからこそ、彼は父親と共にこの田舎町までやってきたのだ。
「そのためなら、どんな危険も顧みないと決めている。今更誰が引くか」
決意のこもったその宣言を聞いて、倉科は口角を上げた。
「……そうかい、そりゃ結構なことだ」
「何だその薄ら笑いは? 虚仮にしてやがるのか?」
「そうじゃねえさ。素直に感心してんだよ。やる気と覚悟があって立派だってな」
気味の悪い薄ら笑いを浮かべたままそう言われても、褒められた気がまるでしない。車椅子の男は忌々しげに舌打ちした。
そのすぐ後、二人はほぼ同時に表情を引き締める。
「……っと、暢気にくっちゃべってる場合じゃねえや。出番が来たみたいだぜ、椎名さん」
「分かっている。手筈通り、俺が先に出よう」
車椅子の男――椎名孝文は、静かに両目を閉じた。
清次郎がその異変に気付いたのは、自宅のあるアパートまであと五分足らずのところに来た時だった。
何故か、急に気分が悪くなったのだ。
吐き気や目眩とは違う。もっと不確かで、言い表し難い不快感。胸騒ぎとでも言うべきだろうか。理由も分からないまま心がざわついて、暗闇の中に一人でいるような不安に捉われた。
平静な顔で歩いていられずに立ち止まり、辺りを見回す。
目に映るのは、延々と連なる家々。アスファルトで舗装された道路。家々の敷地と道路を区切るブロック塀。茜色から藍色に変わりつつある夕刻の空。
どこにでもある閑静な住宅街であり、何度も歩いて見慣れた通学路だ。おかしなところなど一つも無い。
ならば、何だというのか。今自分が感じている、得体の知れない不吉な予感は。
そう自問した時、妙な音が耳に届いた。
何かが路面に落ちたような音。それも墜落ではなく、軽やかに着地したような音だ。
反射的に、目を音の発生源――前方十メートルほどのところに向けたが、そこには何も無かった。何の変哲も無い住宅街の風景が広がるだけだった。
「え……?」
いや、違う。何もないわけではない。何かがある。何かが見える。ぼんやりとした、ひどく不鮮明な何かが、道路の上に存在している。
怪奇現象と言っていいほどの異常だった。一見しただけでは分からないのに、目を凝らせば見える存在がある。目に映る景色の一部に、陽炎のような揺らめきがある。色も形も大きさも判別出来ないのに、何かが存在していることが分かる。分かってしまう。
言い知れぬ恐怖を覚えた清次郎は、顔を強張らせながら一歩後ずさりした。すると、前方の何かが一歩前進した――ように見えた。
足音も、確かに聞こえた。
「……っ!」
恐怖が一気に濃度を増す。心臓の鼓動が跳ね上がる。
今度は意識的にではなく反射的に後ずさりする清次郎。その足音に、前方の何かが二歩三歩と前進する音が重なる。
もう理屈ではなかった。自分の見ているものが幻覚なのかそうでないのか、幻覚ではないとしたら何なのか――そんなことを考察する気にはなれなかった。ただ湧き上がる恐怖心に突き動かされて、清次郎は踵を返した。静かに近寄ってくる得体の知れない存在から逃れるために。
だが十メートルも走らない内に、彼の足は止まった。
強い力で右肩を掴まれ、急停止させられたのだ。
「う……ああっ……」
清次郎は目を見開き、震えた声を洩らす。彼の肩を掴んだのは、一瞬前まで十数メートル離れたところにいた筈の存在だった。
間近に来られると分かる、明確な存在感。生き物だけが放つ気配。そして、逃走を阻むこの物理的な力。
間違いない。もう否定しようがない。
この何かは確かに実在している。幻覚なわけがない。
清次郎は悲鳴を上げて助けを求めようとしたが、それも阻止された。声を絞り出す前に、強い力で首を圧迫されて。
そして、彼の小柄な体が宙に浮いた。
日比谷楓にとって、娯楽とは二つしかない。
本を読むことと、詩を書くことだ。
とはいえ、詩は気が向いた時にしか書かないので、彼女は基本的に暇な時間のほとんどを読書に費やしている。
読むのは主に漫画と小説で、それ以外は滅多に読まない。物語が好きだからだ。
物語ならジャンルは問わない。SFもミステリーも時代小説も恋愛小説も読む。しかし一番好きなのは異世界を舞台にしたファンタジーだった。よって彼女の部屋の本棚には、その手の本がびっしりと詰め込まれている。それらを手に取り、時間をかけてゆっくりと架空の世界の冒険を堪能することこそが、彼女にとっては一番の娯楽なのである。
この日も彼女は、帰宅してすぐに自室の寝台で横になり、鞄の中から取り出した文庫本を広げた。
愛読しているライトノベルの新刊だ。学校でも休み時間に読んでいたので、もう未読の頁は全体の四分の一ほどになっていた。
栞を挟んでおいたところから再開し、活字の羅列を目で追う。一字一句を噛み締めるように読みながら、頭の中に入ってくる情報を自らの想像力で映像に変換していく。
だがこの日はいつもと違い、大好きな物語の世界に没入することが出来なかった。一頁も読み進めない内にばたんと本を閉じ、枕元に置いて小さく溜息をつく。気晴らしに本を読もうとしたのだが、やはり今はそういう気分になれないと悟ってしまい、陰鬱で空しい気分だけが後に残った。
脳裏に、清次郎の顔が浮かぶ。
今日一日だけで何度も目にした、彼の暗く沈んだ顔が、嫌でも浮かんできてしまう。
「……セージの、ばか」
体調が悪いから病院に行っただとか、下手な嘘にも程がある。そんなもので騙されるほど自分はおめでたくない。
馬鹿にするなと言いたかったし、もっといろいろ問い詰めてやりたかった。怒鳴ってやろうかとも思った。この期に及んで誤魔化そうとする態度に、本気で腹が立ったから。
けれど、実際にしたのはその真逆。騙されたふりをして、自分の勘違いだったことにして、別れ際に愛想よく笑ってやった。彼の暗い顔を、少しでも明るくしてやろうとして。
自分らしくない、とつくづく思う。
媚びるように愛嬌をふりまくとか、誰かの機嫌を取るとか、そういうことをするのは苦手だし、面倒なのだ。出来る限りやりたくない。
だというのに、清次郎の前では時折そういうことをしてしまう自分がいる。怒鳴りたいのに怒鳴れなくて、ひっぱたきたくてもひっぱたけなくて、つい考えていることと逆のことをしてしまうのだ。
彼のことは、よく知っているから。
基本的に辛抱強くて、小学校の頃は酷いいじめを受けても平然としていたのに、変なところで繊細で、傷つきやすい――いや、壊れやすいことを、痛いほど知っているから。
「……本当、世話が焼けるんだから」
真面目で勤勉で、柔和な性格の少年。よく出来た子供。
清次郎と関わる人間の多くは、彼をそういう風に捉えている。
別にそれが間違いだと言う気はない。確かに彼は真面目で、結構な努力家で、性格だっていい方だろう。少なくとも、自分なんかよりはとずっと人間の出来た奴だと思う。
法律や校則を破るようなことはしないし、成績もいい。家庭の事情のせいか驚くほど生活力があって、家事なら何でもこなせる。その上、どこかの修行僧かと思うくらい規則正しい生活をしていたりする。
人当たりが良くて、他人を決して悪く言わない。言ったとしてもそれは冗談で済む範囲内のことだ。時々不機嫌そうな顔をすることはあるけれども、感情に任せて怒鳴り散らしたり暴力を振るったりはしない。
だから――そう、だからこそ、誰も気付かないのだ。恭也も真奈美も、きっと気付いていない。
筒井清次郎がどれだけ脆くて、弱くて、危うくて、歪な人間なのかを。
そう考えたところで、ふとあることを思い出し、楓は首だけを回して部屋の隅に目をやった。
学校の教科書や問題集を詰め込んだ背の低い本棚の上に、アクリル製の透明な写真立てが載っている。その中に収まった一枚の写真を、じっと見つめる。
五年前、隣町のキャンプ場で撮られた写真。
大勢の子供達と、その保護者達を写した集合写真だ。
そこに写った賑やかな集団の両端に、背の高い女の子と、眼鏡をかけた小柄な男の子がいる。
皆が楽しそうに笑っている中で、笑っていない子供が、二人だけいる。
かつての自分と清次郎だけが、泣きそうな顔で立っている。
何度も何度も破り捨ててしまおうと思った写真。
けれどそうすることが出来ずに、今までずっと部屋の隅に置き続けている――辛い記憶の断片だった。
清次郎は、かつてないほどの苦しみを味わっていた。
息が吸えない。吐けない。見えない何かによって頚部を強く圧迫され、呼吸の自由を奪われている。
いや、見えなくはない。微かにだが見えるのだ。前方から伸びてきて自分の首を絞めている、太く長いもの――人の腕のようなものが、かろうじて認識出来る。
これは何だ、などと考える余裕はもうなかった。
苦しい。苦しい。苦しい。考えられるのはそれだけだ。自分の意思で呼吸を止めるのとはまるで違う。首を絞められて呼吸を止められるということの恐ろしさ、気が狂いそうになるほどの苦しさを、彼はこの時、身をもって知った。
苦しみから逃れるため、両腕を上げて首に爪を立てる。自分の首を絞めている何かを、必死の思いで引き剥がそうとする。しかし皮膚が破れるほど力を込めても、引き剥がすどころか絞める力を弱めることさえ出来なかった。
力の差がありすぎる。自分の細腕では何の抵抗も出来ない。
「あ……かっ……はっ……」
言葉にならない喘ぎ声が洩れる。口の端から涎が流れ出す。
そしてついに、目が霞んできた。風に運ばれる雲のように、意識が散り散りになって飛んでいこうとする。
薄らいでいく意識の中、恐怖を抱きながら思った。
死ぬのか。
自分はここで、こんなところで、訳の分からない幽霊みたいなものに殺されるのか。
嫌だ。
死ぬのは嫌だ。こんなところで死にたくない。
だって、自分は、まだ――
楓を――
「と……び……」
再び、声が洩れた。
「て……ぼ……りっ……」
意識は途絶える寸前で、ほとんど何も考えられなくなっている中、口だけが自然と動いていた。
何か、意味のある言葉を発しようとしていた。
「め……か……りっ……!」
霞んだ視界に、一瞬、青黒いものが映る。そして同時に、鉄板の上で肉が焼けるような音が聞こえた。
地獄の苦しみから解放されたのは、そのすぐ後だ。頚部に加えられていた圧迫が唐突に消え、清次郎は尻餅をつく形でアスファルトの上に落ちた。
「げはっ……! はぁ、はぁ、はぁっ……!」
寝そべるように上体を倒し、涙と涎を零しながら荒々しく息をする。空気を貪るように呼吸を繰り返して、失神しそうになる意識を繋ぎ止めた。
そうしてどうにか息を整えてから、顔を上げて前方を見る。七、八メートルほど先に、人に似た形の何かがいるのが見えた。
そう、見えたのだ。
先程とは違い、不鮮明な像ではなく、色も形も大きさもはっきりと見えた。
その姿は、一言で表すなら獣人。
人と獣の体を混ぜ合わせたような異形だった。
鹿か、ガゼルか――その手の草食獣に似た作りの顔をしており、頭頂部には枝分かれした二本の角が生えている。
しかし体型は人のそれに酷似しており、二本の脚で立っている。長い両腕の先に五本の指がある。
そしてその体の間接部以外を、鈍い輝きを放つ黄褐色の甲冑で覆っていた。
異形だが、美しい。
中世の騎士のような凛々しさと、野生動物のような逞しさ。人と獣の美点を併せ持つその姿は、ある種の神秘性さえも感じさせるものだった。
当然ながら、清次郎にはその存在が何なのか分からない。分かるのは、それが自分に対して害意を持っていて、早く逃げなければ殺されるということだけだ。
唐突に訪れた生命の危機から脱するため、清次郎は立ち上がって走り出そうとした。しかしついさっきまで首を絞められていた体は、思うように動いてくれない。歩くこともままならず、ふらふらとした足取りで進むのがやっとだった。
無論、そんな様で逃げきれる訳がない。獣面の異形は少しの間自身の右前腕部に視線を落としていたが、やがて顔を上げ、清次郎を追撃するべく路面を蹴った。
その脚力は、人はおろか野生動物をも凌駕している。逃げる清次郎との距離をゼロにするまでに要する時間は、たったの一秒。
だがその一秒の間になされた第三者の介入が、超高速の疾走を阻んだ。
突如、無数の黒い円錐がアスファルトの路面から突き出てきたのだ。
「なっ――!」
声を上げたのは清次郎だ。よろめきながら歩いていた彼は、その異常な現象を目にした瞬間、目を見開いて硬直した。
獣面の異形がいる方向と真逆――清次郎が逃げようとしていた方向の路面から出現した、円錐形の何か。黒鉛の塊のように黒く、柱のように太く、針のように鋭い先端を持つ謎の物体。それが長蛇の列を作るように次々と生え出し、清次郎の真横を通過して、獣面の異形に襲い掛かったのだった。
その鋭い先端に貫かれる寸前、獣面の異形は跳躍して上空に逃れる。そして空中で大きく弧を描きながら、数メートル後方に着地した。
「う……あ……」
清次郎の口から洩れ出る声は、最早言葉にならない。
獣面の異形にしてもそうだが、たった今目の当たりにした現象は、彼の理解の範疇を完全に超えていた。アスファルトの上から無数の円錐が突き出てくる現象など、真っ当な理屈では説明出来ない。
怪奇現象はさらに続いた。天に向かって突き立っていた黒い円錐の列が、蜃気楼のように消え失せる。跡形もなく、本当に一切の痕跡を残さずに、それらはこの世から忽然と消えてしまった。
そしてその直後、静かな靴音が清次郎の耳に届く。
「……避けられちゃったかぁ。今のでグサッと刺し殺せたらめっちゃカッコいいじゃんあたし、とか思ったんだけどなー」
澄んだ美声を台無しにする、ふざけた口調。
人目を引くに違いない端整な顔立ちと、そこに貼り付いた緊張感の欠片もない表情。
その声を聞き、その顔を目にして、道の向こうからやってきた人物が誰なのかを、清次郎は理解した。
「ま、いっか。避けられちゃったもんは仕方ないし。ちょっぴり締まらない感じだけど……正義の味方見参、ってことで」
そう言って、朝宮遥は獣面の異形に笑いかけた。
「どういうことだ……?」
椎名孝文は眉をひそめて呟いた。
彼は今も喫茶店の奥で倉科とテーブルを挟んでいる。にもかかわらず彼の目は、本来なら見える筈の無い数百メートル離れた場所の景色を映していた。
日没前の閑静な住宅街。
悠々とした足取りでやってきた女と、驚愕の面持ちで固まった少年。
自らが使役する存在の目を借りてそれを見ていた孝文は、若干の困惑をその顔に浮かべていた。
「今のは、何だ……?」
朝宮遥という女が突然現れ、攻撃を仕掛けてきたことが不可解――ではない。それは想定の範囲内だった。むしろ、そうなることを望んでいたからこそ住宅街で筒井清次郎という少年を襲ったのだ。
だから、不可解なのはその前の出来事。筒井清次郎の首を絞めていた際に生じた、異常な現象だ。
一瞬だったが、確かに見えた。
あの少年の背後から伸びて、こちらの腕を掴んできた、青黒い腕が。
そして、その直後の――
「驚いたな……玩神出せるのかよ、あいつ」
対面に座る倉科が、マグカップの中に残っていたコーヒーを飲みながら、さして驚いた風でもなく言った。
「ちょいとばかり予定と違うみたいだが、どうする椎名さん? このまま続けるかい?」
「当たり前だ。お前も他人事みたいに言ってないで、さっさと援護し――」
そう言いかけたところで、孝文は気付いた。テーブルの上に置いておいた携帯電話が振動し、着信を知らせている。
液晶画面に表示されている名前は、椎名幸久。自分の父親だ。
孝文は携帯電話を手に取り、通話に応じる。
『孝文、予定変更だ』
電話の向こうから聞こえてくる、父親の老いた声。
『あの場ではもう戦わなくていい。玩神を引っ込めて倉科と一緒に戻ってきなさい。追跡されないように注意しながらな』
「……分かった」
孝文は渋い顔をしながらも、大人しく従う。
そして通話を切り、小さく溜息をついてから、対面の倉科に言った。
「予定変更。玩神引っ込めて戻って来い、だとさ」
「そうかい。俺の出番が無くて何よりだ」
倉科は薄く笑って肩を竦めた。
再び、獣面の異形が地を蹴った。驚異的な脚力で五メートル以上の高さに舞い上がり、そのまま近くに建っていた民家の屋根に着地。そしてすぐさま身を翻し、屋根から屋根へ飛び移りながら何処へ去っていく。
三秒も経たない内に、その姿は見えなくなった。
「ありゃりゃ、ここでやらないんだ。こっちは殺る気満々で出てきたってのにさ」
拍子抜けした顔をしながら、遥はそんなことをぼやいた。
「そんなすぐ帰られたらあたしの立つ瀬がないぞー。ここで大活躍して、“遥さんすごいっス、一生ついていくっス”ってセージ君に思わせるプランが崩れちゃったぞー。これからどうしようかって本気で困ってたりするんだぞー、実は」
彼女は相変わらずふざけていた。こんな状況だというのに、口調にも表情にも仕草にも、真剣なところが全くない。
そんな、正気を疑うほど緊張感の無い女の顔を、清次郎は困惑しながら見つめていた。
「あ……あの……」
問いかけようと口を開いても、上手く言葉が出てこない。不可解な出来事が立て続けに起こったせいで、まず何から問えばいいのか分からなかった。
そうしていると遥が首を回し、朗らかな笑顔を向けてきた。
「や、セージ君。二十四時間も経たない内にまた会っちゃったね」
彼女はその手を、清次郎の頭の上にぽんと置く。そしてくしゃくしゃと、やや乱暴な手つきで清次郎の頭を撫でた。
「怖かったよねー、いきなり変なのに襲われちゃってさ。でももう大丈夫だよー、強いお姉さんが助けに来てあげたからねー。よしよし」
そこで初めて、清次郎は自分の体が激しく震えていることを自覚した。
恐怖から来る震えだ。首を絞められている時は苦しみで頭が一杯で、解放された後は逃げるのに必死で、遥が現れた時は異常な現象を見た驚きで、今まで頭の隅に追いやられていた恐怖だ。それがようやく、体と心の両方で表面化してきたらしい。
乱れていた呼吸を、数十秒かけて整える。
自分を抱くように腰に手を回して、どうにか震えを抑える。
そして混乱していた頭の中を無理矢理整理してから、再び口を開いた。
「え、えっと……あの……朝宮さん、ですよね……?」
「そだよー。昨日君のダイブを華麗に阻止した朝宮遥さん。絶賛休業中のアーティスト」
ふざけた口調の不真面目な返答。しかしその不真面目さのおかげで、清次郎はいくらか落ち着きを取り戻した。
改めて確認するまでもなかったが、やはりこの女は朝宮遥だ。
信じられないほどふざけていて、掴みどころがなくて、それでも何故か包み込むような温かさを感じてしまう――不思議な女なのだ。
「どうして、ここに……?」
「どうしてここにいるのかって? そりゃあれよ。今日も今日とてセージ君に熱愛の視線を注ぎながらストーキングしてたから。ピンチになったら颯爽と現れてドヤ顔しようって魂胆で」
それはつまり、知っていたということだろうか。自分が――筒井清次郎が、今日ここで、あの怪物に襲われることを。
「その……何だったんですか……? 今の、あれは……」
「百八あるあたしの超必殺技の一つ。最近読んだ打ち切り漫画から着想を得て開発した遠距離攻撃。どう? かっこよかったでしょ?」
一瞬、清次郎は何を言われたのか分からなかった。数秒後、それがあの黒い円錐のことだと気付いて、慌てて声を荒げる。
「い、いや、それじゃなくて! いや、それもなんですけど……! その……あの鹿みたいな奴は、いったい……」
自分の前に突如現れ、命を奪おうとしてきた怪物。
人とも獣とも違う、未知の存在。
まず、あれのことが知りたいのだ。あれが何者で、何故自分に襲い掛かってきたのかを。
「んー……簡単に説明するのは難しいけど、それでも簡単に言っちゃうと……」
遥は顎の下に指を当て、少しの間考え込んでから答えた。
「君を狙う悪い奴……が操ってるロボットみたいなもの。で、あたしはそれを撃退するためにやってきた正義のヒーロー」
そんなことを言われても、分かるわけがない。
清次郎は若干の苛立ちを覚えた。
「何ですかそれ……全然、訳が……」
「いろいろあるのよ。いろんな人の思惑が絡まった、めんどくさい事情がね」
「だ、だからそれをちゃんと説明して――」
「説明してあげるってば。そのために出てきたんだしね」
少しだけ真剣な様子でそう言ってから、遥は駅のある方角に顔を向けた。
「でも立ち話ってのもアレだから、ちょっとあたしんちに来てくれない? すぐそこだからさ」
その申し出を、清次郎は断れなかった。
頭の中では多くの疑問が渦巻いている。知りたいことは山ほどある。そして何より、一度殺されかけたという恐怖がある。
このまま何も聞かずに自分の家に帰るなど、出来るわけがなかった。
朝宮遥のことを全面的に信じたわけではない。
何しろ昨日知り合ったばかりの相手だ。名前以外は何も知らないし、その名前とて本名かどうか定かではない。正体不明という意味では、あの獣面の異形と同じだった。
いや、もしかしたら、あれはこの女が操っていたもので、全ては自作自演なのではないか――そんな想像さえ浮かんできてしまう。
それでも、清次郎は彼女に付いていくことにした。
心の底から信じ切ることは出来なかったが、信じたかったのだ。
この人は自分の味方で、自分を守ろうとしてくれている。またあの怪物が襲ってきても、この人が傍にいてくれればどうにかなる。そう思いたかった。そう思わなければ、不安に押し潰されてしまいそうだったからだ。怖くてたまらないから縋りつく相手が欲しいという、臆病者の心理だ。
前を行く遥の背中を見つめながら、清次郎はそんな自分を客観視して、乾いた笑いを洩らした。
我ながら情けない、と思う。
頭がおかしいのか自分は、とさえ思う。
昨日は自殺しようとしていたくせに、今は不安だとか怖いだとか守ってほしいだとか縋りつきたいだとか、そんな女々しいことばかり考えている。こんなに馬鹿で情けなくて、滑稽なほど矛盾している奴が、他にいるだろうか。
「ほら、着いたよ。あたしんち、ここね」
歩き始めて十数分後。国道沿いに建つ七階建てのマンションに辿り着いたところで、遥はそう言った。
クリーム色の外壁をした、比較的新しそうな物件である。
清次郎は遥に先導されながら共用玄関を抜け、エレベーターで五階に上がり、廊下の突き当たりまで進む。そこにあった部屋は五○五号室。ドアには『朝宮』という表札がかかっていた。
「さ、どうぞ。入って入って」
遥はドアノブを回し、清次郎を中に招き入れる。ドアが施錠されていなかったことに疑問を抱いた清次郎だったが、広い居間の隣にある六畳の和室に案内されると、その疑問は氷解した。
和室の中心に置かれた座卓に筆箱とプリントの束を載せて、勉強らしきことをしている少女がいたのだ。
年齢は十四、五歳程度と思しい。夏用の白いセーラー服を着ており、地味な色の髪留めで前髪を上げている。やや小柄だが、顔立ちは大人びていた。
いったい誰だろう。遥の妹か何かだろうか――などと考えていると、遥が少女に歩み寄りながら軽い調子で話しかけた。
「ただいまー、みーちゃん。どう? どこまで進んだ?」
「数学と理科は終わりました。今は英語の第七問やってます」
少女は顔を上げようともせず、プリントに英文を書き込みながら淡々と答える。遥は驚いた様子で上擦った声を上げた。
「えっ、嘘、早っ! もうそこまでいってんの?」
「別に、普通のペースだと思いますけど」
「普通じゃないよ、早いってばー。ぶっちゃけそっちは宿題にするつもりだったんだけどなぁ……また新しい問題集作らなきゃいけないね、この分だと」
「作らなくていいです。面倒なものを早めに片付けようとしてるんだから、余計なことしないで下さい」
「うわぁ……すごくピキっとくる台詞。みーちゃんの受験勉強のために寝る時間とか削って色々やってあげてる遥先生に対してそれはひどいぞー。先生のガラスのハートは傷ついたぞー。月謝を二割くらい値上げしたくなっちゃったぞー」
そんな会話をする二人を、部屋の端に放置された状態の清次郎は黙って見ているしかなかった。
家庭教師と生徒。清次郎が目の前の二人に対して抱いた印象はそれだ。というより、会話の内容からしてそうとしか思えない。
別にこの二人の関係などに興味はないのだが、何故こんな所まで来てこんな会話を傍聴する羽目になっているのかが果てしなく謎だ。自分は先の一件についての説明を受けるためここに来たのではなかったか。
「……おふざけはそのくらいにして、そろそろ本題に入ってあげたらどうです? 遥さん」
少女は小さく溜息をつき、ようやく顔を上げた。
硬く鋭い眼差しが、清次郎に向けられる。
「その人が、例の筒井さんなんでしょう?」
その物言いで、清次郎は理解した。このセーラー服の少女も、先の一件と無関係ではないことを。
清次郎が弛みかけていた気を引き締めると、遥が言った。
「……ま、そだね。いつまでも放置プレイしとくのも可哀想だし……ってことで、とりあえずそこの座布団の上にでも座んなよ、セージ君。それとも向こうのソファーの方がいい?」
「いえ……ここでいいです」
清次郎は少女の向かい側に置かれていた座布団に正座した。すると遥は少女の隣に腰を下ろす。少女はプリントの束を手早く片付けて、居住まいを正す。
三人で座卓を囲う形になったところで、遥は隣に座る少女を清次郎に紹介した。
「誰? って顔してるから一応紹介しとくね。この子みーちゃん。あたしの弟子」
凄まじく大雑把な紹介であった。勿論、そんな紹介では何が何だかさっぱり分からない。
「早川瑞希です。大変不本意……というか残念極まりないのですが、この自称アーティストの弟子ということになってしまっています。今後ともよろしくお願い致します」
本人が溜息をつきつつ自己紹介。それで名前は判明したが、他のことは何一つ判明しなかった。
弟子とはどういう意味だろうか、と清次郎は思う。
遥に勉強を教えてもらっていることを指しているのか。それとも――
「自称じゃないもん。ほんとにアーティストなんだもん。今は訳あってお休みしてるけど」
「そんなことはどうでもいいですから、さっさと本題に入って下さい。って筒井さんが心の中で言ってますよ」
「……」
「はいはい、分かってるってば。じゃ……これから今日セージ君の身にふりかかった災難について説明してくけど、いろいろややこしい事情も絡んでるから、ちょっと遠回りな説明になるよ。そこんとこいい?」
「……はい」
清次郎は神妙な顔で頷いた。
「なら、とりあえず聞いときたいんだけど……セージ君さ、万輪会って知ってる?」
「いえ……」
そんなもの、聞いたことがない。
「あー、やっぱ知らないか。ま、普通は知らないよね……じゃあそこから説明するけど、万輪会ってのは――」
「宗教団体ですよ、万輪会は」
遥の説明を遮る形で、瑞希という少女が言った。
「信徒になれば救済が訪れるだとか、頑張って修行すれば神通力が身に付くだとか……聞いている方が恥ずかしくなるような謳い文句を並べて、頭の足りない人達からお金を巻き上げてる、呆れるほど非生産的な団体です。よくある新興宗教の一つですね」
声音こそ平坦だったが、彼女の言葉には山ほどの棘が付いていた。
「はい、偏見と怨念がたっぷりこもった解説ありがと。でもまあ、全然まったくこれっぽっちも否定出来ないのが辛いとこだね、その一員としては」
「……一員?」
清次郎が反応すると、遥は瑣末なことを伝えるようにさらりと言った。
「ちょっと引かれちゃうかもしれないけど、その万輪会ってとこの信徒なの、あたし。信徒っていうより幹部かな? 教団運営とかには全然関わってないけどさ」
宗教団体の――それも、いかがわしい新興宗教の幹部。
普通の人間が普通の生活を送っていれば、まず関わり合いを持たない人種だ。基本的に世間から蔑まれ、忌避される人種だろう。
清次郎は新興宗教に対して強い偏見を持ってはいないが、忌避感を全く抱いていないわけでもなかった。だから遥の話を聞いて、どういう顔をしていいものか少し迷った。
そんな心情を察したのか、遥は弁明するように言葉を続ける。
「ああでも、あたし別に神様とか信じてないし、心の拠り所とか求めてる寂しい子だったわけでもないよ。むしろその辺に関しては結構ドライでさ、宗教って元手のかからないボロい商売だよね、とか思ってたりする。それでも万輪会なんかに入っちゃったのは……ぶっちゃけて言うと、ぶら下がってた美味しい餌に釣られちゃったから」
「……どういう意味ですか?」
「欲しかったのよ、神通力」
間を置かずに返ってきたのは、冗談じみた答えだった。
「さっきみーちゃんが言ったけど、入信して修行を積めば神通力みたいな力が身に付くってのが万輪会の謳い文句なの。ま、そんなに珍しい話じゃないね。似たようなこと言ってる団体って結構たくさんあるし」
語りながら、彼女は自らの左手を座卓の上にそっと置く。
「でも……他のとこはともかくとして、うちのそれは本当。才能に恵まれた人が死ぬほど努力した場合に限られるけど、それは身に付く。不思議な力が使えるようになる……こんな風に」
清次郎は、またもや異常な現象を目にすることになった。
座卓の上に置かれた遥の左手。そこから液体のようなものが滲み出し、木製の座卓を赤黒く染めていく。その変色は座卓の脚から畳へ、畳から障子へと広がり、ついには天井まで達した。
時間にすれば、せいぜい五秒ほどの出来事だ。たったそれだけの時間で、六畳の和室は非現実的な異空間に変じてしまった。
全方位が隅々まで赤黒く染まったその景色を、何と形容すべきか。出来たばかりの溶岩洞か。あるいは地獄か。
驚きのあまり声も出ない清次郎は、さらなる異常を目にして戦慄する。
自身の真上――本来なら天井と照明器具しかないはずの場所から、溶岩で形作られたような赤黒い腕が出現したのだ。油圧ショベルのアームほどもある、巨大な腕だ。それが歪な形の五指を広げ、清次郎に向かって伸びてくる。
「うわああああああっ!」
清次郎は悲鳴を上げ、顔面を庇うように両腕を交差させた。
巨大な腕が跡形もなく消え失せたのは、その直後だった。
「あ……」
清次郎は狐につままれたような顔で、何の変哲もない天井を見上げる。巨大な腕が消えると同時に、部屋全体も元に戻っていた。畳も、障子も、座卓も、向かい側に座る二人も、何もかもが元のままだ。数秒間だけ見た異様な景色は、一切の痕跡を残さずに消失していた。
住宅地の路上で見た、あの黒い円錐の列と同じように。
「ごめんね。口であーだこーだと説明するより見せた方が早いかなと思って、やっちゃった」
未だ混乱状態の清次郎に、遥はそう言って笑いかける。
「さっき路上でも見せたけど、これがあたしの神通力。万輪会に入って何年もしごかれた末に身に付けたの……って話を、とりあえず信じてもらいたいんだけどさ」
笑顔のまま、笑っていない目で問いかける。
「どう? あたしの荒唐無稽な話、信じてくれる?」
清次郎は即答せず、混乱を鎮めるために深呼吸しながら考えをまとめようとした。
今まで体験した異常な出来事を思い返す。
下校中の自分を襲った異形の存在。それを退けた遥の奇怪な技。たった今目にした、地獄のような景色と巨大な腕。それに、昨夜橋から飛び降りた際に無傷で助けられたことも異常な出来事の一部なのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。
思い返せば、真っ当な理屈では説明しようがないことばかりだ。むしろ、あれらが全て何らかのトリックだったと言われた方が信じ難いという気持ちになってしまう。
そもそも、今目の前にいる朝宮遥という女の存在自体が異常なのだ。何故か自分のことを――叔母と楓しか知らないはずの秘密さえも知っていて、自分が異形の怪物に襲われた際にはすぐさま助けに現れた女。どう考えてもまともではない。色々な意味で。
だから清次郎は、複雑な顔をしつつも、静かに答えた。
「……信じるも何も、最初から疑ってませんよ」
最初から、というのは些か言い過ぎかもしれない。だが、今の自分に遥の話を疑う気がないのは確かだった。
「確かに荒唐無稽ですけど、不思議な事はもうさんざん体験したし……実際、一度死にかけたし……そういうのがあるんだってことは、もう信じるしかないって思ってます。別に疑ったりしませんから、話を続けて下さい」
自分を襲った怪物の正体、自分が襲われた理由、遥が自分を守ろうとしてくれている理由等、知りたいことはまだいくつもある。
遥の顔をじっと見つめて、話の先を促した。
「セージ君はお利口さんだね。そういう物分かりのいいとこ好きだよ」
手間が掛からなくて何より、というような顔で、遥は話を続ける。
「じゃあ話を戻すけど、今見せた神通力的な不思議パワーね、一応ちゃんと名前がついてるの。玩神法っていうのがその名前。玩具の玩に、神様の神に、法律の法って書いて、玩神法。オモチャの神様を作って思い通りに操る方法、ってニュアンスかな」
玩神法。
不思議な響きの言葉だった。少なくとも清次郎には、その名が何か特別な意味を秘めているように感じられた。
「で、その玩神法を万輪会の信徒達に教えてるのが、万輪会の教主……つまり代表取締役みたいなポジションの、茅野清明っていう人」
「かやの……せいめい……」
何故だろうか。茅野清明という名を聞いた時、清次郎は胸の奥に釣り針が引っかかるような感覚を味わった。
初めて聞く名なのに、そんな人物のことなど全く知らないのに、どういうわけか奇妙な既知感めいたものを覚える。
かつてどこかでその名を聞いたような、けれど何かが微妙に違っているような、自分でも正体の掴めない感覚だった。
「ああでも、誤解しないでね。万輪会の信徒が全員、玩神法の修行なんかに精出してるわけじゃないよ。信徒の内の九分九厘がやってるのは、みんなで瞑想したり行事に参加してわいわいやったりとか、そういう他の宗教でもやってるようなことだけだし、そもそも玩神法の存在自体知らない。さっきは神通力が身に付くのが謳い文句って言ったけど、結局それって、ほとんどの人にとっては謳い文句以外の何でもないのよね。ぶっちゃけ、本気で信じてる人がどんだけいるか怪しいくらい」
清次郎が内心で戸惑っていることに、遥は気付いていた。しかしあえて気付かないふりをして、彼女はすらすらと話を進めた。
「玩神法の存在を知らされて、茅野さんに稽古をつけてもらえたのは、信徒の中でもごく一部……密かに行われてた審査を潜り抜けて、茅野さんに見込みありって判断された人達だけ。あたしもその一人だったんだけどね」
そうして彼女は、自身が玩神法を会得するまでの過程と、清次郎に危害を加えようとした者達の正体について語った。
遡ること約十年前。万輪会第三代教主、茅野清明は、教団の次代を担う人材を育成するためという名目で、十万人近い信徒の中から選び抜いた千人余りを島根県出雲市の万輪会本部に集めた。
年齢、性別、職業はおろか、人種や国籍さえも様々な千人だった。
十歳に満たない子供もいた。七十を過ぎた老人もいた。海外の支部から呼び寄せられた外国人もいた。とても堅気とは思えないような人相風体の者もいた。精神に異常をきたしている者もいた。
そんな千人に向かって、茅野清明は告げたのだ。
本当の神通力を――神を生み出し使役する術を、お前達だけに教えよう、と。
「初めは、まあ……半身半疑な人が多かったと思うよ。いくらうちがそういう教団で、集まったのがその信徒だっていっても、ねえ……いろいろ無茶苦茶過ぎて、現実味なかったしさ…………でも、茅野さんがお手本を見せたら、みんな信じた。疑う人なんて一人もいなくなった」
茅野清明が見せつけた力は、それほどまでに桁外れだったのだ。
目の当たりにした者達は心底から驚愕し、恐怖し、そして茅野清明という存在に強い憧れを抱くようになった。
「みんな目の色変えて玩神法の力を欲しがったよ。自分も茅野さんみたいになりたい、茅野さんと同じような力が欲しい、って感じでさ。で……玩神法身に付けたいならいろいろきついことやって心身を鍛えなきゃ駄目だよって話になって、その日から長い長い地獄の特訓が始まったの」
苦労せずに身に付く技術はない。玩神法も例外ではなく、会得の為には何年にも及ぶ過酷な修行を乗り越えなければならなかった。
多種多様な方法で心身を酷使させるそれは、もし公になれば教団が潰れるほど危険かつ非人道的なものだったという。
「当然、ついていけなくって脱落する人がたくさん出たよ。そんな脱落者の中にね、椎名幸久って人がいたの。元々は開業医でさ、その仕事の関係でうちの教団と付き合いがあったんだけど……何度もうちに出入りしてる間に何故か信徒になっちゃって、玩神法に関わってからは修行に専念するためにお医者さん廃業しちゃったっていう、なんかもういろいろと残念な人」
椎名幸久は玩神法の摩訶不思議な力に強く魅了されており、必死の思いで修行に励んでいた。
しかしその熱意とは裏腹に、彼の才能はさほど優れたものではなかった。年齢的な問題もあり、過酷な修行についていくことが難しい身でもあった。そして茅野清明は、そんな落ちこぼれの面倒をいつまでも見ているほどお人よしではなかった。
修行半ばで見切りをつけられた椎名幸久は、万輪会から追放された。
「それはそれで幸せだったと思うんだけどね。玩神法なんかに関わってもろくなことないしさ……でも、本人は破門された後も諦めきれなかったみたい。独学でいろいろ頑張ったんだろうね。つい最近息子さん連れて教団に舞い戻ってきて、茅野さんに言ったみたいよ。自分は玩神法を身に付けた。誰にも負けないほどの腕前になった。だから教団に復帰させて、相応のポストを寄越せ。ついでに自分と息子を神在祭に参加させろ……的なことをね」
「……神在祭?」
「そういう名前の行事を十一月にやる予定なのよ。うちじゃ結構重要な行事でさ……まあ要するに、それの参加資格が欲しくて椎名さんは戻ってきたって話」
神在祭という単語が出た時、遥の隣に座る瑞希の表情が微細に変化した――ように見えた。
しかしそれは一瞬のことで、彼女はすぐに元の平静な顔に戻った。
「さて、問題なのはここから。普通なら椎名さんの要求を受け入れるかつっぱねるかのどっちかなんだけど、うちの茅野さんはその辺普通じゃなくってね。つっぱねはしなかったけど、そのまま受け入れもしなかった。ある条件を提示して、椎名さんがそれを達成出来れば要求通りにしてあげるってことにしたの。その条件ってのが、控え目に言っても頭おかしくってさ」
遥は僅かに目を細めて、その「頭のおかしい条件」を口にした。
「六月十九日から六月二十五日までの期間内に、朝宮遥または筒井清次郎のどちらかを殺害する。それが出来れば合格で、神在祭行き決定。出来なければ不合格なんで、お引取り願います……なんていう、死ぬほど傍迷惑な話だったわけよ」
「ちょ、ちょっと待って下さい。何でそこで俺が出てくるんですか!」
清次郎にしてみれば、声を荒げずにいられない内容だった。
どうして自分がそんな連中の揉め事に巻き込まれなければならないのか、まったくもって理解出来ない。
「一応理由はあるっちゃあるけど……ごめん、それ言えない。言うなって茅野さんに口止めされてるから」
「なっ……」
「言ったらあたし茅野さんに殺されちゃうのよ。悪いけどまだ死にたくないんで、そこは勘弁してね」
開き直った様子でそう言い切られ、清次郎は返す言葉を失う。
それに同情したのか、あるいは話を先に進めようとしただけか、しばらくの間黙っていた瑞希が口を開いた。
「文句を言いたい気持ちは分かりますけど、落ち着いて下さい。頭のおかしい人達に何を言っても無駄ですし、残念ながらあなたを巻き込んだ馬鹿馬鹿しい争いはもう始まっています。どうか今はこの自称アーティストの話を最後まで聞いてあげて下さい」
「……っ」
清次郎は苦渋の表情を浮かべた。しかしながら頭の中の冷静な部分では、半ば諦め気味に悟っていた。瑞希の言う通り、今更何を言っても無駄なのだということを。
「だから自称じゃないんだってばー……ま、いいけどさ。話を戻すけど、椎名さん親子はその条件を呑んだよ。それで君の顔とか住所とかを茅野さんに教えてもらって、ここにやってきたの。一方あたしはセージ君を死なせたくないし自分も死にたくないから、ここで椎名さん達を迎え撃つことにした。これは簡単に纏めるとそういう話」
清次郎の苛立ちや困惑など知ったことではないという風に、話を再開する遥。
言いたい文句は山ほどある清次郎だったが、自制心を振り絞ってそれらを飲み下し、相手の話に付き合うことにした。
「それで……さっきのが、その椎名って人の……」
「そう、さっきのが、あたしらが玩神って呼んでるやつ。でもあれは多分、息子さんの方だね。ぱっと見の印象なんだけど、そう思う」
「……つまり、敵はさっきのあれの他にもう一体……というか、もう一人いて、その二人が俺達の命を狙ってる……ってことですよね?」
「ううん、敵は三人」
遥は首を横に振った。
「茅野さんの手下っていうか側近っていうか私兵っていうか、そんなようなポジションに倉科って子がいてね。その子が今、椎名さん親子の側についてる。あたしとの勝負に椎名さんが勝てば自分も神在祭に出れるって条件でさ」
敵が三人もいる。
告げられたその事実は、清次郎を更に緊張させた。
「あと、その三人が狙ってるのはセージ君じゃなくて、きっとあたしの方」
遥は平静な面持ちで、そう言った。
「さっき確かにセージ君襲われたけどさ、むこうが本気で殺す気だったらパンチ一発で終わってるはずなのよね、きっと。玩神ってそのくらい強いからさ。なのにわざわざ首絞めなんてまどろっこしいことしてきたのは、少なくともあの場ではセージ君を殺すつもりがなかった証……だと思うよ」
「……けど、殺すつもりがないなら、何で襲ってきたんですか?」
「理由はいくつか考えられるよ。椎名さん達はあたしが普段どこで何してるか知らないから、セージ君を襲うことで炙り出そうとしたとか、人質にしようって魂胆で身柄を確保しようとしたとか……後は、気絶したセージ君をどっかに連れ込んでから尋問して、いろいろ聞き出そうとした、とか……」
「いろいろって……何を?」
「あ、いけない。今のちょっと失言だった。ごめんね、忘れて」
自分の発言を勝手になかったことにして、遥は続ける。
「まあとにかく、連中が狙ってるのは基本的にあたしの方で、今のところセージ君を殺す気はないってこと。だけどね……それってあくまで、今のところは、って話なの。さっき言ったようにこれには一週間って期限があるからさ、椎名さん達ものんびりしてられないのよ。期限が迫ってるのになかなか朝宮が殺せなくて困った、ってなったら……じゃあもうしょうがないやって感じで妥協して、セージ君を殺そうとするかもしれない。条件が達成出来なかったら元も子もないもんね、あちらさんとしては」
確かにその通りだろう。相手の立場で考えれば、そうなることは容易に想像がつく。今は命を狙われていないとしても決して安全ではない。むしろ危険極まりない状況に置かれているといっても過言ではないくらいだ。
ならば、期限が到来するまで逃げ回るしかないか――と考えたところで、清次郎はその考えを自ら否定した。
「……だったら、逃げるってわけにもいきませんよね」
「あ、分かる?」
「分かりますよ、それくらい」
暗い顔で俯きつつ、自分の考えを述べる。
「もし俺と朝宮さんが、期限が来るまで遠くに逃げたり、どこかに隠れたりすれば……相手は焦る。焦って、なりふり構わなくなる。それで、例えば……俺達が隠れていられないようにするために、俺の家族や友達を傷つけたり、人質にとったりしてくる……かもしれない」
「かもしれないっていうか、間違いなくそうなるね。うん、椎名さんだったら絶対そういうことやる。モラル低いから」
遥に断言され、清次郎の気分はよりいっそう重くなった。
本音を言えば逃げ出したい。全てが終わるまで安全な所に隠れていたい。
だが、そのせいで自分の周りの人間に危害が及ぶとなれば、話は別だ。叔母が、恭也が、真奈美が――そして楓が、自分のせいで傷つくなど、あってはならない。それだけは絶対に避けたい。
かといって、迷惑だからお前がさっさと連中に殺されろ、などと遥に言うわけにもいかない。自分はそこまで人でなしではない。
「だからね、セージ君。送ってってあげるから今日はこのまま家に帰って、明日は普通に学校行ってほしいの」
遥はそう提案した。
「もちろんあたしは今日と同じように陰から見てるし、また連中が襲ってきたらすぐに助けてあげる。不安だとは思うけどさ、現状それがベストだと思うのよね。無関係な人に迷惑かけないためには」
最善かどうかは分からないが、そうするしかなさそうだと清次郎も思った。
下手に逃げ隠れすれば周りに危害が及ぶ。とはいえ自分自身に敵と戦う力はない。遥の力なら対抗出来るようだが、今までの口ぶりからして、彼女も敵が現在どこにいるのかは知らないのだろう。ならば、敵が再び現れるまで静かに待つしかない。
命を狙われている身で学校に行くのもどうかとは思うが、流石に人が大勢いる場所で堂々と襲ってくることはないだろうとも思う。再び襲ってくるとしたら、今日と同様、周囲に人がいない時だろう。
そう結論付けることで自分を納得させようとしたが、懸念すべきことは他にもいくつかあった。
例えば、就寝時だ。
「敵はこっちの住所を知ってるんですよね? だったら、夜中に寝込みを襲ってきたりとかは……」
「それはない」
清次郎の懸念を、遥はきっぱりと否定した。
「言い忘れてたけど、今あたし達がやってるこれにはいくつか取り決めがあるの。その一つに、午後八時から午前八時の間は戦闘禁止ってのがある。そういう制限設けとかないと襲われる側のあたしとセージ君が不利すぎるからね」
「……そんなルール、本当に守られるんですか?」
「守られるよ。だってこれは、茅野さんが決めたことだから」
意味不明だった。
質問の答えになっておらず、理屈にも何にもなっていない。だが普段の彼女の発言と違い、ふざけた様子は微塵もなかった。
彼女は真剣に、そして当然の道理を説くように、茅野清明が決めたルールだから破られることはないと言い切ったのだ。
「何言ってんのこの馬鹿、って思われるかもしれないけどさ。万輪会に関わる人間にとって、茅野清明って存在は絶対なの。誰も逆らおうなんて思ってないし、逆らえるとも思ってない。茅野さんに無茶な要求突きつけた椎名さんだってそこは同じ。椎名さんに協力してる倉科君だって同じ。このあたしも同じ。茅野さんがどれだけ強くて、怖くて、イカレてるのか、骨身に沁みるほど分かってる。だからあの人が決めたルールに反することだけは、何があろうと絶対にしない。それだけは、確信もって断言出来るよ」
茅野清明を知らない清次郎には、到底理解出来ない――というより、実感が持てない話だった。
一人の人間を、どうしてそこまで絶対視出来るのか。他の人間も自分と同じように絶対視しているとまで断言出来るのか。本当に分からない。
分かるのは、彼女の言葉には一片の嘘もなく、自分が何を言ったところでその認識が揺らぐことはないということだけだ。
「そこまで言うなら……分かりました。朝宮さんの言葉を信じて、言う通りにします」
拭いきれない不安を抱きつつも、清次郎は遥に従うことにした。
駅から徒歩十分ほどのところに、国の史跡に指定されている城跡がある。
往時は関東屈指の大型城郭だったが、現存しているのは本丸、二の丸、外堀等の一部分だけだ。城跡と市街地を隔てる広い堀には水が張られており、鯉や鯰達の棲家となっていた。
ゆらゆらと、餌を求めて水面近くをさまよっていた一匹の鯉。
それが唐突に、水中から空気中に連れ出された。
鯉の小さな体を掴む、細い手。人に似た形の、しかし人ではない何かの手。それは苦しみ悶えて身をよじる鯉を、絶命するまで放さなかった。
酸欠で命を失い、死骸となった鯉が、ぼちゃりと音を立てて水中に落ちる。広がる波紋の中で、小さな死骸が蓮のように浮かぶ。
その死骸に、人でない何かは指先を当てた。優しい手つきで、医者が患者の容態を診るように。
不可思議な現象が起きたのは、その直後だ。
水面に浮いていた死骸が、水中に沈む。そして、再び動き出す。他の鯉と同じように、水中で泳ぎ回る。
生気の無い顔をしたまま、生きているとはとても思えないほど不自然な動きで。
堀沿いの並木道に立っていた初老の痩せた男は、死んだ魚が泳ぎ回る様を見て、口許を微かに歪めた。
老眼鏡の奥にある瞳にも、喜悦の色が滲む。
彼――椎名幸久は玩神法の使い手だ。修行半ばで万輪会から破門された身だが、その後独学で試行錯誤を重ねた末、玩神法を会得した。
彼は諦めが悪く、執念深く、努力家で、向上心に溢れている。
故に自分の玩神を手に入れた今も、努力を怠っていない。その力を上手に扱い、来たる本番で最高の技を披露するため、日々研鑽を重ねていた。
多くの生き物の命を犠牲にして。
「どういうつもりだ、親父」
横から声を投げかけられ、幸久はそちらを向く。車椅子に乗った息子の孝文と、倉科という名の浅黒い男が、並木道の向こうからやってきていた。
孝文の顔には、戸惑いが浮かんでいる。
「あの場であのガキの身柄を確保する。朝宮が出てくるようなら三人がかりで叩く……そういう手筈じゃなかったのか?」
「そういう手筈だったとも。だがな、少しばかり誤算があったんだ。嬉しい誤算がな」
予定を変更した理由を問い糾そうとする息子に、幸久は楽しげな笑みを見せた。
下校中の筒井清次郎を襲ったのは、朝宮遥を誘き寄せるためでもあった。清次郎を拉致するつもりで待ち伏せてはいたが、もし遥が助けに現れるようならその場で決着をつけるつもりだったのだ。
幸久の玩神は孝文や倉科のそれと異なり、単独で遠くまで行くことが出来ない。だから彼は二人と離れ、別の場所で一部始終を観察していた。
そして、彼は予定を変更した。遥が姿を現したにもかかわらず戦うことを止め、孝文と倉科に撤退を命じた。
「孝文、奔王の腕を見せてみろ」
そう言われると、孝文は複雑な面持ちで微かに唸った。実際のところ、父が予定を変更した理由は薄々察していたのだ。
彼の背後に、獣面の異形――奔王と名付けられた玩神が出現する。奔王はその右腕を胸の高さまで上げ、黄褐色の手甲を纏う前腕部を幸久に見せた。
「ほう……」
幸久は目を細め、微かに声を洩らす。
彼が凝視する奔王の右前腕部は、酷く損傷していた。輝く分厚い手甲は劣化した漆喰のように剥がれ落ち、その下の肉体は変色している。
腐った果実を思わせる、おぞましい黒色に。
「……ひでえな、こりゃ」
黒く染まった部分を興味深そうに見ながら、倉科が言った。
「腐ったミカンみてえになってやがる……何をされたら玩神の腕がこんな風になるんだ?」
一部例外もあるが、基本的に玩神の体は人の体より頑強だ。
多少の衝撃では傷つかない。刃物で切り裂くことも難しい。熱や電気、酸等に対する耐性も極めて高い。
また自然治癒力も具えており、その点でも人体とは比較にならない。掠り傷や少々の火傷なら一時間足らずで完治する。手足が欠けても数日で生え変わる。
故に、考え難いのだ。玩神の纏う装甲が剥がされ、肉体を蝕まれた上に、その損傷が一向に治らないなどという事態は。
「……腕が見えた」
眉間に皺を寄せて、孝文は語った。
「あのガキの首を絞めた時だ。奴の背後から青黒い腕のようなものが現れて、こちらの腕を掴んできた。危険を感じてすぐに振りほどいたが……一瞬掴まれただけでこの様だ」
最初は朝宮遥の攻撃かと思ったが、違う。彼女が姿を現したタイミングから考えると明らかに不自然だ。
あの腕は、筒井清次郎が生み出したものとしか思えない。
「時間が経っても癒えん……それどころか、悪化しているようにも感じる。これは何だ? 奴は俺に何をしやがった……?」
「さあな、分からんよ」
突き放すように答えながらも、椎名幸久は笑っていた。
「だが、そう……これはこれで嬉しい誤算だ。利用しない手はない」
歪な笑い。人ではない何かが人に化けて笑っているような、奇怪で非人間的な表情。
そんな表情を見せる父親に、孝文は寒気を覚えずにいられなかった。
「親父……まさか、あのガキをこちら側に引き入れるとか言う気か?」
「そうじゃないさ。そんなのより、もっといい手がある。ほんの少しの手間で申し分のない結果が得られる、理想的な手が」
その発言の意味が、孝文には分からない。
倉科は何かを察したような顔をしたが、何も言わなかった。
「ともあれ、だ。今日はもう宿に戻るぞ。明日は少しばかり忙しくなるからな、お前達も英気を養っておきなさい」
身を翻しながらそう言い放って、幸久は並木道を悠々と歩いていく。孝文と倉科の二人はその背中を追う。
彼ら三人が去ってまもなく、城跡の外堀に張られた水の上に、一匹の鯉が浮かんだ。幸久によって命を奪われた後、生き返ったかのように泳ぎ回っていた、あの鯉だ。
黄泉の国に連れ戻されたのか。
初めから生き返ってなどいなかったのか。
それはただの死骸に戻って、水の上で揺られていた。
夜の帳が下りる頃、清次郎はようやくアパートに帰り着いた。
何もしたくない気分だったが、じきに叔母が仕事場から帰ってくるので夕食を用意しなければいけない。自室で五分だけ休んでから私服に着替え、台所に立った。
鶏の唐揚げを作るため、冷蔵庫から取り出した鶏肉を一口大に切る。そして切った肉をボウルに入れ、調味料を入れてよく揉み込んでから油で揚げる。
包丁を持つ手が震えたりすることはなかった。自分でも少し驚いてしまうくらい、体はいつも通りに動いた。しかしそれでも、心は酷く揺れ動き、とても整理がつかないほど混乱していた。
万輪会という宗教団体。
玩神法という不思議な力。
茅野清明という人物。
何故か自分を巻き込む形で開始された、奇妙な闘争。
遥との会話で知り得たそれらの事柄を、頭の中で反芻する。考えても埒が明かないことばかりだと分かってはいても、それらを頭の隅に追いやることは出来なかった。
中でも一番気になるのは、今自分が巻き込まれているらしいゲームじみた戦い――ではなく、それを考え出した茅野清明という人物だった。おかしなことに、その人物のことが他の何よりも気になるのだ。
新興宗教団体の代表を務める人物など、自分とは何の関わりもない筈だ。しかしその名を聞いた時、奇妙な既知感を覚えた。いや、既知感と表現するのは正しくないかもしれない。自分はそれを、誤認や錯覚の類だとはどうしても思えないのだから。
それに、どこかで何らかの関わりがあるからこそ、その人物は今回の件に自分を巻き込んだのだろう。無関係な他人をこんなことに巻き込むわけがない。というより、もし無関係だったなら、一介の高校生でしかない自分は存在自体が向こうに知られていない筈なのだ。
嫌な予感がする。
茅野清明と関わってはならない。茅野清明のことを知ってはならない。もし関わり合って、深く知ってしまえば、引き返せなくなる。取り返しのつかないことが起きる。そんな気がしてならない。
だというのに、自分は何故か、茅野清明という存在に強い関心を抱いている。その人物の思惑や、自分との関係を知りたいと思っている。支離滅裂で、自分でも訳が分からない心境だ。
いくら考えても、本当に分からない。
自分の心が分からない。
「ただいまー、清次郎」
玄関の方から飛んできた声で、清次郎は我に返る。
スーツ姿の佐久間由梨は台所までやってくると、清次郎が調理しているものを見て少し意外そうな顔をした。
「あら、唐揚げ作ってんの? 珍しいじゃない。あんたそれあんま好きじゃないのに」
「冷蔵庫に鶏肉が残ってたからさ……それに、献立考える時間もなかったし」
「時間なかったって……? 帰り遅かったの?」
「あ……ああいや、ほら、今日は部活やってて、それが長引いたから……」
清次郎は慌てて失言を取り繕う。由梨は食器棚から二人分の食器を取り出しながら、おかしそうに笑った。
「あー、あれね。仲良し四人組でわいわいやってるだけのエセ部活。何だっけあんたら、一応手芸部なんだっけ?」
「文芸部だよ。書き物系の創作活動する部活」
「あはは、ごめんごめん、文芸部ね。でもどうせ名前だけなんでしょ? 榊君が変な遊び道具持ってきて、あんたと楓ちゃんと真奈美ちゃんが微妙に嫌そうな顔しながら付き合ってあげてるような図しか想像出来ないんだけど」
「まあ、まさにその通りなんだけどさ……今日からはそうでもなくなったよ。秋の文化祭で文集売ることになったから、みんなでその原稿書くことになった」
「へー、いいじゃない、面白そうで。あんたはどんなの書くつもりなの?」
「栄西っていう臨済宗の開祖についてのエッセイ」
「うわ……何か知らないけどつまんなそう。誰得よそれ」
そんなことを話している内に、鶏の唐揚げが出来上がる。親子のようで親子でない二人は食卓につき、夕食を共にした。
話題は文集のことから楓の密かな趣味の発覚で一騒動あったことに、次いで皆と鎌倉に行く約束をしたことに移っていった。由梨は楓の暴走ぶりを聞いて大笑いし、鎌倉観光については「みんなとのいい思い出作りになるから楽しんできなさい」と言ってくれた。
どこの家族の間でも交わされるような、他愛のない会話。けれどもそんな会話のおかげで、清次郎の心は少しだけ軽くなった。
家族がいる。母親として接してくれて、不安や悩みを一時でも忘れさせてくれる人がいる。忘れていたわけではないが、今はそのありがたみを改めて実感出来た。
しかし、清次郎が心穏やかでいられたのは、ほんの短い時間だけだった。由梨と言葉を交わす内に、ある考えが浮かんできたからだ。
両親が死んだのが十四年前。それ以来、自分はずっと母親の妹である佐久間由梨に育てられてきた。
だから、もしかしたら、彼女は知っているのではないか。
万輪会のことを。玩神法のことを。
自分と茅野清明の関係を。
「あ、あのさ……」
「ん?」
食事が終わる頃、思い切って問いをぶつけようとした。
けれども口から出かけた問いは、言葉にならずに消えた。
「え、えっと……あの、だから……」
「……何? どうしたの?」
由梨が不思議そうな顔を向けてくる。彼女のそんな顔を見ていると、ますます問いをぶつけ辛くなってしまった。
怖かったのだ。
万輪会、玩神法、茅野清明――そんな言葉を口にした瞬間、自分達二人の間にある大切な何かが、粉々に砕けてしまいそうな気がして。
「お……俺の親ってさ、どういう人達だった……?」
結局口から出たのは、別の問い。本当に知りたいことからは大分ずれた問いだった。
「え、あ……何? ごめん、もっかい言って」
由梨は僅かに身を乗り出して聞き返す。彼女はあまり耳が良くない。補聴器を付けてはいるが、それでも小さな声は聞き取り辛いらしい。
「だから、あの、俺の親はどういう人達だったのかなって……」
「あ、ああ……お父さんとお母さんのこと……?」
「う、うん……何か、その、俺って自分の親のことよく知らないなとか思ってさ……」
「まあ……そういやあまり話したことなかったしね、その手のことは」
清次郎は両親のことをろくに知らない。知っているのは名前と、母親が由梨の姉だったことと、十四年前に海外で事故死したことくらいだ。普段は全く意識していなかったが、よく考えてみれば写真さえ見たことがない。
「どんな人だったかって言われると……そうね……姉さんはあたしと違って、優しくておっとりした人だったよ。言葉遣いとかすごく丁寧で、お上品な感じでさ……雰囲気で言うなら、楓ちゃんのお母さんとかにちょっと似てたかな。頭良かったから大学出た後県庁の職員になって、そこの先輩だった人と結婚したの。その人があんたのお父さんで、あたしにとっては義理の兄さん」
テーブルの上に視線を落としながら、由梨は語った。
「義兄さんは、草食系っていうのかな。物静かで、あまり自己主張しないタイプの人だったよ。でも根暗って感じでもなくってね……何ていうか、こう、口数は多くないんだけど話は上手で、一緒にいると自然と楽しい気分にさせてくれるような……そんな人だったよ」
「……なんか、二人とも似たようなキャラだね」
「いやいや、全然違うってば。そりゃ外面は似たようなもんだったけど、中身は真逆。裏表のない義兄さんと違って、姉さんは裏がありまくりっていうか……女らしいしたたかさみたいなの持ってて、一筋縄じゃいかない人だったからね。二人でいると明らかに義兄さんが姉さんの尻に敷かれてる感じだったよ。ま、何だかんだで仲は良かったんだけどね」
そう言って、由梨は笑う。清次郎もつられて笑う――ふりをした。
心の中では、とても笑っていられなかった。作り笑いの裏で、こみ上げてくる悪寒と懸命に戦っていた。
優しくておっとりした母親。
物静かだが人当たりのいい父親。
由梨の口から語られる、二人の人物像。円満な夫婦の姿。
それが、真っ赤な嘘であることに気付いてしまったからだ。
「姉さん達ったら酷いのよー。あたしが二人の結婚式に出た時なんか、スピーチであたしをネタにしてさ――」
由梨とは十四年も一緒に暮らしてきた。赤ん坊の頃から彼女をずっと見てきた。だからこそ分かった。
声音と、口調と、目線と、表情と、仕草で、分かってしまった。
彼女は嘘をついている。真実を語っていない。
今懐かしそうに語っている思い出話は、作り話。予め頭の中で用意しておいた原稿を読み上げているだけなのだ。
そのことに気付いてしまったが、気付いたところでどうすることも出来なかった。
嘘を指摘すれば、その時こそ全てが壊れてしまいそうで――作り笑いを浮かべて騙されたふりを続けるしかなかった。
新たに生まれた疑問と、自分を取り巻くもの全てへの不信感。
二つの重荷を抱えたまま、清次郎は夜を明かすしかなかった。




